作雨作晴


日々の記憶..... 哲学研究者、赤尾秀一の日記。

 

八月の読書

2019年08月17日 | 書評
 
八月の読書

今月の一冊として、ハミルトン・フィッシュの『FDR:THE OTHER SIDE OF THE COIN How We Were Tricked into Word War Ⅱ』の邦訳 『ルーズベルトの開戦責任』(渡辺 惣樹訳 草思社  2014年9月)を図書館から借りて読んでいます。

本書を読もうと思った動機は、先の日米戦争の終戦から七四年を経過した今日においても、現代の日本という国家社会を深く根底から決定的に規定している歴史的事件として、この日米戦争の影響は深刻で、私たちの現在もこの戦争の存在抜きにしては考えられないからです。それで本書がこの戦争の真実を少しでも深く知ることの一助にもなればと思いました。

実際に300万にのぼると言われる戦死者が、時代が時代なら幸福に生き永らえることもできたはずなのに、戦争のために生を断絶させられることになりました。また、そうした戦没者の方々のみならず、私たち戦後生まれの世代も、母親たちの胎内から幼少期へと、さらに老年期から死に至るまで、私たちの心身にはこの戦争の影響を深く刻み込まれてそれぞれの生涯を生きることになります。だから私たちは自己の存在をより客観的に把握するためにも、先の日米戦争の歴史的な真実を知る必要があると思います。また、それなくして日本という国家社会の正しい未来像も描けないからです。

特に、この日米戦争を「勝利」によってではなく「敗戦」で迎えなければならなかったために、戦後の日本社会にもたらされた断絶と混乱による悲喜劇は、今日の日本国民の精神により深刻に投影されています。その深刻さの度合いは、アメリカやイギリスなどの「戦勝国」の国民、国家社会とは比較になりません。いわゆる「慰安婦問題」や「靖国問題」に見られる国論の分裂もその例だと思います。

裁判事件などでもそうですが、多くの事件の真実を知るためには、その事件の現象に関わる事実をより全面的に客観的に探索してゆく必要があると思います。このことは歴史な事件としての先の日米戦争について言えます。裁判官は被告と原告の両者の主張を公平に聞く必要があります。

また、日米戦争について回顧し評価するとしても、そこには様々な見方があります。もちろん、先の日米戦争に対する歴史観の国家国民の間でもっとも支配的なものは、いわゆる戦勝国GHQの手によって行われた「東京裁判」の過程で明らかになった、戦勝国の歴史観、価値観に基づいたいわゆる「東京裁判史観」と言われるものです。それが戦後日本の国家国民の基本的な歴史観となったのは、敗戦国の宿命ともいうべきものでやむを得なかったと思います。

それはある意味でやむを得ないものですが、戦後半世紀を過ぎて七四年を経過しようとする今日、あらためてこの「東京裁判史観」を検証する必要があると思います。特に敗戦国として顧みられることのなかった「大日本帝国政府」の立場を、彼らの論理を検証する必要があると思います。そうでなければ、先の日米戦争の公平な評価はできないでしょう。

何れにしても、戦後半世紀以上を経過した今日こそ、様々な利害によって隠されていた事実が現れて来ることによって、さらに歴史的な真実の追求は可能になると思います。日米戦争の当事者中の当事者であるルーズベルト大統領に対する批判者としての、このアメリカの政治家による証言もその一つです。同じアメリカ人の政治家が当時の日米戦争を、あるいは当時の日米関係をどのように観察していたかを知る上で参考になるかもしれないと考えたからです。それは、あの日米戦争をより客観的に認識することになるはずです。


「私は二十五年間、共和党の下院議員であった。一九三三年から四十三年まで外交問題委員会、一九四〇年から四五年までは議員運営委員会の主要メンバー であった。・・・・・・・・
私は今では、あのルーズベルトの演説は間違いだったとはっきり言える。あの演説のあとに起きた歴史をみればそれは自明である。アメリカ国民だけでなく本当のことを知りたいと願う全ての人々に、隠し事のない真実が語られなければならない時に来ていると思う。あの戦いの始まりの真実は、ルーズベルトが日本を挑発したことにあったのである。彼は日本に最後通牒を突きつけていた。それは秘密裏に行われたものであった。真珠湾攻撃の十日前には、議会もアメリカ国民をも欺き、合衆国憲法にも違反する最後通牒が発せられていた。
 今現在においても、十二月七日になると、新聞メディアは必ず日本を非難する。和平交渉が継続してる最中に、日本はアメリカを攻撃し、戦争を引き起こした。そういう論説が新聞紙面に踊る。しかしこの主張は史実とは全く異なる。クラレ・ブース・ルース女史(元下院議員、コネチカット州)も主張してるように、ルーズベルト大統領はわれわれを欺いて、(日本を利用して)裏口から対ドイツ戦争を始めたのである。」
(本書18ページ)

「英国チャーチル政権の戦時生産大臣(Minister  of  Production)であったオリバー・リトルトンは、ロンドンを訪れた米国商工会議所のメンバーに次のように語っている。(一九四四年)。「日本は挑発され真珠湾攻撃に追い込まれた。アメリカが戦争に追い込まれたなどという主張は歴史の茶番(a  travesty  on  history)である」
 天皇裕仁に対して戦争責任があると非難するのは全く間違っている。天皇は外交交渉による解決を望んでいた。中国及びベトナムからの撤退という、それまで考えられなかった妥協案まで提示していた。

米日の戦いは誰も望んでいなかったし、両国は戦う必要がなかった。その事実を隠す権利は誰にもない。特に歴史家がそのようなことをしてはならない。両国の兵士は勇敢に戦った。彼らは祖国のために命を犠牲にするという崇高な戦いで命を落としたのである。しかし歴史の真実が語られなければ、そうした犠牲は無為になってしまう。これからの世代が二度と同じような落とし穴に嵌るようなことはなんとしても避けなければならない。」(19ページ)

「ルーズベルトとチャーチルの二人がアメリカをこの戦争に巻き込んだ張本人である。チャーチルはのちにこの戦争は不必要な戦争であったとも言っている。これには驚くばかりである。チャーチルが喜んでいるのは、軍事力だけではなくアメリカの巨大な資金援助がイギリスになされたからだ。」

「私は、この書の発表を、フランクリン・ルーズベルト大統領、ウェストン・チャーチル首相、ヘンリー・モーゲンソー財務長官、ダグラス・マッカーサー将軍の死後にすることに決めていた。彼らを個人的にも知っているし、この書の発表は政治的な影響も少なくないからである。彼らは先の大戦の重要人物であり、かつ賛否両論のある人々だからである。
私はこのような人物の評判を貶めようとする意図は持っていない。私は歴史は真実に立脚すべきだとの信条に立っているだけである。それは、言ってみれば、表側だけしか見せていないコインの裏側もしっかり見なければならない、 と主張することなのである。 コインの裏側を見ることは、先の大戦中あるいは戦後すぐの時点では不可能であった。戦争プロパガンダの余韻が充満していた。そうした時代には真実を知ることは心地よいものではない。しかし、今は違う。長きにわたって隠されていた事実が政府資料の中からしみ出してきている。これまで国民の目に触れることのなかった資料が発表されはじめたのである。」(23ページ)

 

 

 

 
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書評:遠藤誉著『卡子(チャーズ)――中国建国の残火』

2016年10月09日 | 書評

書評:遠藤誉著『卡子(チャーズ)――中国建国の残火』

 

書評というよりも、単なる読書記録、感想文に過ぎない。

この本の著者である遠藤誉氏は1941年(昭和16年)中国の吉林省長春市で生まれた。個人がいつどこで生まれるかは、その個人の宿命とも言えるもので、この本の著者もそうであるように、生まれた土地と時代が、その個人の命運を決定することになる。


著者の生まれた中国北東部には、当時すでに満洲国が建国されており、日本の強い影響力のもとにあった。というよりも日本の行政指導のもとで社会基盤が整備され「五族協和」の「王道楽土」をスローガンに、めざましく国造りが行われていた。

この満洲国の権益を巡る日本、アメリカ、ロシアの争いが、後の太平洋戦争の原因となった。日本に比較的に同情的な立場にあったポルトガル人で後に日本に帰化した作家で、もと駐日ポルトガル外交官だったヴェンセスラウ・デ・モラエスは、「日米両国は近い将来、恐るべき競争相手となり対決するはずだ。広大な中国大陸は貿易拡大を狙うアメリカが切実に欲しがる地域であり、同様に日本にとってもこの地域は国の発展になくてはならないものになっている。この地域で日米が並び立つことはできず、一方が他方から暴力的手段によって殲滅させられるかもしれない」との自身の予測を祖国の新聞に伝えたという。

日本国の満洲国への関与については、太平洋戦争の敗北の結果、GHQやマルクス主義から道徳論で善悪の立場から論じられることは多いが、当時の価値観や国際情勢から多面的に考察される必要はあるだろう。

それはとにかく、アメリカ合衆国をモデルに建国されたという満洲国における日本の利権と主導に対して、アメリカを始めとする欧米諸国が複雑な感情を抱いたことは想像できる。遅れて欧米の列強に割り込み始めた日本人に対する偏見や憎悪がそこになかったとはいえない。満洲国の建設の様子はすでに映像に記録されていてyoutubeなどに見ることもできる。

当時の満洲国の独立の承認をめぐって日本は国際連盟を脱退し、後に戦争へと至る道を歩み始めていたが、国際的に完全に孤立していたわけでもなく、ドイツやイタリアなどのいわゆる枢軸国やバチカンからの承認を得ていた。

当時の日本の国策についての検討もいずれ行いたいと思うけれど、とにかく日本とアメリカとの矛盾と利害対立は、1941年(昭和16年)12月8日に真珠湾攻撃を端緒としてついに太平洋戦争として頂点に達した。著者は戦争の始まったこの年に生まれていたことになる。著者が満洲国に生を享けるに至ったいきさつについては、本書に次のように述べられてある。

「中国大陸にはアヘンやモルヒネ中毒患者が大勢いる。中国に渡ってギフトールを製造すれば多くの人を苦しみから救うことができる。父はこの仕事を天から授かった使命と受け止め、1937年(昭和12年)に中国に渡った。父四八歳、母二九歳、そして二人の間には、父の先妻の子である十六歳の男児が一人と、父と母との間にできた一歳の女の子が一人いた。」(s.25)

現在の中国吉林省長春市は著者が生まれた当時は、満州国の国都として「新京」と呼ばれていた。そして著者が生まれてからわずか五年後には日本は大東亜戦争に敗北し、日本がその建国を主導した満州国は1945年8月18日に皇帝溥儀が退位して滅亡する。

著者の父が従事して大きな収益を得ていた製薬業も日本の敗戦と満洲国の滅亡にともなって入ってきた蒋介石の国民党によって中国の企業として改編された。製薬技術は当時の中国民衆にとっても重要であり、製薬技術者として著者の父は中国国民党によって留用されたのである。その結果として満州在留の多くの日本人が祖国に引き揚げていったのに著者の家族は中国にとどまることになった。

