作雨作晴


日々の記憶..... 哲学研究者、赤尾秀一の日記。

 

藤田伊織氏、コメントお知らせへの御礼の返事 2020年09月12日 | Weblog

2020年09月12日 | Weblog

 

無能力と雑用のために長らくサボってきたこの日記ブログですが、ブログ「夕暮れのフクロウ」に久しぶりに記事を投稿したので、この日記ブログにも転記しておきました。もう少し勤勉な日記ブログになるように心がけたいと思います。

>>  <<

 

藤田伊織 様、コメントへのお知らせ、ありがとうございました。以前にもコメントいただいていたようですが、

ヘーゲル『哲学入門』第一章 法 第十六節[契約の履行] - 夕暮れのフクロウ https://is.gd/lHCXp6

気づくのに遅れ、また雑用などで御礼の遅れましたことお許しください。コメント欄にお礼とお返事を申しあげようと思ったのですが、それも冗長なものとなってしまい、あらためて記事として投稿させていただきました。

引用
>> <<

『法の究極に在るもの』のウェブページ公開 ( [藤田伊織](http://wisteriafield.jp/law-ultimate/index.html) )
2020-09-03 13:45:56

尾高晴雄の『法の究極に在るもの』を読んで、著作権が切れていることを知って、電子データのテキストを作ってウェブ公開しました。
これは、高橋和巳の「悲の器」の英訳公開を進めていて、同小説の主人公が失脚後「法の究極」について書こうと、いってたので、調べたとこと、『法の究極に在るもの』に出会った次第です。小説では、文学部の哲学科の教授が死亡した話が出て来ますが、尾高先生とは、状況は一致しません。複数の学者の状況を重ね合わせているようです。
尾高先生はヘーゲルやフィヒテのことを厳しく批判していますが、そこが面白いところです。

『法の究極に在るもの』のリンク ( [藤田伊織](http://wisteriafield.jp/law-ultimate/index.html) )
2020-09-03 13:48:13
です。
それから、高橋和巳の「悲の器」はここです。
[http://wisteriafield.jp/vesselofsorrow/vosindex.html](http://wisteriafield.jp/vesselofsorrow/vosindex.html)

>> <<

藤田様のお仕事によって、尾高朝雄の労作『法の窮極に在るもの』がデジタル化され、WEBページに公開されるというまことに貴重な貢献をなされていることを知りました。尾高の著書『法の窮極に在るもの』も、残念ながら最近ではほとんど読まれる機会も失われつつあるのではないかと思います。その著作のなかに小さな誤解などが見当たるとしても、全体としては名著といえると思います。藤田様のお仕事により、より多くの人に読まれる機会の増えることは喜ばしいことです。

最近では法曹界でも「立憲主義」などが流行のようですが、しかし近年の法学者、憲法学者たちはヘーゲル哲学やいわゆるドイツ観念論哲学の素養とは全く無縁のところで「憲法学」に従事されておられるようです。この点がヘーゲル哲学やドイツ観念論哲学の研鑽の上に築かれた尾高朝雄らの法学と現代日本の三文的法学者、憲法学者たちとの違いかなと考えたりします。戦前教育を受けた尾高朝雄などとは異なって、今日の日本のアカデミズムの世界では、ヘーゲル「法の哲学」批判を試みたことがなくとも、法哲学者、憲法学者として通用するようですから。もちろん、これは浅学かつ知見の狭い私の個人的な意見に過ぎません。

私もまた、この尾高の『法の窮極に在るもの』によって、ヘーゲルの「概念」観がアリストテレスの「形相」(eidos)に見事に一致していることに気づかされました。ただ、アリストテレスの「形相」(eidos)を、ヘーゲルが自身の「概念観」として、自覚的に受け継いだものかどうかは、私の浅学ゆえに今のところ確認はできておりません。

私もまたアリストテレスさえろくに知らずして「哲学研究者」を自称しながら過ごしてきましたから、決して偉そうなことは言えません。「哲学研究入門者」とでも自称するのが正確なところかもしれません。

ただ、いずれにしても尾高朝雄のこの本については、私のツイートでも批判しておきましたが、たとえばヘーゲルの「現実」概念に対する尾高の批判が的外れなものであるように、残念ながら今も昔も大学教授たちのこうした不十分な理解によるヘーゲル批判、あるいは曲解が、このことはヘーゲルの「弟子」であることを自称した共産主義者マルクスなどについても言えると思いますが、ヘーゲル哲学に対する一般人の誤解や偏見を生むことになるのだと思います。

