作雨作晴


日々の記憶..... 哲学研究者、赤尾秀一の日記。

 

道、一年の回顧

2007年12月31日 | 日記・紀行

 


道、一年の回顧


東山魁夷の「道」は、氏の多くの作品のなかでも、比較的によく知られたポピュラーなものである。一年の終末を迎えて過去を回顧する時を飾るにふさわしい絵画かも知れない。

画面の中央に向かってまっすぐに「道」が延びている。草色の早春に萌えるような草原の丘陵の中を、骨太い一本の土色の道が遥か遠くにまで延びている。そうして画面に単純な構図の奥行きに等辺三角形をかたちづくる中に、この作品を前に鑑賞する者に様々な感慨を引き起こす。この道を前に人はいったいどのような感想を持つだろうか。

この一筋の道を前にして私は戸惑う。いったいこの道は、私がこれから辿り行く道なのか。それとも、私が来し方を振り返って眺め回顧すべき道なのか。この道はいったい上り道なのか、それとも下り道なのか。

今年も一年が終わる。それが時間と空間の一つの道程であったことは確かだ。一年の終末とは、やがて私たちが生の終末という本番を迎えるために、毎年に繰り返す予行演習のようなものである。ただ、この道の終着地は画面の中にはその姿を現すことはない。あるいは、それは生の発端として、すでに私たちの記憶の中にはすっかり消えてしまった母の胎内にまで辿りゆくものかもしれない。

いずれにせよ、私たちに生があるかぎり、過去にも未来にも一本の道が横たわっていることは確かだ。それは終末に向かってただ延びている。時は迫っている。何事にも初めがあり終りがある。そして誰もが明日という日の、来年のあることを信じて生きている。しかし誰にでも終りの日は迫り来る。年末とは、世界と生の終末の一つの予兆にすぎない。ただ、それから眼をそらして真剣に見つめようとしないだけのことだ。「見よ、私は速やかに来る」

愚痴を言っても仕方がないので、一年の後悔は語らないことにしよう。ただ、これ以上の愚行を繰り返すのことのないように願うばかりである。好きなことを楽しく行えればいい。はじめて農事に関わることのできたことが本年になって唯一特筆できることだろうか。今日も時間を見つけて、生まれて初めての麦踏みを体験してきた。桃と柿の木は何とか年内に植えた。予定としてはただイチジクを植えきることができなかった。これらのことだけでも、その限りなき恩恵に感謝すべきかも知れない。

このブログも有形無形に恩恵を受けた多くの人々に感謝して今年の一年を終わりにします。来たる年もまた恵みと平安に満ちた年でありますように。皆さんも良いお年をお迎えください。

追  

紅白歌番組の最後の取りをつとめた歌手を三人ほどテレビで見ながら年越しの蕎麦を食べた後、山に向かった。火を焚きながらまだ三人が残っていた。

年越しには間に合ったようだ。着いてまもなくして、善峰寺や金蔵寺などから除夜の鐘が、遠くの山間から重なって響いてくるのが聞こえて来る。

先日の雨ですっかり洗われた漆黒の夜空に、宝石の連鎖のような星空が眺められた。これまでに見た星空でももっとも美しいものに違いない。流れ星も一つ、何十年ぶりかに見えた。


 

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桃を植える

2007年12月26日 | 農事

桃を植える

年の末も押し迫った今日、桃の木を植える。

この一本の木が、日本の改革の実験につながればよいのだが。今の日本は、年金破綻、高齢化などで大きな転機を迎えようとしている。老人は虫に食われた年金を当てにして、協働で死に至るまで独立自尊の生き方を追求しようとしない。農業問題も深刻で、日本社会は深いところで病んでいるといえる。

共同体における産業としての農の追求で、生ける屍としてではなく、真に充実して人生の終末も期待できるのではないだろうか。

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クリスマス・イブ、Merry X'mas !