その後1946年になって中国大陸には毛沢東の指導する中国共産党と蒋介石の指導する国民党との間に内戦が発生した。本書のテーマでもある、著者の遠藤氏が巻き込まれ体験することになった「卡子の悲劇」は、まさにこの中国国内の国共内戦のさなかに起きた事件である。

国民党は旧満洲国の首都であった新京、長春を死守しようとし、毛沢東の中国共産党の八路軍は、都市を農村が包囲するという戦略を取って、著者の暮らしていた長春を包囲する。国民党軍は空輸によって食料品などを確保していたが、著者家族たちや一般民衆は食糧もなく飢餓で苦しみ死に絶えてゆく。そうしたおぞましい環境の中に、まだ幼い著者は暮らさざるを得ず、そこでの体験が著者の精神に深い傷としてトラウマとして刻まれることになる。その体験が克明に本書に記録されている。

「卡子(チャーズ)」とは、長春市域にあって国民党軍と八路軍に挟まれた中間地帯で、鉄条網で二重に囲まれたところである。多くの難民はそこに閉じ込められ、どこにも脱出できずに多くの民衆がそこで餓死してなくなった。後にになって著者が調査したところによれば、その死者は30万人にも及ぶという。しかし、この事件については今日においても中国共産党政府は公式には認めていないという。

一時は共産党八路軍は長春に侵入してきたがすぐに国民党軍が市街に戻り、八路軍は市を取り巻いて持久戦に持ち込むという膠着状態が続く。そこで飢えから兄や弟を失った著者の家族は長春を脱出することを決意する。特殊な製薬技術者であった父は八路軍にも重用され「卡子(チャーズ)」という生き地獄から出ることを許されて、すでに共産主義勢力の手に落ちていた延吉に向かう。途中傷病で死の淵に沈みかけた著者を救ったのは、かって父の工場で働いていてその時は八路軍の衛生兵になっていた若い中国人だった。

新しく移動した朝鮮系の住民の多い延吉もすでに共産主義主義社会の生活圏で、そこで著者家族たちも共産主義の洗礼を受ける。

「私たちが延吉に着いた時には、終戦時の混乱や人民裁判はすでに下火になっており、代わりに洗脳の嵐が吹きまくっていた。」「延吉に住む日本人の間では、週に三回、夜の学習会というものが開かれていた。洗脳のための学習会だ。共産主義思想で日本人の脳を洗い直す。」(s.13)

毛沢東の中国共産党が支配権を確立し始めた中国における共産主義運動の現実の姿が体験的に描写されている。

 「もう、やるだけのことはやりました。この上は両腕両足を切断する以外にありませんが、切断したところで、それで助かるという保証があるわけではないですからねえ・・・・・。ま、せめて何か本人の欲しがるものでも食べさせてあげてください」(s.229)

著者は大衆病院の熊田先生から臨終を宣言されるが、父親の奔走で手に入れたストマイでかろうじて一命を取り留める。その蘇生と時を同じくして、著者は共産主義中国の建国と運命をともしてゆく。この時1949年、著者は8歳になっていた。

その地で小学校に入学した著者は共産主義教育を受ける。そこでの経験を次のように記録している。

「勉強だ、勉強だ。歌を歌い、歌のリズムに合わせて右手、左手と交互に握り直しながら、校庭にしゃがんで炭団を作っている。教室の中からは別の歌声が流れる。「民衆の旗、赤旗は」で始まる曲だ。校舎に入ると頭の上に三枚の肖像画がかけてある。中央がスターリン、その両隣が毛沢東と徳田球一である。」(s.252)

しかし、そこでかすかに芽生えはじめた著者の未来への期待を裏切るかのように1950年昭和25年6月25日、朝鮮戦争が勃発する。延吉に住む日本人にも疎開さわぎが及んでくる。そうしたときに、かって著者の父の製薬会社に雇われたことがあり、その時は事業に成功していた中国人から天津に招かれるという僥倖に恵まれる。天津は中国上海と並んで都市文化の色彩を色濃く残した大都会である。

天津というイルミネーションの洪水が夜空いっぱいを駆けめぐる大都市にたどり着いてはじめて、かっての長春での豊かな生活を思い出し、10歳足らずの女の子にはあまりにも過酷なそれまでの逃避行での体験からも癒されてゆく。天津での豊かで美しい都市生活の様子が文学者のような筆致で描かれている。

「気がつくと、私たちはあるレストランの前に立っていた。私たち一家をこの天津に招いてくれた張佑安さんが経営する「克林餐庁」というロシア料理の店である。ガラス戸の向こうに、金ボタンのついた赤い服を着た、痩身の少年が二人立っている。服とお揃いの、金糸の縁取りのついた赤いアーミーハットを斜めにかぶったそのドアボーイたちはおもちゃの兵隊を思わせる。まるで機械仕掛けのように両開きのドアを中心に面対称に動いている。二人はドアを開けながら揃ってお辞儀をし、白い手袋で私たちの行き先を差し招いてくれた。白手袋の先には幅一メートル半ほどの真紅の絨毯が続く。天井にはガラスの雫を無数にぶら下げたような大きなシャンデリアが燦然と輝く。透明な雫は虹色に乱反射して、今にもしたたり落ちてきそうだ。」(s.290)

そうした生活のなかでやがて著者は感情の正常な発露を取り戻してゆく。その一方で新しく始まった天津での裕福な階層としての学校生活の中で、中国にとっては敵国人であった残留日本人として、著者は社会のもう一つの現実を思い知らされながら生きることになる。そこでの体験は次のように描写されている。

「華安街七号に日本人が住んでいるという噂はすぐに広まったらしい。そして顔も覚えられてしまったようだ。学校の行き帰りに、近所の子供に、「日本鬼子!(日本の鬼め!)」「日本狗!(日本の犬畜生!)」と罵られ、石を投げつけられるようになる。唾を吐き吐きかける者もいれば、手鼻の鼻汁を吹きかけるものもいる。学校いる間はもっと肩身が狭い。授業はすべて政治学習であるといっていいほど、思想教育が徹底しているからだ。いかに毛沢東が偉大であるか、いかに中国共産党がすばらしいか、日本帝国主義の侵略によっていかに中国人民が苦しんだか、しかし人民はいかにして勇敢に抗日戦争に立ち上がったか、その先頭に立った人民解放軍はいかに輝かしい軍隊であるか・・・。これらがくり返しくり返し語られる。日本帝国主義、日本の中国侵略、三光作戦、南京大虐殺、抗日戦――。」

「かって裕福な家庭の子女であったとは言え、彼らの身の上にも侵略戦争の爪痕が残されていないわけではない。もう十七歳になる、片足をなくした子、日本軍によって親を失った子、そんな生徒たちも中にはいる。そういう人たちの目の中には嘲りではなく、あからさまな憎しみがある。まるで、こうなったのもすべてお前のせいだ、と言わんばかりだ。日本人であることは、ここでは、それだけで罪人であることに等しい。十歳の女の子が、あの「侵略戦争」の全責任を負わされ、八十個あまりの瞳の責めを一身に担わなければならない。」(s.315)

「・・・その学期はただただ、戸惑いと屈辱と、日本人であることへの謂れなき罪悪感と劣等感の中で終わった。しかし、それらにびくつきながらも、学期の終わりには私はすでに中国語をほとんど理解するようになっていた。それでも試験の対象からは外された。夏休みに入ると私はこっそりと、そして猛然と発音練習に励んだ。中国人と寸分たがわぬ発音をしなければならない。発音の違いはすなわち日本人であることの証となり、それはすぐさま激しい非難といじめにつながる。学校という社会において私を守ってくれるものは何もない。」
(s.317)

このように戦争が、中国、朝鮮、アメリカ、日本などの国家間の政治的な、歴史的な軋轢が、まだ10歳になるかならぬかという少女の生活や心に深刻な影を刻み込んでゆく。

1953年(昭和28年)3月になってスターリンが死に、7月に朝鮮戦争が休戦になると、在留日本人の帰還が取り上げられ、また、ソ連からの産業技術の導入が始まると、中国は日本人技術者の留用から転じて引き揚げを勧告するようになった。そうした環境の変化の中で著者の父が帰国を決意させるようなった動機について次のように書いている。このとき1953年昭和28年著者は11歳である。

「私は日本に向かう船の甲板に立っていた。三反五反運動の中で、父と母が特に目をかけていた女性が父を突き上げる側にまわったことが、父に帰国を決心させたからだ。・・・常に他人を攻撃していなければその日が無事に送れないような、こんな体制の中では、人の道を全うすることができない。父は、そう見極めたらしい。中国人民への服務を、自らに課した終身の掟として公安局の帰国勧誘を断ってきた父だが、この一件があってから突然気持ちを変えた。」(s.357)

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奥平康弘氏の著書『「萬世一系」の研究』について3

2014年03月18日 | 書評

 

奥平康弘氏の著書『「萬世一系」の研究』について3


先日、憲法学者の奥平康弘氏の著書『「萬世一系」の研究』を読み始めて、その感想をツイッターで呟きはじめましたが、ツイートによる投稿のために推敲も不十分で読みにくくわかりにくいと思いました。

それでとりあえず段落や用語などを少し手直しして投稿し直しました。口語調にはしませんでした。いずれ通読した後に改めて書評も書いておきたいと思います。ただ細部についてはとにかく、奥平康弘氏の「共和制国家観」についての核心的な批判については、このツイートの投稿で十分であるようにも思います。いずれにしても、もと国立大の法学部の教授という公職にあった方の「国家観」として、その影響と責任については、良かれ悪しかれ深刻だと思います。

それはたとえば、裴 富吉という朝鮮人の学者らしい人による、皇室の解体を企図した憎悪に満ちた「反日」の「危険な革命的思想」の芽として、その悟性的で「狂信的な」全体主義的な論考などにもすでに現れていると思います。


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少し時間に余裕も出来はじめたので、以前に批判したことのある、元東大教授で憲法学者の奥平康弘氏の著書『「萬世一系」の研究』を読み始めた。以前に「憲法学者奥平康弘氏の伝統破壊的国家観について」http://goo.gl/EjjuFZ で批判したことがあるので、改めて読み直そうと思ったからである。

以前に奥平康弘氏を批判したのは氏の『「萬世一系」の研究』を直接読んだ上での批判ではなかったから、何時の日か奥平氏の著書に直接目を通した上で批判する必要のあるのは当然のことだった。しかし、学者ならぬ私にはなかなかその時間もなく奥平氏の本も読む余裕はなかった。

私が以前に奥平氏の『「萬世一系」の研究』を批判したのは、あるサイトにこの本の内容が纏められており、そこで奥平氏の思想の概略を知り得たからだった。だから私のその批判は、著書自体を読破した上での批判ではなかった。奥平氏の著書『「萬世一系」の研究』の内容の概略を纏めたサイトは、「◆ 奥平康弘 稿「『首相 靖国 参拝』に疑義あり」◆ 」と題されたサイトhttp://centuryago.sakura.ne.jp/okudaira.html で、その中で奥平氏の著書は「■奥平康弘『「萬世一系」の研究-「皇室典範的なるもの」への視座-』(岩波書店,2005年3月)は,「天皇制は民主主義とは両立しえないこと、民主主義は共和制とむすびつくほかないこと」を(同書,382頁),訴えた著作である。」とまとめられていた。

