作雨作晴


日々の記憶..... 哲学研究者、赤尾秀一の日記。

 

まだ青いトマト

2009年07月26日 | 日記・紀行


雨模様の日が続いて、行きそびれていたのに、午前中の晴れ間を予測して山の畑に行く。トマトの収穫を期待していったのだが、予想はずれに五六個が赤く熟していただけだった。イチジクも害虫か病気か何かと痛めつけられながらも、とにかく成長し、実も付け始めている。イチジクの木に近づくと、イチジクに特有の乳白色の漿果の匂いがかすかに漂っている。

これまでは、ほとんど自然成長に任せたままで、剪定もなにもしてこなかった。
そのために、冬には野鹿に芽や枝を食いちぎられたり、何か病虫にやられたらしく、葉や枝が黒く変色しても、これといった対策をしてこなかった。福岡正信氏ではないが、自然農法(別名、ずぼら農法)を実践しているつもりだった。しかし、やはり、これからはもっと科学的な農法を志さなければならないと思っている。

ネットで調べても、イチジクで豆乳を作れることや着果を促進するための枝管理法や、イチジクの栽培法などについての情報なども得られるようだ。目指すべきはプロの農法か。

カキの木は何とか完全に定着した。最初の年の移植に失敗したのだが、今回の苗木は質もそれなりによかったらしい。しかし、このカキの木についても自然農法(ずぼら農法)の結果として、新しい新芽から葉っぱもことごとく虫食いにやられて、まともな柿の葉の形をしたものがないほどの惨状。いずれは、このブログでも、その惨状をデジカメで報告して、「植物学研究」のサンプルとしても提供したいと思っている。桃の木も何とか剪定した。これからは、ずぼら農法にも、「科学」を導入してゆかなければならない。

人間界では、先に東京都議会選挙が行われ、その結果として自民党と公明党の与党が過半数割れし、民主党が第一党に躍進した。引き続いて八月に行われる衆議院でも、民主党の勝利による政権交代が期待されている。先進的民主主義国でいまだ政権交代が行われていないのは、政治的後進国日本くらいのもので、韓国ですら日本に先立って政権交代を実現している。この一事を見ても、日本はまだまともな民主主義国でないことが明らかだ。

自民党を分解し、民主党からは旧社会党分子を整理して、政界を自由主義の自由党と民主主義の民主党に再編して行くこと、そして理念追求型政党政治に転換してゆくことである。自民党を下野させることは、そのための政界再編の第一歩となる。そして、憲法を改正して、自衛隊、防衛省をそれぞれ国防軍、国防省に再編し国民皆兵制を施行してゆくことである。





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先輩の恋

2009年07月10日 | 日記・紀行
先輩の恋

学生時代の思い出の一つである。どのような経緯で私とM先輩が選ばれたのかもすっかり忘れてしまったけれど、私たちが所属していた体育会系のクラブには全国各地の大学で同じクラブ同士に交流があった。たまたま九州のとある大学が行う記念行事に招待されて、私とM先輩のふたりで行くことになった。私が大学に入って間もないころだから、まだ二十歳前後のことだったと思う。私は後輩としてM先輩について行く格好になった。

その大学は九州の福岡にあり、私たちは招待され交流試合に参加した。その後に懇親会があった。昼過ぎには、それも終わって先輩と私は街に、それも歓楽街に繰り出すことにした。懇親会ではビールも出て、私たちは昼間から紅い顔をしていた。七月も終わろうとするころで、暑い夏の夕日を顔に受けながら歩いた。招待された大学と歓楽街が近かったのかどうか記憶にない。私は少し恥ずかしい気がしたが、先輩は何でもないようだった。

いつ、どこで合意が成立したのか、せっかく九州に来たのだから、ふたりで面白いところへ行こうということになり、ストリップ劇場に行くことにした。場所は中洲のなかにあった。

九州の博多に親戚があった。それで、私たちの九州行きの帰りには、このM先輩とふたりで立ち寄ることをあらかじめ伝えてあった。この九州の親戚の家には、叔父さんと叔母さんが、ただ一人の娘と暮らしていた。当時のことで、九州と関西ではそれほど近くもなかったけれど、私たちの親もまだ若かったせいか、何かの折りに触れては九州の叔父さん叔母さん夫婦も我が家に遊びに来た。その都度私たち兄弟は京都の竜安寺や神戸、須磨方面の行楽に案内して一緒についていった。

私たちは男兄弟ばかりだったので、たまに九州から叔父さん夫婦とTちゃん――私たち兄弟は一人娘の彼女をこう呼んでいた。――が来ると、ふだん男ばかりの殺風景な部屋の中も、なんとなく華やいだ気分になった。服部に当時住んでいた親戚のお姉さんのところにTちゃんを案内するのに付いて行ったこともあるが、当時の私はまだ女性にも馴れておらず、すぐに失敬して、近くの緑地公園でボートを時間つぶしに漕いだりした。彼女が一週間も十日も滞在するときは、主に私の長兄がTちゃんの案内役になった。奈良公園や映画などに連れ出していた。

その頃、谷崎潤一郎の『痴人の愛』などを読んでいたせいか、その女主人公のナオミにTちゃんの感じが似ているように思った。もちろん、Tちゃんはナオミのように放蕩ではないが、何か底知れない退廃的な魅力を可能性として秘めているようにも思えた。私をも含めて我が家には、栗色の髪の系統だったから、Tちゃんの黒髪と黒い瞳ときれいな黒い眉が印象的だった。

M先輩と歓楽地で時間を潰したあと、不確かになった記憶を頼りに、何とか叔父さんの家を探していたとき、ちょうど帰宅したTちゃんと出くわした。そして、先輩と私が叔父さん一家と少し緊張した夕飯のご馳走をいただいた後に、私とM先輩のために寝床をしつらえた部屋に戻ってきたとき、たしかM先輩は、Tちゃんについて「可愛い子だね」とか言ったと記憶している。このとき、私はすぐにM先輩がTちゃんを好きになった――恋したと言うのか――らしいことがわかった。

私は別にM先輩に嫉妬もなにも本当に感じなかったけれども、ただ、先輩とTちゃんの間を取り持ち、仲介の労を積極的にとる気にもならなかった。ただ、その時のM先輩の気持ちを思うと、私の気持ちにたしかに悪意はなかったとしても、M先輩の心に対して、決して私が親切ではなかったという思いは今も消えない。もちろん、M先輩の気持ちをTちゃんに伝える良い方法が実際にあったのかどうかもわからないし、もし、伝えることが出来たとしても九州に住んでいるTちゃんとM先輩のわずかな出会いが発展する可能性はほとんどなかったかもしれない。しかし、それにしても、私の心が、M先輩の「恋」に対してあまりにも冷淡だったという思いはこの年になった今も残っている。




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