作雨作晴


日々の記憶..... 哲学研究者、赤尾秀一の日記。

 

ブログ作成四周年

2009年06月25日 | 日記・紀行
ブログ作成四周年

早いというべきか、いまだというべきか。ブログというものをはじめてこの六月に五年目に入りました。といっても、ブログをはじめたのは、EXCITEの方が二三ヶ月少し早く、はじめはそこで、より「学術的な」論考でも記録してゆくつもりでした。しかしそのうちに、もう一つのブログを日記録としても利用しようと思い、GOOのブログも使い始めました。はじめのうちは、EXCITEの「夕暮れのフクロウ」では学術的な論考のための文章を、GOOの「作雨作晴」では日々の記録と、比較的に明確に区分けして使っていたのが、次第に境界が曖昧になり、今では「作雨作晴」が「夕暮れのフクロウ」のミラーサイトのような趣になってしまっています。

マイナーなブログですから、もちろんアクセスが集中するなどということは考えられませんが、原稿の保存上の意義ぐらいはあるだろうと思っています。はじめのころは、こうしたブログを介しての議論や討論も期待していましたけれども、今では現実がわかってきて、我が道を行くしかないように思っています。

このブログをはじめた初期のころ、いくつかコメントをいただいたチャンタさんや洛南院大法螺噴大居士さんらは今も元気にされておられるのでしょうか。チャンタさんにはご自身のブログを開設するようにお勧めしましたが、その様子はないようですし、洛南院さんのブログは休止したままです。チャンタさんにはコメントで「敷居が高い」と言われたこともあります。それ以来、「敷居貴志」はもう一つの私のハンドル名になっています。

上の写真は我が陋屋の軒先に咲いたアジサイの花。神の御恵みにより今年も生きながらえて、その美しい姿をふたたび眺めることができます。

概念論の研究を媒介にして、引き続き、国家や神の概念も追求しています。その一方で、このブログでも日本国の現実も明らかにしようとし、またさらに、日本国の国家形態としての概念を具体化してゆこうとしています。それは国民の幸福にとって絶対的に必然的で、それ以外にはありえないものと思っています。国民が自らの幸福を欲していれば、その道を辿らざるをえない。ここに明らかにしたその概念を日本国民は理念として追求してゆくしかないだろうと思っています。

ヘーゲルの「法の哲学」についても、さらにもう一段高いレベルで研究に集中したいという思いもあるけれども、時間と能力の問題もあってなかなか思うにまかせないでいます。少なくとも後四五年も経れば、より多く自由な時間も手に入れることができるかもしれませんが。主よ、助けたまえ。

実証的法学者のケルゼンなども、哲学としてはカントしかやらないから「国家なるものは存在しない。存在するのは法と法を執行する人間のみである」などと言うようになっています。唯名論の立場から、主観的観念論の立場を克服できないでいます。ヘーゲルが欧米でも事実として無視され、研究されていないのは驚くべきことです。しかし、真理は頑強です。真理を無視してその罪と罰を避けることはできるでしょうか。吉本隆明氏などもまた(この人については私は全く知りません。団塊の世代の人たちの口から漏れくる言説の端々から推測するだけです。)国家を「幻想の共同体」のレベルでしか捉えることができないのではないでしょうか。

国家は存在します。観念的な、この具体的で客観的な存在が、ただ彼らには「見えない」だけです。概念とは典型であり、真の普遍です。ここでは、神も国家も概念として捉えられています。神と国家についても、さらに論じてゆくつもりです。




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六月の空

2009年06月21日 | 日記・紀行
六月の空

時間を見つけて山の畑に行った。今年は獣害を避けてトマトを天蓋の下で育てているので、少なくとも苗木の間は、日照に干上がってしまわないように、水を撒布してやらなければならない。

自然を相手にしていると、たしかに多くのさまざまな人間的な軋轢から解放される気分になる。とくに、気の置けない畑仲間との交流には、本当に解放された社会に生きることを予感させるものがある。

市民社会はいわゆるゲゼルシャフトであって、もちろんゲマインシャフトとは本質的にちがう。だから格差、利益追求、差別、解雇、失業、搾取が常態の社会であって、そこに多くの矛盾が存在し、それがまた社会を動かしてゆく原動力になる。そうして歴史は進行してゆくのだ。

NHKの放送だったと思うが、「グラミン銀行総裁 ムハマド・ユヌス・世界を救うソーシャル・ビジネス」という番組を見た。このバングラデシュの経済学者ユヌス氏は、高利貸しに苦しむ貧者のために、グラミン銀行をつくって無担保長期返済の小口金融ををはじめた。