2007年12月24日 | 日記・紀行

ヨハネ書には、イエスの生誕について何ら具体的なことは記録されていない。この本でイエスの母マリアがはじめて登場するのは、カナでの婚礼にイエスとともに参加したときのことである(ヨハネ書第2章)。それに対して、ルカ書にはイエスの誕生の経緯がやや詳しく記されている(ルカ書第1章)。しかし、ルカ書もヨハネ書のいずれにも、イエスの生誕にヨハネが深く関わっていたことを伺わせる記述がある。

それにしても、イエスの存在はその母マリアなくしては考えられない。12月25日はイエスの誕生日であるという。今日はその前夜祭。イエスの言動についていくつかの記事を載せているこのブログでも世間並みにイエスの生誕を祝って。

ルカ書第1章第28節以下から。

天からの使いガブリエルは、マリアのところに来て言った。「歓びなさい。何と恵まれた方。主はあなたとともにおられる。あなたは女のうちにあって祝せられる。」

マリアの賛歌

そして、マリアは言った。

私の心はいたく主をあがめ、
私の魂は、私を救われた主なる神を歓び称えます。

主ははしためのような身分の低い私にも眼を注がれましたから。
今からすべての世代にわたって、私は恵まれた女と呼ばれるでしょう。
力ある方が、私に驚くべきことをなされましたから。
聖なるは主の御名です。

主を畏れる者に主の愛は、
代々に及ぶでしょう。

主はその腕に力をふるい、
思い高ぶる者を蹴散らされます。

主は力ある王を玉座から引きずりおろし、
卑しい者を高く引き上げられました。

主は飢える者を善き物で満たし、
富める者を空手で立ち去らせます。

主は僕イスラエルを愛の思いに堅く抱きしめられます。
主が私たちの先祖に語られたように、
アブラハムと彼の子孫にとこしえに。


天使祝詞

おめでとう、恵まれたマリア、
主はあなたとともにおられる。

あなたは女のうちにて祝せられ、
お腹の御子イエスも祝せられる。

主の母マリア、
罪人である我らのために、
今も臨終のときも祈りたまえ。

クリスマスおめでとう。Merry X'mas !


つたないこの記事をクリスマス・カードを送りきれなかった友人たちに。

  アヴェ・マリア

              真珠の耳飾りの少女      

           

 

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麦の新芽

2007年12月21日 | 日記・紀行

 

畑に行く。蒔いた麦が芽を出していた。針の先のように細く、そして緑のビロードのように柔らかい。麦の新芽は踏めば踏むほど、根を張るという。成長は遅いけれど、ネギや水菜も根付いたようだ。移植してからはほとんど手をかけてはいないけれど、自然自身が育んでくれる。

荒れた土地を整備し直して、ここに、柿や桃やイチジクを植えて行くつもり。年内には何とか移植できると思う。果実を楽しみ味わうことのできるのは、いったい何年後の先の話か。

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東国原英夫知事の謝罪

2007年12月13日 | ニュース・現実評論

東国原英夫知事の謝罪

何かと話題の多い宮崎県知事の東国原英夫(そのまんま東)氏が下記の記事に示されたような発言を行い、朝日新聞社などの報道機関に取り上げられ、その結果、「東知事の徴兵制発言に抗議殺到 」して、 「宮崎県の秘書広報課にはこの日、100件(同日午後3時まで。電話54件、メール43件、ファクス3件)の問い合わせがあった。「徴兵制という言葉を使ったことに問題がある」などの批判が約7割、残りは賛成が2割、その他が1割あった。メールは住所、氏名がないものがほとんどで、県外からの問い合わせが多かった」 という。

そして、その後、東国原知事は「徴兵制」を容認するものでないと釈明し、さらにそれに代えて「徴農制」という言葉を遣って、社民党の関係者から抗議を受けて陳謝したそうだ。

まるで、お笑いタレントの仕事を政治の現場に持ちこんだような、ドタバタ喜劇だけれど、詳細についての論考の展開はとにかく、この一連の顛末にいくつかの問題を感じたので、それをとりあえず記録だけしておきたい。

