8月1日(金)のTW:中川八洋掲示板を読んでつぶやいた、ヘーゲル哲学の意義、など - 作雨作晴 blog.goo.ne.jp/askys/e/edc606…
— 赤尾 秀一 (@soratine) 2019年3月26日 - 20:30
12月4日(木)のTW:「天皇制」の合理的な根拠? - 夕暮れのフクロウ blog.goo.ne.jp/aowls/e/d3572a…
— 赤尾 秀一 (@soratine) 2019年3月26日 - 20:45
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— 赤尾 秀一 (@soratine) 2019年3月26日 - 20:45
「 石清水八幡宮へ行く」石清水八幡宮に行った。残された時間が少しずつ短くなって来ることを自覚するようになると、少しでも多くの場所をこの世の見納めに訪れておきたいと思うようになる。本当はあと一二週... goo.gl/7FB1zk
— 赤尾 秀一 (@soratine) 2019年3月25日 - 02:48
石清水八幡宮へ行く
石清水八幡宮に行った。残された時間が少しずつ短くなって来ることを自覚するようになると、少しでも多くの場所をこの世の見納めに訪れておきたいと思うようになる。本当はあと一二週間ほど待って、花の満開の折にでも来ればよかったのだろうけれど、ここもまた花見の観光客で混雑することが予想される。
長らく洛西に住んでいたので、いつも眺める景色は東向きだった。それも桂川、淀川の西岸からがほとんどで、淀川を渡って訪れることもなく、だから伏見、淀、久御山、八幡市には本当に縁がなかった。石清水八幡宮を訪れるのも初めてだった。
石清水八幡宮は歴史のあるお宮で、紫式部の「源氏物語」や兼好法師の「徒然草」にも記録されている。とりわけ、徒然草の中では、麓にあった極楽寺を八幡宮と思い込んだ仁和寺の法師が、「神へ参るこそ本意なれと思ひて、山までは見ず」と肝心の山の神には参らずに帰ったことから、「すこしのことにも先達はあらまほしきことなり」と兼好法師に皮肉られたことで知られている。
山道のように続く寂びた参道を歩いていて、あらためて想起させられ痛感したことは、明治維新の「廃仏毀釈」によって、幕末までには存在していた多くの壮大な寺院や僧坊が毀され廃棄されたことである。その事跡を見ても明治維新が単なる維新ではなく、悟性的で狂信的な精神によって遂行された「革命」であったことがよくわかる。そのために、仁和寺の法師が八幡宮と取り違えた極楽寺も取り壊されてもう見ることもできない。
大化の改新以来、「神仏習合」の伝統として、両者の長所を理性的に融合し保存してきた長い日本の歴史がある。それを引き裂き破壊し伝統と文化を毀損したのは、革命という悟性的な精神で行われた「明治維新」である。
もちろん、吉田松陰や坂本竜馬たちの殉難のうえに成し遂げられた「明治維新」の偉業はどれほど高く評価されてもいい。「明治維新」がなければ、日本社会が旧套墨守の旧態依然としたままに終わり、中国や朝鮮などとおなじ歴史的な宿命を背負うことになったかもしれない。
しかし、だからといって「明治維新」というコインの裏側を見過ごすこともできない。歴史は勝者によって書かれるという。明治維新もそうである。そのために私たちが学んだ「明治維新」という「歴史」には、その「負の側面」はほとんど語られることがない。全てが薔薇色に描かれていると言える。
しかし、歴史の真実の追求には時効はない。「廃仏毀釈」という深刻な文化と伝統の破壊をはじめとする「明治維新」の負の側面についても、これからも歴史的な検証は行われてゆく必要がある。
石清水八幡宮の参道を辿り、男山の山頂から美しい京都の町並みを見下ろし眺めながら思ったことだった。
織田信長が天正8年(1580年)に八幡宮に寄進した土塀
(社説)「改元」を考える 時はだれのものなのか:朝日新聞デジタル asahi.com/articles/DA3S1…
— 赤尾 秀一 (@soratine) 2019年3月23日 - 01:09
— 赤尾 秀一 (@soratine) 2019年3月23日 - 02:50
山岡鉄秀さん "これが社説なのか!何が言いたいのかわからない。元号の使用が天皇による支配を意味する?では西暦でキリスト教に支配されるのか?意味不明の不満を投げつけないで頂きたい。 asahi.com/articles/DA3S1…" twitter.com/jcn92977110/st…
— 赤尾 秀一 (@soratine) 2019年3月23日 - 12:58
さびしさに堪へたる人のまたもあれな庵ならべむ冬の山里 詠み人:西行(新古今和歌集)
— 歌人 (@utabito) 2019年3月9日 - 21:00
避難所は、核爆発による振動、第一次放射能、放射性の灰、あるいは通常爆弾などに対する防護手段となるだけでなく、焼夷弾やそれによる燃焼の危険、建物の倒壊、破片、細菌化学兵器などに対しても、同様の役割を果たしてくれる。(スイス政府『民間防衛』)
— スイス政府『民間防衛』 非公式bot (@minkan_bouei) 2019年3月9日 - 21:35
貨幣とは鋳造された自由である。(ドストエフスキー) Geld ist geprägte Freiheit.
— ドイツ語メール例文集&格言集 (@dt_reibunshu) 2019年3月9日 - 19:04
人間魚雷回天(木村功)1955 youtu.be/mV7nHw1F5Xw @YouTube
— 赤尾 秀一 (@soratine) 2019年3月9日 - 22:57
Youtubeで映画「人間魚雷回天」を見る。1955年、松林宗惠監督作品で、木村功、岡田英次、宇津井健、沼田曜一、津島恵子、殿山泰司、神田隆、加藤嘉、織本順吉、高原駿雄、高橋昌也、丹波哲郎、西村晃など私たちの世代には記憶にも懐かしい戦後に活躍した多くの俳優たちが登場している。
— 赤尾 秀一 (@soratine) 2019年3月9日 - 23:00
娯楽作品の要素もあるけれども、歴史的な記録作品として鑑賞した。1955年の作品であるから、大東亜戦争の記憶も、それを実際に体験した当事者の多くがまだ生存していた時代の作品であり、戦時体制下での軍隊、軍人の雰囲気も比較的に忠実に再現されているとみることができる。
— 赤尾 秀一 (@soratine) 2019年3月9日 - 23:02
すでに敗戦後から10年以上を経過しており、したがって、この映画の製作には、敗戦国民としての反省があり、また1945年から1952年までの間はGHQによる占領統治下にあって、日本社会において歴史的にも政治経済的にも未曾有な大変革が行われたという時代背景がある。むろん、この映画からは
— 赤尾 秀一 (@soratine) 2019年3月9日 - 23:06
大東亜戦争の歴史的な背景や、政治経済的な原因についての洞察などは得るよしもないけれども、この戦争の行われた前線、その末端の現場でどのようなことが起きていたか、使われた兵器や個別的な兵士たちの実際の状況のおよそのところを推察する手がかりにはなる。国家間の戦争という、いわば
— 赤尾 秀一 (@soratine) 2019年3月9日 - 23:08
巨大な鋼鉄の歯車に巻き込まれた個人の運命がこの映画でも描かれている。敵国アメリカに対して兵器、装備など軍事力において圧倒的な劣勢に置かれた日本が、戦闘機零戦を使って神風特別攻撃隊による特攻作戦を行ったことはよく知られているけれども、この「人間魚雷回天」の海からの
— 赤尾 秀一 (@soratine) 2019年3月9日 - 23:16
特攻についてはその実態はさほど知られているとはいえない。
— 赤尾 秀一 (@soratine) 2019年3月9日 - 23:17
こうした特攻攻撃を含めて、歴史の真実を知り評価することは、戦争に関連するあらゆる情報、資料(この映画のような戦後の観点から描かれた娯楽映画を含めて)の集積と分析を通して、特定のイデオロギーにとらわれることなく、
まず「歴史の事実」を知ることから始まる。「批判」はそれからだ。
— 赤尾 秀一 (@soratine) 2019年3月9日 - 23:19
それにしても敗戦後10年にしてこの程度の映画作品を作り得たことをみても、俳優陣やセット、機材など映画製作のための環境が、戦禍を免れて、戦後にも引き続き相当程度に保存されていたことがわかる。
一つの仮説として。 twitter.com/kishidasyu_bot…
— 赤尾 秀一 (@soratine) 2019年3月9日 - 23:29
城南宮の梅20190302
西行、梅の歌
山家ノ梅
35
香をとめん 人をこそ待て 山里の
垣根の梅の 散らぬかぎりは
36
心せん 賤が垣根の 梅はあやな
よしなく過ぐる 人とどめけり
37
この春は 賤が垣根に ふればひて
梅が香とめん 人親しまん
嵯峨に住みけるに、道を隔てて坊の侍りけるより、梅の風に散りけるを
38
主いかに 風わたるとて いとふらん
よそにうれしき 梅の匂ひを
庵の前なりける梅を見てよみける
39
梅が香を 谷ふところに 吹きためて
入り来ん人に 染めよ春風
伊勢に、もりやまと申す所に侍りけるに、庵に梅のかうばしく匂ひけるを
40
柴の庵に とくとく梅の 匂ひきて
やさしきかたも あるすみかかな
梅に鶯なきけるを
41
梅が香に たぐへて聞けば うぐいすの
声なつかしき 春の山里
42
つくりおきし 苔のふすまに うぐいすは
身にしむ梅の 香や匂ふらん
旅の泊の梅
43
ひとり寝る 草の枕の 移り香は
垣根の梅の 匂ひなりけり
古キ砌ノ梅
44
なにとなく のきなつかしき 梅ゆゑに
住みけん人の 心をぞ知る
※私的註釈
