奥平康弘氏の著書『「萬世一系」の研究』について3
先日、憲法学者の奥平康弘氏の著書『「萬世一系」の研究』を読み始めて、その感想をツイッターで呟きはじめましたが、ツイートによる投稿のために推敲も不十分で読みにくくわかりにくいと思いました。
それでとりあえず段落や用語などを少し手直しして投稿し直しました。口語調にはしませんでした。いずれ通読した後に改めて書評も書いておきたいと思います。ただ細部についてはとにかく、奥平康弘氏の「共和制国家観」についての核心的な批判については、このツイートの投稿で十分であるようにも思います。いずれにしても、もと国立大の法学部の教授という公職にあった方の「国家観」として、その影響と責任については、良かれ悪しかれ深刻だと思います。
それはたとえば、裴 富吉という朝鮮人の学者らしい人による、皇室の解体を企図した憎悪に満ちた「反日」の「危険な革命的思想」の芽として、その悟性的で「狂信的な」全体主義的な論考などにもすでに現れていると思います。
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少し時間に余裕も出来はじめたので、以前に批判したことのある、元東大教授で憲法学者の奥平康弘氏の著書『「萬世一系」の研究』を読み始めた。以前に「憲法学者奥平康弘氏の伝統破壊的国家観について」http://goo.gl/EjjuFZ で批判したことがあるので、改めて読み直そうと思ったからである。
以前に奥平康弘氏を批判したのは氏の『「萬世一系」の研究』を直接読んだ上での批判ではなかったから、何時の日か奥平氏の著書に直接目を通した上で批判する必要のあるのは当然のことだった。しかし、学者ならぬ私にはなかなかその時間もなく奥平氏の本も読む余裕はなかった。
私が以前に奥平氏の『「萬世一系」の研究』を批判したのは、あるサイトにこの本の内容が纏められており、そこで奥平氏の思想の概略を知り得たからだった。だから私のその批判は、著書自体を読破した上での批判ではなかった。奥平氏の著書『「萬世一系」の研究』の内容の概略を纏めたサイトは、「◆ 奥平康弘 稿「『首相 靖国 参拝』に疑義あり」◆ 」と題されたサイトhttp://centuryago.sakura.ne.jp/okudaira.html で、その中で奥平氏の著書は「■奥平康弘『「萬世一系」の研究-「皇室典範的なるもの」への視座-』(岩波書店,2005年3月)は,「天皇制は民主主義とは両立しえないこと、民主主義は共和制とむすびつくほかないこと」を(同書,382頁),訴えた著作である。」とまとめられていた。
それは裴 富吉という朝鮮人の学者らしい人が開いておられるらしいホームページの中にあったものである。そこで奥平氏の著書が、裴 富吉という朝鮮人らしい人によって「天皇制は民主主義とは両立しえないこと,民主主義は共和制とむすびつくほかないこと」というように、その結論としてまとめられているのを読んだだけで、ツイッターで批判したものである。
もちろん、裴 富吉という人の結論が本当に奥平氏の著書を正しく纏めたものであるかどうかも、本文そのものをまだ読んでもいない私には批判する資格なかったのかもしれない。
ただ「天皇制は民主主義とは両立しえないこと,民主主義は共和制とむすびつくほかないこと」という奥平氏のこの結論のまとめを読んですぐに直観したことは、この結論はまぎれもなく「悟性的思考」の典型ではないか、ということだった。そして、この悟性的思考による「結論」に、今では忘れられがちなフランス革命の否定的側面や、中国の文化大革命、ポルポト独裁政権によるクメール・ルージュ殺戮事件、スターリンの強制収容所などに根底に存在する共通の論理を見いだせるように思えたからである。
だから私のツイートでの批判は、「抽象的で破壊的な革命的国家観の危険性」というものとなった。今ようやく奥平康弘氏の著書そのものを読みはじめたけれども、改めて痛感させられることは、奥平康弘氏の憲法学の学識に比べれば私のそれなどは到底及びもつかないものであることである。
