作雨作晴


日々の記憶..... 哲学研究者、赤尾秀一の日記。

 

赤尾秀一の思想研究

2025年02月15日 | 哲学一般
 
赤尾秀一の思想研究

これまで哲学研究者、赤尾秀一はブログ日記「作雨作晴」や哲学研究ブログ「夕暮れのフクロウ」上などで、さまざまに論考を公開してきました。しかし、いまだ目次や索引などを整備しきれておらず、赤尾秀一の思想傾向の概略でさえ把握しにくいと思います。
それで、さしあたって、中間的なまとめとして、赤尾秀一の思想的な概略とでもいうべきものを、まとめておきたいと思いました。おおよそ次のようなものとなると思います。

1、 ヘーゲル哲学の研究者としての立場
 
◦ 哲学的思考の根底にヘーゲルの哲学を据えようとしています。
◦ とくに「自由」「国家」「立憲君主制」「民主主義」「神の国」といった概念に関心があり、研究を深めようとしています。

2、日本の国家理念としての「自由にして民主的な独立した立憲君主国家」

◦ 日本の国家理念として「自由にして民主的な独立した立憲君主国家」を追求しています。(ヘーゲルの国家哲学に基づく国家観と、キリスト教的な価値観を融合させようとしているといえます。)

◦ 日本の歴史的な文脈の中で、「立憲君主制」と「自由民主主義」をどう両立させるかというテーマを追求しています。 

3、二大政党制の構想(「保守自由党」と「民主国民党」)

 ◦ ヘーゲル的な歴史発展の観点から、対立する二つの理念(保守と自由、民主と国民)を調停し、より高次の統一へと発展させようとしています。
 
 
さしあたっては、赤尾秀一の思想傾向としては、おおよそのところ以上のようにまとめることができると思います。今後さらにその研究を深め、思想や哲学を深化発展させることができればいいのですが。皆様のご理解とご協力もお願いできればと思います。
 
 
 
 
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ヘーゲル哲学研究における「寺沢学派」(マルクス主義批判)

2025年02月04日 | 哲学一般

 

ヘーゲル哲学研究における「寺沢学派」(マルクス主義批判)

   2025(令和7)年02月03日(月)曇り。#寺沢学派、#寺沢恒信、#許萬元、#牧野紀之、#マルクス主義批判

 

 

ここしばらくヘーゲル『哲学入門』の翻訳と註解が中断したままになっています。そこでの私の翻訳と註解の水準はさておくとしても、我が国のヘーゲル研究は講壇、在野を問わず、非常に高いレベルにあるのではないか思います。世界的に見てもおそらく最高の水準に達しているのではないでしょうか。

その理由の一つとしては、わが国におけるかつてのマルクス主義の隆盛があると思います。しかし、20世紀末にソ連邦の崩壊を始めとする共産主義の失墜があって、共産主義そのものの信用は地に落ちたということはありますが、それでもわが国においては今なお日本共産党が日本の政界の一角を占めているように、この破綻したマルクス主義も今なお国民の間に一定の影響力はあるようです。

わが国のヘーゲル研究に大きく貢献したのは、マルクス主義哲学者であった元東京都立大学の哲学教授で共産主義者の寺沢恒信の存在が大きいと思います。この寺沢恒信のもとから許萬元と牧野紀之という二人の傑出したマルクス主義ヘーゲル学徒が生まれてきました。

マルクス主義の立場からするヘーゲル哲学研究については、この「寺沢学派」とも称することできる許萬元と牧野紀之の二人によって、このマルクス主義の立場からは行き着くところまで行ったと思います。今後おそらく彼らを乗り越えるほどのヘーゲル哲学研究者は出てこないのではないでしょうか。それほど二人のヘーゲル哲学研究は徹底し傑出していたと思います。

ただ、彼らのヘーゲル研究に限界というものがあるとすれば、それは彼らが「ヘーゲル論理学の唯物論的改作」というレーニンの誤った提唱を無自覚、無批判に引き継ぎ、それを彼らのヘーゲル哲学研究の出発点にしたことにあると思います。マルクスのヘーゲル哲学批判は、ヘーゲルの絶対的観念論に対する誤解の上に立つものであるし、レーニンはこのマルクスの誤解をそのまま無批判に引き継いでいるからです。

