作雨作晴


日々の記憶..... 哲学研究者、赤尾秀一の日記。

 

ヘーゲル『哲学入門』序論についての説明 十三〔決断について〕

2019年11月27日 | 哲学一般

 

§13

Zuerst ist das Ich das rein(※1) unbestimmte. Es kann aber durch seine Reflexion von der Unbestimmtheit übergehen zur Be­stimmtheit, z. B. zum Sehen, Hören u. s. f. In dieser Bestimmt­heit ist es sich *ungleich* geworden, aber es ist zugleich in seiner Unbestimmtheit geblieben, d. h. es kann, indem es sich in sie begibt, wieder zurückkehren in sich selbst.

§13〔決断について〕

まず、「私」は全くに規定されないものである。しかし、「私」はその無規定性について自ら反省することによって規定性へと、たとえば、見ること、聴くこと、等々へと移行してゆくことができる。この規定性において「私」は自己と不同のものとなる。しかし同時に、「私」は自己の無規定性にもとどまっている。すなわち、「私」は自己を規定しながらも、再び自己自身(の無規定)の中へと戻ることもできる。

Hierher gehört auch das Entschließen, denn es geht ihm die Reflexion vorher und besteht darin, dass ich mehrere Bestimmtheiten vor mir habe, in unbestimmter Menge, welche aber doch wenigstens diese zwei sein müssen, nämlich irgend eine Bestimmung von etwas oder auch dieses nicht.

ここにまた決断がある。なぜなら反省は決断に先行するし、次のことのうちに決断は存在するからである。私の前にさまざまな規定性を、「私」は規定されない総体のうちにもっているが、しかし、そこには、少なくとも規定された二つのものがなければならない。すなわち、あることについて何らかの決定をするか、あるいは、また、この決定をしないか。

Der Entschluss hebt die Reflexion, das Her­über- und Hinübergehen von einem zum andern, auf, macht eine Bestimmtheit fest und macht sie zur seinigen. Die Grund­bedingung des *Beschließens,* der Möglichkeit, sich zu entschlie­ßen oder vor dem Handeln zu reflektieren, ist die absolute Un­bestimmtheit des Ich.(※2)

決断とは、一つのことから他のことへ、あっち行ったり、こっちへ行ったりする反省を止揚することであり、一つの決定を確かなものとすることであり、それを自らのものとすることである。決断の根本条件、自らを決定する能力の根本条件、あるいは行為の前に反省する能力の根本条件とは、「私(自我)」の絶対的な無規定性である。

 

(※1)

rein

adjective: ピュア, 純粋な, 純正, 純然たる, 真, 清い, 清浄, 清らか, 生粋, 潔い, 生, 健気
noun: 真正

(※2)

ヘーゲル弁証法の「あれもこれも」を浅薄にしか理解し得なかった実存主義の創始者キルケゴールやサルトルなどは、それを批判し「あれかこれか」を主張して、投企や決断の個人の主体性を強調した。しかし、この第13節に見るように、ヘーゲルのいわゆる「決断Bescliessen」⎯⎯が個人の主体性を知らなかったわけではない。むしろ、ヘーゲルの「あれもこれも」が「私」の無規定性を媒介にしているがゆえに、個人の投企や決断が客観性、科学性の根拠をもちうるものとなった。この点において実存主義者たちの恣意的で悟性的な単なる主観性に終始した投企や決断よりも高いものである。

 

ヘーゲル『哲学入門』序論についての説明 十三〔決断について〕 - 夕暮れのフクロウ https://is.gd/Ri5u3Z

 

 

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ヘーゲル『哲学入門』序論についての説明 十二〔反省について2(絶対的な反省)〕

2019年11月18日 | 哲学一般

§12

Diese so eben beschriebene Reflexion ist jedoch eigentlich eine nur relative. Sie geht zwar über etwas Endliches hinaus, kommt aber immer wieder zu etwas Endlichem; z. B. wenn wir über einen Ort im Raum hinausgehen, so stellt sich uns ein anderer größerer vor, aber es ist immer ein begrenzter Raum oder Ort und so geht es fort bis ins Unendliche. Eben so wenn wir über die gegenwärtige Zeit in die vergangene zurückgehen, so kön­nen wir uns eine Periode von zehn- oder auch von dreißigtau­send Jahren vorstellen.