それにしても、奥平康弘氏の「天皇制」に対する嫌悪感というものが、一体何に起因するものなのか、という疑問が生じる。そもそも「天皇制」という用語自体が、マルクス主義の用語であるし、少なくとも皇室に敬意を抱くものは不必要にそうした呼称は使用しないものである。少なくとも「天皇制」という用語には、自然法思想を認めない実定法主義のにおいがする。
ヘーゲル主義の立場からは必要とあれば「君主制」という用語を使用するだろう。それはとにかく、確かに憲法学に関する学識には奥平康弘氏の足許にも及ばない私が、「天皇制は民主主義とは両立しえないこと,民主主義は共和制とむすびつく」として裴 富吉という朝鮮人学者らしい人によってまとめられた奥平氏の『「萬世一系」の研究』の結論に対して「その悟性的で、破壊的、革命的な氏の結論」として批判したのも、ヘーゲル哲学を支持する者としての立場からだった。
ヘーゲルはその著書『法の哲学』の中で「立憲君主国家制」の意義とその必然性を論証している。その論理を正しいと認める立場からすれば、奥平康弘氏の著書に示された「天皇制は民主主義とは両立しえないこと,民主主義は共和制とむすびつくほかないこと」という結論は、ヘーゲルの終生批判した悟性的思考そのものでしかないものである。その悟性的思考の論理の帰結は、フランス革命や中国の文化革命といった暴力的で破壊的な結末をもたらすものとして歴史的事実としても明らかである。
ヘーゲル哲学の特質はその科学としての性格にある。彼が「国家と自然法思想」の論理を明らかにした著書『法の哲学』もそうで、ヘーゲルは国家の形態としては『立憲君主制』を至高のものとして絶対的なものとして論証している。このヘーゲル哲学を支持する立場からは、国家の論理として「天皇制は民主主義とは両立しえないこと,民主主義は共和制とむすびつくほかないこと」といった奥平氏のような結論は出て来ない。
憲法学者としてのこうした奥平氏の思想に対して、「こんな悟性的な思考しか出来ない三文学者が、日本の「最高学府東京大学」の法学部で学生たちに憲法を長年教えてきた。これでは日本国がアメリカや中国のような悟性国家になるのも無理ない」と批判した根拠もそこにある。
ヘーゲル哲学は「科学」でもある。だから『法の哲学』によって論証された国家の論理として、その結論としての「立憲君主国家体制」に対して奥平氏が「共和制国家」を主張するのであれば、少なくともヘーゲルの『法の哲学』を批判してからでなければならないだろう。
マルクスなどはそれがわかっていたから、それが正しかったか間違っていたかはとにかく『ヘーゲル法哲学批判』を行ってから彼自身の「共産主義国家観」を明らかにしようとしたのである。
それに対して、奥平康弘氏の著書『「萬世一系」の研究』を読み始めても、奥平氏にはヘーゲル哲学を研究した足跡はほとんど見あたらない。ヘーゲルは彼自身の哲学を少なくとも「科学」として主張している。論証された必然的なものとして国家体制としての「立憲君主国家体制」をヘーゲルは結論としている。
だからもし、奥平氏が憲法学者として「共和制国家」を主張するのであるならば、ヘーゲルが彼の著書『法の哲学』のなかで明らかにした「国家と自然法思想」の論理の破綻を証明すると共に、「天皇制は民主主義とは両立しえない」「民主主義は共和制とむすびつくほかない」ところの奥平氏自身の「共和制国家観」を論証する必要があるだろう。
奥平康弘氏の『「萬世一系」の研究』は今ようやく読み始めたばかりで何とも言えないけれども、多少読みかじっただけでの印象ではあるけれども、奥平氏の「国家観」や「共和制論」には、悟性的思考の特徴しか感じられないように思う。そこには抽象的で無味乾燥の、観念的で生きた具体性を見いだせない。
第一に氏の論文のなかに頻出する「天皇制」という用語がそれである。そもそも奥平氏には「自然法思想」はなく、ケルゼンの人工的な「実定法思想」しか頭の中に無いようでもある。いかにもアメリカ人のように「人権」の所有者としての抽象化された「人間」と「自由と民主主義」の人工的な「合衆国=united states」しか存在しないようで、伝統とか民族とか皇室とかいった、歴史と風土の印影を帯びた人間も国家も見あたらない。
一体どのような時代を背景に奥平康弘氏のような思想が育まれたのだろうかと思う。私の拙い書評に対して懇切な返信を送ってくださった都立大学で教授をされていた橡川一朗氏のことを思い出した。
2014年3月14日