キリスト教にも「ブドウの樹の良し悪しはその実を味わえばわかる」とあるように、共産主義諸国の歴史的な政治的な崩壊という実際の現実が、マルクス主義の破綻を実証することになっていると思います。

ヘーゲルの絶対的観念論は「絶対的」なもので、それ自体としては完結したものです。だから、ヘーゲル哲学批判の上に立つマルクスやレーニンの共産主義は、ヘーゲル哲学の根本的に誤った継承にならざる得なかったと思います。マルクス主義が歴史的に破綻することになったのは理の当然であると思います。

マルクス主義の破綻の原因を理論的に指摘するのは、それなりに教養が必要で難しいことだとは思いますが、私のこれまでの論考の中でも、ヘーゲル哲学に対するマルクスの誤解、無理解については、いくつか指摘してあります。そのマルクスのヘーゲル哲学に対する主な誤解について指摘するとすれば、三つあると思います。

その第一は、ヘーゲルの「概念論」に対するマルクスの誤解です。
その第二は、ヘーゲルの「観念論」に対するマルクスの誤解です。
第三は、ヘーゲルの「国家観」に対するマルクスの改変です。

第一については、マルクスは、「概念」を、単なる「個別性から共通性を抽出」したもので、抽象化や捨象の積み重ねによって生じるものとして、「概念」を単純な観念的な「抽象の産物」として捉えました。しかし、ヘーゲルにとって「概念」は、単に人間が作った便宜的な言葉や観念ではなく、「内在的な必然性によって自己を展開する論理構造」そのものです。マルクスはヘーゲルの「概念」の本質を十分に理解していなかったと言わざるを得ません。

第二に、マルクスとエンゲルスは、ヘーゲルの「概念(der Begriff)」を誤解して単なる主観的な観念的な抽象物として、「観念論的な幻想」と見なしていました。ヘーゲル哲学の「概念」自体は自己運動する論理的実在であり、自己を展開する論理構造であることを見抜けませんでした。

ヘーゲルの「概念」は単なる頭の中の抽象ではなく、現実を貫く論理そのものなのに、マルクスは唯物論的な世界観から、この観念的な自己展開の論理を理解せず、それを「形而上学的な幻想」とか「神秘化された観念論」として物質主義に還元して批判することになった。

その第三は、ヘーゲルの「国家観」に対するマルクスの改変です。
ヘーゲルは『法の哲学』において、国家は「客観的精神の最高の実現形態」であり、国家を「自由の実現形態」として捉えたのに対し、マルクスは国家を「階級支配の道具」とみなし、「国家は支配階級の手段にすぎず、その役割は資本の利益を擁護することにある」といった一面的な国家観を主張しました。そのことによって、本来は家族愛と友愛に満ちた自由な国家であるはずなのに、そこに憎しみと妬みと闘争の不自由な種がまかれました。

許萬元と牧野紀之の二人は、寺沢の指導のもとで切磋琢磨した学友同士でもあります。確かに、寺沢恒信や許萬元、牧野紀之らマルクス主義を継承する立場からのヘーゲル研究は、その徹底性においてヘーゲル哲学研究における功績は大きなものです。しかし、そのいずれもが上記のようなヘーゲル哲学に対するマルクスの誤解を無自覚に無批判に引き継いでしまっているという点で、根本的で致命的な欠陥を抱えたままであると思います。

これまでに赤尾 秀一がマルクスの「ヘーゲル哲学批判」に対して行ったいくつか反論。


§ 280b[概念から存在への移行] - 夕暮れのフクロウ https://is.gd/j9SLmx)
§278c[至高性(主権)をつくる観念論、Der Idealismus, die Souveränität ausmacht] - 夕暮れのフクロウ https://is.gd/ovLOgU
『薔薇の名前』と普遍論争 - 夕暮れのフクロウ https://is.gd/XXPXHK
「神の国」とヘーゲルの「概念」 - 夕暮れのフクロウ https://is.gd/eCm1Xv

