作雨作晴


日々の記憶..... 哲学研究者、赤尾秀一の日記。

 

年頃申しなれたりける人に

2019年09月30日 | 西行考

 

 

年頃申しなれたりける人に

年頃申しなれたりける人に、遠く修行する由申してまかりたりけり。名残り多くてたちけるに、紅葉のしたりけるを見せまほしくて、待ちつる甲斐なく、いかに、と申しければ、木の下に立ち寄りて詠みける

1086
心をば  深き紅葉の 色に染めて 別れて行くや 散るになるらん

駿河の国九能の山寺にて、月を見て詠みける

1087
涙のみ  かきくらさるる  旅なれや  さやかに見よと  月は澄めども


長年にわたって語り合いなれた人のところへ、遠くへ修行に出かけることを、告げるために行ってきました。とても名残おしくて佇んでいたところ、その人は、木々の紅葉するのをお見せしたくて、お待ちしていましたのにその甲斐もありませんでした、どうされていましたか、といわれましたので、私は木の下に立ち寄って、歌を詠んでから別れました。

1086
心をば  深き紅葉の 色に染めて 別れて行くや 散るになるらん

深く思ってくださるあなたの思いを、紅葉の色のように私の心に染めて別れゆくのは、紅葉の散ってゆくことになるのでしょうか


駿河の国にある九能の山寺にて、月を見て詠みました

1087
涙のみ  かきくらさるる  旅なれや  さやかに見よと  月は澄めども

ただ涙のみにかきぬれ、悲しみにくれる旅になってしまったことよ、涙に目をくもらさず、はっきりと見るようにと、空に月は澄んでいるのに


この二つの和歌の並びから、西行が「遠く仏道修行」に出るために、長年にわたって慣れ親しんだ人に別れを告げたのは、駿河の国、今の静岡県九能山あたりに旅に出るためだったのかもしれない。

そのとき西行が登った山寺とは、推古天皇の頃の六七世紀に久能忠仁によって久能山麓に建てられた久能寺だったのだろう。久能山からは駿河湾が見下ろせるから、西行が眺めた月は駿河湾の沖合に浮かんだ月だったかもしれない。

西行の和歌からは当時の九能山の面影は伺い知ることはできない。平安時代末の久能山にはもちろんまだ徳川家康を祀った久能山東照宮はない。私が静岡に暮らしていたときに久能山に登って東照宮に参ったことはあるけれど日の明るい昼間だった。その時の九能山の記憶ももう薄らいでいる。

「名残り多くてたちける」と和歌に言うように、もう二度とは会えないことを西行は覚悟していたのかもしれない。都から遠く離れた九能山の山寺で、西行が涙にくれながら月を眺めることになったのも、なれ親しんだ人に別れを告げたことを思い出していたからにちがいない。

「心をば」の和歌のように、「別離」は万葉集の昔からの多くの和歌の主題でもある。西行の生きた時代を描いた「平家物語」にも「生者必滅、会者定離は浮世の習い」とある。

早いもので、令和元年、二〇一九年の九月とも今日で別れを告げる。来月には国民の祝日として「即位礼正殿の儀の行われる日」がある。

 

 

 

 
コメント
  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする

ヘーゲル『哲学入門』序論についての説明 九[行為について2]

2019年09月24日 | 哲学一般

 
§9

Das Handeln ist überhaupt eine Vereinigung des Inneren und Äußeren. Die innerliche Bestimmung(※ 1), von der es anfängt, soll der Form nach, nämlich eine bloß innerliche zu sein, aufgehoben und äußerlich werden; der Inhalt dieser Bestimmung soll dabei bleiben; z. B. der Vorsatz, ein Haus zu bauen, ist eine innerliche Bestimmung, deren Form darin besteht, nur erst Vorsatz zu sein; der Inhalt begreift den Plan des Hauses.

九[行為について2]

行為とは一般的には内的なものと外的なものを一体化させることである。行為がそこから始まるところの内的な決定(※ 1)とは、形式を通して、すなわち単に内的に存在していたに過ぎないものが、止揚されて外的になることである。この決定の内容は、外に保存されていなければならない。たとえば、家を建てようという意図は、内にある形式であるところの決定であり、はじめは意図として存在する。その内容とは家の設計を理解することである。

Wenn hier nun die Form aufgehoben wird, so bleibt doch der Inhalt. Das Haus, welches, dem Vorsatz nach, gebaut werden soll, und das, wel­ches, dem Plan nach, gebaut wird, sind dasselbe Haus. Umgekehrt ist das Handeln eben so ein /Aufheben (※2 )vom Äußerlichen,/ wie es unmittelbar vorhanden ist; z. B. zum Bau eines Hauses werden der Boden, Steine, Holz und die übrigen Mate­rialien auf mannigfaltige Weise verändert.

ここで、いま形式が止揚されているときにも、なおそこには内容が残っている。意図された家は建設されて、そして設計に基づいて建築されたところのものは、その家(内容)そのものである。反対に行為とは、まさに、直接に存在している外的なものを止揚する(※2 )ことである。たとえば、家の建設については、土、石、木材、そのほかの材料が様々な仕方で作り変えられる。

Die Gestalt des Äußerlichen wird anders gemacht. Es wird in eine ganz andere Verbindung gebracht, als es vorher war. Diese Veränderung ge­schieht einem Zwecke, nämlich dem Plan des Hauses, gemäß, mit welchem Innerlichen also das Äußerliche übereinstimmend gemacht wird.
 
外的なものの形態は異なったものに作り変えられる。かってあったものとは全く別の結合物が作り出される。この変化は一つの目的のために、すなわち家の設計によって生じたものであり、内的なものが外的なものに一致するように作られる。

(※1 )
Bestimmung 名詞:

ふつう「規定」という訳語が当てられることが多い。これまでも、無数に使われているヘーゲル哲学の基本的概念といえる。その基本的な意味は「内容を生み出すところの形式」ということか。
「概念」をその個別的な内容から見たときに、それが「Bestimmung」になるのだと思う。訳語として相当するのは、おおよそ以下のようなもの。
使命、運命、 宿命、 天命、決定、決意、決断、決心、結論、目的、意思、目当て、図式、規定、定め、割り当て、定義、確定など

(※2 )
Aufheben 動詞:

ヘーゲルの独自の用法で用いられる概念。原意は「リフトアップすること」「上へと引き上げること」。哲学としては、ふつう「揚棄する」とか「止揚する」と訳される。「事物の内容をその本質を保存しながら、さらに高い段階へと移し変える」ことである。事物の発展の論理を説明する概念として重要である。

(※3 )
これらの論考に見られるように、ヘーゲルの哲学的思考とは、私たちの日常の「行為」を観察し、反省して、その構造を徹底的に意識化し、その論理を言語として定式化しようとしたものでしかないことがわかる。ここでは「行為」そのものを内と外から考察している。
 
コメント
  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする