作雨作晴


日々の記憶..... 哲学研究者、赤尾秀一の日記。

 

個別・特殊・普遍の論理③

2007年03月27日 | 哲学一般

個別・特殊・普遍の論理③

概念論の研究

この個別と特殊と普遍の論理は、すべての事物の根本的な原理でもあるから、当然に思想や精神の原理でもある。精神においては、その普遍の契機として、モメントとしては絶対的な精神が、天地の創造者として、父なる神として前提されている。この絶対的精神は、主体的な絶対的な威力でもある。

しかし、この絶対的な精神としての普遍も自己の分身としての子を、キリスト・イエスを産み出す。そしてこの特殊の契機において、自然は有限的な精神すなわち人間と対立的に分裂する。そして、子なるキリスト・イエスは死の痛苦の中に絶命する。こうして、普遍は特殊へと進展するが、それは普遍が自己を原始分割(UR-TEIL)することであり、それは日本語には現われてはいないが、判断をすることでもある。それは事物が分裂することによって、自己の本質を明らかにする判断の過程でもある。

絶対的な精神は、この原始分割(UR-TEIL)を通じて自己の本質を現象させ、自己の姿をみずからの子の姿の中に顕かにする。そして、苦痛の中に死に至るという子の絶対的な自己否定を通じて、和解はなし遂げられる。この過程は、普遍―→特殊―→個別の推理をなし、客観的な歴史的な全体的な統一として、すでに世界において実現されている。

この普遍―→特殊―→個別の推理は、歴史的に実現された客観的な全体として、有限な個人においては、それを他者として、しかし、真理として直観されているものである。この精神の証を有限な精神(個人)が手に入れることを通じて、個人は自己の本性を悪として、虚しきものとして自覚するが、すでに、この普遍―→特殊―→個別の推理を通じて、世界に和解の実現されていることを確信しており、その直観を通じて、自己の永遠性を認識しようとする。ここでは個別は特殊を通じて普遍と結合されている。

また同様に、特殊は普遍を媒介として個別と結合される。また、個別は普遍と特殊をつなぐものでもある。

この個別は具体的で現実的なものであり、かつその永遠の存在が精神の理念であり、聖霊である。この事柄も日本語では表現されにくいが、ドイツ語では精神も聖霊も同じくGEISTであり、同一物の二側面である。

これらの推理の構造は、もちろん形式論理学では説明できないキリスト教の三位一体の教理を説明するものであるが、事実としては、ヘーゲルはキリスト教の研究を通じて、この論理を洞察したというべきだろう。

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タミフル問題と公務員制度

2007年03月25日 | ニュース・現実評論

タミフルと異常行動 厚労省、因果関係の否定を撤回 見解転換も(産経新聞) - goo ニュース

公務員制度改革 全体像を全閣僚に提示 渡辺行革相、27日決着目指す(産経新聞) - goo ニュース

渡辺行革相と自民が物別れ 新「人材バンク」案めぐり

中川政調会長、渡辺大臣の対応批判

正しい国家、よい国家を持ちうるかどうかは、国民の幸福に大きな影響を与える。だから、国民は自分たちの生きる国家が善き国家であるか、みずからの暮らす国家に不完全な点はないか、つねに検証を怠ってはならないだろうと思う。

その事例は世界の至るところで示されているといえる。たとえば朝鮮人民共和国、北朝鮮においても、その国民の多くが飢えや貧困や不自由や暴力に苦しめられているのではないだろうか。国民は耐えがたい苦しみを味わっているように思える。私たちには、曲りなりにも比較的に自由な社会に暮らしているので、不自由な独裁社会がどれほど息苦しいものであるか、想像力が豊かでないと実感しにくいのではないだろうか。

かっての共産主義国の旧東ドイツやスターリン統治下の旧ソ連などは今は国家としては崩壊してしまって存在しないけれども、当時のそれらの社会は収容所列島とか密告社会などと呼ばれて、その不自由な社会の世相が伝えられたものである。自由とは陽光や空気のようなもので、その貴重さは失ってはじめて気がつくようなものである。それは生命にもかかわる。