事物の価値と欲求 ⎯⎯⎯ 価値の実体について - 夕暮れのフクロウ https://is.gd/MPGE0B

価値は消費者のニーズで決まる⎯⎯マルクス「労働価値説」のまちがい - 夕暮れのフクロウ https://is.gd/lIVw2T

 

ヘーゲル研究における「寺沢学派」 - 夕暮れのフクロウ https://is.gd/X9SKQB

 

 

 

 
 

 

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ヘーゲル『哲学入門』 第二篇  論理学  第五節 [思考と対象の関係]

2024年10月28日 | 哲学一般

ヘーゲル『哲学入門』 第二篇  論理学  第五節 [思考と対象の関係]

§5

Dies ist nicht so zu verstehen, als ob diese Einheit erst durch das Denken zu dem Mannigfaltigen der Gegenstände hinzutrete und die Verknüpfung erst von Außen darein gebracht werde, sondern die Einheit gehört  eben so sehr  dem Objekt an und macht mit ihren Bestimmungen auch dessen eigene Natur aus.(※1)

第五節 [思考と対象の関係]

このことは、あたかもこの統一がまず思考を通して対象の多様性にもたらされ、その結びつきが外部からはじめて持ち込まれたかのように考えてはならない。この統一は、まったく同じく 対象にも属しており、またその諸規定をもって対象に固有の本性をも構成しているのである。

 

※1
統一(主体・思考)と多様性(客体・対象)との関係について、
対象の多様な性質は、思考の介在なしに、すでに対象それ自体において統一されている。認識主体と客体の相互依存性を説明している。

 

ヘーゲル『哲学入門』 第二篇  論理学  第五節 [思考と対象の関係] - 夕暮れのフクロウ https://is.gd/QqPTZQ

 

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ヘーゲル『哲学入門』 第二篇  論理学  第四節 [「私」と思考]

2024年10月23日 | 哲学一般

 

ヘーゲル『哲学入門』 第二篇  論理学  第四節 [「私」と思考]

§4

Der  Inhalt  der Vorstellungen ist aus der Erfahrung genommen, aber die  Form der Einheit  selbst und deren weitere Bestimmun­gen haben nicht in dem Unmittelbaren derselben als solchem ihre Quellen, sondern in dem Denken.(※1)

第四節 [「私」と思考]

表象の内容  は経験から取得されるが、その 統一の形式  そのものや、そのさらなるくわしい規定は、経験の直接的なものの中にではなくて、思考のうちにその源泉がある。

Erläuterung
説明

Ich  heißt überhaupt Denken.  Wenn ich sage:  ich denke,  so ist dies etwas Identisches. Ich ist vollkommen einfach.(※2) Ich  bin denkend  und zwar  immer.

「私」とは、そもそも「思考」のことである。もし私が「私が考える」と言うとき、これはまったく同一のことを言っている。私とはまったく単一なものである。「私」とは 思考するもの  であり、そして、つねにそうである。 

Wir können aber nicht sagen: ich denke immer. An sich wohl, aber unser Gegenstand ist nicht immer auch Gedanke. (※3)Wir können aber in dem Sinne, dass wir Ich sind, sagen, wir denken immer, denn Ich ist immer die ein­fache Identität mit sich und das ist Denken.

しかし、私たちは「私はいつも考えている」とは言えない。それ自体においては確かにそうだが、私たちの対象がまたいつも思考そのものであるわけではないからである。しかし、私たちが「私」であるという意味においては、私たちはつねに考えていると言える。というのも「私」とはつねに自己と同じ単一のものあり、それは思考だからである。

Als Ich sind wir der Grund aller unserer Bestimmungen. Insofern der Gegen­stand gedacht wird, erhält er die Form des Denkens und wird zu einem  gedachten Gegenstand.  Er wird gleich gemacht dem Ich d. h. er wird gedacht.(※4)