それは裴 富吉という朝鮮人の学者らしい人が開いておられるらしいホームページの中にあったものである。そこで奥平氏の著書が、裴 富吉という朝鮮人らしい人によって「天皇制は民主主義とは両立しえないこと,民主主義は共和制とむすびつくほかないこと」というように、その結論としてまとめられているのを読んだだけで、ツイッターで批判したものである。

もちろん、裴 富吉という人の結論が本当に奥平氏の著書を正しく纏めたものであるかどうかも、本文そのものをまだ読んでもいない私には批判する資格なかったのかもしれない。

ただ「天皇制は民主主義とは両立しえないこと,民主主義は共和制とむすびつくほかないこと」という奥平氏のこの結論のまとめを読んですぐに直観したことは、この結論はまぎれもなく「悟性的思考」の典型ではないか、ということだった。そして、この悟性的思考による「結論」に、今では忘れられがちなフランス革命の否定的側面や、中国の文化大革命、ポルポト独裁政権によるクメール・ルージュ殺戮事件、スターリンの強制収容所などに根底に存在する共通の論理を見いだせるように思えたからである。

だから私のツイートでの批判は、「抽象的で破壊的な革命的国家観の危険性」というものとなった。今ようやく奥平康弘氏の著書そのものを読みはじめたけれども、改めて痛感させられることは、奥平康弘氏の憲法学の学識に比べれば私のそれなどは到底及びもつかないものであることである。

それにしても、奥平康弘氏の「天皇制」に対する嫌悪感というものが、一体何に起因するものなのか、という疑問が生じる。そもそも「天皇制」という用語自体が、マルクス主義の用語であるし、少なくとも皇室に敬意を抱くものは不必要にそうした呼称は使用しないものである。少なくとも「天皇制」という用語には、自然法思想を認めない実定法主義のにおいがする。

ヘーゲル主義の立場からは必要とあれば「君主制」という用語を使用するだろう。それはとにかく、確かに憲法学に関する学識には奥平康弘氏の足許にも及ばない私が、「天皇制は民主主義とは両立しえないこと,民主主義は共和制とむすびつく」として裴 富吉という朝鮮人学者らしい人によってまとめられた奥平氏の『「萬世一系」の研究』の結論に対して「その悟性的で、破壊的、革命的な氏の結論」として批判したのも、ヘーゲル哲学を支持する者としての立場からだった。

ヘーゲルはその著書『法の哲学』の中で「立憲君主国家制」の意義とその必然性を論証している。その論理を正しいと認める立場からすれば、奥平康弘氏の著書に示された「天皇制は民主主義とは両立しえないこと,民主主義は共和制とむすびつくほかないこと」という結論は、ヘーゲルの終生批判した悟性的思考そのものでしかないものである。その悟性的思考の論理の帰結は、フランス革命や中国の文化革命といった暴力的で破壊的な結末をもたらすものとして歴史的事実としても明らかである。

ヘーゲル哲学の特質はその科学としての性格にある。彼が「国家と自然法思想」の論理を明らかにした著書『法の哲学』もそうで、ヘーゲルは国家の形態としては『立憲君主制』を至高のものとして絶対的なものとして論証している。このヘーゲル哲学を支持する立場からは、国家の論理として「天皇制は民主主義とは両立しえないこと,民主主義は共和制とむすびつくほかないこと」といった奥平氏のような結論は出て来ない。

憲法学者としてのこうした奥平氏の思想に対して、「こんな悟性的な思考しか出来ない三文学者が、日本の「最高学府東京大学」の法学部で学生たちに憲法を長年教えてきた。これでは日本国がアメリカや中国のような悟性国家になるのも無理ない」と批判した根拠もそこにある。

ヘーゲル哲学は「科学」でもある。だから『法の哲学』によって論証された国家の論理として、その結論としての「立憲君主国家体制」に対して奥平氏が「共和制国家」を主張するのであれば、少なくともヘーゲルの『法の哲学』を批判してからでなければならないだろう。

マルクスなどはそれがわかっていたから、それが正しかったか間違っていたかはとにかく『ヘーゲル法哲学批判』を行ってから彼自身の「共産主義国家観」を明らかにしようとしたのである。

それに対して、奥平康弘氏の著書『「萬世一系」の研究』を読み始めても、奥平氏にはヘーゲル哲学を研究した足跡はほとんど見あたらない。ヘーゲルは彼自身の哲学を少なくとも「科学」として主張している。論証された必然的なものとして国家体制としての「立憲君主国家体制」をヘーゲルは結論としている。

だからもし、奥平氏が憲法学者として「共和制国家」を主張するのであるならば、ヘーゲルが彼の著書『法の哲学』のなかで明らかにした「国家と自然法思想」の論理の破綻を証明すると共に、「天皇制は民主主義とは両立しえない」「民主主義は共和制とむすびつくほかない」ところの奥平氏自身の「共和制国家観」を論証する必要があるだろう。

奥平康弘氏の『「萬世一系」の研究』は今ようやく読み始めたばかりで何とも言えないけれども、多少読みかじっただけでの印象ではあるけれども、奥平氏の「国家観」や「共和制論」には、悟性的思考の特徴しか感じられないように思う。そこには抽象的で無味乾燥の、観念的で生きた具体性を見いだせない。

第一に氏の論文のなかに頻出する「天皇制」という用語がそれである。そもそも奥平氏には「自然法思想」はなく、ケルゼンの人工的な「実定法思想」しか頭の中に無いようでもある。いかにもアメリカ人のように「人権」の所有者としての抽象化された「人間」と「自由と民主主義」の人工的な「合衆国=united states」しか存在しないようで、伝統とか民族とか皇室とかいった、歴史と風土の印影を帯びた人間も国家も見あたらない。

一体どのような時代を背景に奥平康弘氏のような思想が育まれたのだろうかと思う。私の拙い書評に対して懇切な返信を送ってくださった都立大学で教授をされていた橡川一朗氏のことを思い出した。

2014年3月14日

 

 

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3月14日(金)のTW:奥平康弘氏の著書『「萬世一系」の研究』について2

2014年03月15日 | 書評

ものとなった。今ようやく奥平康弘氏の著書そのものを読みはじめたけれども、改めて痛感させられることは、奥平康弘氏の憲法学の学識に比べれば私のそれなどは到底及びもつかないものであることである。それにしても、奥平康弘氏の「天皇制」に対する嫌悪感というものが、一体何に起因するものなのか、


という疑問が生じる。そもそも「天皇制」という用語自体が、マルクス主義の用語であるし、少なくとも皇室に敬意を抱くものは不必要にそうした呼称は使用しないものである。少なくとも「天皇制」という用語には、自然法思想を認めない実定法主義のにおいがする。ヘーゲル主義の立場からは必要とあれば


「君主制」という用語を使用するだろう。それはとにかく、確かに憲法学に関する学識には奥平康弘氏の足許にも及ばない私が、「天皇制は民主主義とは両立しえないこと,民主主義は共和制とむすびつく」として裴 富吉という朝鮮人学者らしい人によってまとめられた奥平氏の『「萬世一系」の研究』の結論


に対して「その悟性的で、破壊的、革命的な氏の結論」として批判したのも、ヘーゲル哲学を支持する者としての立場からだった。ヘーゲルはその著書『法の哲学』の中で「立憲君主国家制」の意義とその必然性を論証している。その論理を正しいと認める立場からすれば、奥平康弘氏の著書に示された


「天皇制は民主主義とは両立しえないこと,民主主義は共和制とむすびつくほかないこと」という結論は、ヘーゲルの終生批判した悟性的思考そのものでしかないものである。その悟性的思考の論理の帰結は、フランス革命や中国の文化革命といった暴力的で破壊的な結末をもたらすものとして歴史的事実として


も明らかである。ヘーゲル哲学の特質はその科学としての性格にある。彼が「国家と自然法思想」の論理を明らかにした著書『法の哲学』もそうで、ヘーゲルは国家の形態としては『立憲君主制』を至高のものとして絶対的なものとして論証している。このヘーゲル哲学を支持する立場からは、奥平氏のように


国家の論理として「天皇制は民主主義とは両立しえないこと,民主主義は共和制とむすびつくほかないこと」という結論は出て来ない。憲法学者としてのこうした奥平氏の思想に対して、「こんな悟性的な思考しか出来ない三文学者が、日本の「最高学府東京大学」の法学部で学生たちに憲法を長年教えてきた。


これでは日本国がアメリカや中国のような悟性国家になるのも無理ない」と批判した根拠もそこにある。ヘーゲル哲学は「科学」でもある。『法の哲学』によって論証された結論としての国家の論理としての「立憲君主国家体制」に対して、奥平氏が「共和制国家」を主張するのであれば、少なくともヘーゲルの


『法の哲学』を批判してからでなければならないだろう。マルクスなどはそれがわかっていたから、それが正しかったか間違っていたかはとにかく『ヘーゲル法哲学批判』を行ってから彼自身の「共産主義国家観」を明らかにしようとしたのである。それに対して、奥平康弘氏の著書『「萬世一系」の研究』を


読み始めても、奥平氏にはヘーゲル哲学を研究した足跡はほとんど見あたらない。ヘーゲルは彼自身の哲学を少なくとも「科学」として主張している。論証された必然的なものとして国家体制としての「立憲君主国家体制」をヘーゲルは結論としている。だからもし、奥平氏が憲法学者として「共和制国家」を


主張するのであるならば、ヘーゲルが彼の著書『法の哲学』のなかで明らかにした「国家と自然法思想」の論理の破綻を証明すると共に、「天皇制は民主主義とは両立しえない」「民主主義は共和制とむすびつくほかない」ところの奥平氏自身の「共和制国家観」を論証する必要があるだろう。


奥平康弘氏の『「萬世一系」の研究』は今ようやく読み始めたばかりで何とも言えないけれども、多少読みかじっただけでの印象ではあるけれども、奥平氏の「国家観」や「共和制論」には、悟性的思考の特徴しか感じられないように思う。そこには抽象的で無味乾燥の、観念的で具体性を見いだせない。第一に


頻出する「天皇制」という用語がそれである。そもそも奥平氏には「自然法思想」はなく、ケルゼンの人工的な「実定法思想」しか頭の中に無いようでもある。いかにもアメリカ人のような「人権」の所有者としての抽象化された「人間」と「自由と民主主義」の「合衆国=united nations」しか


存在しないようで、伝統とか民族とか皇室とかいった、歴史と風土の印影を帯びた人間も国家も見あたらない。一体どのような時代を背景に奥平康弘氏のような思想が育まれたのだろうかと思う。私の拙い書評に対して懇切な返信を送ってくださった都立大学で教授をされていた橡川一朗氏のことを思い出した。