 

§12 〔反省について2(絶対的な反省)〕

まさにそのように説明されたこの反省は、しかしながら、本質的には一個の単なる/相対的な/反省である。それは確かに有限なものを乗り越えてゆくけれど、しかし、いつも再び有限なものへと帰ってくる。たとえば、もし私たちが空間の中の一つの場所を乗り越えていったとしても、さらにより大きな他の場所が私たちの前に立ち現れる。しかし、いつもそれは一つの限られた空間であり場所である。そして、それを無限に繰り返してゆく。そのように、まさに私たちがもし現在の時間を超えて過去の時間へ戻ってゆくとしても、そこで私たちは、千年も、あるいは三千年もの期間を思い浮かべることになる。

Solche Reflexion geht nun zwar aus einem bestimmten Punkt im Raum, in der Zeit zu einem ande­ren fort, aber aus dem Raum oder aus der Zeit selbst kommt sie nicht heraus. So ist es auch der Fall in der praktisch-relativen Reflexion. Sie verlässt eine unmittelbare Neigung, Begierde oder Trieb und geht zu einem anderen Trieb, Begierde oder Neigung, verlässt auch diese wieder u. s. f. Insofern sie relativ ist, fällt sie nur immer wieder in einen Trieb, treibt sich nur in Begierden herum und erhebt sich nicht über diese ganze Sphäre der Triebe.

なるほど、このような反省は、空間の中の、また時間の中の一つの限定された点から、他の点へと進んではゆくけれども、しかし、空間そのものから、あるいは時間そのものを超えてはゆかない。そのことは、実際の相対的な反省の場合もまた同じである。それらは、一つの直接的な性向、欲望、あるいは衝動を捨て去るが、また別の衝動、欲望あるいは性向に向かい、また再び、これらを捨て去る等々。それらが相対的であるかぎり、それはただいつも再びもう一つの衝動に陥り、あちこち欲望を追い回して、そして衝動の全領域からは抜け出ることはない。

Die praktische absolute Reflexion aber erhebt sich über diese ganze Sphäre des Endlichen oder verlässt die Sphäre des niede­ren Begehrungsvermögens, worin der Mensch durch die Natur bestimmt ist und vom Äußeren abhängt. Endlichkeit besteht überhaupt darin, dass etwas eine Grenze hat, d. h. dass hier sein Nichtsein gesetzt ist oder dass es hier aufhört, dass es sich hier­mit also auf etwas Anderes bezieht. Die unendliche Reflexion aber besteht darin, dass ich mich nicht mehr auf etwas Anderes, sondern auf mich selbst beziehe oder mir selbst Gegenstand bin. Diese reine Beziehung auf mich selbst ist das Ich, die Wurzel des unendlichen Wesens selbst. Es ist die völlige Abstraktion von Allem, was endlich ist.

実際の/絶対的な/反省は、しかし、有限なこの全領域を抜け出て、あるいは人間が自然を通して規定され、そして外部に依存しているような低い欲求能力の領域を捨て去る。有限とは一般に限界のあるもののうちに存在している。すなわち、/ここにあるものの非有/が定立されること、あるいは、あるものがここで終わること、そのように、あるものが他の何ものかにここで関係すること、である。しかし/無限の/反省は、私が自己自身をさらに他のあるものに関係させるのではなく、そうではなく自己自身と関係すること、あるいは、私にとって自己が対象となるということにある。自己自身とのこの/純粋な/関係が、無限の存在そのものの根源である/私/である。/私/とは、有限なるものすべてを完全に捨象するものである。

 

Das Ich als solches hat keinen durch die Natur gegebenen oder unmittelbaren Inhalt, sondern hat nur sich selbst zum Inhalt. Diese reine Form ist sich zugleich ihr In­halt. Jeder von der Natur gegebene Inhalt ist 1) etwas Be­schränktes : das Ich aber ist unbeschränkt; 2) ist der Inhalt der Natur unmittelbar: das reine Ich aber hat keinen unmittelbaren Inhalt, weil es nur ist vermittelst der Abstraktion von allem Andern.

かかるものとしての私は、自然から与えられた内容も、また直接的な内容も持たず、むしろ、ただ自己自身を内容として持っている。/この純粋な形式は、それ自身同時にその内容である/。自然から与えられた内容はいずれも、1)限界のあるものである。:私はしかし無限である;。2)自然の内容は直接的である。:純粋な私はしかし、直接的な内容を持たない。なぜなら、他のものの全てについて捨象することを介してのみ私はあるからである。

 

 ※

「私」(自我)の分析を通して、無限を発見したこと、そして、自然と人間(精神)の差異を有限と無限との差異の中に認めたこと、そして、無限を絶対として認識したこと、芸術、宗教、哲学の領域を絶対的な精神として捉えたこと、これらがヘーゲル哲学の大きな功績である。その詳細な展開については、もちろん彼の哲学体系そのものを検証しなければならない。いずれにしても、ヘーゲル哲学が「私=自我」の徹底した検証(汝自身を知れ)に由来することはここにも認められる。

 ※

読み返してみて、訳出に不正確な点が多々みられるようなので、時を置いてさらに稿をあらためてゆきたい。

 

ヘーゲル『哲学入門』序論についての説明 十二〔反省について2(絶対的な反省)〕

 

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ヘーゲル『哲学入門』序論についての説明 十一〔反省について1(相対的な反省)〕

2019年11月12日 | 哲学一般

 

§11

Allein der Mensch kann als denkender auf seine Triebe, die an sich für ihn Notwendigkeit haben, reflektieren(※1). Reflexion heißt überhaupt Abkürzung vom Unmittelbaren. Die Reflexion des Lichts besteht darin, dass seine Strahlen, die für sich in gerader Linie sich fortpflanzen würden, von dieser Richtung abgelenkt werden. — Der Geist hat Reflexion. Er ist nicht an das Unmittel­bare gebunden, sondern vermag darüber zu etwas Anderem hinauszugehen; z. B. von einer Begebenheit zur Vorstellung ihrer Folge oder einer ähnlichen Begebenheit oder auch ihrer Ursache. Indem der Geist auf etwas Unmittelbares hinausgeht, hat er dasselbe von sich entfernt.


§11〔反省について1(相対的な反省)〕

思考する者として人間のみが、人間にとって本来的に必然的なものとしてもっているところの衝動を/反省する/ことができる。反省とは一般的に直接的なものを省略することをいう。光の反射とは、 自ずから直線で伝えられる光線が、その方向を屈折することである。⎯ 精神は反省(Die Reflexion)をもつ。精神は直接的なものに縛られない。むしろ、直接的なものを超えて何か他の或るものに向かってゆくことができる。例えば、ある出来事からその結果を思い浮かべたり、あるいはそれと似たような出来事を考えたり、あるいはまたその原因を考えたりするなど。精神が直接的な或るものを超えてゆくかぎり、精神はその直接的なものを自己から切り離してもつ。

Er hat sich in sich reflektiert. Er *ist in sich gegangen.*(※2) Er hat das Unmittelbare, insofern er ihm ein Anderes entgegensetzt, als ein Beschränktes erkannt. Es ist daher ein sehr großer Unterschied, ob man etwas bloß *ist* oder *hat,* oder ob man auch *weiß,* dass man dies ist oder hat; z. B. Un­wissenheit oder Rohheit der Gesinnungen oder des Betragens, sind Beschränkungen, die man haben kann, ohne zu wissen, dass man sie hat. Insofern man darauf reflektiert oder von ihnen weiß, muss man von ihrem Gegenteil wissen. Die Reflexion auf sie ist schon ein erster Schritt über sie hinaus.

精神は自己の中に自己を反映する。精神は/自己の内を進んでゆく/。精神は、直接的なものに一つの他者を対立させるかぎりにおいて、その直接的なものを一つの限界のあるものとして知る。したがって、人がただ或るもので/ある/にすぎないのか、あるいは或るものを/もっている/のか、ということと、あるいはまた、人が或るものであり、あるいは、或るものをもっていることを/知っている/ということの間には非常に大きな違いがある。たとえば、感受性や行為における無知や粗野は、もし人がそれらをもっていることを知らないのであれば、それはその人のもつ限界である。人がそのことを反省するか、あるいはそのことを知っているかぎりは、人はそれらの反対についても知っているに違いない。限界について反省することは、すでに、その限界を乗り越える第一歩である。

Die Triebe als natürliche Bestimmungen sind Beschränkungen(※3). Durch die Reflexion auf sie fängt der Mensch überhaupt an, über sie hinauszugehen. Die erste Reflexion betrifft hier die *Mittel,* ob sie dem Triebe angemessen sind, ob der Trieb dadurch befriedigt wird; ferner ob auch die Mittel nicht zu wichtig sind, um sie für diesen Trieb aufzuopfern.