国家機構のゆがみのもたらす悲劇は、そうした事例によってもわかるが、この問題は何も過去や他国に見られるのみではない。わが国にも、国家行政の不完全や歪みから来る多くの悲喜劇の事例には事欠かないと思う。

たとえば、その災害の最大の悲劇は、先の太平洋戦争などがあると思う。多くの日本国民は、この戦争の悲劇を、わが国に毎秋に襲い来る台風のように、あたかも自然災害のように見なしているかもしれないが、これは明らかに国家機構の不完全さや歪みからもたらされた人災とみなすべきであると思う。

その他にも、新潟県や熊本県で生じた「水俣病」「イタイイタイ病」などの事件も国民に深刻な悲劇をもたらした。いわゆる高度経済成長期に発生した公害問題だが、政府や地方政府の行政はその悲劇の発生を防ぎきれなかった。また、厚生省が深くかかわった薬害問題などもある。古くはサリドマイド事件があったし、比較的に最近の事例としては、薬害エイズ問題などがあげられる。

そして、それらと同じような事件性や社会的背景の可能性が指摘されているのが、今回問題になっているタミフル問題である。本来インフルエンザ治療薬として開発されたタミフルという医薬品と、それを服用した青少年の転落死などとの因果関係が問題にされている。

今のところタミフル問題が明白な薬害問題とされるには至っていないにせよ、その因果関係が明らかにされて、また被害者たちが訴訟などに及ぶと、そこまで発展する可能性も否定できないのではないだろうか。

いずれにせよ、このような問題が生じる背景には、まず製薬会社、そしてそこで製造された医薬品を服用する一般国民、そして、医薬品の効果、安全を調査、監督しながら国民の生命と健康を保全する職務をになう政府、さらに直接的には、その担当官庁として厚生労働省とのかかわりがある。

政府の一機関としての厚生労働省は、国民の生命と健康の維持、保全に大きな使命をになう官庁である。そこで働く公務員たちにはそうした使命を果たす責任をになっている。

今回のような医薬品タミフルにかかわる報道を聞いて、まず思ったことは、なぜ日本にはこの医薬品の全世界の消費量の7割に達するほど大量に消費されているのだろうかという素朴な疑問である。なぜ、これほど特定の医薬品が消費され、また、インフルエンザの流行に備えてであれ、備蓄されているのだろうかという疑問である。

このタミフルは、スイスの製薬会社ロシュ社で製造販売され、その子会社である中外製薬によって輸入されているそうだ。いうまでもなく、いわゆる市民社会では、企業は自由な経済活動によって利益を追求する。現代の製薬事業には莫大な利益が予定されているとともに、その研究開発費用も膨大な額にのぼることもよく知られている。もちろん、そうした企業としての製薬会社がみずからの特殊利益を追求すること自体は問題ではない。すべての株式会社がそうなのだから。

問題は、国民の生命と健康の安全を確保するという使命をになっている国家機関としての政府、また担当官庁としての厚生労働省などの公務員が、きちんとその職責を果たしているのか、また、それを果たしうるような組織、機構となっているのかということである。

伝え聞く報道によれば、このタミフルの輸入先企業である中外製薬に、その監督官庁である厚生労働省のもと公務員が、就職しているという。もちろん、そのことをもって直ちに、国民の生命健康の安全を図るべき行政が、特定の企業の利害のために歪められるということが必然的に生じるわけではない。けれども、元厚生労働省の公務員が特定の企業と利害関係を持つことによって、消費者である国民と特殊な利益追求者である特定企業との間に、公正な審判者であるべき行政が歪められる可能性の増大することは明白である。

実はこのことこそが現在の日本の大きな問題なのである。私的利益の追及者である特定企業と、その一般消費者である国民との間で、果たして政治家や公務員が公正なルール作成者であり、管理監督者であり、かつ審判者でありえているのかという、民主社会ではあたりまえの前提が、残念なことに日本では大問題になのである。そして、公務員のいわゆる「天下り」などによって、その公正さが歪められている事実が、今日の公務員人事制度の本質的な問題になっているのである。

