せいろん談話室への投稿②
「せいろん談話室」に、安保さんという方が、『00097. 日本に民主主義など相応しくない 』という記事を投稿されていました。私はこの安保氏の民主主義観にいくつかの疑問を感じたので、反論の記事を投稿したものです。以下に安保氏の論考とそれに対する私の投稿を引用します。民主主義について、皆さんはどのような考えをもっておられるでしょうか。
00097. 日本に民主主義など相応しくない
http://ez.st37.arena.ne.jp/cgi-bin/danwa/kiji_display.cgi?thread_id=200711-001&kiji_id=00098
投稿者:安保(57歳男性) 投稿日:2007年11月29日(木)
私は最近、民主主義の愚かさを思うようになった。
それは、最近教えてもらって私自身もハタと気がつき今は確信になってきた。
会社でも家族という単位でもそうだが、
一部の選ばれし者が会社を導き、そして家族であれば賢い父親が家族をまとめ守り良き家庭を築く。
会社経営は社員全部の合議制などではなく、民主主義でもないはずだ。
会社ならトップダウンが常であり、他に勝るより良きリーダーが居れば会社は繁栄する。
そう考えるようになって以来私は極端かも知れないが、今ではすっかり民主主義こそ、
日本に適さない主義であり体制なのではないのか?と、思うようになった。
この民主主義というのは日本のような天皇陛下を戴き、国家として元々自然に近く一枚岩になっている国には不向きな体制だと思う。
欧米のような歴史の中で今の国家を構成する国は、どうしても必要な制度でありベターなのかも知れないが。
日本には民主主義など相応しくない。
ウィンストン・チャーチルの言葉に↓
『民主主義は最悪の政治ではあるが、今までに存在したいかなる政治制度よりもましである』
いみじくも、このような言葉が有るそうだが
彼らにとってのましな制度であって日本には、日本に向いたより良い制度があるはずだと思う。
国の形も成り立ちも、世界の200余りの国は皆違うからだ。
個々人がそれぞれの生き方をするように・・・。
その日本に適した制度が、何時の時代の「どれ」とは、今の私にはまだ良く分からないが
まあ、どの時代の制度も一長一短あるだろうし、それはじっくり考える必要があると思うが
民主主義を信奉するのはまったくもって馬鹿げており駄目だと思う。
一口で言えば日本のような国は
一部のエリートが日本の政治をリードすることこそ、日本と言う国に適した体制だと思う。
皇室伝統:天皇陛下の存在がある限り
何故なら・・・。
一部の者が国を率いても、権力者が独裁者になったり、奴隷が生まれたりはしない国が日本であり。
世界200余ヶ国の内の日本だけが有する特異さかもしれない。
それこそが皇室伝統を持つ故であり、世界に類まれない日本の誇るべきものです。
私の知る日本の歴史で、日本の庶民に属するものは大らかで、政治に関心もなく、お上に任せる
そんな民が多くの庶民層ではないのか・・・と
なぜなら、お上は(何時の時代の権力者も)世界の歴史に見られるような庶民に対しての非道悲惨なことは歴史上もしなかった
そういった日本に相応しい国の形をもう一度真剣に考えることこそ今こそ必要なのではと思う
江戸時代など身分制度がありながら
権力者側のほうが大商人より貧乏だった
こんな国に欧米の猿真似で民主主義など取り入れても、それこそ国益を損うだけだ。
潜在的に素晴らしい力を封印してしまい、世界の中で日本が日本の良さを発揮できない要因だと思う。
具体的にはどうすれば良いのか
20歳以上の男女、日本国籍があれば参政権を与えるのではなく
そのハードルを徐々に上げて行くことだと思っている。
例えば、最初は①納税者であること、②犯罪歴が無いこと、③徴兵の義務を果たした者
等など
ハードルについては、侃々諤々議論するも由だと思う。
今の、福田・小沢が党首であり、片や首相であることなど、
日本の不幸であり、すなわちこれが日本人大多数の政治に関してのレベルであり
日本が如何に民主主義など相応しくないかの象徴である
・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・以上、引用終わり
安保さんの反民主主義論に
安保さんの論考は、ファシズムの温床や形成の典型的な思考事例として興味深く読ませていただきました。たしかに、あなたのおっしゃるように、日本国民には民主主義はふさわしいとはいえないかも知れませんね。
欧米とは歴史も文化も宗教的な背景もまったく異なった日本のような伝統のなかで、そして欧米のようなキリスト的な精神的な風土を持たない国民や民族が、欧米を発祥の地とする民主主義を国家生活の原理としていることが、今日においても、多くの悲喜劇の原因となっているのだと思います。このことは鴎外や漱石の生きた明治からも大きな変化はないようです。
ちょうど明治の文明開化の時期に、ちょんまげ姿で背広を着たり、洋靴を履いて羽織袴を着て歩くように、平成の御世の今日もなおどこか不似合いで不調和な印象がぬぐえないのかも知れません。それと同じことが、政治や社会生活の原理である民主主義についてもいえるのかもしれません。私も以前に、日本のみならずアジア諸国での民主主義の受容と定着の困難さについて論じたことがあります。
日本の内なる北朝鮮
http://blog.goo.ne.jp/maryrose3/d/20070112
タイ国のクーデタ事件に思う
http://blog.goo.ne.jp/askys/d/20060921
公明党の民主主義
http://blog.goo.ne.jp/maryrose3/d/20061017
私も別段に民主主義を「信仰」している訳でもありませんし、民主主義がはたして全体主義にどれだけ優越しているのか懐疑的でありますが、特に欧米のようにキリスト教のような宗教的な文化的な背景を欠く場合には、日本のように民主主義はいつでも衆愚政治や「愚者の楽園」に化してしまうのではないでしょうか。
そして、もう一つ安保さんの論考を読んで痛切に感じるのは、「自由」の観点が根本的に欠けているように思われることです。
安保さんは「江戸時代など身分制度がありながら、権力者側のほうが大商人より貧乏だった」と述べられて、封建時代に郷愁すら覚えておられるようですが、江戸時代の封建的な身分制度の不自由さについては、福沢諭吉の「福翁自伝」などでも確認されればよいと思いす。
今日の自由な社会に身を置き、十分にその恩恵に浴して生きていながら、そしてこの自由が多くの人々の血と汗の犠牲を払って獲得された民主主義によってもたらされたものでありながら、この民主主義を否定しようとされていることです。
現代の日本の文化や政治や経済の現状に対する不満を、民主主義に原因を求められているようですが、はたして日本社会の政治や文化の退廃や堕落の原因は、民主主義そのものの欠陥にあるのでしょうか。それをきちんと論証することなくして、「民主主義」を批判しても、あまり説得力はないように思います。
ご参考までに
ヘーゲルのプラトン批判
http://blog.goo.ne.jp/askys/d/20061204
ドイツ文化と日本文化
http://blog.goo.ne.jp/askys/d/20070425