自然的な性癖としての衝動は限界である。衝動について反省することを通して、人間は一般にその衝動を乗り越え始める。初めの反省は、ここではその/手段/が衝動に適したものかどうか、その手段によって衝動が満足させられるかどうかに係わってくる。さらにはまた、その手段はこの衝動のために使うには、あまりにもったいなくはないか、など考えはじめる。

Die Reflexion vergleicht die verschiedenen Triebe und ihre Zwecke mit dem *Grundzweck* des Wesens(※4). Die Zwecke der be­sonderen Triebe sind beschränkt, tragen aber, jeder in seiner Art, dazu bei, dass der Grundzweck erreicht wird. Diesem ist jedoch der eine näher verwandt als der andere. Die Reflexion hat also die Triebe zu vergleichen, ob sie mit dem Grundzweck verwandt sind und derselbe durch ihre Befriedigung mehr be­fördert wird. In der Reflexion fängt der Übergang an von dem niedrigen Begehrungsvermögen zum höheren. Der Mensch ist darin nicht mehr bloßes Naturwesen oder steht nicht mehr in der Sphäre der Notwendigkeit. Notwendig ist etwas, insofern nur dies und nicht etwas Anderes geschehen kann. Vor der Re­flexion steht nicht nur der eine unmittelbare Gegenstand, son­dern auch ein anderer oder sein Gegenteil.

反省は、あれやこれやの衝動やその目的を、存在の/根本目的/と比較してみる。特殊な衝動の目的は制限されてはいるが、しかし、それぞれはそのことで、さまざまな仕方で根本目的を達成してゆくことを担っている。もっとも、この根本目的には、ある衝動は他のものよりも深く関係している。反省はそれゆえに、衝動が根本目的にかかわりがあるかどうか、そしてその衝動の充足を通して、さらにもっと根本目的が促進されるかどうか、を比較しなければならない。反省の中において、低い欲求能力からより高い欲求能力への移行が始まる。人間はこの点において、もはや単なる自然的な存在ではなく、あるいは、もはや必然性の領域にはとどまらない。ただ、あることだけが起きて、他のことが起きえないかぎり、そのことは必然的である。反省の前には、ただ直接的な対象のみが存在するのではなく、むしろ、また別の対象が、あるいは、それとは反対のものが存在しているのである。

 

(※1)
Die Reflexion
反射、反映、反省
reflektieren
反射する、 映す、 省みる、写す
 Der Geist hat Reflexion. 精神は反省(Die Reflexion)をもつ。

精神が反省するのは、意識が自己内分裂を遂げているからである。人間の意識が自己内分裂を遂げ、二つに別れることによって、相互に映し合うようになり、自己を自己に関係させ、自己を意識し自我をもつようになる。
「意識の自己内分裂」の意義については、以下の個所などにおいても繰り返し述べられている。
第一教程、第二章 義務と道徳 第四十一節[自己に対する義務]
     第二章 義務と道徳 第六十一節[他者への誠実]
第二教程 第一篇  精神の現象学、あるいは、意識の学


(※2)
Er hat sich in sich reflektiert. Er  ist in sich gegangen.
精神は自己の中に自己を反映する。精神は自己の内へ進んでゆく。

(※3)
Die Triebe als natürliche Bestimmungen sind Beschränkungen.
自然的な性向としての衝動は制限である。
意志を衝動に従属させることは、自由ではなくて、制限されることであり不自由である。

(※4)
Die Reflexion vergleicht die verschiedenen Triebe und ihre Zwecke mit dem Grundzweck  des Wesens
反省は、あれやこれやの衝動とその目的を、存在の根本目的と比較してみる。
「存在の根本目的」とは要するに理念のことである。真、善、美など、国家、芸術、法などの理性的な性格をもつもので、自然的な欲望、衝動よりも「高い」とされるものである。

参照

 ヘーゲル『哲学入門』序論 五[衝動と反省]

 

ヘーゲル『哲学入門』序論についての説明 十一〔反省について1(相対的な反省)〕 - 夕暮れのフクロウ https://is.gd/E74dxo

 

 

 

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五つのソラ

2019年11月11日 | 宗教・文化

五つのソラ

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五つのソラ英語:five solae、ラテン語:cinque solas[要出典])、プロテスタント宗教改革と改革神学者たちの神学を要約したラテン語の語句である。「ソラ」は「〜のみ」を意味する語である。

