作雨作晴


日々の記憶..... 哲学研究者、赤尾秀一の日記。

 

生命と自然

2009年04月24日 | 日記・紀行

 

生命と自然

案の定に忙しくて、復活祭(パスハ)にケーキやクッキーづくりに挑戦とはゆかず、またの楽しみに残しておく。焦ることもない。

山の畑に行く。昨年は霜害にやられて根付かず、再挑戦した柿の木が新芽を出していた。また、餌の無い冬の間、野鹿に樹皮や芽を食いちぎられて、枯れ死も覚悟していたイチジクの木が新たに芽吹いていた。青く美しいそれらの新芽を見たとき、いささかながら感動する。動物と植物の共存というか、摂理というか、生命はやはりヤワではない。

タマネギ畑の草取りをしていても、すでにカエルが姿をみせているし、抜いた雑草の根っこには、蝶のさなぎがとぐろを捲いている。街ではそれほど痛感することはないけれど、動植物の無数の豊饒を土の上では実感することができる。
少し手をこまねいていると雑草がはびこる。自然の生命力というべきか豊かさというべきか。

あわただしく畝づくりを行って何とか植えたジャガイモの種芋も、かわいらしい新芽の行儀良くならんだ行列が眺められるまでに生長していた。植えたのは私だが、生長させるのは神である。

畑の小さな一画ですら、レンゲ草、露草、イチゴの金平糖のような実をつけた名も知らぬ小さな花などの彩りも豊かで、見ていても飽きない。

鶯が鳴いている。聴覚を澄まして、鳴き声を聴き取ろうとする。たしかに、ホーホケキョ、と聴こえる。その傍らで名も知らぬ鳥の鳴き声は、チーチョチ、チッチョチョ、チョチチ、チッチョチョ、チッチョ、チーチョチチといつまでも鳴いている。その鳴き声をメモに取っているとそんな風に聞こえる。

春の野辺を歌にしようと思うけれどもむずかしい。

                         

 

 

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復活祭(パスハ)

2009年04月15日 | 日記・紀行

 

復活祭(パスハ)

正教会の今年のパスハ(復活祭)は4月19日の日曜日に祝われます。これはギリシャ語の「パスハ(Πάσχα)」に由来しており、さらには、ユダヤ教の過越祭( Passover, ヘブライ語で Pesach )と深い関わりを持っています。

イエスは過越しの祭の前の日に十字架の上で亡くなられて後、墓にいったん納められました。それで週の初めの日(日曜日)の朝早く、まだ暗いうちに、マグダラのマリアがイエスの葬られた墓を見に行きました。しかし、墓にはイエスの亡きがらはなかった。その後になって、墓の外に立って泣いていたマリアに、イエスが姿を現された(ヨハネ書第20章)。これが主イエスの死から復活されたはじめだとされています。パスハ(復活祭)は、死からのこの主イエスの復活を記念して行われます。

この日には、

「キリスト死より復活し、死を以って死を滅ぼし、
墓にある者に生命をたまえり。」

Χριστός ανέστη εκ νεκρών, θανάτω θάνατον πατήσας, καί τοίς εν τοίς μνήμασι, ζωήν χαρισάμενος.

と賛詞が唱えられます。

 

この日曜日に時間に余裕のある人やもし子供さんがいれば、ケーキなど作って楽しまれればどうでしょうか。私も時間に余裕があれば(たぶん忙しいか)、一度挑戦して見たいと思っています。

ケーキピアレシピ   (   http://www.cakepia.info/  )


 

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「よしわら」

2009年04月06日 | 宗教・文化

 

hisikaiさんは、ここしばらく「よしわら」と題して、日本の戦前の公娼制度の象徴としての「吉原」を取りあげられています。

これまでの論考でも明らかなように、いわゆる「戦後民主主義」については私は多くの点で低く見ているのに対して、戦前の「大日本帝国憲法」下の日本についてはかなり肯定的に評価してきました。そして、戦後教育の産物であるいわゆる「団塊の世代」やその後継世代については、民族がその形而上的な精神を喪失してしまっていることや、倫理的な意識の希薄さという点において、平安、鎌倉、室町、江戸時代などの過去の日本の封建時代の「品格」にすら及ばないのではないかと思っています。これは私がかならずしも「民主主義」を評価していないためかもしれません。

ただ、それでも私が戦後の日本を評価する点があるとすれば、太平洋戦争後には、この「吉原」に代表される公娼制度がなくなったことがあります。また、この制度の背景にあった貧困問題の根源である小作人制度が「農地改革」によって農村からなくなったことだと思います。

ただ残念なことは、日本の敗戦によってGHQの指導のもとでこれらの政治的な改革が実行されたことです。日本人は民族として公娼制度などの悪習を主体的に廃止する能力を持っていませんでした。そのために今日も風俗産業などにおける女性の人身売買などは根強く残っています。

あえて誤解を恐れずにいえば、「吉原」などの公娼制度を廃止するためなら、日本の敗戦と引き換えにしてもよかったくらいに思っています。それほど、私にとっては「よしわら」の公娼制度は憎むべき対象です。そして残念に思うのは、hishikaiさんの論考においては、この旧悪弊に満ちた「よしはら」を、文学的に歴史的に叙情的に懐古的に振り返られるだけで、この公娼制度の産物に対するhishikaiさんの憎悪がほとんど見られないのを私は悲しいと思います。

おそらくこうした風俗文化の問題の背景には、日本人の民族としての宗教の性格が深く関わっていると思います。日本の伝統宗教の中にはこれまでモーゼの宗教の影響の痕跡すら見られなかったこともあると思います。日本人がモーゼやイエスの宗教に改宗して文化や社会の質を変えるまでは、いずれにしても問題の根本的な解決を期待することはできないのではないかとも思います。

 

遊女の救い  Salvation Prostitute's

 

 

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