作雨作晴


日々の記憶..... 哲学研究者、赤尾秀一の日記。

 

日本族インディアン国酋長の感謝と詫び状―――歴史のカリカチュア

2010年08月15日 | 歴史



日本族インディアン国酋長の感謝と詫び状―――歴史のカリカチュア

アメリカ・インディアンも日本人も同じモンゴル人種で、気の遠くなるような遙か遠い昔に、一方は、モンゴル平原やシベリア大陸からベーリング海峡を越えて東に向かい、南北両アメリカ大陸に渡った。もう一方ではユーラシア大陸の東辺境に沿って南に降りて行った。前者がいわゆるアメリカ・インディアンたちで、後者はやがて、満州族や朝鮮人となり、さらに日本人となった。

同じインディアンでも、北アメリカに渡ったアメリカ・インディアンたちは、二百年ほど前に、西部開拓を押し進める南北ヨーロッパからの白色人種の移民たちによって、殺されたり追い払われたりした。今は狭い居留地に閉じこめられて、自閉的で退廃的な生活を過ごしているらしい。

それから約百年も経たないうちに、ヨーロッパからの白人移民たちはアメリカ人となって、北アメリカ大陸の西海岸に行き着いた。しかし、そこで彼らは行き所を失って海に、広い太平洋に出ざるを得なかった。そして、彼らがやがて辿り着いて出会ったのが、ユーラシア大陸の東の半島や島々の辺境地に住み着いていた満州族や朝鮮族、日本族のインディアンたちだった。

とりわけ日本族インディアンたちは、アメリカ・インディアンを退治するようには簡単に始末できなかった。南太平洋の島々でさんざん梃子づらせたあげくに、広島と長崎に原子爆弾を二発投下してようやく、彼らを力づくで押さえ込むことができた。

そして、マッカーサーを首領として日本列島に乗り込んできたアメリカ人たちは、彼ら日本族インディアンたちが二度と反抗することのないようにと、武器を二度と持たさせないために「平和憲法」を拝ませてやる代わりに、被害者意識で日本族インディアンに対する憎悪に凝り固まった漢族共産主義者たちから、彼らを守ってやらなければならなくなった。

アメリカ・インディアンと同様に今やテレビやサッカーなどの娯楽に夢中で、昔のサムライ精神を忘れて腰抜けになった今の日本族インディアンたちには、これからも狭い日本列島におとなしく居留させてやる代わりに、自分を守れない彼らをアメリカ人は保護してやる責務がある。

すでに、日本族インディアンがアメリカ人にやっつけられてから今年で六十五年目に入った。今年もまた日本族インディアン国首相である菅直人氏は、靖国神社にはA級戦犯たちが祭られているという理由で、参拝にも行かないそうだ。

敗戦で属国になってしまった国の酋長、菅直人氏は、やはり宗主国の意向に逆らう度胸もなく、今となってはアメリカ合衆国日本州の知事でもあるのだから、勝者であるアメリカ合衆国が六十五年前に厳かに宣言した東京裁判の判決を、唯々諾々と踏襲するのも、もはや当然といえば当然のことなのかもしれない。

A級戦犯というのは、確かアメリカ人たちが自分たちに反抗する日本族インディアンの酋長たちに被せた罪名だったはずだった。が、戦争が終わってすでに六十五年にもなるというのに、アメリカ人たちが反抗日本族インディアンたちを懲らしめるために裁判でつけたこの罪名を、今なお後生大事に守っている。

同じ日本族インディアンの酋長である菅直人氏は、七十年数年前に強大な敵に立ち向かって誇り高く戦った同胞の先輩たちを、A級戦犯と呼んで今なお何の疑問を持つことも恥じることもない。

自分たちの占領政策のこれほどの絶大な効果に、きっとアメリカ人たちは、眼から涙を流して腹の皮のよじれるくらいに笑っているに違いない。それなのに、愚かにも愚かな日本族インディアンの酋長、菅直人氏の、アメリカと全世界に対する感謝と詫び状は、六十五年度目に入った今年もまた以下のようなものであったらしい。

★敗戦65周年記念、敗戦日本族インディアンの酋長菅直人氏の感謝ならびに詫び状(別名、全国戦没者追悼式内閣総理大臣式辞 )