一つは、言論の自由の問題である。要するに、東国原知事の問題意識は、「社会のモラルハザード、規範意識の欠落、希薄化はどういうところで補うのか。学校教育が補えない中で、心身を鍛錬する場が必要ではないか」ということにあったようで、それを矯正する手段として、軍隊の組織の教育的意義の発想から「徴兵制」などを思いついて発言することになったのだと思う。

だが、東国原知事の発言の何が問題なのだろう。たとえ知事が「徴兵制」ということばを遣ったにしても、それは言論の自由の範囲内の問題ではないだろうか。人格の尊厳を損なうような発言でないかぎり、言論の自由を認めるのが日本国憲法の趣旨ではなかったか。

一部の人にとっては「自衛隊」や「徴兵制」という用語が、抵抗を感じさせるものであったり、アレルギー反応をおこさせるようなものであったとしても、それは他者の言論の自由を封じる理由にはならない。

狂信的な「平和主義者」たちは、こうして自由な言論による民主主義的な討論の雰囲気をそこない、社会に言論の「タブー」を作ってゆく。それはちょうど、かっての共産党が、党内の異なる意見を「査問」という強制によって、自由な思考を失わせていったのと同じである。

二つ目は、東国原知事が「社会のモラルハザード、規範意識の欠落、希薄化」を感じて、それを矯正する手段として、軍隊組織のもつ教育的意義について発言し論及することに何の問題があるのだろうか。軍隊アレルギーもここまで来ると病的である。自らの「平和主義」を絶対化し、信仰して、自己相対化ができなくなっているのである。もちろん、「徴兵制」を云々するまえに、家庭や学校や地域の教育の現状を反省するのが、論理の筋道だろうけれども。

三つめの問題としては、本来、民主主義には「徴兵制」という概念はなじまないし矛盾するものである。概念としては、民主主義には、「徴兵」ではなく国民の「兵役の義務」が含まれるが、今回の件は、現在の日本国民の多数には、その国民としての自覚が欠けていることを示しているにすぎない。「兵役の義務」は「兵役の権利」でさえあり、この現状は「民主主義国家」日本の国民としての意識の低さとゆがみを証明しているにすぎない。

自国の独立の保証を自国の軍備にではなく、他国に依存するような国家と国民には、本当の自由と独立はなく、そうした国家と国民とそのマスコミ、ジャーナリズムには、従属国であり半植民地に等しいことについての自覚もなく、恥の意識に目覚めることもないのである。

東国原知事が謝罪したのは、この知事が自らの思想信条についての何らの信念もなく、また言論の自由の価値についての確信もないからである。

 ――――引用記事

「徴兵制あってしかるべき」 東国原知事が持論展開
2007年11月28日20時53分

http://www.asahi.com/politics/update/1128/SEB200711280014.html

 宮崎県の東国原英夫知事は28日、宮崎市の知事公舎であった若手建設業者らとの懇談会で「徴兵制があってしかるべきだ。若者は1年か2年くらい自衛隊などに入らなくてはいけないと思っている」と述べた。記者団に真意を問われた知事は発言を撤回せず、「若者が訓練や規則正しいルールにのっとった生活を送る時期があった方がいい」と持論を展開した。

 懇談会には県建設業協会青年部の地域代表ら12人が参加。若手の育成方法などが議論になり、知事が個人的意見として語ったという。

 懇談会の終了後、知事は「道徳や倫理観などの欠損が生じ、社会のモラルハザードなどにつながっている気がする」と言及。「軍隊とは言わないが、ある時期、規律を重んじる機関で教育することは重要だと思っている」と語った。

――――――

参照

 民主主義と兵役の義務

 

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山本常朝 ――『葉隠』の死生観

2007年12月11日 | 教育・文化


山本常朝 ――『葉隠』の死生観


人間は文化的な生物である。だから、その成育の環境と伝統のなかで「教育」を受けてはじめて人間になる。教育や伝統などの文化的な環境が人格形成に決定的な影響を及ぼす。人は誰でも、両親を第一として、故人であれ、また海外であれ、青年の頃から多くの人格に接することを通じて人格形成を行う。そして、多くの人がそうであるように、私もまた、様々な出来事や人格から何らかの影響を受けながら、意識的にかあるいは無自覚的に自分の人格を形成してきたといえる。