「私」として、私たちは私たちのすべての規定の根拠である。対象が思考されるかぎりにおいて、その対象は思考の形式を得て、思考された対象 となる。対象は私と同じものにされる、つまり、対象は思考されるのである。

 


※1
表象(Vorstellungen)の内容は人間の感覚や経験から得られるものだが、それらの感覚や表象をまとめ統一した形で認識するためには、感覚の経験を超えた「思考の働き」が、つまり、私たちが頭の中で行うカテゴリー化や概念化が必要である。それらは経験そのものからではなく、思考から生まれてくる。カントのカテゴリー表がふまえられている。

※2
個人、個体を意味する英語の、individual と同じ。「分割できないもの」「Atom」。

※3
くつろいでいる時や野球観戦中などのように、思考の対象がいつも具体的に存在しているわけではない。

※4
対象がただに存在するだけではなく、「思考される」ことによって私(主体)と同一化される。つまり、対象が思考の枠組みの中に取り込まれる。

 

ヘーゲル『哲学入門』 第二篇  論理学  第四節 [「私」と思考] - 夕暮れのフクロウ https://bit.ly/3AbRhGg

 

 

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ヘーゲル『哲学入門』 第二篇  論理学  第三節 [思考と抽象]

2024年10月14日 | 哲学一般

 

ヘーゲル『哲学入門』 第二篇  論理学  第三節 [思考と抽象]


§3

Das Denken ist Abstraktion, insofern die Intelligenz(※1) von konkreten Anschauungen ausgeht, eine von den mannigfaltigen Bestimmungen weglässt und eine andere hervorhebt und ihr die einfache Form des Denkens gibt.

第三節 [思考と抽象]

知性が具体的な直観から出発し、多様な規定の中から一つを捨て、他のものを取り上げて、それに思考の単純な形式を与える限りにおいて、思考は 抽象 である。

Erläuterung
説明

 Wenn ich alle Bestimmungen von einem Gegen­stand weglasse, so bleibt  nichts  übrig. Wenn ich dagegen eine  Bestimmung weglasse und eine andere  heraushebe, so ist dies abstrakt. Das Ich  z. B. ist eine abstrakte Bestimmung. (※2)


 私がある対象からすべての 規定を取り去るなら、そこには 何も残らない。反対に、ある 規定を捨てて(捨象)別の 規定を取り上げるなら、それは抽象である。たとえば、「私」とは一つの抽象的な規定である。

Ich weiß nur von Ich, insofern ich mich von allen Bestimmungen abson­dere. Dies ist aber ein negatives Mittel. Ich negiere die Bestim­mungen von mir und lasse mich nur als solchen.(※3) Das Abstrahieren ist die negative  Seite des Denkens.(※4)

私が、ただ私について知りうるのは、すべての規定から私のみを切り離して取りあげるからである。しかし、このことは否定的なやり方である。私は私についていろいろと規定することを否定し、そうして、ただ私を何らの規定をももたないものとする。抽象(捨象)するということは、思考の 否定的な  側面である。

 

※1
Intelligenz
情報, 知性, 知恵, 英知などと訳される。
Intelligenz(知性)が、学習や適応など問題解決能力のための技術などを学び活用する能力であるのに対して、
Verstand(悟性)は 論理的に判断する分析的な思考力のことであり、
Vernunft(理性)は真・善・美など道徳的な判断を含む綜合的な思考力である。

※2
思考のプロセスにおいて抽象化(捨象)が行われることを説明している。抽象は同時に捨象でもある。
「精神の現象学」の中においては、「塩」の白く、辛く、結晶の立方体、といったさまざまな規定(性質)の中から、ただ「白い」という性質のみをとり上げることを「悟性」の抽象化(捨象)の働きとして取り上げている。

ヘーゲル『哲学入門』序論についての説明 一[知覚について] - 夕暮れのフクロウ https://bit.ly/3NqITFJ

ヘーゲル『哲学入門』序論についての説明 六[思考について] - 夕暮れのフクロウ https://bit.ly/4f6CyLE

ヘーゲル『哲学入門』序論 七[意志の抽象的自由] - 夕暮れのフクロウ https://tinyurl.com/2d8bhwfk

※3
カントは「物」から、そのあらゆる規定を取り去ると、「物自体」という空虚な抽象しか残らないとして、現象と物自体を切り離し、私たちの認識は「物自体」には達しえないという「不可知論」を主張した。