この国家や地方の公務員によって担われるべき行政の公正さが、いわゆる企業への天下りによって損なわれないようにしようというのが、いま渡辺喜美行政改革担当相が遂行しようとしている公務員制度改革である。

公務員の天下りを廃止することは、公務員による行政の公正さを担保する上で、明らかに必要な処置である。むしろ、これまでこうした問題を無責任に放置したままでいた政治家こそが問題にされるべきだろう。むしろ、さらに深い問題の本質は、政治家問題にこそあるといえるのではないだろうか。

国家全体のために、普遍的な利益と公正さを追求すべき政治家が、その職務をおろそかにして使命を果たさず、それどころか、職務を自己のための私的利益の実現の手段として利用したり、市民社会の特定企業の特殊的利益の追求のために働くことによって、本来公正な第三者の立場で行なわれるべき国家行政を歪め、普遍的な利益を大きく損なうことになっている。この現実こそが、現在の政治と公務員制度の問題となっているのではないだろうか。

厚生労働省出身者の製薬企業への再就職、国土交通省の公務員のいわゆるゼネコンといわれる土木建築企業への再就職によって、引き起こされる官製談合などの問題と今回のタミフル問題の本質は、根底の土壌を共通にしているように思われる。国民は、選挙や世論形成を通じて、政治家や公務員の監視を引き続き厳しくしてゆく必要がある。

 

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個別・特殊・普遍の論理②

2007年03月20日 | 哲学一般

概念論の研究

個別・特殊・普遍の論理②

また、ヘーゲルは国家もまた次の三つの推理からなる体系であるとして説明している。国家という概念もまた概念としての三つの契機から、すなわち個別性、特殊性、普遍性からなる。

まず、普遍者としての政府、法律、官僚など、および、個別者としては国家の構成分子である個人、家族。そして、個人の教養や能力などの特殊性に応じて形成される市民社会、の三者である。

国家という有機的な組織の概念が、個人(家族)―→市民社会―→国家へといたる論理的な進展として、また、個別――特殊――普遍の三つの推理からなる論理構造をもったものとして捉えられる。このような論理で国家を把握している点が、ヘーゲルの国家論を他の凡俗の国家学者の国家観と比較しても比類なく卓越したものにしている点であるだろう。要するに、ヘーゲル以外に、国家を生命体として、有機的な組織体として把握する論理を持たないのである。

そして、この三者の間で、それぞれが互いに中間の媒介項となって連結することによって、すなわち、国家――個人――市民社会と、市民社会――国家――個人と論理的には、三つの項からなる推理の三重性によって国家は自己を生産し、この生産によって自己を保存する。このようにして有機的な組織の論理構造を説明しえているところがヘーゲルの弁証法論理の優越している点であると思う。

単なる質と量の数学的な論理や悟性的な形式論理学では、生命の論理は捉えきれないのである。そして、この個別――特殊――普遍の推理とその三重性の論理は弁証法論理の核心として、ヘーゲルの論理学の体系もまた、この推理の三重性によって、それぞれ自己を止揚しながら、絶対的理念に向かって自己を展開してゆくことになる。

 

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いわゆる格差問題

2007年03月19日 | 政治・経済

日本の民主主義  ①いわゆる格差問題

ハイテクなどハードの面ではかなりの水準を実現できているようでも、公務員制度や教育や政治の仕組みとか、情報公開や文書管理など民主主義などのソフト面ではまだまだ後進国並みに不合理で非効率な無理無駄なところが多いと思われる日本。そうした日本の民主主義でとくに問題と思われる点や気づいたことなども記録してゆきたいと思います。

それにしても「民主主義」とはすでに手垢に塗れきった言葉で、だから、この言葉に込める思いは人それぞれ千差万別かもしれないけれど、それでも、やはり民主主義についての正しい概念の確立は決定的に重要だと思います。議論の中から正しい認識が生まれてくればと思います。