その中にも、もちろんその影響の強弱はある。人格の中にも、強い影響力、感化力を持つものとさほどでもないものがある。

最近でこそ特に関わることもないけれども、二十歳前後の青年時代に触れる機会があって、かなり強い印象を残した人格に山本常朝という人間がいる。常朝とは、いうまでもなく『葉隠』の語り部である。私はそれを当時刊行されていた「江戸史料叢書」の中の上下本として読んだ。

『葉隠』といい山本常朝といえば、その武士道の主張で戦前の右翼思想家のイデオロギー形成に寄与したことから、左翼からは批判的な眼で見られることも多いようである。けれども、それは山本常朝自身の責任ではない。常朝自身の考え方には、右翼とか左翼とかいった狭い範疇を越えた普遍的な真実がある。


常朝の思想の核心は、武士の身分として「死の決意をもって主君に奉じる」ということにあった。武士の生き方としての死の覚悟である。彼の人生観、死生観はそれに貫かれている。

「毎朝毎夕改めては死に死に、常住死身に成りて居る時は、武道に自由を得、一生落ち度なく家職を仕果たすべき也」と語っている。
ある意味では彼は最高の「モラリスト」であるとも言え、少なくとも江戸、明治期には、我が国にこうした人格は少なくなかったのだろうと思われる。そして、まさにそれと対局にあるのが、戦後民主主義の人間群像なのだろう。

常朝自身は、また、それなりに風流人であったようである。彼の言葉の節々にも、詩人的な風格が香ってくる。彼自身は仏道修行や風雅の道は隠居や出家者の従事することとして、無学文盲を称して、奉公一篇に精を出したが、詩人としての気質に不足はなかった。「恋の至極は忍ぶ恋と見立て候」というのもそうである。彼自身がきわめて聡明であったことはその発言からもわかるが、また、なかなか美男子であったようだ。しかし、器量がよく、利発者であっても、それが表に出るようでは人が受け取らぬ事をよく知っていた。それで毎日、常朝は鏡に自分の顔を映して自分の器量を押さえたのである。 

                    
江戸と今日の平成の御世では大きく異なるのは言うまでもないが、それでも本質的に共通する部分もある。そこに、『葉隠』が今日にも普遍的に通用する真理を語っている一面も少なくない。たとえば彼は「武篇は気違ひにならねばされぬ者也」と言う。

現代の私たちが、ふつうに暮らしていても、特に男子には日常的にその誇りを試される場合が多い。その誇りを守る必要があれば、いつでも狂い死にせよ、と常朝は教えるのである。

だから、その配偶者は、いつ何時でも彼女の夫が街の路頭で狂い死にすることがあったとしても、その死には何らかの事情があることを思う必要がある。人生の伴侶として、その覚悟を求められるだろう。昔の武士の妻たちは皆そのことは心得ていたはずである。

また、常朝は次のような言葉も残している。「人間一生誠に僅かの事也。好ひた事をして暮らすべき也。夢の間の世の中にすかぬ事計りして、苦を見て暮らすは愚か成る事也。此の事はわろく聞きて害になる事故、若き衆などへ終に語らぬ奥の手也。」

 



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キリスト教と武士道

2007年12月09日 | 宗教・文化

 


キリスト教と武士道


キリスト教も武士道も、人間関係のあり方を示す倫理や道徳を教えるのは同じであるが、しかし、それぞれ独自の性格をもっている。その違いをわからない人はいない。それはちょうど、同じ花は花でも、バラと菊ではその香りも色彩も葉型もそれぞれ異なった独自の特徴を持っているのと同じである。

また、武士道だけではなく、仏教も、儒教も、またイスラム教なども同じ宗教としては、倫理道徳の体系としてそれぞれが独自の教義をもっている。それはちょうど、同じ植物で樹木であっても、杉や松や樫や檜などが、樹木としてそれぞれ異なった特質をもっているのと同じである。