※4
ヘーゲルは「抽象化」を思考の否定的な側面として指摘している。この警告、指摘の重要性は一般的にあまり認識されていない。

6月15日(木)のTW:「平等」の強制 - 夕暮れのフクロウ https://tinyurl.com/2bkpk7gh

 

ヘーゲル『哲学入門』 第二篇  論理学  第三節 [思考と抽象] - 夕暮れのフクロウ https://tinyurl.com/2yhjbt34

 

 

 

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ヘーゲル『哲学入門』 第二篇  論理学  第二節 [感覚から思考へ]

2024年10月09日 | 哲学一般

 

ヘーゲル『哲学入門』 第二篇  論理学  第二節 [感覚から思考へ]

§2 

Das Denken ist überhaupt das Auffassen und Zusammenfassen des Mannigfaltigen in der Einheit. Das Mannigfaltige als sol­ches gehört der Äußerlichkeit überhaupt, dem Gefühl und der sinnlichen Anschauung an. (※1)

第二節 [感覚から思考へ]

思考とは、そもそも多様なものを一つの統一体として把握し、まとめることである。多様なものそのものは、一般的に外的なものであり、感情や感覚的な直観に依存している。

Erläuterung. 
説明

Das Denken besteht darin, alles Mannigfaltige in die Einheit zu bringen. Indem der Geist über die Dinge denkt, bringt er sie auf die einfachen Formen, welche die reinen Be­stimmungen des Geistes sind. 

思考とは、あらゆる多様なものを統一的に把握し、一つにまとめることにある。精神が事物について考えることによって、それを単純な形式に変えて、その形式が精神の純粋な規定であることを示す。

Das Mannigfaltige ist dem Den­ken zunächst äußerlich. Insofern wir das sinnlich Mannigfaltige auffassen, denken wir noch nicht, sondern erst das Beziehen desselben ist das Denken. Das unmittelbare Auffassen des Mannigfaltigen heißen wir Fühlen oder Empfinden. 

多様なものは、思考に対してはまず外的なものである。
私たちが感覚的に多様なものを捉えているかぎりは、まだ思考しているわけではなく、それらを関係づけることこそが思考である。多様なものを直接的に捉えることを「感じる」とか「知覚する」という。

Wenn ich fühle, weiß ich bloß von etwas; in der Anschauung aber schaue ich etwas als ein mir Äußerliches im Raum und in der Zeit an. Das Gefühl wird zur Anschauung, wenn es räumlich und zeit­lich bestimmt wird.

私が感じるときは、ただ単に何かについて知っているだけであるが、しかし、直観においては、私はある物を空間や時間の中にある私にとって外的なものとして捉える。つまり感覚が空間的および時間的に規定されるとき、それは直観である。

 

※1

思考の働きとは、私たちが日常から得ることのできるさまざまな個別的な具体的な感覚や経験を、一つの意味のある全体へと、つまり普遍へとまとめて認識することである。
外的な事物に対して、私たちの意識が、感覚ー→直観ー→思考へと進むプロセスが説明されている。

 

ヘーゲル『哲学入門』 第二篇  論理学  第二節 [感覚から思考へ] - 夕暮れのフクロウ https://tinyurl.com/yr9fmt87

 

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ヘーゲル『哲学入門』第二篇 論理学 第一節 [論理学と自然論理]

2024年10月04日 | 哲学一般

G.W.F. Hegel
Philosophische Propädeutik
Zweiter Kursus. Mittelklasse. Phänomenologie des Geistes und Logik.
 
第二課程 中級 精神の現象論と論理学

 
Zweite Abteilung. Logik.