核戦争によって荒廃した国を手に入れるよりも、物資が十分供給されている国に手をつけるほうが賢明ではないだろうか。そこで戦争は心理戦の形をとるようになり、誘惑から脅迫に至るあらゆる種類の圧力を並べ立てて、最終的に国民の抵抗意志を崩してしまおうとする。(スイス政府『民間防衛』)

shuzo atiさんがリツイート | RT

戦争は嵐が草木を打ちのめすように我々を打ちのめすだろう。持ちこたえなければならないのは軍隊だけではない。全国民が軍隊の背後で抵抗しなければならない。軍隊は、その背後に国民の不屈の決意があることを感じたとき、はじめてその任務を完全に遂行できるのだ。(スイス政府『民間防衛』)

shuzo atiさんがリツイート | RT

今日では大規模な空挺作戦が可能なので、わが国土も瞬時にして戦場となり得る。その場合、住民の疎開は不可能であり無意味である。地上で戦闘が行なわれ、または地表が放射能や毒物で汚染された場合には、住民は地下の避難所で生き延びなければならない。(スイス政府『民間防衛』)

shuzo atiさんがリツイート | RT

「3月13日(木)のTW:奥平康弘氏の著書『「萬世一系」の研究』について」少し時間に余裕も出来はじめたので、以前に批判したことのある、元東大教授で憲法学者の奥平康弘氏の著書『「萬世一系」の研究』... goo.gl/KBy6p5


「3月13日(木)のTW:奥平康弘氏の著書『「萬世一系」の研究』について」少し時間に余裕も出来はじめたので、以前に批判したことのある、元東大教授で憲法学者の奥平康弘氏の著書『「萬世一系」の研究』を読み始めた。以前に「憲法学者奥平... fb.me/6y42zsi3F


日本の指導者はひたすら自らの資質と能力の向上に励んでほしい。何よりも「死の四分五裂」に耐える百年五百年を覚悟した忍耐力を付けてほしい。これからの日本は中国への対応の仕方で命運が決まるから。「戦略的忍耐」こそ必要。 fb.me/14xJz7CVG  

「関係改善の糸口はつかめぬまま」に耐えきれずに自ら動いてはならない。ルーピー・オバマ大統領や偏執の韓国、中国がしびれを切らして彼らが動き出すまで。


 
 
 
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3月13日(木)のTW:奥平康弘氏の著書『「萬世一系」の研究』について

2014年03月14日 | 書評

少し時間に余裕も出来はじめたので、以前に批判したことのある、元東大教授で憲法学者の奥平康弘氏の著書『「萬世一系」の研究』を読み始めた。以前に「憲法学者奥平康弘氏の伝統破壊的国家観について」goo.gl/EjjuFZ で批判したことがあるので、改めて読み直そう


と思ったからである。以前に奥平康弘氏を批判したのは氏の『「萬世一系」の研究』を直接読んだ上での批判ではなかったから、何時の日か奥平氏の著書に直接目を通した上で批判する必要のあるのは当然のことだった。しかし、学者ならぬ私にはなかなかその時間もなく奥平氏の本も読む余裕はなかった。


私が以前に奥平氏の『「萬世一系」の研究』を批判したのは、あるサイトにこの本の内容が纏められており、そこで奥平氏の思想の概略を知り得たからだった。だから私のその批判は、著書自体を読破した上での批判ではなかった。奥平氏の著書『「萬世一系」の研究』の内容の概略を纏めたサイトは、


「◆ 奥平康弘 稿「『首相 靖国 参拝』に疑義あり」◆ 」と題されたサイト http://centuryago.sakura.ne.jp/okudaira.html で奥平氏の著書は「■奥平康弘『「萬世一系」の研究-「皇室典範的なるもの」への視座-』(岩波書店,2005年3月)は,「天皇制は民主主義とは両立しえないこと,


民主主義は共和制とむすびつくほかないこと」を(同書,382頁),訴えた著作である。」とまとめられていた。それは裴 富吉という朝鮮人の学者らしい人が開いておられるらしいホームページの中にあったものである。そこで「天皇制は民主主義とは両立しえないこと,民主主義は共和制とむすびつく


ほかないこと」というように奥平氏の著書を、この裴 富吉という人が結論としてまとめられているのを読んだだけで、ツイッターで批判したものである。もちろん、裴 富吉という人の結論が本当に奥平氏の著書を正しく纏めたものであるかどうかも、本文そのものをまだ読んでもいない私には批判する資格も


なかったのかもしれない。ただ「天皇制は民主主義とは両立しえないこと,民主主義は共和制とむすびつくほかないこと」という奥平氏のこの結論のまとめを読んですぐに直観したことは、この結論はまぎれもなく「悟性的思考」の典型ではないか、ということだった。そして、この悟性的思考による「結論」に


今では忘れられがちなフランス革命の否定的側面や、中国の文化大革命、ポルポト独裁政権によるクメール・ルージュ殺戮事件、スターリンの強制収容所などに根底に存在する共通の論理を見いだせるように思えたからである。だから私のツイートでの批判は、「抽象的で破壊的な革命的国家観の危険性」という


 
 
 
 
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「書評へのご返信」の御礼

2014年02月02日 | 書評

 

「書評へのご返信の御礼

 

橡川一朗様

拝復

今年も年の瀬が押し迫って参りました。

 橡川様におかれましても日々ご健勝にお過ごしのことと存じます。

この度私のつたない「書評」に対して、過分なご返信を戴き、まことにありがとうございました。メールの受信を見落とし気づかず、お礼を申しあげるのが遅れましたこと、お詫びいたします。

書評へのご返信、拝読させていただきました。

「真の愛国心」と「民主主義」の我が国に行き渡るべく、橡川先生が長年にわたる学問のご研鑽に打ち込まれられたこと、僭越ながら敬意を表します。

ご 返信の末尾に「ドイツの歴史学者が自国の奴隷制を頑強に否定する背景には、自国文化への自信の無さから来る偏狭な愛国心があり」と述べておられましたよう に、ドイツの歴史学者に対する批判が、現在の日本のある種の「保守的論壇」に対する橡川先生の批判でもあることは推測できます。

また、 「わが日本で、せめて歴史学者だけでも、源氏物語とその古注を理解して、日本文化への確かな誇りに支えられ、そのうえで自国史上の汚点を率直に認めて、そ の遺制の克服に資するような「真の愛国心」を持ってほしいというのが、私のささやかな勉強のすえの悲願です。」と仰られていることも、橡川先生の生涯にわ たる学究の後に至った信念なのだろうと推察いたします。

橡川先生の仰られるように「そのうえで自国史上の汚点を率直に認めて」と言うことも私は反対ではありません。

し かし、同時にその一方で、「戦後の日本の民主主義教育」は、マルクス主義の階級闘争史観などの影響もあって、あまりにも過去の「自国史上の汚点」の強調の みに終始してきたと私は思います。そうして物事を一面でしか見ようとしない、あるいは見ることしかできないのも、戦後の日本国の教育が「浅薄な哲学の貧 困」の上に打ち立てられたものだからだと私は思います。

戦後の教育が本当に深く崇高なものであれば、「自国史上の汚点」とともに、「自国史上の栄光」も公平にその歴史的、哲学的意義をその深底において把握し、肯定、否定の両側面を公平に国民に教えてきただろうと思います。

橡 川先生のようにマルクス主義の影響に学問の研鑽を積まれた学者方は、かっての社会党党首、村山富市氏などもそうであると思いますが、当時の大日本帝国の置 かれた歴史的政治的な国際環境を公平に見ることなく、戦後のGHQの教育政策と共振して、「自国史上の汚点」のみを強調しすぎていると思います。

橡 川先生の仰る「自国史上の汚点を率直に認めて、その遺制の克服」することができるためには、その一方で「自国史上の栄光」の側面も日本国民が納得しなけれ ばなりません。それなくしては「自国史上の汚点を率直に認めて、その遺制の克服」することもできないと私は思います。敗戦後一世紀を過ぎて始めて、日本国 の自国の歴史を肯定否定両面をフィフティー・フィフティーで公正に評価できるようになるのだと思います。

歴史に利害関係の当事者として関わった中国共産党や現行日本国憲法やGHQの遺制が残されている間は、客観的で全面的な公正な歴史の評価はまだできないだろうと思います。

ご 返信を読んで感じた所を率直に書かせて戴きましたが、これらの問題については私も未だ研究途上にあります。残念ながら仏教思想としての「源氏物語」にも、 いまなお手を付ける余裕もありません。引き続き何かとご教示頂ければ幸いに存じます。また、先生のその他のご著書についても「書評」を書かせていただく機 会のあることを願っております。

橡川先生は旧制一高の卒業生であられるそうですが、戦後の教育改革は改正された側面よりも改悪された比重 が大きいのではないかと思います。教養主義の失われた戦後教育では橡川先生のような学者も残念ながら生まれにくくなっているのではないでしょうか。旧制高 等学校教育を生きて体験されておられる橡川先生にも、戦前教育の実際についてその正確な記録を残して頂ければと思います。

最後に、先生のご返信とこの私のメールを、つたなくマイナーな私のブログ「作雨作晴」などにも記録させていただいてもよろしいでしょうか。

寒さのつのる時節柄、くれぐれもご自愛のほど、お祈り申し上げます。

                     ブログ「作雨作晴」 管理人    
                                        



※追記20140201

ここで橡川一朗氏が問題にされておられるのは、「真の愛国心」とは何か、ということと「自国史上の汚点を率直に認める」とはどういうことか、ということだと思います。

神風特攻隊に所属して敵艦に体当たりした若い兵士たちの愛国心が、偽の愛国心だったとも思いません。彼らは若くして国のために命を犠牲にしましたから、橡川氏のように、著書も論文も遺すことができませんでしたが、彼ら青年の日本兵士の愛国心が、橡川氏のそれよりも劣った「偽」の真実でない愛国心の持ち主であったとは思いません。

また、「自国史上の汚点」といっても、その「汚点」がどのような原因で引き起こされたものであるのか、結果のみの観点からではなく、原因の方向からも追求する必要があると思います。「汚点」といっても、ミクロの観点ばかりではなく、マクロの観点からも眺めなければ、歴史を客観的に公正に評価はできないと思います。「汚点」も他者があってはじめて汚点たりうるのですから。ですから、この「汚点」も現象だけを見るのではなく、その由って来る原因を正しく洞察しなければ、「小さな悪」だけを過大に責めて、それより根本的な「大きな悪」を見ることもできず、見逃してしまうということになるでしょう。

また、現在のように中国共産党や現行日本国憲法やGHQの遺制が残されて、アメリカの占領統治が事実として存続している限りは、「敗戦国の論理」が「戦勝国の論理」とは対等には扱われることはないでしょう。

それではいくら「自国史上の汚点」を認めよといっても、その一方的で不公正な断定を国民は納得しないでしょう。少なくとも欧米と同等以上の「侵略」も「植民地」も日本にはなかったからです。ただ欧米諸国と利害が対立していただけです。どちらが正義で、どちらが悪ということは、少なくとも日本には当てはまりません。ただ戦争に負けたから、一方的に「汚点」を承認させられているだけのことです。