日本の社会で最近になって格差問題などがよく取り上げられます。
鉄鋼業や自動車産業など、一部の産業においては、強い国際競争力を発揮していますが、一方では、たとえば、半導体などではかっては圧倒的な国際的シェアを誇っていたのに、今では韓国や台湾などにその地位を奪われて見る影もない産業もあります。ただ、エルピーダが日本の半導体の業界の復活をかけて奮闘しているようですが。

しかし、携帯電話やNTTなどの通信情報産業のように、国際市場に出遅れ日本の国内市場のみに安住していたために、海外の企業に比較して国際競争力を失ってしまっているハイテク産業分野も少なくないようです。

これらの事実が意味しているのは、市場経済の中では、国境の垣根はきわめて低くなっており競争も厳しく、そこでは、今日どんなに隆盛を極めているように見える産業であっても、ひとたび自己満足に陥ったり慢心したりすれば、たちどころにその地位を失ってしまう厳しい現実のあることでしょう。

この事実が示しているように、今日のような市場経済が国際化した現状では、日本の労働者の賃金なども、中国、インドなどの新興諸国の労働者の低賃金と競争してゆかなければならず、また、企業も国際競争力を勝ち抜いてゆくために、人件費の削減なども余儀なくされる場合も多いということでしょう。その結果として、労働者、勤労者の実質賃金が低下し、その結果として、労働者や勤労者間においても、賃金格差が広がってゆくことになっている。この所得格差が、さらに生活格差、教育格差その他に連なってゆく。これがいわゆる格差問題の背景なのでしょう。

したがって、今日の市場経済下では、アダムスミスの自由放任論にしたがって、なんらの政策的な配慮を行なわなければ、「持てる者と持たざる者」との間の格差はますます広がってゆくのでしょう。だから、産業政策や納税政策の運用によって、この自然発生的な格差拡大に何とか歯止めをかけることは、政治的にも必要なことなのでしょう。

何よりも、格差が固定化されることによって、貧困が受け継がれて経済的な階層や階級が固定化することになれば、希望を失った者の犯罪や腐敗が蔓延する社会になりかねません。そのためには、何よりも技術革新による生産性の向上によって、国際競争力を維持してゆくべきであって、経営者には労働者の低賃金に頼るといった発想を転換してゆく意識が必要だと思います。

しかし、それにしてもここで混同されるべきではないと思われるのは、一般論としては、「格差」の生じるのは、それ自体としては「悪ではない」ということだと思います。なぜ、こんなことをあらためて言うのかというと、かって共産主義の夢がまだ見られていた時代に、いわゆる「資本主義」が、一種の道徳的な批判のスローガンとして叫ばれたことがあったからです。

それと同じように、今日では「格差」が、道徳的な批判感情の尺度として叫ばれている傾向が生まれつつあるように思われます。「格差を無くせ」ということが、悪くすると、先のトヨタ自動車の元会長の奥田碩氏の語ったように「嫉妬と羨望の経済」となって、お互いの足の引っ張り合いの経済になりかねません。個人の働きや努力や勤勉の結果として能力に差異が生じ、その結果として経済的にも格差が生まれるのは当然でしょう。そうでなければ「悪平等」になってしまいます。いわゆる社会主義諸国が崩壊したのも、彼らの平等が、嫉妬の平等であり、それが結局は貧乏の平等になって、社会も経済も崩壊してしまったのだと思います。

だから、格差自体は決して「悪」ではない。大切なことはその格差を地位や身分として世代に相続されたり固定化させないことでしょう。教育や職業訓練における機会平等や、相続税制などを通じての所得の再配分を通じて、階級間や階層間の流動化をはかることのできるように対策を講じてゆく必要があります。そうした社会では、たとえ社会の内部に一定の格差が存在したとしても、国民の間に正義や道徳の感情は損なわれることなく、生き生きとした明るい社会が実現できるのではないでしょうか。イギリスなどではすでに、この理想をかなり実現しえているようです。

 

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個別・特殊・普遍の論理 ①

2007年03月17日 | 哲学一般

概念論の研究

個別・特殊・普遍の論理 ①

ヘーゲルの概念論については、日本においてはもちろん、あるいは世界においてもほとんど研究されていないといってよいのではないだろうか。おそらくこの日本においても、ヘーゲルの概念論について研究しようと志すような「篤志家」はおそらく十指にも満たないのではあるまいか。