目次

聖書のみ

ソラ・スクリプトゥラ (Sola scriptura) は「聖書のみ」という意味である。ルターシュマルカルデン信条において「神のことばが、教会の教えと信仰告白を確立する。それは天使であっても覆すことができない」と主張した。ルターは、教皇教会会議も最終的な権威ではなく、教会におけるすべての権威の上に聖書の権威を置き、聖書の権威に服すべきであると主張したのである[1]。そして、カルヴァンはルター以上に強調した[2]。それに対して、カトリックでは聖書が神のことばであることを認めつつも、聖書が唯一の権威であることには同意しなかった。

信仰のみ

ソラ・フィデ (Sola fide)は「信仰のみ」という意味で、信仰義認とも呼ばれる[3]。ルターは九月訳聖書とも呼ばれる『ドイツ語新約聖書』の「ローマ人への手紙」3章28節の訳語に「のみ」を付け加え、「信仰のみによる」と訳した。これが、ルターの宗教改革の中心的教理である信仰義認のテーマになった。

恵みのみ

ソラ・グラティア (Sola gratia) は「恵みのみ」という意味である。「恵みのみ」の原則は、カトリック教会によって、激しく攻撃された。なぜなら、それは倫理を破壊して無秩序と混乱を生む考えであるという理由であった[4]

キリストのみ

ソルス・クリストゥス (Solus Christus) は「キリストのみ」という意味である。ルターは義認において、救いの確信は人の内側にあるのではなく、キリストのみにあると説いた[5]

神の栄光のみ

ソリ・デオ・グロリア (Soli Deo gloria) は「神の栄光のみ(神にのみ栄光を)」という意味である。

脚注

  1. ^ カール・ヴィスロフ著『ルターとカルヴァン』p.66
  2. ^ 『ルターとカルヴァン』p.160
  3. ^ 『ドイツ宗教改革史研究』p68
  4. ^ 『ルターとカルヴァン』p.166
  5. ^ 『ルターとカルヴァン』p.38

参考文献

 
 
 
※  出典(20180713)
五つのソラ - Wikipedia https://is.gd/3z9RI0
 
 
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涼風秋ノ如シ

2019年11月05日 | 西行考

涼風如秋(涼風秋ノ如シ)

240
まだきより  身にしむ風の けしきかな  秋先立つる  み山辺の里

まだその時期も来ないのに、吹く風が身にしみて来る様です。
都に先立って秋も訪れてきます、山のほとりにあるこの里には。

松風如秋(松風秋ノ如シ)といふことを、北白川なる所にて人々よみて、また水声有秋といふことをかさねけるに
241
松風の  音のみならず  石走る  水にも秋は  ありけるものを

松の梢を吹きわたる風はもうすでに秋、ということを題に北白川というところで人々と歌を詠みました。その題に重ねて、また川を流れる水音にも秋がある、ということも詠みました。

松の梢を吹きわたる風だけではなく、岩の間を流れ降る水にも秋の訪れを感じられることよ。松のこずえを揺する風と川流れのせせらぎの音。西行の身体の全感覚に、秋の到来が刻まれる。

山家待秋(山家秋ヲ待ツ)
252
山里は  そとものまくさ  葉をしげみ  裏吹きかへす  秋を待つかな

山家で暮らしながら秋を待つ

私の暮らす山のほとりにある里には、家の外一面に葛がはびこって葉を繁らせている。葛の葉裏をそよがせる秋風の吹くのももう間も無くだ。

六月祓(みなづきばらへ)※
253
禊して  幣きりながす  河の瀬に  やがて秋めく  風ぞ涼しき

川辺で禊しながら、幣(ぬさ)を切って河の瀬に流していると、すぐに秋めいた風が吹いてきて涼しい。

※六月祓(みなづきばらへ)、夏越し祓へ(なごしのはらへ)、名越しの祓へ

陰暦六月水無月の晦日、宮中や神社において半年間の厄を払う厄除の行事。邪神を和めるために川原で禊(みそぎ)しながら厄落としのために幣を切って川に流したらしい(全訳古語辞典)。西行自身は真言僧だったから神官のように実際に川の流れに入って幣を切って流すことはなかったのかもしれない。おそらく彼自身の体験ではなく、観察や見聞を和歌にしたのだろうか。西行にも縁の深かった上賀茂神社には今も「ならの小川」が流れている。