そして、この事業で多くの人を、とくに女性を貧困や高利貸しから解放した功績で、2006年にノーベル平和賞を受賞している。わが国の自民党のように、消費者金融業者から多額の政治献金を受けて、高金利を永年のあいだ放置し、多くの国民を苦しめてきた政治家たちとは大きな違いである。

GDPでは世界でも指折りの地位を占めると言われる日本でも、拙劣な政治から、国内も少子高齢化が進み、全国の至るところに「限界集落」などが増えている。医療体制も崩壊しつつあり、農耕地は荒れるままに放置され、かっては美しかった里山の光景も失われつつある。

一方で国民も年金制度の崩壊を嘆いて、「お上」に愚痴を言うばかり。しかし、全国に耕作放棄農地の広がりつつある現状にあっても、この危機に肯定的な意義を見つめることができさえすれば、そこに新しい「ふるさと創生運動」の芽生えの可能性を見ることもできるのではないだろうか。



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六月の青い田

2009年06月14日 | 日記・紀行
六月の青い田

所用を済ませた帰り、時間があったので散歩がてら、気の赴くまま自転車を走らせた。

団地の中に入る。広い団地で、はじめて見る路地も多い。今日たまたま通りがかったところもはじめて来た。新しい発見がある。とは言え、この世界の広大無辺に比べれば、個人がその生涯の間に体験できる領域とは、きわめて限られている。私などは自慢ではないが、この狭い日本からすら出たこともない。


無限の多様性に満ちたこの世界を、自らの感覚によって捉えることのできるのは、そのごく一部だけである。哲学者カントなども、その生涯に生まれ故郷のケーニヒスベルクをほとんど出たことがないそうだ。井の中の蛙のように生涯を生きたということである。ただ、自らの棲息する井戸を深く掘ったということができるかもしれない。たとい全世界を回遊しようとも、ミーハーにはミーハーの世界しか映らない。

いまだ太平洋の深海を覗いたこともなければ、まして、銀河系の外がどのように成っているのかすら、厳密な意味ではわかってはいない。無限を前にしては、人間の寿命もカゲロウの寿命も差はない。人間もカエルも地球の表面に蟻のようにへばりついて生きている。



東海道自然歩道の途中で、淳和天皇陵、花の寺、金蔵寺への標識の立っている地点まできて、それを見て金蔵寺の方に進路を取る。

途中に見る田圃もすでにほとんどが田植えを済ませていた。稲田が夕日に映える。燕が群れをなして舞っている。今年もすでにそういう季節に入ったのだ。
菖蒲かアヤメか、遠くにその面影も見てもその盛りはすでに過ぎたようだ。葵のピンクの花が畦を飾っていたりする。

石作町に入る。その名の通り、奈良や平安の昔にはこのあたりには石工たちが住んでいたのかもしれない。竹取物語に登場する五人の貴公子の一人、石作皇子にゆかりのある土地柄である。昔から竹林で有名でかぐや姫の伝説もある。この石作皇子は、石の「鉢(恥)」を捨ててまで求婚したのにかなえられなかった。






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映画「亡国のイージス」を見る

2009年06月14日 | 芸術・文化

映画「亡国のイージス」を見る

6月14日のテレビで「亡国のイージス」という映画を見た。もちろん、娯楽作品ではあるけれども、曲がりなりにも、わが国の国防についての問題提起をおこなっている作品であるとは言える。言うまでもなく、イージス艦はレーダーや最新の情報処理システム、対空ミサイル・システムなどを装備した現代科学の粋を集めて建造された艦艇である。

しかし、イージス艦のように、たとえどれだけ軍事科学の粋を集めて建造された軍艦といえども、それは守るべき価値ある国家、国民が存在してこそのイージス艦であって、この前提のない国家国民が所有する軍艦など、軍事産業屋の金儲けのネタか軍人の高級玩具になり終わるにすぎない。

根本的に重要なことは、価値ある国家の形成、守るに値する文化、伝統、自由を尊重する人間の存在である。戦後民主主義の日本人には、せいぜい守るべきものがあるとしても、それは営々と蓄積してきた富のほかにはないのではないか。たしかに、多くの人間にとっては、富のみが守るに値する。

映画「亡国のイージス」が公開された2005年は、戦後60年という巡り合わせもあって、「男たちの大和」「ローレライ」などの軍隊物映画が公開され、その後も「出口のない海」などの戦前の日本軍を回顧するような作品も発表されている。このような傾向を、日本の「右翼化」として「憂慮」する人たちもいるようである。

しかし、戦後60年が経過して、文化の植民地化が徹底的に浸透した現代の日本においては、戦前の日本を描こうにも、それを演じきれる人間、俳優がいない。香港やフィリッピンその他かつての被植民地などに多く見られる、無国籍アジア人の体質をもった俳優には、戦前の日本人やまして旧大日本帝国軍人などはもう演じられなくなっている。そこまで文化的な断絶が深くなっているということである。