またマルクスなどが誤解したように、多くの唯物論者たちがヘーゲル哲学に難破して悲喜劇を演じるのは、とくに、ヘーゲルの概念論の理解において挫折しているためであると思われる。

私たちも決してヘーゲルの概念論を正しく捉えることができると自惚れるわけではなく、また、それにどのような意義があるのか、現在のところは分からない。エベレストの山塊の頂上からどのような景色を俯瞰できるのか、それは登攀して頂上を極めるまで分からないように、彼の概念論に果たしてどのような意味があるのか、あるいはないのか、それは登って見なければ分からない。さしあたっては、何かがあると信じて登るしかないのだ。

それはとにかく、個別と特殊と普遍は概念のもつ契機(モメント=要素)として捉えられている。この概念の契機としての、普遍、特殊、個別の正確な理解は、事物の発展の論理を捉える上で大切であると思う。

概念の持つ三要素としての個別、特殊、普遍についての説明については、論理学の「第三部の概念論」に詳細に論じられている。そこでは次のように説明されている。

有という場面における概念の進行は他者への移行であり、本質の進行は反省であるのにたいして、概念の進行は自己の発展(展開)として捉えられている。なぜなら、概念の進行は自己と同一性を保ちつつ自己を実現するものであり、その意味で自由なものであるから。

論理構造の全体から鳥瞰すれば、まず、概念は主観的概念から、すなわち、概念としての概念から始まり進展して、それは客観的な概念に移行(展開)する。そしてこの主観的概念が、客観的な概念に揚棄されて、絶対的な概念へと、すなわち絶対的な真理に至る。概念の進展の大きな骨格はこのようなものであるけれども、ヘーゲルはまず、概念としての概念、主観的な概念について、概念そのものとしては普遍性、特殊性、個別性の契機を含んでいるという。

この個別性はいうまでもなく現実のレベルの論理であるけれども、ただ問題は、ヘーゲルにおいては、この個別者が概念から出たものとされている点である。この点が、有から無への移行と同様に、唯物論者をはじめ、普通の意識やいわゆる一般常識には解しがたいのである。そして、このような論理はヘーゲルが観念論者のゆえの言説だとして簡単に片付けてしまって、この個別者を生み出す概念そのものが真剣に検討されることはほとんどなかった。

 

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詩篇第百二十八篇註解

2007年03月14日 | 宗教・文化

詩篇第百二十八篇

巡礼の歌

何という幸せか、主を畏れ、主の道を歩むものはすべて。
あなたがその両手で労した果実は、まさにあなた自身が食す。
あなたは幸せである。善き物に恵まれるだろうから。
あなたの妻は家の奥にあって、葡萄の木のように豊かな房を実らせる。
あなたの子供たちは、オリーブの若木のように、
あなたの食卓を囲む。
見よ、主を畏れるものは、まさにこのように祝福される。
シオンから主があなたを祝福されますように。
そして命あるかぎりエルサレムの恵みを見るように。
そして多くの子供たちや孫たちを見るように。

イスラエルの上に平安あれ。


詩篇第百二十八篇註解

この詩篇にも、「巡礼の歌」という標題が付せられている。エルサレムに祭りがあり、そこへ参る途上で人々が和しながら歌ったものと思われる。ある意味では私たちの生涯も巡礼のようなものである。
それは死へ向かう旅路であり、また私たちは天上のエルサレムに向かう旅人でもある。

キリスト・イエス自身は生涯妻を娶ることもなく独身であったし、また彼自身も独身生活を勧めもしたが、聖書には家庭の幸福を描いている個所は少なくない。この詩篇第128篇もそうである。短い詩の中に、このうえなき家庭の幸福を描いている。このような幸福な家庭像はまさに永遠の理想であって、時間や土地によって、時代や民族によって変化するものではない。どんなにフェミニストたちが、独身女性たちの身分を謳歌しようとも。