またマルクス主義の階級闘争史観を信奉する人たちは、ブルジョア国家性悪説を克服できず、また、彼らの労働者世界市民主義は、国家の所属や国益に反する意識や行為となって、自らの所属する具体的な国家や国民、民族に多大の損失を招くことになっているのも事実です。彼らの抽象的な国家観と労働者世界市民主義は、むしろ自ら所属する国家の否定が彼らの価値観であり利益であり、またそれを肯定するまでになっています。朝日新聞などの記者たちに見られる自虐史観と言われる「反日」行為も、彼らの持つ国家観や労働者世界市民主義の結果です。

大日本帝国があの戦争にもし勝っていれば、すべての価値観は現在のそれと百八十度転換することは、少しの想像力があればわかります。そのときは現在のアメリカ国民と同じように、橡川先生の言われる「自国史上の汚点」など、どこの国の話かということになっていたでしょう。







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書評に対する返信

2014年02月01日 | 書評

 

「書評に対する返信」

 

 かなり昔に橡川一朗氏の著書『近代思想と源氏物語』について拙いながら書評を書いたことがあります。それをネット上に公開していたところ、どうやら著者ご本人のお目に留まったらしく、「書評に対する返信」という形でメールが昨年の十二月の初めに私のところに届きました。読ませていただいて感想と同時にお礼の返信を同じくメールでお送りしました。

その際に、元都立大教授からいただいたメール「書評に対する返信」を、私のブログに公開してもよいかどうかお訊ねするメールもお送りしましたが、音沙汰はなく、その是非はわかりませんでした。もうすでにかなりご高齢になっておられるようですし、ひょっとすれば私のメールも見落とされて気づかれていないのかもしれないと思いました。

それでも、この著者からの「返信」には、戦後マルクス主義の影響を受けられた世代に属する学者の、一つの歴史認識が明らかになっており、元社会党党首の村山富市氏ら世代にも共通するある時代に普遍的な、社会認識も述べられてあると思います。

マルクス主義の影響の濃い戦後民主主義の歴史認識を示すものとして、元教授の許可は得られてはいないですけれども、学問上の議論に資するものとして、このブログに公開しても反対はされないだろうと思い、投稿することにしたものです。

また、この橡川一朗氏からいただいた「書評に対する返信」に対する私の感想とお礼としてお送りしたメールも、追って別の記事として投稿したいと思います。

やや長文ですが、興味や関心のおありの方はお読みいただければと思います。

以下が橡川氏より「書評に対する返信」としていただいたメールの内容です。

>><<

作雨作晴隠士様
                   橡川一朗

先年、小著『近代思想と源氏物語』に懇切な御批評を頂戴いたしましたのに、不覚にも幾年ものあいだ気付きませず、まことに申し訳ございませんでした。つたない小著にわざわざ書評をいただくことなど思い及びませんでしたのと、このところ久しくパソコンに無縁でした所為とは申しながら、御詫びの申し上げようもなく、ひとえに御海容のほど御願い申し上げます。

それに致しましても、御指摘のとおり門外の思想史などに手をつけて、いたずらに恥をさらしましたにもかかわらず、まず西洋史専攻の立場からの小著の意図を御汲み取りのうえ、最終的には源氏物語の思想史的意義の問題にまで御言及いただきましたこと、望外の幸せと存じ、幾重にも厚く御禮申し上げます。

 まず私の専攻分野での仕事にかんする御訊ねに御答え致しますと、『西欧封建社会の比較史的研究』(1972年、増補改訂版1984年)と、それを補う形の『ドイツの都市と農村』が、拙い勉強の所産と申し上げたいと存じます(御取り上げの小著p.253「参考文献」御参照)。

両拙著の要点は、「中世ドイツの農民Bauer は、一種の大家族の家長で、家族員や雇い人を奴隷あつかいした家父長Patriarchだった」ということです。(この、いわば小規模奴隷所有は、フランスでは13世紀頃までに消滅したのに対して、ドイツでは、管見の限り、18世紀半ばまで、農村でも都市でも、存続したと考えられます。〔小著pp.20~23御参照〕。)
 
 この主張は、日本の西洋史学界では異端とされ続けましたが、それはドイツの歴史学者が自国の奴隷制を絶対に認めないからです。しかし戦前の日本マルクス主義歴史学の巨峰山田盛太郎の日本資本主義「擬似」説を、独自のイギリス資本主義成立論から援護した故大塚久雄氏や、その系譜をひく近代ドイツ農村研究の藤田幸一郎氏等から賛同を得たのが励みになりました(この三氏については、それぞれ小著p.165f., p.24, p.26御参照)。

 それとともに自説の証拠として強力な支えとなりましたのは、童話集の編著で有名なグリム兄弟の兄のほう(Jakob)が収集・刊行した膨大な『町村法集』Weisthuemerでした。その解読には手間取りましたが、ドイツ人が読まない記録に取り組むこと自体が面白くて、つい三十余年を過ごしてしまいました。

 では西洋史学徒の身で源氏物語とその古注に深入りした理由は何か、と問われると、返答に窮するのが実情ですが、直接の動機は、歴史関係の専門誌『歴史学研究』の編集部から、当時大評論家とされた小林秀雄の大著『本居宣長』の書評を依頼されたことでした。

突然のことに驚きましたが、「比較史」と言われはじめた私の方法が誇大に伝わった所為かとも思い、それにしても日本思想史専門の高名な方々から断られた末のハプニングかとも思ううち、気持ちが楽になって引き受けることに致しました。同書を通読して、書評のポイントとなりそうな箇所は、宣長の源氏物語評注(玉の小櫛)への小林の批評と見て、両書に頻出する源氏古注の集大成『湖月抄』の物語原文と注釈を、大急ぎで読みました。じつは源氏物語は、大学卒業後間もないころ、兵役を免れて退屈しのぎに谷崎純一郎の現代語訳と某書店刊の原文を一通り読んだことがありましたが、その記憶と、書評を機に読みだした湖月抄源氏の印象との、余りにも大きな違いに、まず嘗ての読みの浅さに恥じ入りました。それと同時に、源氏物語と古注の偉大さに気づき、本気で書評に挑戦する気になりました。

 その折の書評の主旨は、宣長と小林が、ともに湖月抄の重要性を言いながら同抄を軽視して、前者はハグらかし、後者は読んだ振り、という侮蔑ぶりを明らかにすることでした(同誌491号、1981年)。――例えば宣長が「私は戯作者堕地獄説に拠る仏教側からの紫式部非難を退けた」と宣伝するのに対して、小林が無条件で宣長を褒めたのは、彼が湖月抄を読んでいない証拠です(小著p.238)。つまり湖月抄とそれ以前の古注は挙って、仏教の骨格をなす認識論と、日本仏教で特に深化した「罪の意識」とを、源氏物語の二大文学理念と見て、物語と作者を賞讃していますが、宣長はそれを知りながら無視して、儒教化した通俗仏教の式部批判だけを問題にし、小林はその詐術にまんまと嵌ったわけです。

 なお上記拙著の表題中の「比較史」という言葉が、独・仏中世社会の対比という意味を超えて、一人歩きしたらしい経緯は、つぎのように考えられます。――私の中世ドイツ農民の奴隷支配説発表の直前、日本史では故安良城(あらき)盛昭氏が上記歴史学研究誌(163号、1953年)に「中世農民=奴隷所有者」論を展開し、やがて大評判になりました。その安良城ブ-ムの余波で、私のドイツ奴隷制説も日本史学界で注目されはじめ、期せずして、同氏と私と二人で日・欧比較史をやりだした、という風に思われた様子でした。ただ、安良城説の行方は複雑で、中世史学者のあいだでは反対論が圧倒的に優勢となり、他方、江戸時代史(近世史)のほうでは強力な支持者が現れ、さらに日本の後進性を追求する戦後の学界状況のもとで、安良城氏は、若手研究者の間で、天才とまで賞賛されました。

そんな雰囲気のなかで私は、かのグリム町村法集などの解読を楽しんでおりました。しかし日本中世史学界で、マルクス主義を標榜する人たちまでも奴隷制説反対の論陣を張るのを見て、問題の根は深いと感ずるようになっていました。

 そこで私は、安良城氏が尊敬してやまない上記山田盛太郎の理論や、その先駆となった服部之総の明治維新「封建制再編」論を改めて読み、お二人の学説を日本マルクス主義の精華と見るとともに、それと服部の親鸞・蓮如論とを見比べなら、その「日本的マルクス主義の文化史的背景を考えるに至りました(服部については小著p.164f.,  p.194ff.御参照。)そして親鸞から遡って源氏物語、さらに蜻蛉日記に、近代キリスト教的「罪の意識」を見出だした亀井勝一郎の日本文化史論(小著p.192)に接して、服部の文化史構想の全容を想像できるような気がしてきました。

 他方、私は旧制高校(一高)三年生のときカントの主著『純粋理性批判』を原文で読み、ドイツの歴史に興味を持つようになりましたが、もちろんカント哲学の真意が判るはずもありませんでした。ところが大学院在学中、和辻哲郎の大著『原始仏教の実践哲学』を読んで、ようやくカントの認識論の本質を知ると同時に、仏教哲学も理解できたように感じました(小著p.169)。また都立大学に就職してからは、先輩教授(アメリカ思想史の阿部行蔵氏)から、アメリカ東部のエリ-ト層によるデカルト・カントの受容ぶりを教わる一方で、「服部之総の『蓮如』はマックス・ウェ-バ-のプロテスタント倫理論より優れている」などという貴重な示唆も受けました。そして服部の蓮如論が親鸞の「罪」意識から説き起こされているのを知って、高校時代に上級生から薦められて愛読した夏目漱石の『こころ』との関連から、罪の意識というテ-マが西洋近代文学の一大底流ではないか、と思いはじめました。(一高生から大学院生の時にかけて漱石に触発され、岩波文庫のフランス・ロシア文学訳書に親しんで、西洋近代文学に魅せられました。)

上記の小林著への書評には、いま申し述べましたような読書歴を下敷に、「社会科学的思想史」と題する一節を設け、前述大塚・安良城両氏の理論を社会経済史上の基礎構造論として、認識論と罪意識を東西思想史の二本柱とする、いわば新文化史の試みを略述いたしました。お目にとまりました小著は、それを敷衍したものです。 

(小著でもマルクスへの言及が半ペイジ〔p.29〕のみですが、上記書評では僅か1行でした。それが当時の歴史学研究誌読者主流の左派には意外だったらしく、書評は不評で、当然、小著の草稿は出版の当てさえありませんでしたが、前記藤田幸一郎氏のおかげで、ようやく出版に漕げつけました。)
   
 なお小著で、いま一つ御気付きかと思いますのは、現在の西欧でのフランスの政治・文化的地位を最高のものとする愚見ですが、これは滞欧中(1970~71年)の体験の所産でした。それというのも、あるときフランス語で話しかけてきた英国婦人から「コンティネントでは英語は田舎者のアメリカ人の言葉という固定観念が強くて使いづらく、そう言えばイギリス本国の英語だって所詮は田舎言葉ですもの」と聞かされたのが始まりです。(彼女の打ち明け話は、後になって、ドイツの国際的大作家ト-マス・マンが小説『フェ-リクス・クルルの告白』中、語学の才を武器に痛快な身分詐称劇を演ずるドイツ生まれの主人公に「フランス人はフランス語だけが人間の言葉だと信じているが、残念ながら我ら諸国民はフランス人の自負を承認せざるをえない」と言わせたのに通じていた、と感じました。)

そのフランスで、私は下宿の老管理人――今の私から見れば初老の人でしたが――からフランス語の会話を教わり、スイスなど各国に旅行の際、たいへん役にたちました。

 しかも、その管理人が「会話を教えてあげたのは、日本の古い文化のことを知りたかったから」と言うので、いろいろ話すうちに、蜻蛉日記の話になり、上記の亀井説を念頭に、日記の心理描写の背景として「悲しみのト-ン」を挙げ、「悲しんだのは人間という存在そのもの」と話すと、彼は「昔の日本人はパスカルと同じような高級な感情をもっていたのですね」と驚きました。しかし、もっと驚いたのは私のほうで、パリ郊外の一庶民がパスカルをそれほど深く理解しているのには、感嘆のほかありませんでした(小著p.192f.)