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概念とは何か(ノート3)

2009年06月12日 | 哲学一般

概念とは何か(ノート3)

概念とは何か。それを比喩的に言えば、概念とは観念的な種子のようなものである。植物にたとえるならば、その種子の中にはレバノン杉や椎の木やダイコンやニンジンの設計図が含まれているのである。現代科学はその設計図の構造をさらに解明して、それを遺伝子の配列として捉える。

動物においてもまたその設計図は、卵子や精子の中に含まれる染色体の中の遺伝子の構造として設計されている。そして、それらの種子や胚珠はやがて、熱、光、水、空気など生育に必要な環境と条件が備われば必然的に萌芽するのである。その鉄の必然性は誰にも押しとどめることが出来ない。

そして、自然界における最高の概念的な存在こそ「自我」である。「自我」あるいは同じことだが「意識」、あるいは「精神」といってもよいが、それは現実的で具体的な生ける「概念」である。

そして、自我による最高の作品が国家である。国家は人類の創造しうる至高の芸術作品であるということができる。

自我も意識も「精神」として、いずれもその思考において、設計図を描くことが出来る。建築家はその頭のなかで構想した住宅の設計図を青写真にすることによって、建築物の「概念」を構成する。そして、この「概念」は、木材、セメント、鉄骨などの素材を得ると、現実に住宅として存在するようになる。画家や彫刻家も白いキャンバスや大理石を前にして、それぞれ美の概念を具体化する。

ヘーゲルなどが用いる概念という用語は、単なる抽象的な普遍的な観念のみを意味しない。単なる共通性にすぎない普遍性と真の普遍性は明確に区別されている。

また、この概念は人間の単なる観念的な生産物を意味するだけではなく、自分自身を産み出すものである。聖書においては神は精神(Geist)であり、万物を創造する主体でもある。言うまでもなく、キリスト教においては三位一体の神として、神は精神として認識されている。

そして、聖書の神話においては、智恵の実のイチジクを食べた人間のみが神に似た存在として、単なる動物とは異なる「精神的な」存在として捉えられている。この人間の自我の、意識の、精神の本質的な構造をもっとも深く分析したのはヘーゲル哲学の仕事であるということができる。しかし、このヘーゲルの概念論を正しく理解し得ているものは今日おいても誰もいないのではあるまいか。彼は忘れられた思想家で、今なお誰もその灯火で明るみに出すことの出来ない、暗黒の彼方にある哲学者である。



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プロバイダの変更

2009年06月04日 | 日記・紀行

プロバイダの変更


先月の五月一日からプロバイダーを変更した。そのためにホームページに記録していた以前の文書が読めなくなっている。一九九八年頃に開設したホームページに記事や論考を記録しはじめていたが、消えてしまった。そのなかには欧米の学者の論文の翻訳の一部や聖書の詩篇などの翻訳などもある。いずれ上梓しようと思い、また途中でほとんど中断してしまっていたとは言え、ヘーゲル哲学大系を抄訳録したノート風の「ヘーゲル哲学事典」などもホームページに載せ始めていた。それも消えてしまった。

ホームページの標題を「哲学の小窓」として(http://www8.plala.or.jp/ws/)、それまでの論考や記事をそこに記録しはじめていた。しかし、記事を書くごとにいちいちアップロードしなければならず、HTMLタグやスタイルシートの活用にも手間もかかった。そこにやがてブログが登場してきた。そして、ブログの簡便さに馴れると、記事や論考のほとんどをブログの方に記録して、ホームページ上での論考の整理もおろそかになりがちだった。

科学としての思想、科学としての哲学を志すとなると、どうしても世界についての私たちの認識を、一つの体系として構築して行かざるをえない。真実に科学の名に値する哲学は体系的であるからだ。この認識の体系の基本的な骨格については歴史的にはすでにヘーゲルがやり遂げている。だからヘーゲル以降に生きる我々は、この哲学体系に対してどういう立場を取るかによって、我々の哲学的な立場が決まる。

私自身の最終的な立場は、まだ構想半ばではあるが、私自身の「哲学百科辞事典」(http://aowls.exblog.jp/)において明らかにしようとしている。しかし、この辞事典についても、私の「時間と能力」の問題もあって遅々として進んでいない。

しかし、いずれにせよ、どこまでやりきれるかはとにかく、新しいプロバイダーと契約し、ホームページも新しく開くことにした。内容については基本的には以前と変わり様がない。パソコンに保存されているデータをそのままアップロードして行くことになる。