第二篇  論理学
Einleitung.
序論

ヘーゲル『哲学入門』第二篇 論理学 第一節 [論理学と自然論理]

§1

Die Wissenschaft der Logik hat das Denken und den Umfang seiner Bestimmungen(※1) zum Gegenstande. Natürliche Logik (※2)heißt man den natürlichen Verstand, den der Mensch überhaupt von Natur hat und den unmittelbaren Gebrauch, den er davon macht. Die Wissenschaft der Logik aber ist das Wissen von dem Denken in seiner Wahrheit(※3)

第一節[論理学と自然論理]

論理学は、思考とその規定の範囲を対象とする。それに対し、自然論理とは人間が本来的にもっている自然な判断力であって、その判断力を直接に使用することである。しかし、科学としての論理学とは、思考そのものの真理についての知識である。

Erläuterung.
説明

Die Logik betrachtet das Gebiet des Gedankens überhaupt. Das Denken ist seine eigene Sphäre. Es ist ein Gan­zes für sich.(※4) Der Inhalt der Logik sind die eigentümlichen Be­stimmungen des Denkens selbst, die gar keinen anderen Grund als das Denken haben. Das ihm  Heteronomische (※5)ist ein durch die Vorstellung überhaupt  Gegebenes.

論理学は、思考の領域全体を考察する。思考は論理学に固有の領域である。論理学はそれ自体において一つの全体である。論理学の内容とは思考そのものに固有の諸規定であり、それは思考の他にまったく根拠をもたない。思考にとって「異質なものもの」とは、表象一般を通して 与えられるもの である。

Die Logik ist also eine große Wissenschaft. Es muss allerdings zwischen dem reinen Ge­danken(※6) und der Realität unterschieden werden; aber Realität, insofern darunter die wahrhafte Wirklichkeit verstanden wird, hat auch der Gedanke. Insofern aber damit nur das sinnliche, äußerliche Dasein gemeint ist, hat er sogar eine viel höhere Realität.(※7)

論理学はそれゆえに偉大な科学である。 しかし、純粋な思考と現実性とは区別されなければならない。ただ、現実ということで真の現実性を意味するのであれば、思考もまた現実性をもっている。しかし、現実性ということで、たんに感覚的な外的な存在のことのみが考えられているなら、思考はさらにより高い現実性をもつ。

Das Denken hat also einen Inhalt und zwar sich selbst auf  autonomische  Weise.(※8) Durch das Studium der Logik lernt man auch richtiger denken, denn indem wir das Denken des Denkens denken, verschafft sich der Geist damit seine Kraft. Man lernt die Natur des Denkens kennen, wodurch man aus­spüren kann, wenn das Denken sich will zum Irrtum verfüh­ren lassen. Man muss sich Rechenschaft von seinem Tun zu geben wissen. Dadurch erlangt man Festigkeit, sich nicht von Andern irre machen zu lassen.

したがって、思考には内容があり、それ自体が 自律的な 存在である。論理学の研究を通して、人はより正しく思考することを学ぶ。というのも、私たちは「思考の思考」を考えることによって、精神はその力を得るからである。思考の本質を知ることで、思考が間違いに陥りそうになるとき察知できるようになる。人は自分の行動をどう説明するかを知らなければならない。そうすることで、他人に惑わされない力を得ることができる。

 

※1
「Bestimmung」とは、ある対象がその対象そのものとして存在するための性質や特性を定義する要素をさす。思考の「規定(Bestimmung)」とは、具体的には、「有」「無」「成」から「本質」「現象」「現実性」などから「精神」に至る概念のことで、それらの範囲は、すでに論理学の体系として示されている。

※2
「自然論理」とは、特に学問的、科学的な訓練を受けていない状態での、人間が生まれついてもっている論理的思考の能力、直感的な思考のことである。

※3
真理(Wahrheit)とは単なる事実の集合ではなく、弁証法的な過程の中で生成され認識されるものであり、対立する要素の統合を通じて成立する全体性と体系を意味している。
たとえば「成」  (Werden)は「有」(Sein) と「無」(Nichts) の真理であるとされる。
(ヘーゲルの「真理」概念)