さらに、同じ宗教であっても、仏教の体系に属する念仏宗と法華宗との間の違いは、たとえば、イスラム教のシーア派やヒンズー教との違いほど大きくはないだろう。それは、植物や動物などが、属と種に基づいて分類されるのと同じである。種の違いは、属の違いほど大きくはない。プロテスタントとカトリックの違いは、仏教とキリスト教の違いほど大きくはない。

そして、キリスト教であれ武士道であれ、また唯物論であれ、はたまた儒教その他であっても、それぞれが、思想、信念の体系として独自の性格と価値観をもっている。そして、有限な人が有限の生を何らかの思想や宗教をもって生きようとするとき、そこに選択と決断が行われざるを得ない。

仏教とイスラム教の二つの宗教を信奉することはできない。人は二人の主人にかね仕えることができないからである(マタイ書7:24)。それは、キリスト教と武士道の間についても同じである。それぞれが異なった独自の性格と体系をもっている以上、冗談でなければ、そのいずれかを選ばざるをえないものである。



 

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せいろん談話室への投稿②――安保さんの反民主主義論に

2007年12月01日 | ニュース・現実評論

せいろん談話室への投稿②

「せいろん談話室」に、安保さんという方が、『00097. 日本に民主主義など相応しくない 』という記事を投稿されていました。私はこの安保氏の民主主義観にいくつかの疑問を感じたので、反論の記事を投稿したものです。以下に安保氏の論考とそれに対する私の投稿を引用します。民主主義について、皆さんはどのような考えをもっておられるでしょうか。

00097. 日本に民主主義など相応しくない
http://ez.st37.arena.ne.jp/cgi-bin/danwa/kiji_display.cgi?thread_id=200711-001&kiji_id=00098
 投稿者:安保(57歳男性)  投稿日:2007年11月29日(木)
 
私は最近、民主主義の愚かさを思うようになった。

それは、最近教えてもらって私自身もハタと気がつき今は確信になってきた。
会社でも家族という単位でもそうだが、
一部の選ばれし者が会社を導き、そして家族であれば賢い父親が家族をまとめ守り良き家庭を築く。

会社経営は社員全部の合議制などではなく、民主主義でもないはずだ。
会社ならトップダウンが常であり、他に勝るより良きリーダーが居れば会社は繁栄する。

そう考えるようになって以来私は極端かも知れないが、今ではすっかり民主主義こそ、
日本に適さない主義であり体制なのではないのか?と、思うようになった。

この民主主義というのは日本のような天皇陛下を戴き、国家として元々自然に近く一枚岩になっている国には不向きな体制だと思う。
欧米のような歴史の中で今の国家を構成する国は、どうしても必要な制度でありベターなのかも知れないが。

日本には民主主義など相応しくない。

ウィンストン・チャーチルの言葉に↓
『民主主義は最悪の政治ではあるが、今までに存在したいかなる政治制度よりもましである』
いみじくも、このような言葉が有るそうだが

彼らにとってのましな制度であって日本には、日本に向いたより良い制度があるはずだと思う。
国の形も成り立ちも、世界の200余りの国は皆違うからだ。
個々人がそれぞれの生き方をするように・・・。

その日本に適した制度が、何時の時代の「どれ」とは、今の私にはまだ良く分からないが
まあ、どの時代の制度も一長一短あるだろうし、それはじっくり考える必要があると思うが
民主主義を信奉するのはまったくもって馬鹿げており駄目だと思う。

一口で言えば日本のような国は

一部のエリートが日本の政治をリードすることこそ、日本と言う国に適した体制だと思う。
皇室伝統:天皇陛下の存在がある限り

何故なら・・・。
一部の者が国を率いても、権力者が独裁者になったり、奴隷が生まれたりはしない国が日本であり。
世界200余ヶ国の内の日本だけが有する特異さかもしれない。
それこそが皇室伝統を持つ故であり、世界に類まれない日本の誇るべきものです。

