生命と自然
案の定に忙しくて、復活祭(パスハ)にケーキやクッキーづくりに挑戦とはゆかず、またの楽しみに残しておく。焦ることもない。
山の畑に行く。昨年は霜害にやられて根付かず、再挑戦した柿の木が新芽を出していた。また、餌の無い冬の間、野鹿に樹皮や芽を食いちぎられて、枯れ死も覚悟していたイチジクの木が新たに芽吹いていた。青く美しいそれらの新芽を見たとき、いささかながら感動する。動物と植物の共存というか、摂理というか、生命はやはりヤワではない。
タマネギ畑の草取りをしていても、すでにカエルが姿をみせているし、抜いた雑草の根っこには、蝶のさなぎがとぐろを捲いている。街ではそれほど痛感することはないけれど、動植物の無数の豊饒を土の上では実感することができる。
少し手をこまねいていると雑草がはびこる。自然の生命力というべきか豊かさというべきか。
あわただしく畝づくりを行って何とか植えたジャガイモの種芋も、かわいらしい新芽の行儀良くならんだ行列が眺められるまでに生長していた。植えたのは私だが、生長させるのは神である。
畑の小さな一画ですら、レンゲ草、露草、イチゴの金平糖のような実をつけた名も知らぬ小さな花などの彩りも豊かで、見ていても飽きない。
鶯が鳴いている。聴覚を澄まして、鳴き声を聴き取ろうとする。たしかに、ホーホケキョ、と聴こえる。その傍らで名も知らぬ鳥の鳴き声は、チーチョチ、チッチョチョ、チョチチ、チッチョチョ、チッチョ、チーチョチチといつまでも鳴いている。その鳴き声をメモに取っているとそんな風に聞こえる。
春の野辺を歌にしようと思うけれどもむずかしい。