 さらに、その管理人が私の話を聞かせたいというので会った彼の教会仲間の医師夫妻に、仏教認識論をデカルト哲学から説明したときの、夫妻の理解力にも、感心しました(同p.197)。また、その後、フランスの国家試験の一つ(大学入学資格試験)で論文問題の題目にデカルト関連のテ-マが度々出るという新聞記事を見て、文化大国としてのフランスの自信に満ちた高等教育方針を理解できた気が致しました。

 以上が私のフランス文化大国論の根拠ですが、これは明治以来の日本人にとっては納得しがたい考え方であっても、英米両国の多くの知識人や現代ドイツの超エリ-ト層には、自明のことではないかと思っております。

 しかもフランス文化大国論を念頭に置きながら、西欧諸国で抽きんでている独・仏両国の国際的地位を見較べてゆくと、フランスの地位の高さに気付かざるをえません。これも多くの日本人には解りにくいことのようですが、フランスの文化的基調が、たとえば第二次大戦初期の対独降伏となり、それが戦後フランスへの信頼の基盤となって、同国の国際政治力を支えているように思われてなりません(小著p.31)。

 さいごに近ごろ気付きましたことを付け加えますと、ドイツの歴史学者が自国の奴隷制を頑強に否定する背景には、自国文化への自信の無さから来る偏狭な愛国心があり、しかも、それが現代ドイツの超エリ-ト層の歴史認識(朝日新聞本年10月3日駐日ドイツ大使の会見談御参照)と懸け離れていることです。それはドイツの平均的な知識人が、かれらの国の生んだ偉大な思想家ルタ-・カントの真価を知らないために演じている滑稽な悲劇にほかなりません。それにつけても、わが日本で、せめて歴史学者だけでも、源氏物語とその古注を理解して、日本文化への確かな誇りに支えられ、そのうえで自国史上の汚点を率直に認めて、その遺制の克服に資するような「真の愛国心」を持ってほしいというのが、私のささやかな勉強のすえの悲願です。

 お詫びと御疑念へのお答えのつもりの一文が、つい長くなりまして、申し訳ございませんが、なお御不審の点は、厳しく御指摘いただきますよう心から御願い申し上げます。


    2013年12月06日
        書評への返信.docx

 

 

 

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書評『近代思想と源氏物語 』橡川一朗

2008年03月05日 | 書評


書評『近代思想と源氏物語 ―――大いなる否定』橡川一朗
1990年4月15日  花伝社


一昔前に手に入れはしたけれど、とくに気を入れて読みもしなかった本を取り出してもう一度読んだ。あまり生産的な仕事であるとも思えないが、 それでも一応は読んでしまったので、 とりあえず書評というか感想文は書いておこうと思った。

日本の学校では、とくに大学においてさえ、 書評を書いて研究するということなどほとんど教えられていないようなので、ごらんのように「書評」とも言えない単なる感想文のようなものでも、みなさんが「書評」を書く際に反面教師としてでも少しは参考になるかとも思い、恥を省みず投稿しました。

Ⅰ・本書の構成

目次から見ると、本書の構成は次のようになっている。

第一部  西洋の二大思想

序章  西洋の社会と経済の歴史

第一章  キリスト教と罪の意識
第二章   近代文学における罪の意識と体制批判
第三章  認識論から民主主義へ
 
第二部  日本文化史上の二大思想

序章    日本の社会と経済の歴史

第一章  東洋の認識論
第二章  日本における罪の意識

第三部  源氏物語の思想

第一章  源氏物語の作者の横顔
第二章 源氏物語の思想
第三章 両哲理と批判精神

Ⅱ・内容の吟味

だいたい、本書の構成としては以上のようになっている。私たちが一冊の本を読む場合、まず、著者が 「その本を書いた動機なり目的は何か」を確認する。それと同時に、私が「本書を手にした動機は何か、その目的は何か」ということも確認をしておく。

筆者の本書執筆動機はおよそ次のようなものであると思われる。
まず、時代背景としては、第二次世界大戦における同じ敗戦国である旧西ドイツにおける政策転換の現実がある。

その西ドイツにおけるその政策転換の根拠について筆者は次のように言う。
「ドイツの宗教改革者ルターや哲学者カントの思想が、ドイツで復活しつつあるからではないか、と想像される」。そして、さらに「なぜならばルターの宗教思想の核心は「罪の意識」という徹底した自己否定であり、カントの哲学は、デカルトと同じく、一切を否定する厳しい懐疑から出発している。つまり、ルターもカントも、それぞれ「大いなる否定」を原点とし、したがって発想の転換による民族再生の道を教えることにもなる。」(はしがきp10)

このように書いているように、筆者の言う「大いなる否定」とは――これは本書の副題にもなっているが、――つまるところ、宗教的には「罪の意識」であり、哲学的、認識論的には「懐疑論」のことであった。そして、この両者が民主主義と結びついており、我が国が民主主義国家に転生するためにも、筆者は、この「大いなる否定」が必要であり、それを我が国において学び取ることができるのは他ならぬ『源氏物語』であるというのである。それによって、日本人の民主主義が借り物ではなくなるという。そのためにも著者は日本国民に『源氏物語』の読書を勧める。

だから、西ドイツにおける民主主義の転換を見て、日本もそれに追随すべきであるという問題意識が筆者にあったことは言うまでもない。この本が書かれた1990年の時代的な背景には、まず東西冷戦の終結があった。そして1920年に生まれた著者は、文字通り戦後日本の社会的な変革を体験してきたはずである。そして、何よりも著者の奉職した都立大学はもともと、マルクス主義の影響を色濃く受けた大学であった。本書の論考において著者のよって立つ視点には、このマルクス主義の影響が色濃く見て取れる。

筆者の本書執筆のこの動機については、おなじはしがきの中にさらに次のようにもまとめられている。

「西ドイツの政策転換は、大革命以来の民主的伝統を誇るフランスとの、和解を目的とした以上、当然、民主国家への転生の誓いを含んでいた。わが日本が諸外国から信頼されるためにも、民主主義尊重の確証が必要である。西洋では、罪の意識も認識論哲学も、ともに大いなる否定(^-^)に発して、万人の幸福を願う民主主義の論理を、はらんでいる。日本の両哲理も、その点で同じはずであるが、それを証明しているのは、ほかならぬ源氏物語である。そして、源氏物語から民主主義を学び取ることは、われわれの日本人の民主主義が借り物ではなくなる保障である。しかも、その保障を文学鑑賞を楽しみながら身につけられるのは、幸運と言うほかあるまい。」(p12)

以上に、筆者の本書執筆の動機はつきていると思う。それを確認したうえで、本書の内容の批判にはいる。

筆者の本書におけるキイワードは、先にも述べたように「罪の意識」と「徹底した懐疑」であり、この二つが、本書の副題となっている「大いなる否定」の具体的な中身である。

そして、筆者は「罪の意識」の事例として、古今東西の宗教家や文学者の例を取り上げる。それは、西洋にあっては、ルターであったり、カルヴァンであったり、ルソーであったり、トルストイであったり、シェークスピアであったりする。わが国ではそれは、釈迦の仏教であり、親鸞や法然であり、源氏物語の紫式部の中にそれを見いだそうとする。

そしてそうした、いわば形而上の問題に加えて、筆者の専門でもあるらしい「社会経済史」の論考が、本書の展開の中で第一部にも第二部においても序章として語られている。第一部の「西洋の二大思想」には序章としては、「西洋の社会と経済の歴史」が、第二部の序章では「日本の社会と経済の歴史」について概略的に語られている。先にも述べたように著者の依拠する思想体系としてはマルクス主義が推測されるが、しかし、ただ筆者はその思想体系の明確な信奉者ではなかったようである。筆者は歴史を専攻するものであって、特定の思想を体系的に自覚した思想家ではなかった。

筆者の意識に存在していて、しかも必ずしも明確には自覚はされてはいない価値観や思考方法に影響を及ぼしているは言うまでもなくマルクス主義である。その思想傾向から言えば、「宗教的な罪の意識」や「厳しい懐疑論」がイデオロギーの一種として、一つの観念形態であると見なされるとすれば、それの物質的な根拠、経済的な背景について序章で論じようとしたものだろうが、その連関についての考察は十分ではない。マルクス主義の用語で言えば、下部構造についての分析に当たる。唯物史観の弱点は、「存在が意識を決定する」という命題が、意志の自由を本質とする人間の場合には、「意識が存在を決定する」というもう一つの観念論が見落とされがちなことである。

著者の専攻は「歴史学」であるらしい(p32)が、著者にとっては、むしろこの下部構造についての実証的な歴史学の研究に従事した方がよかったのではないかと思われる。たしかに、仏教の認識論やロックやデカルトの認識論について、一部に優れた論考は見られはするものの、哲学者として、あるいは哲学史家として立場を確立するまでには到ってはいない。哲学研究としても不十分だからである。哲学論文としても、唯物史観にもとづく社会経済史研究としても、いずれも中途半端で不十分なままに終わっている。この書のほかに著者にとって主著といえるものがあるのかどうか、今のところわからない。

それはとにかく、本書においても、やはり、哲学における素養のない歴史学者の限界がよく示されていると思う。その一つとして、たとえば筆者のキイワードでもある「大いなる否定」がそうである。いったいこの「否定」とはどういうことなのか、さらに問うてみたい。また、哲学的な意義の「否定」であれば「大いなる」もなにもないだろうと思うし、哲学的な「否定」に文学的な表現である「大いなる」という形容詞を付する点などにも、哲学によって思考や論理の厳密な展開をトレーニングしてこなかった凡俗教授の限界が出ている。そこに見られるのは、論考に用いる概念の規定の曖昧さであり、また、概念、判断、推理などの展開の論理的な厳密さ、正確さに欠ける点である。それは本書の論理的な構成についても言えることで、それは直ちに思想の浅薄さに直結する。