本日ここに、天皇皇后両陛下の御臨席を仰ぎ、戦没者の御遺族並びに各界代表多数の御列席を得て、全国戦没者追悼式を挙行するに当たり、政府を代表し、式辞を申し述べます。

 終戦から六十五年が過ぎ去りました。祖国を思い、家族を案じつつ、心ならずも戦場に倒れ、戦禍に遭われ、あるいは戦後、異郷の地に亡くなられた三百万余の方々の無念を思うとき、悲痛の思いが尽きることなく込み上げてきます。改めて、心から御冥福をお祈りいたします。

 また、最愛の肉親を失われ、決して癒されることのない悲しみを抱えながら、苦難を乗り越えてこられた御遺族の皆様のご労苦に、深く敬意を表します。

 先の大戦では、多くの国々、とりわけアジア諸国の人々に対し、多大の損害と苦痛を与えました。深く反省するとともに、犠牲となられた方々とそのご遺族に対し、謹んで哀悼の意を表します。

 戦後、私達国民一人一人が努力し、また、各国・各地域との友好関係に支えられ、幾多の困難を乗り越えながら、平和国家としての途を進んできました。これからも、過去を謙虚に振り返り、悲惨な戦争の教訓を語り継いでいかなければなりません。

 世界では、今なお武力による紛争が後を絶ちません。本日この式典に当たり、不戦の誓いを新たにし、戦争の惨禍を繰り返すことのないよう、世界の恒久平和の確立に全力を尽くすことを改めて誓います。

 戦没者の御霊の安らかならんことを、そして御遺族の皆様の御健勝をお祈りして、式辞といたします。

平成二十二年八月十五日
内閣総理大臣 菅直人


ところで、平成二十二年に棚からぼた餅で酋長になった菅直人氏の談話の前にも、とくにその馬鹿さ加減で歴史に名を残すことになったのは、ちょうど敗戦後50周年に当たる年に、たまたま日本族インディアンの酋長の地位にあった村山富市氏の酋長談話である。今年の酋長、菅直人氏の談話も、この村山富市氏の感謝ならびに詫び状を踏襲されたものであるから、この村山富市氏の談話も併せてここに記録しておくことにする。

★敗戦50周年記念、敗戦日本族インディアンの酋長村山富市氏の感謝ならびに詫び状(別名、村山内閣総理大臣談話)
「戦後50周年の終戦記念日にあたって」

戦後五十年の節目に当たりまして、総理大臣としての談話を述べさせていただきます。

 先の大戦が終わりを告げてから、五十年の歳月が流れました。今、あらためて、あの戦争によって犠牲となられた内外の多くの人々に思いを馳せるとき、万感胸に迫るものがあります。

 敗戦後、日本は、あの焼け野原から、幾多の困難を乗りこえて、今日の平和と繁栄を築いてまいりました。このことは私たちの誇りであり、そのために注がれた国民の皆様一人一人の英知とたゆみない努力に、私は心から敬意の念を表わすものであります。ここに至るまで、米国をはじめ、世界の国々から寄せられた支援と協力に対し、あらためて深甚な謝意を表明いたします。また、アジア太平洋近隣諸国、米国、さらには欧州諸国との間に今日のような友好関係を築き上げるに至ったことを、心から喜びたいと思います。

 平和で豊かな日本となった今日、私たちはややもすればこの平和の尊さ、有難さを忘れがちになります。私たちは過去のあやまちを二度と繰り返すことのないよう、戦争の悲惨さを若い世代に語り伝えていかなければなりません。特に近隣諸国の人々と手を携えて、アジア太平洋地域ひいては世界の平和を確かなものとしていくためには、なによりも、これらの諸国との間に深い理解と信頼にもとづいた関係を培っていくことが不可欠と考えます。政府は、この考えにもとづき、特に近現代における日本と近隣アジア諸国との関係にかかわる歴史研究を支援し、各国との交流の飛躍的な拡大をはかるために、この二つを柱とした平和友好交流事業を展開しております。また、現在取り組んでいる戦後処理問題についても、わが国とこれらの国々との信頼関係を一層強化するため、私は、ひき続き誠実に対応してまいります。