当面は「全集アーカイブ」として、表紙だけをとりあえず再録した。(http://www.eonet.ne.jp/~anowl/index.html)

全集と体系の形態にいたるまで少しずつでも構築してゆきたいと思っている。さし当たっての記事や論考はブログにまず投稿して記録して行くつもりでいるけれども、それをこのホームページで、一つの必然的な認識の体系として、再構成して行かなければならない。

それにしてもこの非哲学的な国民性のなかにあって、それがたとえ世の覚えのめでたくもない仕事であるにせよ、他人は他人で我が道を行けばいいと思っているが、いったいそれが「何の役に立つのか」というモンゴル人種に特有の実利的な問いではなく、「真理」そのものを問うてきたつもりである。言い訳をするなら、真理こそがもっとも有益なものであるはずだから。

それにしても、こうした論考に意義はあるか。あるとすればそれはどのようなものか。一つはヘーゲル哲学の研究を中心的なテーマにしていることである。とくにヘーゲルの「概念論」の分析と研究とその意義を明らかにすることを中心的な課題としている。その成果も乏しく、内容もいまだきわめて不十分で未熟であるとは言え、ヘーゲルの「概念論」については、これまで誰も明らかにしていない独自の解釈の方向を示していると思う。この方面の研究は引き続き根本的な研究テーマである。このブログの目的でもある。

ヘーゲルの概念論は真理認識において不可欠の要素であり、また、従来の唯物論者マルクスなどの理解の及ばなかった概念観について考察し、イデア論の復活と再認識を目的としている。また、とくにヘーゲルがキリスト教の「聖霊」を、必然的な「絶対的な精神」として捉えなおしたところに、ヘーゲル哲学の意義を見出している。「ヘーゲル哲学」を「最深の神学」としてこの哲学にかかわり始めた私にとっては、この哲学とキリスト教との関連をさらに解明してゆく仕事も残っている。ヘーゲルにあっては「哲学」することは至高の宗教的行為だったのだ。

さらに、マルクス流の共産主義国家論の、歴史的な哲学的な破綻を受けて、ふたたびヘーゲルの『法の哲学』の現代国家論にもつ意義とその弁証法の再評価を主張している。つまり立憲君主国家の形成は、現代においてもなお課題として残されているということである。マルクスは市民社会の否定的な側面のみを見て、その肯定的な面を正当に評価することが出来なかった。

先般に行われた自民党と民主党の党首討論おいて、鳩山由紀夫氏などは「友愛社会の建設」をアピールされていた。なるほどたしかに、抽象的な「友愛」の精神に誰も反対する者はいないだろう。しかし本当の課題は具体的な各論で論争することである。

私の論考では、現在の自由民主党と民主党による利益談合型の政界を解体し、自由主義と民主主義をそれぞれ自由党と民主党によって充実発展させてゆく理念追求型の政党政治への変革を主張している。その上で、国家の行政形態として道州制国家を展望している。

元大蔵官僚の榊原英資氏や民主党などは、わが国ではいまだ歴史的な体験がないことを理由に、国と人口40万人程度の自治体(基礎的自治体)の二重構造国家を主張しているようだが、国家概念としては道州制国家の方が優れている。新しい歴史を創造してゆくことだ。

わが国ではヘーゲルの『法の哲学』の研究や「弁証法」の能力の修行もせずに、一国の指導者の地位にさえ就くことができるのである。以前に「国家指導者論」という小論(http://anowl.exblog.jp/7671044)でも論及したが、ヘーゲルの『法の哲学』や「弁証法」について何らの素養もなくして首相の職さえ勤まることのできるこの国では、その「党首討論」といっても、その実、自らの政治のレベルと学問科学の哀れな水準を、世界に告知するだけの恥さらしでみじめなものになり終わらざるをえない。それもやむをえないと言える。何度も繰り返して言っているけれども、西洋のことわざにあるように「自分たちにふさわしい水準以上の政治を国民はもつことは出来ない」のである。

フランス革命や文化大革命など過去の歴史的な事件などにおいても見られたように、また、現在も世界各地でなお続いている民族や宗教間の紛争、とくに中東やインドなどに起きている各宗教、宗派間の紛争などの不幸の根源が、理性的な思考の能力に欠けた指導者、大衆のその悟性的な意識と思考にあることも明らかにした。

狂信や個人崇拝の認識論上の根源がその「悟性的思考」にあることを明らかにして、悟性的思考と理性的思考(弁証法思考)の違いを明確にし、後者の能力なくしては罰と不幸は避けられないこと、理性的思考(弁証法思考)の決定的な重要性について論及していることなど、これらもこの全集の意義であるといえるかもしれない。



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