わが国でも妻のことを「奥さん」と呼び習わしているけれども、この聖書の詩篇の精神に見事に一致している。妻は、家の奥にあって、葡萄の木々のように豊かな房を実らせている。そして、食卓に連なっている子供たちは、一度もまだオリーブを搾り取られたことのない若木のように青々として幼い。

このような幸福な家庭を手にすることのできるのは誰か。
それは主を畏れ、主の道を歩む者である。彼はこのような家庭に恵まれるという。幸福な家庭を手に入れたものは、すでにこの世にいながらにして半ば、すでに天上にあるようなものである。それほどに幸福な家庭は貴重である。

人は誰も二人の主人に仕えることができないように、幸福な家庭にも主人は一人しかいない。わが国では妻は夫のことを主人と呼ぶが、これも聖書の精神に適っていると思う。しかしそれは厳密には正しくはない。なぜなら、どのような家庭にあっても真の主人はただ一人、それはキリスト・イエスのみだからである。

現代の日本の家庭の多くが、離婚や崩壊に面しているとすれば、それぞれの家庭が、この唯一の主人を抱かず、妻と夫が主人の地位を争うような誤った家庭観に囚われてしまっているからではないだろうか。

 

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日本人はすでに究極の自由主義を実現したか

2007年03月05日 | 宗教・文化

以前に私のブログに書いた『公明党の民主主義』という記事にコメントをいただきました。そこでは日本の自由と民主主義のかかえる弱点を論じようとしたものですが、それに対して、あきとしさんという方から、日本ではすでに信教の自由をふくめて究極の自由を実現しているのではないかというコメントがありました。こうした問題について、ふだんから興味をもっておられる方は他にもおられるだろうと思い、いただいたコメントの返事を、新たに記事の形でも投稿することにしました。読者の皆さんの意見なども聞かせていただければ幸いです。コメントをいただいた、あきとしさんご本人のアドレスが分からないので、承認はとっていません。記事は次のリンクにあります。お目通しいただければ幸いです。

『公明党の民主主義』

あきとしさん、コメントありがとう。返事が遅くなり申し訳ありません。ブログを見なかったり、コメントに気がつかなかったりして、返事が遅くなることがあります。ただ、エチケットとして必要とされる返事はするつもりですので、こりずに覗いてみてください。あなたのアドレスがわからないので、少し長くなるかもしれませんが、ここに現在の私の考えを書いておこうと思います。

あなたのお考えの趣旨は、「わが国は多神教であって、すでにそれぞれの宗教は矛盾を解消してしまっているから、宗教改革の必要はない、日本はすでに究極の自由主義を実現している」ということだと思います。
あなたの考えの内容は、

①わが国は多神教で、それぞれの宗教の間の矛盾は解消している。
②日本は究極の自由主義を実現している。

の二つ命題として取り出すことができると思います。

それに対し、私がこの『公明党の民主主義』の記事で問題にしたかったことは、公明党の斎藤鉄夫政調会長をふくめて日本国民の「自由」についての「意識」の実際の内容はどのようなものかということでした。そして、一応の結論として見出したのは、公明党の斎藤鉄夫政調会長に典型的にみられるように、日本人の「自由」の意識は、(もし欧米の自由の意識が、出自の本場で、もし、それが普遍的なものであるとすると)、全く違うものになっているというのが、考察の結論でした。ですから、私の結論からは、あきとしさんが仰るような「日本は究極の自由主義を実現している」という見解には同意できないことになります。

その理由としては、次のようなことが言えると思うからです。

まず日本人の「自由」の意識には、キリスト教を信仰することによってもたらされる本来の自由の感覚と意識があるのだろうかという問題です。日本人一般には、キリスト教が本来持つ、神の戒律と人間の原罪との間の根本矛盾の自覚はそれほど鮮明ではないと思います。ですから、その根本矛盾の解消ということから生まれる自由の側面が、日本人の「自由」の意識の中にはないように思います。これは善悪の問題なのではなく、事実としてそうだと思います。