あらためて上賀茂神社のホームページを見ると、今日でも「大祓式」は年二回(六月・十二月)に行われているそうで、罪穢を託された人形を「ならの小川」に投す大祓式が今も行われているとのこと。おそらく西行は上賀茂神社の六月祓(みなづきばらへ)を体験して、この歌を詠んだに違いない。私はまだこの六月祓へは見たことがない。来年にでも忘れていなければ見る機会があって、この西行の和歌を思い出すこともあるかもしれない。これらの歌はいずれも山家集の夏の巻尾を飾っている歌である。晩秋に入ろうとする今、時期外れの記事になってしまった。

上賀茂神社のホームページより

ひととせ | 賀茂別雷神社 https://is.gd/bmlSqN

「大祓式」では二回(六月・十二月)に行われ、古来より半年間の罪穢を祓い清めて来る半期を無病息災に過ごせる事を願い全国神社でも行われています。当神社では「橋殿」にて宮司が中臣祓詞を唱え氏子崇敬者から式中に伶人(神心流)により、当神社の大祓式の情景を詠まれた下記の和歌が朗詠されます。

 

 風そよぐ ならの小川の夕暮れは みそぎぞ夏の しるしなりける

       藤原 家隆

 家隆は西行のこの夏の禊の歌をきっと知っていたに違いない。

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

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ヘーゲル『哲学入門』序論についての説明 十[人間と動物における衝動]

2019年11月02日 | 哲学一般
 
§10【人間と動物における衝動】

Auch die Tiere haben ein praktisches Verhalten zu dem, was ihnen äußerlich ist. Sie handeln aus Instinkt zweckmäßig, also vernünftig. Da sie es aber unbewusst tun, so kann von einem Handeln nur uneigentlich bei ihnen die Rede sein. Sie haben /Begierde/ und /Trieb,/ aber keinen vernünftigen /Willen./ Beim Menschen sagt man von seinem Trieb oder seinem Begehren auch Willen.

動物はまた、彼らの外部にあるものに対しては実行的にふるまう。動物はその本能から、彼らは合目的に、すなわち理性的に行動する。しかし、そこで動物は無意識にそれを行うので、だから動物においては、行動についてはただ本来的な議論は行うことはできない。動物は/欲望/と/衝動/をもっているが、しかし、理性的な/意志/はもたない。人間においてはその衝動や欲望についてもまた意志と言われる。
 
Genauer gesprochen aber unterscheidet man den Willen von der Begierde; der Wille, im Unterschied von der eigentlichen Begierde, wird alsdann das /höhere Begehrungsver­mögen/ genannt. — Bei den Tieren ist von ihren Trieben und Begierden selbst der /Instinkt/ unterschieden, denn Instinkt ist zwar ein Tun aus Begierde oder Trieb, das aber mit seiner unmittelbaren Äußerung nicht beschlossen ist, sondern noch eine weitere, für das Tier gleichfalls notwendige Folge hat. Es ist ein Tun, worin eine Beziehung auch auf etwas Anderes liegt; z. B. das Zusammenschleppen von Körnern durch viele Tiere. (※1)Dies ist noch nicht die ganze Handlung, sondern es liegt noch weiter hinaus ein Zweck darin, nämlich ihre Nahrung für die Zukunft.

しかし、厳密にいえば、意志と欲望とは区別される。意志は、本来の欲望とは区別されて、/より高い欲求能力/と呼ばれる。動物においては、/本能/は彼らの衝動や欲求そのものとは区別される。というのも、本能は確かに欲望や衝動からくる行為ではあるが、しかし、それは直接的な表出で完結するのではなく、そうではなくむしろ、さらに引き続いて、動物にとっても同じように必然的な連鎖をもつものだからである。本能とは、またそのうちに何か他のものとの関係があるところの行為である。たとえば、多くの動物によって種子が共同して集められることなど。これらは、なお未だ全ての行動ではなく、むしろ、その向こうには未だなおさらに一つの目的がある。すなわち、それらは、将来のためにそなえられた餌である。
 
Der Trieb ist fürs Erste etwas /Innerliches,/ etwas, das eine Be­wegung von sich selbst anfängt oder eine Veränderung aus sich hervorbringt. Der Trieb geht von sich aus. Durch äußere Um­stände erwacht er zwar, aber dessen ungeachtet war er schon vorhanden. Er wird dadurch nicht hervorgebracht.