※4
思考はそれ自体が一つの「領域」であり、「全体」である。思考は他の何かに依存するものではなく、それ自体で存在し、自己完結的なものである。

※5
表象によって与えられるものは「異質なもの(Heteronomische)」である。
表象とは、私たちが何かを頭の中で思い描いたり、心に浮かぶイメージのようなもので、これは経験や感覚に由来するものである。そうした外的な要因や表象(イメージや想像)によって思考に与えられる要素は、哲学的な思考の自律的で純粋な活動とはちがったものだから、他律的で「異質なもの」(Heteronomische)である。

※6
「Gedanke」は「思考」という意味で、個人の論理的な推論や思索のプロセスであるが、「reinen Gedanken」は、そうした個別の具体的な現象や外界の影響を受けない、純粋に論理的な思考のことである。

※7
「より高次な現実性」
ふつうに現実性という場合、眼に見える形や物体など、たんに感覚的で外的な物質的な性質をさす場合が多い
が、そうした物質や外的な存在よりも、それらの背後に存在する法則性や概念を「より高次な現実性」として捉える。

※8
「哲学における自律的な思考」とは、表象(イメージや想像)など、外部から与えられたものではなく、思考それ自体の論理によって自らを生成するものだから「自律的な」ものである。

 

ヘーゲル『哲学入門』第二篇 論理学 第一節 [論理学と自然論理] - 夕暮れのフクロウ https://tinyurl.com/2772hq5k

 

 

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ヘーゲル『哲学入門』 中級  第三段  理性  第四十二節 [理性の確信]

2024年06月14日 | 哲学一般

ヘーゲル『哲学入門』 中級  第三段  理性  第四十二節 [理性の確信]

§42

Das Wissen der Vernunft ist daher nicht die bloße subjektive  Gewissheit,(※1)sondern auch Wahrheit, (※2) weil Wahrheit in der Übereinstimmung oder vielmehr Einheit der Gewissheit und des Seins oder der Gegenständlichkeit besteht.(※3)

第四十二節[理性の確信]
  
理性の知識は、したがって、たんなる主観的な 確実性 ではなくて、むしろ 真理 でもある。なぜなら、真理とは、認識されたことと存在とが、あるいは客観性とが一致していること、あるいは、むしろその統一のうちにあるからである。

 

※1
 Gewissheit 
確信、確実性。知識をもっていること。ここではまだその知識が主観性にとどまっている。

※2
Wahrheit
真実、正しいこと、真理。
主観的な確信が、存在や対象の客観性と一致すること、もしくは、存在がその概念に一致していること。

※3
先の第二段において、自己意識が「不幸な意識」に至るのは、人間の意識が本来的に自己内分裂をその特性としているからである。
分裂した自己意識は、自己自身との不一致や他者との関係における矛盾、信仰における不和などに、必然的に「不一致と矛盾」に陥るから「不幸な意識」とならざるをえない。
しかし、この「不幸な意識」も、主人と従僕との関係や労働を通して、その「疎外」も克服して、ここで自己意識は理性として、主観と客観との統一を、その確実性と真理を確信するようになる。

しかし、この段階では、理性もまだ「表象」の確信にすぎないから、『精神の現象学』においては、そこからさらにすすんで、自然や有機体(生命)の観察や実験へと、さらには、道徳や人倫の領域へと入り込んで、自らの意志や行動を通して世界を変革しようとしたり(「徳の騎士」と「世路」との対立)しながら理性から精神へと移行してゆく。
カントの啓蒙哲学やフランス革命も検証され、「絶対精神」の領域である芸術、宗教、哲学(絶対知)へと向かう考察がくわしく展開されている。しかし、この『哲学入門』ではそれらは一切省略されている。

 


この『哲学入門』の「精神現象論」においては省略されている、『精神の現象学』の「Ⅴ 理性の確信と真理」および「Ⅵ 精神」の内容については、梗概か要約としてまとめておきたいと考えています。

 

ヘーゲル『哲学入門』 中級  第三段  理性  第四十二節 [理性の確信] - 夕暮れのフクロウ https://tinyurl.com/2yh3pozw

 

 