 いま、戦後五十周年の節目に当たり、われわれが銘記すべきことは、来し方を訪ねて歴史の教訓に学び、未来を望んで、人類社会の平和と繁栄への道を誤らないことであります。

 わが国は、遠くない過去の一時期、国策を誤り、戦争への道を歩んで国民を存亡の危機に陥れ、植民地支配と侵略によって、多くの国々、とりわけアジア諸国の人々に対して多大の損害と苦痛を与えました。私は、未来に過ち無からしめんとするが故に、疑うべくもないこの歴史の事実を謙虚に受け止め、ここにあらためて痛切な反省の意を表し、心からのお詫びの気持ちを表明いたします。また、この歴史がもたらした内外すべての犠牲者に深い哀悼の念を捧げます。

 敗戦の日から五十周年を迎えた今日、わが国は、深い反省に立ち、独善的なナショナリズムを排し、責任ある国際社会の一員として国際協調を促進し、それを通じて、平和の理念と民主主義とを押し広めていかなければなりません。同時に、わが国は、唯一の被爆国としての体験を踏まえて、核兵器の究極の廃絶を目指し、核不拡散体制の強化など、国際的な軍縮を積極的に推進していくことが肝要であります。これこそ、過去に対するつぐないとなり、犠牲となられた方々の御霊を鎮めるゆえんとなると、私は信じております。

 「杖るは信に如くは莫し」と申します。この記念すべき時に当たり、信義を施政の根幹とすることを内外に表明し、私の誓いの言葉といたします。

平成七年八月十五日
内閣総理大臣 村山富市

・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・

向後百年後、二百年後の日本国民にこれらの歴代首相たちの談話の再評価に期待したい。が、しかし、すでに退嬰的で自閉的になった日本人には村山富市氏や菅直人氏らと同じように、相も変わらずの、アメリカと世界に対する「感謝と詫び状」を見直すだけの気概も主体性もすでに持ち合わせないかもしれない。

その場合には、アメリカ・インディアンと同じ運命が、哀れにも日本族インディアンたちをも襲ったことの証明にはなるだろう。歴史の非情に涙せざるを得ない。


参照

生き残り日本兵の顔つきと日本サッカー陣

歴史のパースペクティブ ―――20世紀のインディアン









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八月の雲

2010年08月11日 | 日記・紀行



二〇一〇年八月十一日(水) 晴れ


二千十年夏の追憶のために、八月の雲の記録。











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琵琶湖の花火

2010年08月06日 | 日記・紀行

 

二〇一〇年八月六日(金)  晴れ一時雨

琵琶湖の花火

結局、四時近くになってようやく山畑に向かう。家をでるときには、夏らしい青空に、太陽がまだ煌々と照りつけていた。暑い日には自転車でも決して急がない。息が切れないように、まだ青い稲穂を付け始めたばかりの稲田を遠くに眺めたり、その上を低く飛び交うツバメの跡を追ったり、遠くの野原と家々を見晴るかしたりしながら、ゆっくりとペダルを踏みこんで行く。

山畑に向かうときに、とくに坂を登り行くときに、その日の自分の体調がどんな具合かはっきりと感じる。やはり寝不足のときなどは、疲労度が確実に違う。この日は睡眠も足りていたのか、急な坂もそれほどに苦痛に感じない。

ほとんど畑の中に入りかけたのに、空模様が急変したかと思うと、霙のような雨が降り出した。二百メートルほども走ると小屋もありそこで雨宿りもできるのだが、急な雨の激しさと、その距離の間にずぶ濡れになるのを恐れて、先の雨宿りの経験からこんなときのために小さな青いビニールシートを用意していたのを、早速バックの中から取りだした。そして、立てかけた自転車にその片方を括りつけ、もう一方は傍らの一本の立木に括り付けて、ちょうど公園などで時折見かける路上生活者の生活空間のようなものをつくって入り、そこで雨を凌いだ。

子供の頃の冒険ごっこを思い出すような気持ちで、京都タワーなどを遠くに見下ろせる霧雨に煙る市街地を眺めていた。雨は三四十分も続いただろうか。山の天気は変わりやすいのだ。夏の日の夕立は昔なら当たり前だった。