衝動は、まず第一に、ある種の/内的なもの/である。それは自己自身から発する一個の運動であるようなものであり、あるいは、自から作り出す一つの変化である。衝動は自から出て来る。衝動は確かに外にある環境を通して目覚めるものだが、しかし、いずれにせよ、衝動はすでにそこに存在していたのである。衝動は外から作り出されるものではない。
 
Mechanische Ursachen bringen bloß äußerliche oder mechanische Wirkungen hervor, die vollkommen durch ihre Ursachen bestimmt sind, in denen also nichts enthalten ist, was nicht in der Ursache schon vorhanden ist; z. B. wenn ich einem Körper Bewegung gebe, so ist in demselben nichts, als die mitgeteilte Bewegung. Oder wenn ich einen Körper färbe, so hat er nichts weiter mehr, als die mitgeteilte Farbe. Hingegen wenn ich auf ein lebendiges Wesen einwirke, so macht diese Einwirkung aus ihm noch ganz etwas Anderes, als es unmittelbar ist. Die Wirksamkeit des lebendigen Wesens wird dadurch erregt, sich aus sich in ihrer Eigentümlichkeit zu zeigen.

機械的な原因は単に外的な、あるいは機械的な結果のみをもたらす。その結果というのは、その原因によって完全に規定されているものであり、その原因のなかにすでに存在していないものは、同じく結果の中には何一つ含まれてはいない。
たとえば、もし、私が物体に運動を与えると、その時に物体には伝達された運動以外の何ものもない。あるいは、もし私が物体に着色するとすれば、その時には物体は塗られた色彩以外のものをもたない。それに対して、もし私が生物に働きかける場合は、この作用は生物に元々にあったものとは全く別のものを生物に引き起こす。生物の活動性はそれによって刺激され、生物の固有性を自から示すようになる。
 
Fürs Zweite ist der Trieb 1) dem Inhalt nach /beschränkt; 2)/ nach der Seite seiner Befriedigung als von äußerlichen Umstän­den abhängig /zufällig./ Der Trieb geht nicht über seinen Zweck hinaus und heißt insofern blind. Er befriedigt sich, die Folgen mögen sein, welche sie wollen.
Der Mensch setzt insofern seine Triebe nicht selbst, sondern hat sie unmittelbar oder sie gehören seiner /Natur/ an. Die Natur aber ist der Notwendigkeit unterworfen, weil Alles in ihr be­schränkt, relativ oder schlechthin nur in Beziehung auf etwas Anderes ist. Was aber in Beziehung auf etwas Anderes ist, das ist nicht für sich selbst, sondern abhängig vom Andern. Es hat seinen Grund darin und ist ein /Notwendiges./ Insofern der Mensch unmittelbar bestimmte Triebe hat, ist er der Natur unterworfen und verhält sich als ein notwendiges und unfreies Wesen.(※2)

第二に、衝動は、1)その内容については/限界/がある。;2)衝動の充足の面から見れば、外部の環境に依存しているものとして/偶然的/である。衝動はその目的を超えてゆくことはなく、その限り盲目的であると言える。衝動は、その意図した結果がどのようなものであるとしても、自己を充足させる。この点においては人間はその衝動を自ら設定するのではなく、そうではなく人間は衝動を直接にもち、あるいは自然に(生まれつきに)持っている。しかし、この自然は必然性に支配されている。なぜなら、自然のうちにある全てのものには限界があり、相対的であり、あるいは絶対的にただ他の或るものとの関係においてのみ存在するものだからである。しかし、他の或るものとの関係において存在するものは、それは自身で独立的に存在するものではなくて、むしろ他者に依存して存在するものである。それは自らの根拠を他の或るものにもち、そして一個の/必然的なもの/である。人間が直接に衝動に規定されているかぎり、人間は自然に支配され、そうして、自ら一個の必然的な不自由な存在として振る舞うのである。

(※1) ヘーゲルはここで、アリや ミツバチなどの社会性のある昆虫たちの集餌行動を念頭においているのだろうか。
(※2)この節では、本能と衝動や欲望との違い、もしくはまた、同じく自然性に規定される存在としての動物と人間の共通性について論じている。人間も衝動に駆られて行動するかぎり、動物と異なる存在ではない。
 
 
 
 
 
 
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