私の知る日本の歴史で、日本の庶民に属するものは大らかで、政治に関心もなく、お上に任せる
そんな民が多くの庶民層ではないのか・・・と

なぜなら、お上は(何時の時代の権力者も)世界の歴史に見られるような庶民に対しての非道悲惨なことは歴史上もしなかった

そういった日本に相応しい国の形をもう一度真剣に考えることこそ今こそ必要なのではと思う

江戸時代など身分制度がありながら
権力者側のほうが大商人より貧乏だった

こんな国に欧米の猿真似で民主主義など取り入れても、それこそ国益を損うだけだ。
潜在的に素晴らしい力を封印してしまい、世界の中で日本が日本の良さを発揮できない要因だと思う。

具体的にはどうすれば良いのか

20歳以上の男女、日本国籍があれば参政権を与えるのではなく
そのハードルを徐々に上げて行くことだと思っている。
例えば、最初は①納税者であること、②犯罪歴が無いこと、③徴兵の義務を果たした者
等など

ハードルについては、侃々諤々議論するも由だと思う。

今の、福田・小沢が党首であり、片や首相であることなど、
日本の不幸であり、すなわちこれが日本人大多数の政治に関してのレベルであり
日本が如何に民主主義など相応しくないかの象徴である
 


・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・以上、引用終わり


安保さんの反民主主義論に

安保さんの論考は、ファシズムの温床や形成の典型的な思考事例として興味深く読ませていただきました。たしかに、あなたのおっしゃるように、日本国民には民主主義はふさわしいとはいえないかも知れませんね。

欧米とは歴史も文化も宗教的な背景もまったく異なった日本のような伝統のなかで、そして欧米のようなキリスト的な精神的な風土を持たない国民や民族が、欧米を発祥の地とする民主主義を国家生活の原理としていることが、今日においても、多くの悲喜劇の原因となっているのだと思います。このことは鴎外や漱石の生きた明治からも大きな変化はないようです。

ちょうど明治の文明開化の時期に、ちょんまげ姿で背広を着たり、洋靴を履いて羽織袴を着て歩くように、平成の御世の今日もなおどこか不似合いで不調和な印象がぬぐえないのかも知れません。それと同じことが、政治や社会生活の原理である民主主義についてもいえるのかもしれません。私も以前に、日本のみならずアジア諸国での民主主義の受容と定着の困難さについて論じたことがあります。

日本の内なる北朝鮮
http://blog.goo.ne.jp/maryrose3/d/20070112
タイ国のクーデタ事件に思う
http://blog.goo.ne.jp/askys/d/20060921
公明党の民主主義
http://blog.goo.ne.jp/maryrose3/d/20061017

私も別段に民主主義を「信仰」している訳でもありませんし、民主主義がはたして全体主義にどれだけ優越しているのか懐疑的でありますが、特に欧米のようにキリスト教のような宗教的な文化的な背景を欠く場合には、日本のように民主主義はいつでも衆愚政治や「愚者の楽園」に化してしまうのではないでしょうか。

そして、もう一つ安保さんの論考を読んで痛切に感じるのは、「自由」の観点が根本的に欠けているように思われることです。

安保さんは「江戸時代など身分制度がありながら、権力者側のほうが大商人より貧乏だった」と述べられて、封建時代に郷愁すら覚えておられるようですが、江戸時代の封建的な身分制度の不自由さについては、福沢諭吉の「福翁自伝」などでも確認されればよいと思いす。

今日の自由な社会に身を置き、十分にその恩恵に浴して生きていながら、そしてこの自由が多くの人々の血と汗の犠牲を払って獲得された民主主義によってもたらされたものでありながら、この民主主義を否定しようとされていることです。

現代の日本の文化や政治や経済の現状に対する不満を、民主主義に原因を求められているようですが、はたして日本社会の政治や文化の退廃や堕落の原因は、民主主義そのものの欠陥にあるのでしょうか。それをきちんと論証することなくして、「民主主義」を批判しても、あまり説得力はないように思います。

ご参考までに

ヘーゲルのプラトン批判
http://blog.goo.ne.jp/askys/d/20061204
ドイツ文化と日本文化
http://blog.goo.ne.jp/askys/d/20070425

 

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