空に再び青空が広がり、雨に濡れそぶる小笹の間を抜けて、イチジクと柿と桃の木を見に行く。柿はこの春から、折られた根幹の脇から天空に向けてまっすぐに一本の枝を伸ばしている。猿に再び折られることのないように、先日、支っかえ棒を三四本打ち込んだ。

イチジクはすでに小さいながらひとかどの大人のような樹形を見せている。そこそこに実もつけている。しかし、どれもまだ小粒で青い。

このブログではすっかり報告はしていないが、桃の木もかなりの大きさに成長している。枝も四方に伸び放題になっていたので、秋になって涼しくなれば剪定鋏を入れて、枝振りを整えるつもりでいた。それなのに、先日サルに先手(剪定)を撃たれて、大切な枝を折られてしまう。洒落にも面白くない。

それでも山をさらに上がると、飛び交うトンボの群の数とヒグラシの鳴き声の繁さが増してくる。東の青空を流れ行く雲の形に、すでに秋の片鱗を感じる。

鎌や噴霧器などの畑の道具を出し入れしているときに、バックのチャックが毀れてしまった。脇に抱えて修理に取りかかったが、適当なペンチなどの道具がなく、どうにも直らない。結局畑仕事もそっちのけで、時計を見ると夕刻七時にも近い。

真夏だから、まだ十分に明るいけれども、闇の帳は早いので、畑を降りることにした。その帰り道の畦道から、夕闇の中に輝き始めた市街地を遠くに眺望することができる。視点の中心に写るのはいつもライトアップされた京都タワーだ。その見慣れた黄昏景色の中に、タワーの右手後方に、色鮮やかな小さなダリアの花のような花火の上がっているのが見えた。どこかで花火大会が開かれているに違いない。

市内を眺望できる場所は、この山畑の畦道からのほかに、もう一カ所ある。それは高畠稜のある丘陵からである。この御陵には桓武天皇の皇后であられた藤原乙牟漏さまが葬られている。長岡京の造営に失敗して平安京に都を移したとき、この地に亡くなられた美しいお后が新しい平安京を一望できるようにと、桓武天皇はお后をこの高台に葬られたに違いない。この場所からも市街地を眺望できる。もし花火大会がまだ終わっていなければ、帰路そこからも花火が見られるはずだ。

まだ畑仲間が一人残っていた。池に流れ落ちる水で、いつものように顔の汗と手の泥を洗って、畑を後にする。

帰り道に高畠御陵の傍らを通り過ぎるとき、その急坂の途中に自転車を止めて、まだ花火大会が終わっていないかどうか、京都タワーの右側後方のあたりをしばらく見つめていた。すると果たして遠くの山際のあたりがほのかに明るくなったかと思うと、さまざまな彩りの花火が、東山の稜線の上に輝いて見えた。いずれも山影に半円だけ切り取られた花火である。ときおり空高く打ち上げられる大型花火だけが、ボタンや菊のような小さな丸い花の全容を見せた。

しばらく自転車に腰掛けたまま、小さな花火を遠くに眺めていると、団扇を片手にした小柄な婦人が、坂の下から上がってきた。彼女はやがて立ち止まるとくるりと背を向けて、私のように同じ花火を眺め始めた。それから約二十分近くも、遙か遠くの東山の稜線に切られて頭の半円だけ顔を出す花火と、ときおり高く打ち上げられて、山影のうえ高く闇夜に浮かぶ小さな花々を眺める。打ち上げの音がここまで小さく響いてくる。

たたずまいを崩さずに、団扇をあおりながらいつまでも花火を見ている婦人の後ろ姿を見て、彼女ならこの花火がどこの花火か知っているかもしれないと思った。しかし、行き交う人に気軽に挨拶することさえ憚られる哀れな人間関係の日本では、見ず知らずの婦人に声を掛けるのも気後れし、尋ねても気まずい思いがするだけかもしれない。それでも、自転車を乗り直して再び坂を降りがけに、
「奥さん、どこの花火かご存じですか」と訊いて見た。
「ええ、琵琶湖の花火大会です。おおきに。」と言って応えてくれる。

家に帰り着きテレビを見ると、ちょうど菅直人首相が広島原爆の第65回記念式典で挨拶する姿が映っていた。

 

 

 

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