そもそも日本には自由の意識の本来の母胎であると考えられるキリスト教世界を伝統として持っていませんでした。したがって、欧米のキリスト教世界が必然的に到達したのと同じ自由の意識に達するための必然的な背景を日本人は持っていないといえるわけです。ですから日本国民の「自由」についての意識は、この自由の概念の出生地である欧米の本来の自由の意識にくらべれば、そして、西洋人の自由観が普遍的なものであるとすれば、日本人の「自由観」は本来の普遍的な自由の概念に一致していない特殊なものではないか、もっとはっきり言えばゆがんだものではないかということに注意を喚起しようとしたものです。

さらに、日本の多神教の問題ですが、確かに、日本には伝統的に多くの宗教が並存し、民族として、とくに支配的な宗教はもたないのかもしれません。仏教や民族宗教としての神道、それに、擬似宗教としての儒教などがあるかもしれません。そして、近世になって、キリスト教も入って来ました。

日本人の宗教が多神教であり、キリスト教などの一神教とは異なるとは、よく言われますが、私にはまだ多神教と一神教の概念の正確な識別ができません。だから、日本人の宗教意識においては、神々の間の矛盾は克服してしまっているというあなたの考えについて、今のところ、私の考えを述べることはできません。ただ本来の多神教とは、一つの宗教体系の内部に、絶対的な神が存在せず、神々が相対的に存在するような宗教だと思います。ですから、日本人は多くの宗教体系を並存させている多宗教の民族であるとは思いますが、多神教の民族であるのかどうか今のところよくわからないのです。

また、多神教の伝統の世界には、絶対的な人格神は存在しません。それは、神が人間としてのイエスに受肉されて私たちに現われたというキリスト教の独自の存在だと思います。ですから、非キリスト教世界に、人格と人格が対峙する経験はないと思います。そして、プロテスタントの宗教改革とは、直接に「人格」と人格が対峙することが認められることであり、その間に救いの絶対的な要件として教会などの仲介者の存在を必ずしも必要としないことを証明したことであると思います。

本来宗教を信じることによってもたらされる自由を、どの宗教を信じるかの「自由」として、あなたが捉えておられるところにも、あなたの「自由観」が現われていると思います。しかし、それは単なる思想的な、宗教的な無節操とどう違うのでしょうか。そんな疑問をもちました。


自由の問題や、多神教、一神教の問題については、まだ勉強中ですので、今のところ、これぐらいの事しか考えられませんが、ただ、あなたの仰るように、「日本人は、究極の自由主義を実現し、また諸宗教の矛盾を解消してしまっている」などとは、とうてい言えないようには思います。

欧米人の自由観については、以前も一度取り上げたことがありました。参考にしていただければと思います。

 
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桃の節句

2007年03月03日 | 日記・紀行

桃の節句

今日は桃の節句。女の子の節句。大和撫子たちの健やかな幸せを祈る日。

春の苑  くれなゐにほふ  桃の花  
  した照る道に  出で立つをとめ

               大伴家持

久しぶりにテレサ・テンの歌謡曲をアルバムで聴く。この歌姫が亡くなってもうどれくらいの歳月が過ぎたことだろう。若くして突然の不可解な死を遂げた背景に政治的な因縁があったのかなかったのか、今となっては神のみの知る昔のことになってしまった。はたして単純な事故死だったのか。時間はすべてを忘却の彼方に追いやる大河のようである。

代表曲は、やはり「時の流れに身をまかせ」か。「別れの予感」など彼女らしさがもっとも良く出ていると思うけれども。こんな曲も彼女の肉声で聴くことはもうできない。すでに忘れられつつある曲になっている。世代の交代はやむをえない。今の若い人には知らない人もいるかもしれない。

    テレサ・テン「別れの予感」

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城南宮の梅

2007年03月01日 | 日記・紀行

城南宮の梅

学生時代の頃から数え切れないくらいに、この神宮の前は何度も通過しているはずだけれども、興味も関心もなかったのか、これまで一度も境内の中に入ったことがなかった。

たとえ、どんなに眼前に据えられても、それに興味がなかったり、問題意識がなければ、その人間にとっては存在しないに等しい。それなのに最近になって神社や庭や梅にいくらかでも関心を寄せるようになったというのも、それだけ私も齢を重ねたということかもしれない。