筆者のこの著書における立場は、「マルクス主義」の影響を無自覚に受けた、マルクスの用語で言えば、「プチブル教授」の作品というべきであろうか。(もちろん、ここで使用する意味での「プチブル」というのは、経済学的な用語であって、決して道徳的な批判的スローガン用語ではない。)

そのように判断する根拠は、たとえば、イエスの処刑についても、著者の立場からは、「キリストに対する嫌疑の内容としては、奴隷制批判のほかには考えられない」(p37)と言ってることなどにある。著者の個々の記述の詳細についてこれ以上の疑問をいちいち指摘しても仕方がないが、ただ、たとえば第一部の2で、パウロのキリスト観を述べたところで、彼は言う。「革命家キリストが対決したのも人間の「罪」、つまり奴隷制という、社会制度上の罪悪だった」が、その社会的な罪をパウロが「内面的な罪」へ転換した」と。

このような記述に著者の立場と観点が尽きていると言える。ここではキリストが著者によって「革命家」に仕立て上げられている。(p41)誤解を避けるために言っておけば、イエスに対するそのような見方が間違いであるというのではない。それも一つの見方ではあるとしても、20世紀のマルクス主義者の立場からの見方であるという限界を自覚した上でのイエス像であることが自覚されていないことが問題なのである。だから、著者はそれ以上に深刻で普遍的な人間観にまで高まることができない。

Ⅲ・形式の吟味

本書における著者の執筆動機を以上のように確認できたとして、しかし、問題は著者のそうした目的が、本書において果たして効率的に必然的な論証として主張し得ているのかどうかが次の問題である。

まず、本書構成全体が科学的な学術論文として必要な論理構成をもたないことは先に述べた。科学的な学術論文として必要な論証性についても十分に自覚的ではない。その検討に値する作品ではない。そうした点においてこの作品を高く評価することはできない。

第一部で著者は、「西洋の二大思想」として、「罪の意識」と「懐疑論」を挙げているが、その選択も恣意的であるし、そもそも「罪の意識」と「懐疑論」は、一つの概念でしかなく、それをもって概念や判断、推理の集積であるべき思想と呼ぶことはできない。それらは思想を構成すべき、一個の概念か、少なくとも観念にすぎない。この二つの観念が、著者の意識にとっては主要な概念もしくは観念であることは認めるとしても、それが客観的にも西洋思想史において主要な「思想」と呼ぶことはできない。

ちなみに「思想」とは何か。その定義を手近な辞書に見ても次のようなものである。(現代国語例解辞典、林巨樹)「1.哲学で、思考作用の結果生じた意識内容。また、統一された判断体系。2.社会、人生などに対する一定の見解。」と記述され、その用例として、「危険な思想」、「思想の弾圧」「思想家」などが挙げられている。

だから、この用例にしたがえば、少なくとも「思想」と呼ぶためには、「キリスト教思想」とか「民主主義思想」とか「共産主義思想」とか国家主義とか全体主義といった、ある程度の「統一的な判断体系」が必要であって、「罪の意識」や「懐疑論」という観念だけでは、とうてい「思想」と呼ぶことはできない。

ただ、こうした観念は、西洋の思想に普遍的に内在しているから、もし表題をつけるとすれば、「西洋思想における二大要素」ぐらいになるのではないだろうか。このあたりにも、用語や概念の規定に無自覚な「歴史家」の「思想家」としての弱点が出ている。

本書のそうした欠陥を踏まえた上で、さらに論考を続けたい。この著書の観点として「罪の意識」を設定しているのだけれども、ここで問われなければならないのは、どのような根拠から著者はこの「罪の意識」と「懐疑論」を「大いなる否定」として、著者の視点として設定したのかという問題である。

それを考えられるのは、筆者の生きた時代的な背景と職業的な背景である。それには詳しくは立ち入る気も分析する気もないが、そこには戦後の日本の社会的、経済的な背景がある。ソ連とアメリカが東西両陣営に分かれてにらみ合うという戦後の国際体制の中で、我が国内においても、保守と革新との対立を構成した、いわゆる「階級対立」がこの筆者の意識とその著作の背景にあるということである。その社会的、時代的な背景を抜きにして、著者のこの二つの視点は考えられない。そうした時代背景にある「社会的な思潮」の影響が本書には色濃く投影されている。

ただ、だからといって著者は何も階級闘争を主張しているのでもなければ、支配階級の打倒を呼びかけているのでもない。ただ、「罪の意識」から「認識論としての懐疑論」へ、そして、さらにいくぶん控えめに「民主主義」が主張されているにすぎない。そして、それを総合的に学べるものとして、その手段として『源氏物語』の文学鑑賞を提唱するだけである。

ただしかし、問題はこの著者の彼自身に、この「罪の意識」「懐疑論」という視点をなぜ持つに至ったのかという反省がないか、少なくともそれが弱いために、そこで展開される論考も現実への切り込みの浅いものになっている。その結果として、筆者自身はこの「罪の意識」も「懐疑論」も克服(アウフヘーベン)できず、より高い真理の立場、大人の立場に立つことができないまま終わってしまっている。

とにかく、著者はそうした観点から、第一章で「キリスト教と罪の意識」として、キリスト教に「罪の意識」の発生母胎を求めている。たしかに、キリスト教はそれを自覚にもたらせたことは間違ってはいないと思う。しかし、罪の意識は仏教、イスラム教など多くの宗教に共通する観念であって、何もキリスト教独自のものではない。それは人間の本質から必然的に、論理的に生じるものである。キリスト教や仏教における「罪の意識」は、その特殊的な形態にすぎない。

ただ、「罪の意識」の根源に社会制度を、古代ギリシャにおける奴隷制度の存在や、インド仏教の背景として、カースト制度を、また、トルストイの諸作品の社会的背景として、当時のロシアの農奴制度や貴族制度などが認められるのは言うまでもない。文学や宗教もその生活基盤の上に、その経済的な基盤のうえに成立するものだからである。これを明確に指摘したのはマルクスの唯物史観である。もちろん、その意義は認めなければならないが、ただ、この史観の不十分な点は、彼の唯物論と同じく、観念と物質を悟性的に切り離して、その相互転化性を認めなかった点にある。いずれにせよ、そうした点において、文学上に現れた「罪の意識」や「懐疑論」などの「大いなる否定」という観念の社会経済的な基盤との必然的な関連を著者がもっと深く具体的に追求していれば、もっと内容豊かな作品になっていたのではないだろうか。

Ⅳ・本書の社会的、歴史的意義について

本書の論理的な展開やその論証についてはきわめて不十分であり、したがって、科学的な学術論文としては評価はできない。だから、実際に日本人が『源氏物語』を文学鑑賞したとしても、本居宣長流の「もののあはれ」を追認するのみで、果たして「罪の意識」と「懐疑論」を深めることを通じて民主主義の意識の形成に果たしてどれだけ役立つことになるのか疑問である。

たしかに、源氏物語にも、また仏教思想にも、あるいは儒教にすら「民主主義」的な要素は探しだそうとすればあるだろう。しかし、そこから直ちに、民主主義をこれらの宗教や思想から帰結させようとするには無理があるように、源氏物語に「罪の意識」と「懐疑論」を見出して、そこに民主主義の素養を培うべきだという筆者の問題提起には無理があるのではないだろうか。

本書はこのように多くの欠点をもつけれども、示唆される点も少なくはなかった。従来から西洋哲学の方面に偏りがちだった私の意識を東洋哲学へ引きつけることになった。とくに仏教の認識論により深い興味と関心をもつようになったことである。また、「源氏物語」の評価についても、伝統的な一つの権威として、国学者である本居宣長の「ものの哀れ」観の束縛から解放されて、あらためて仏教思想の観点から、今一度この文学作品の価値を検討してみたいという興味を駆り立てられた点などがある。

また、本書において著者自身にもまだ十分に展開することのできていない、ルターやカルヴァン、ルソーやロックといった民主主義思想の教祖たちの思想を、さらに源泉にまで逆上って、その時代と思潮との葛藤を探求してきたいという関心を引き起こされたことである。

ロックやカントやデカルトの認識論についても同じである。そうした方面の探求は、現代の日本における民主主義思想のさらなる充実につながるし、また、歴史的にも巨大な意義をもったドイツ・ヨーロッパにおける観念論哲学の伝統を、わが国に移植し受容し継承してゆく上でも、いささかでも寄与することになると思う。

※もし万一、当該書に興味や関心をお持ちになられたお方がおられれば、図書館ででも本書を探し出して、この「書評」を批判してみてください。


 


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書評  藤原正彦『国家の品格』3

2006年03月16日 | 書評

だから、藤原氏が第三章の末尾で、「もちろん民主主義、自由、平等には、それぞれ一冊の本になるほどの美しい論理が通っています。だから世界は酔ってしまったのです。論理とか合理に頼りすぎてきたことが、現代世界の当面する苦境の真の原因と思うのです。」(p94)と言うときも、その洞察に思わず微笑せざるをえないし、また、それに続く第四章で、その苦境の「一つの解決策として」「日本人が古来から持つ「情緒」あるいは伝統に由来する「形」」を藤原氏は提示しておられるけれども、(p95)それらが、現代世界の「苦境」を根本的に解決する能力も可能性もないことについては、ここではこれ以上に論証するつもりはない。

ただ、この藤原氏の主張が、「情緒の過剰」と「論理と合理の欠乏」という日本人の民族としての根本的な弱点を拡大再生産することにつながらないことを願うばかりである。ここで「自然に対する繊細な感受性」や「世界一の庭師」や「茶道、華道、書道」などの伝統文化に藤原氏が誇りを持ち、それらにアイデンティティーを見出すのはもちろん自由であるが、その文化の反面は「ひよわな花」と形容されることも知るべきだろう。

また、現代日本の市民社会が退廃しているからという理由で、第五章で「武士道精神の復活」を主張され、志されること自体は、もちろん悪いことではないし、それなりに意義のあることかもしれない。しかし、もはや江戸時代の鎖国社会に後戻りもできない現代日本において、「近代的合理主義の欧米の精神や文化」の否定的な側面を「批判」するということは、そういうことではないと思う。

確かに、武士道の精神であれ、きっちりそれを日本人が実行できれば、それは欧米の「平均的な」モラル以上ぐらいは達成できるかもしれない。しかし、藤原氏が、この「武士道の精神」を「つまらない論理ばかりに頼っている世界の人々に伝えてゆかなければならない」と言って、「武士道の精神」から「論理と合理の精神」を排除するとき、この「武士道」の行き着く先は、先の世界大戦でのインパール作戦の悲劇の再演にしかならないだろう。