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ヘーゲル『哲学入門』 中級  第三段  理性  第四十一節 [理性が洞察するもの]

2024年06月10日 | 哲学一般

 

ヘーゲル『哲学入門』 中級  第三段  理性  第四十一節 [理性が洞察するもの]

§41

Oder was wir durch die Vernunft einsehen, ist: 1) ein Inhalt, der nicht in unsern bloßen Vorstellungen oder Gedanken be­steht, die wir für uns machten, sondern der das an und für sich seiende Wesen der Gegenstände enthält und objektive Realität hat und 2) der für das Ich kein Fremdes, kein Gegebenes, son­dern von ihm durchdrungen, angeeignet und damit eben so sehr von ihm erzeugt ist.(※1)(※2)

第四十一節[理性が洞察するもの]

あるいは、私たちが理性を通して理解するところのものは、1) 私たちが自分たちのために作った単なる表象や思考のうちにはない内容ではなく、むしろ対象に本来的に存在する本質を含んだ、そして客観的な実在性をもった内容であり、また、2) 「私」にとってその内容は疎遠なものではなく、また誰かから与えられたものでもなく、「私」によって洞察されて取り入れられ、そして、まさにその結果「私」によって作り出されたものである。

 

※1
was wir durch die Vernunft einsehen
理性によって私たちが認識するものは、「私」によって探求されて手に入れ、生み出された主観的な内容であるとともに、客観的であり現実性をもった内容である。それは私にとってよそよそしいものではない。この理性の段階において主観と客観の対立は統一され宥和する。

※2  
理性のこの段階に至った自己意識は、個別と普遍との統一とその実在性は確信する。しかし、「現象学」の理性の項においては、そこから自然や有機体の観察や実験へと、さらには道徳や人倫の領域へと展開していく。そこでよく知られている「徳の騎士」(革命家、若者)が「世路」(現実の法則、大人)に敗北する論理などは、ここではすべて省略されている。

 

ヘーゲル『哲学入門』 中級  第三段  理性  第四十一節 [理性が洞察するもの] - 夕暮れのフクロウ https://tinyurl.com/22qpcy9d

 

 

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ヘーゲル『哲学入門』  中級  第三段  理性  第四十節 [理性について]

2024年06月07日 | 哲学一般

 

ヘーゲル『哲学入門』  中級  第三段  理性  第四十節 [理性について]

 Dritte Stufe. Die Vernunft.

§40

Die Vernunft ist die höchste Vereinigung des Bewusstseins und des Selbstbewusstseins oder des Wissens von einem Gegen­stande und des Wissens von sich. Sie ist die Gewissheit, dass ihre Bestimmungen eben so sehr gegenständlich, Bestimmungen des Wesens der Dinge, als unsre eigenen Gedanken sind. Sie ist eben so sehr die Gewissheit einer selbst, Subjektivität, als das Sein oder die Objektivität, in Einem und demselben Denken.(※1)

第三段  理性

第四十節[理性について]

理性とは、意識と自己意識の最高の統一である。つまり、対象についての知識と自己についての知識との最高の統一である。理性とは次のことを確信することである。すなわち、理性の規定が、私たち自身の思考として、まったく客観的であって、事物の本質についての規定でもあるという確信である。理性とは、一つの同じ思考にあって、存在や客観性とまったく同じように、自己自身や主観性を確信することである。

 

※1
「精神の現象学」の中で展開されているように、自己意識は長い格闘ののちに、ここにおいて理性の確信にたどり着く。
理性の規定は、客観的であり事物の本質であるとともに、それはまた自己自身や主観性との統一でもある。すなわち、真理であるという確信である。
「理性」は通俗的にも多用される概念であるが、ここでヘーゲルが規定しているように、哲学的には絶対知を把握する認識能力をいう。
自己意識が理性に至るまでにたどる道程は、『精神の現象学』においてはくわしく展開されているが、この『哲学入門』ではすべて省略されている。

 

ヘーゲル『哲学入門』  中級  第三段  理性  第四十節 [理性について] - 夕暮れのフクロウ https://tinyurl.com/2bzlp58w

 

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