この間から、城南宮の梅が見頃になっていると聞いていたので少し気にはなっていた。寒かったり雨が降ったりしたのに、たまたま今日は比較的に暖かく晴れてもいたので、思い切って訪ねてみることにした。命の残された時間にどんなに見たとしても、指折り数えることができるほどしかない。一年に一度しか咲かないから。

久我橋を通って桂川を渡る。そうして国道一号線を渡ってすぐのところに城南宮はある。今となってはまったく市街地の真中に位置している。

城南宮が創建されたのは、奈良から平安京に遷都された折だから、在原業平や藤原高子の生きた時代である。同じ時代に洛西には、藤原氏の一族の氏神春日大社が分祀され、大原野神社として建立されている。城南宮は平安京の南の地に、国土守護の神社として創建された。

鴨川と桂川が交差しているこのもっとも風光明媚な地に、白河上皇は光源氏の大邸宅、六条院を模して、鳥羽離宮と城南離宮を壮大に造営したという。上皇はそこで舟遊びや競馬、歌会などを催して華麗な王朝文化を花開かせた。城南宮は方除けの大社だから、紫式部や更級日記の菅原孝標の娘なども方違(かたたがえ)などの安全祈願に来たこともあるにちがいない。

この神社の縁起によれば、承久三年(1221年)に後鳥羽上皇は、この離宮に流鏑馬と偽って武士を集め、承久の乱を起こした。さらに慶応四年(1868年)には薩摩藩がこの神社に陣を構え、幕府に大砲を放って、鳥羽・伏見の戦いを始め戊辰戦争の緒が開かれたという。そんな歴史の舞台も、今はもうもちろんその面影はない。

よく晴れた空の下に、神社は明るい日差しを受けていた。この神社も今となれば全く市街地の真中にある。鳥居をくぐり、本殿を拝してのち、順路の標識にしたがって庭を巡る。平日で混んではいなかったけれど、そこそこの花見客、参拝客はあった。

果たして確かに梅の花は盛りで見頃だった。花の一番きれいなときに出くわすのは難しい。ただ花の香りは期待したようにはなかった。かって、この地がこの上なく美しかったときの、山紫水明の面影は、境内のいくつかの庭の中のせせらぎや築山に、その片鱗がかろうじて残されているにすぎない。

今を盛りと咲いているのは梅だけだけれど、庭内にはさまざまな植物が植えられてあるらしい。草木の植わっているらしいところに標識が立てられ、植物の名前と、それにゆかりの源氏物語の一節や和歌が書かれてある。何回かこの庭を訪れれば、日本の古典にゆかりの深い古来の植物にも詳しくなるかもしれない。禊の小川をまたいで、梅が花盛りの春の山の前で何枚か写真をとる。

「平安の庭」の前には春の七草も植わっていた。芹の一茎を摘んで、香りをかいでみる。どんなに小さな川の流れでも、水は心を憩わせる。確か詩篇のなかにもダビデが水際に憩う歌があった。

狭い日本だから庭もささやかなものであるのはやむをえない。まして、市街地に何百ヘクタールもの広大な庭を望めないのは仕方がない。いったん神苑を出て通りを横切って、城南離宮の庭から、室町の庭、さらに桃山の庭とそれぞれの時代の特徴を帯びた庭を眺める。室町の庭の前には抹茶を振舞う社屋があり、池には緋鯉が泳いでいた。その前に紅白梅がきれいに咲いていたので、それも写真に収める。

そんなに広くはない庭園内に実にさまざまな植物が植えられている。今は梅か桃しか眺めることができない。もちろん、桜はまだだ。しかし、藤棚はあったし、カキツバタの池もあった。女郎花を詠った紫式部の和歌を記した標識もあったから、秋になれば、萩や桔梗や女郎花も紅葉と一緒に見られるのだろう。桜かツツジか藤かカキツバタの頃に、もう一度来て見るのもいいと思った。紫式部の天才は実に多くの植物を題材に歌を詠んでいるのに感心した。ふたたび帰り来ぬ時の記憶のために。

 

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