そして引き続く第六章で、「なぜ「情緒と形」が必要であるか」、その理由も説明しておられるが、ここでは、それにいちいち反論する意思も暇もないけれども、ただ、部分的には真実が語られているからこそ、この本が広く受け入れられていることになっている事は認めてよいと思う。

しかし、藤原氏が「情緒と形」という言葉で表現されている人間の「感性」という能力は、「悟性」や「理性」よりも低い動物的な能力であること、その分を弁えて、日本人の美しく素晴らしい繊細な「情緒と形」を主張するのでなければ、それは「おのれ誉め」にしかならず、それはすぐに「自惚れ」に転化することを知っておくべきだろう。それに、藤原氏は伝統やユーモアを重んじるイギリスの国柄やその美しい田園風景を評価され、イギリスの政治家のモラルの高さも認めておられるけれども、このイギリスも西欧の一国として、一面は近代的合理主義の精神の国であったはずである。「論理」と「情緒」は両立するし、させるべきものである。論理なき情緒は動物の情緒でしかない。

そして、藤原氏が「人間中心主義というのは欧米の思想です。欧米で育まれた論理や合理は確かに大事です。しかし、その裏側には拭いがたく「人間の傲慢」が張り付いています。」(p152)というとき、それは日本人が欧米人程度の傲慢さも持ちえないということでもある。それに傲慢であればあるほど謙虚さも深い。

また「閉塞感、虚脱感には、人間中心主義により自然が対立関係に陥った事実が深く影響」(p153)しているというとき、対立や分裂のない調和は、子供の調和でしかないし、対立や分裂が大きいだけ、快復した調和は深いということもある。一般に藤原氏に、こうした弁証法的な認識のないことが思考の弱点をなしていると思う。

「繊細な美的感受性の国」(p97)日本の現実の自然破壊(湾岸のコンクリート化や森林伐採を見よ)や風俗産業における女性の人身売買の現実は、「人間中心主義」の欧米よりも日本では深刻であるという事実を藤原氏はどのように説明されるだろうか。日本のパチンコ文化や都市景観の現実を見れば、日本人の「情緒と形」の精神の実際の現象形態がどういうものであるかがわかるだろう。果樹の良し悪しは、その結ぶ実によって分かると言うではないか。

藤原氏のように、「第二章で(自身の)論理の無力を説き、第四章で、それに代わるものとしての「情緒と形」を述べる」(p185)ことによって、果たして目的とする「国家の品格」が取り戻せるかどうか。

家族や友人たちとの人間関係において「論理」を優先するのは、おそらくアメリカなどの多民族の新興国であって、イギリスや日本のような多少なりとも伝統のある国ではその愚かさを国民は知っている。

そうではなく、国家のレベルで品格を取り戻すためには、政治や経済活動の公共の領域において、何が善で何が悪か、高い倫理と論理にもとづく正義(法)を回復してゆくことである。その論理を主張するということは、もちろん「口角泡を飛ばす」ことなどではなくて(修道院の奥で行われる、静かで情熱的な論争がある)、自由や民主主義の哲学についての深い理解と高い論理的な構築力によって、より完成された立憲君主国を建設してゆくことによってである。

もし藤原氏が「自由と民主主義」を疑うのなら、それに代わる武士道の精神にもとづく「品格ある国家」がどのようなものかを具体化してゆく必要があるだろう。

 

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書評  藤原正彦『国家の品格』2

2006年03月13日 | 書評

先の章で藤原氏は、帝国主義や植民地主義を、さらには、資本主義の現代的形態である市場原理主義と、その根底にある近代的合理主義の精神の「破綻」について述べたあと、この「第三章」で、現代国家一般の基本的な理念である、自由、平等、民主主義に対する疑いと批判へ歩を進める。

とくに欧米人の「論理の出発点」である「自由」という概念がよく分からない藤原氏は(p66)、とくに戦後日本における「自由」という名の化け物のことさらな強調とその現実の帰結を見て、「どうしても必要な自由は、権力を批判する自由だけだ。それ以外の意味での自由は、このことばとともに廃棄すべきだ」とまで言う。(p66)

そして、この自由は、藤原氏にとっては、欧米人の「論理の出発点」であり、また、それはまた、欧米が作り上げた「フィクション」にすぎないという。(p67)

しかし、果たして自由は、藤原氏が言うように、フィクションなのだろうか。藤原氏は、福沢諭吉の自伝でも読んで、いわゆる近代的な自由のない封建的身分社会に暮らしてみることを想像してみるか、あるいは、現実に北朝鮮や共産主義中国に移住して、氏の欲するような言論活動に従事してみればよいのではないかと思う。そうすれば、「自由」がフィクションであるか否かが、体験によって分かるのではあるまいか。理論的に分からない子供は、旅をし体験して理解するしかないのである。

また、自由は、日本国憲法には、言論の自由、結社の自由、職業選択の自由などと具体的に規定されているのであって、決して「フィクション」であるわけではない。

そして、この自由については第九七条には、「この憲法が日本国民に保障する基本的人権は人類の多年にわたる自由獲得の努力の成果」であるとも書かれている。この「人類」とは実際には、直接的具体的には、欧米人のことであって、歴史的にさまざまな革命と変革において、西洋人が血の代償として贖いとってきたものである。

確かに、藤原氏が「欧米が作り上げた」(p67)と言うように、この自由の実現の功績は主として、欧米人によって担われたのであって、アジア人やアフリカ人には、自由の実現ということについては、歴史的にも思想的にも、ほとんど貢献するところはない。しかし、もし西洋人のそうした歴史的な貢献がなければ、今日の日本国憲法下に暮らして私たちが享受しているような自由もなかったはずである。

なるほど、自由は明治期の自由民権運動の成果として、わが国においては大日本帝国憲法によっても、一定限度において実現されていた。しかし、その帝国憲法下の自由と、太平洋戦争後に日本国憲法に規定された、自由に対する権利の内容と比較すれば、後者において格段に自由が増大していることは明らかである。

そして、この自由と権利の保持の責任とその濫用の禁止については、日本国憲法が、その第十二条にこの上なく明確に規定しているにもかかわらず、この日本においては「自由」が、藤原氏の言うような「身勝手の助長」(p66)にしかならなかったのは、結局、日本人にとっては、自由が「豚に真珠」「猫に小判」でしかなかったからではないのか。

西洋人が理解した自由とは、自由の真の概念とは、次ぎのような言葉に表現されているのではないかと思う。


「自分の身にふりかかることを自分自身の発展とのみ見、自分はただ自分の罪を担うのだということを認める人は、自由な人として振舞うのであり、その人は自分の身にどんなことが起こっても、それは少しも不当ではないのだという信念を持っている。」(ヘーゲル「小論理学§147)


ここには自由に「身勝手」という意味はない。藤原氏の自由観は真実を尽くしていないと思う。
 参照 必然性と運命(自由)

自由に対する筆者の「批判」と同じように、藤原氏の「民主主義」批判についても欠陥があると思う。藤原氏は「自由」の場合と同じように、「民主主義」についても、日本の戦後の「自由」や「民主主義」の特殊な「現実」から、自由や民主主義の「概念」を批判する。これでは真の批判にはならない。

そうではなく、批判とは、自由や民主主義についての正しい概念でもって、特殊な戦後日本の「自由」と「民主主義」の現実を判断すべきものである。だから、批判するためには、まず、自由や民主主義の概念を正しく理解していることが前提になる。

藤原氏は疑って「民主主義は素晴らしいのか」(p74)と言う。民主主義すなわち国民主権、主権在民は、「国民が成熟した判断をすることができる」場合には、文句なしに最高の政治形態である(p75)と。

もちろん、民主社会における国民の判断や世論のそうした限界はよく知られているし、一部の狂信的な「民主主義者」だけが、民主主義の限界も弁えずに崇拝し、「絶対性」を主張しているだけである。

それぐらいは誰も知っているし、だからこそ、チャーチルも、「民主主義は最悪の政治形態であるが、今まで存在したいかなる政治制度よりはまだましである」と言ったのだ。民主主義の価値は相対的なものであり、まだその絶対性を論証した者はいない。民主主義は、概念としては、藤原氏が言うように「国民が成熟した判断をする」ことを自明の前提とはしていない。

しかし、だからと言って、「国民は永遠に成熟しない」(p82)と断言して済ませるだけでは、民主主義における日本国民の文化的な成熟度についてや、その国民的な資質の向上についての教育上の課題も問題意識に上ってこない。


それとも、アメリカやイギリス、オランダ、デンマーク、スイスなどの欧米諸国民の民主的な成熟度と日本のそれとが同一の水準にあると藤原氏は見ているのだろうか。雲仙市会議員たちの、口にするのも愚かしいような乱行が、今日も明らかになったばかりである。これが、日本の国民や政治家の現実ではないか。

さらに言うなら、歴史的にプロテスタント・キリスト教文化を背景にする民主主義には、国民が宗教改革を体験し、自由の意識を確立しているという前提がある。この前提がなければ、日本やイラクにその例を見るように、借り物の「民主主義」による悲喜劇を見るだけではないのか。

それとも藤原氏は、この借り物の「民主主義」を本物にしようとするのではなく、民主主義の精神と制度に代えて、武士道の精神に置き換えようとするのだろうか。

民主主義国家にも「真のエリート」が必要である(p83)と言うのはそのとおりであると思う。民主主義国家であれ、株式会社のような経営者の「独裁的」な組織であれ、指導者、幹部の質がその国家なり組織の質を決定することになるのは言うまでもない。

藤原氏が言うように、もはや現在の日本の「官僚」は真のエリートでない(p84)どころではなく、政治家も含めて、「高級公務員」が、反国民的な単なる利益集団に変質し、堕してしまっているのが現実である。

イギリスやフランスやアメリカで養成されているようなエリートが日本にはおらず、養成もされていないことが問題であるのは藤原氏の言うとおりであると思う。しかし、だからと言って、民主主義の「限界」を拡大解釈して、民主主義の持つ「意義」をすら否定しようとするのは、藤原氏の「政治思想」の水準を示すものでしかないと思う。

藤原氏の自由観や民主主義観についていえることは、また平等についてもいえる。悪平等と言う言葉があるように、「平等」をただ抽象的に狂信的に振り回せば、どういうことになるか。それは、フランス革命や中国の文化革命の末期に吹き荒れた凶暴な人民の暴力、日本の「男女平等法案」に教育上の問題を見るまでもない。家庭内において、親と子が「平等」でありうるわけがない。

それにも係わらず、藤原氏は、「平等とは何か」その真の概念を問い、それを具体的に展開しようとせず、「平等」もフィクション(p88)とか、「平等」ではなく「惻隠」を(p90)といって、不完全ながらも、曲がりなりにも「平等」を具体化し制度化した現行の制度を無視する。そして現行の組織や行政を具体的にさらに「真に平等」のものに改革して、本当の惻隠の情を実行しようとするのではなく、「惻隠という武士道精神」の抽象的なスローガンで応じるだけである。そして「論理だけではもたない」とか、「自由と平等は両立しない」(p92)と断言するだけで、より高い論理能力で問題を解決する方向には進まないのである。

 

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