山家に咲く梅
35
山里に住む私の家の垣根に咲く梅の花が散らない限りは、梅の花はその香りを留めているだろう。その香りを求めて山里を訪れる人を待つことにしよう。
36
心に刻んでおこう。粗末な私の山家の垣根に咲く梅の花は、まことに驚くべきことに、なんのゆかりもない通りすがりの人たちをも立ちとどませることよ。
37
今年の春は、粗末な私の山家の垣根の梅の花に触れ親しんで、梅の香りを求めて訪れる人とも仲良くなろう。
(この「山家ノ梅」という題辞は、35、36、37の三つの歌を支配しているように思われる。この三つの歌に共通して歌われているのは「賤の山家の垣根に咲く梅とその花の香り」であるけれども、この歌の間には、時間の経過とともに、この歌を詠んだ西行の心の深まりが叙述されている。)
嵯峨に住んでいたころに、道を隔てて僧坊がありました。そこから梅の花が風に乗って散ってきましたので。
38
となりの僧坊の主は、風が吹くことをどんなに嫌がっていることでしょう。それをよそ事に私は歓んでいます。梅の花の良い香りが漂ってきますから。
山里での侘び住いの中で、西行は人恋しさから梅の花の香りを介して人々との交わりの深まることへの期待を歌う。
山住みの中で眺めた梅、それから嵯峨野に暮らしていたころの梅の記憶、さらに伊勢に旅して「もりやま」という所に居を構えていた時に、庵の梅が香ばしく匂っていたことを思い出して詠む。西行の旅の記憶が和歌に留められている。
庵の前に植わっている梅を見て詠みました
39
春風よ、私の住んでいる谷ふところに吹き貯めて、ここに入り来る人たちの袖を梅の花の香りに染めてほしい。
伊勢に旅して「もりやま」という所に居を構えていた時に、庵の梅が香ばしく匂っていたことを思い出して
40
柴で葺いた粗末な庵にも、したたるように梅が匂ってくる優美なところもある住み家でした。
梅にウグイスが鳴いていましたので
41
梅の花の香りに、ウグイスの鳴き声は似つかわしいものとして聞いていると、春の山里には鳴き声も懐かしい。
42
苔で作った巣に帰るので、その寝床にはウグイスの体に染み込んだ梅の香りが匂っていることでしょう。
旅の宿の梅
43
独りで寝る旅寝の宿では移り香もないはずなのに、なお香ってくるのは垣根の梅の花の匂いのせいでした。
古い家の軒下に咲く梅
44
何とはなく、軒先も懐かしいものに感じられます。そこに植えられた梅に、
かってこの家に住んでいた人の雅な心を知ることができて。
今日は桃の節句のひな祭り。世代も移り変わって、今はもう娘たちが自分たちの子供に雛飾りをして楽しませる時代になった。
草の戸も住替る代ぞひなの家 芭蕉
2019年平成31年3月2日(土)晴
久しぶりに城南宮までゆく。人と車で混雑していた。以前には平日を利用できたので、静かに散策できることもあったけれど、土日や祝日では無理なことがわかる。まして花見の観光シーズンには。
日記ブログのありがたさで、以前に城南宮を訪れた時のことを検索してみた。もう十二年も前の春と秋に訪れて以来であることを知って驚く。
城南宮の秋など(作雨作晴) https://is.gd/9b1xGX
堀川通から油小路をまっすぐ南に下がっていったが、途中の久世橋あたりから国道の上には京阪高速8号京都線の高架がかかり、昔に見た国道の面影がすっかり変わっていた。そうして同じ市内に住みながらどれだけ私が精神的な田舎者になりつつあるかをあらためて思い知る。
満洲国の根本理念と協和会の本質に就て - 夕暮れのフクロウ blog.goo.ne.jp/aowls/e/0237d2…
— 赤尾 秀一 (@soratine) 2019年2月28日 - 23:57
67:春の夜の 夢ばかりなる 手枕に かひなく立たむ 名こそ惜しけれ(周防内侍)
— 百人一首bot (@onehundredpoems) 2019年2月28日 - 23:30
敵国外患なき者は、国恒(つね)に亡ぶ。『孟子』(国外に敵国のプレッシャーがなければ、警戒心や結束力が低下し、国は自壊の道を辿る。これは個人にも言えることで、切磋琢磨する競争相手がいるからこそ、人は成長できるのだ。己を高めてくれる敵ほど、有り難いものはない)
— 老子 (@rousinokotoba) 2019年2月28日 - 23:03
夕日さす落葉がうへに時雨過ぎて庭にみだるる浮雲のかげ 詠み人:太上天皇(風雅集)
— 歌人 (@utabito) 2019年2月28日 - 23:00