ただ、この尾高の作品『法の窮極に在るもの』についても、この著作の意義と限界、もしくはその錯誤を的確に指摘し批判するには、尾高朝雄以上の能力、素養がその批判者に要求されることからも分かるように、誰にでもできることではないとは思います。

いずれにしましても、藤田様のお仕事によって、尾高朝雄の『法の窮極に在るもの』がさらに広く多くの方々によって読まれることになるのは、日本の法哲学や学術一般の水準の向上に大きく貢献することになるのではないかと思います。

絶版になったり、またその価値も広く知られずして図書館の片隅に埋もれてしまっているような「名著」を、これからも藤田様のような篤志家によってデジタル化、電子書籍化されるなどしてWEB上でも広く日本国民に知られ、また読まれるようになれば、今日その使命を真に十分に果たせないでいる劣化した日本の大学、大学院の無能力を少しでも補ってゆく上で、その意義は決して小さくはないと思います。

この尾高朝雄の『法の窮極に在るもの』についての本格的な書評は私もまだ未だ実行し得ておりませんが、さしあたっての批判は私のブログやツイッターでは以下のような論考でおこなっています。

尾高のヘーゲル批判への評注 - 夕暮れのフクロウ https://is.gd/4yIpi9

[夕暮れのフクロウ(尾高)](https://blog.goo.ne.jp/aowls/s/%E5%B0%BE%E9%AB%98)

取り急ぎ、私のブログへのコメント、お知らせへのお礼まで。
 
 
 
藤田伊織氏、コメントお知らせへの御礼の返事 - 夕暮れのフクロウ https://is.gd/HHEAGF

 

 

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「作雨作晴」記事一覧(20190423〜20190627)

2019年06月30日 | Weblog

 

「作雨作晴」記事一覧(20190423〜20190627)

 
 
 
 
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「作雨作晴」記事一覧20180604〜20180725

2018年07月31日 | Weblog

 

 「作雨作晴」記事一覧20180604〜20180725

 

 
 
 
 
 
 
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記事一覧(1)

2014年01月06日 | Weblog
 
記事一覧(1)2014-01-03~2013-06-03

 

 

 
 
 
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グローバリズムと日本の伝統

2008年11月08日 | Weblog

グローバリズムと日本の伝統

hishikaiさん、コメントとTBありがとうございました。
あなたの2008年11月4日の記事『伝統とグローバリゼーションを読ませていただきました。しばらく所用で時間がとれず、すぐにご返事できませんでした。あらためて読み返してみて、感じたこと考えたことを書きます。あなたの記事を私が誤解しているとすればご指摘いただきたいと思います。

私の先の小論「ソフトバンク孫正義氏にみるグローバリズム 」に対するあなたの批判の要点は、最後の結論の段落に書かれていると思います。引用します。

>>

「全体の状況に注意を払う必要があるのは、私達の生活とそれに伴う伝統が常にその中にあり生きて変化しているためである。全体の状況と伝統の縮約である諸基準とでは、特に時代の分岐点にあってその選択が迫られた場合には、本来的な拘束力で全体の状況が優ると考えなければ伝統それ自体の存続をも危うくする。

例えば明治の文明開化にあって我国の建築家が和風建築から洋風建築へと様式の変更を迫られたとき、建築家の胸にどのような選択が働いたであろうかということを、後世の私達は現在に残る和洋折衷様式の中に発見することができる。それを残念でありながらも最善の選択であったと許すことは卑怯な考え方だろうか。

あるいは弁護士が自分の客に請求された賠償額が妥当ではないと主張するときに「この賠償額は不正だ」と言うだろうか。そうではなく彼は全体の状況に照らして、請求された賠償額は「現在の一般的な水準からはずれている」と言うべきではないだろうか。さもなければ彼は信用を失い、客は全てを失うのではないだろうか。」

>>引用終わり

ソフトバンク社の孫正義氏が「女優のお二人に、一台一千万円もする携帯電話端末をプレゼントされたこと」(以下、孫正義氏の「販促営業行為」と言います。)に対して、先の小論で私は、「日本の先進的な経営者として倫理的にも正しいのだろうか」という問いを投げかけました。

それに対し、 hishikaiさんは、「倫理的にも正しいのだろう」かという私の「狭量な」問題提起は、「現在の一般的な水準からはずれている」というべきではないか、そうでなければ「全体の状況」を見失って、「伝統の縮約である諸基準」すらも誤解され、その「信用」をも失ってしまうと言われているのだと思います。

つまり、孫正義氏が行った「一千万の携帯電話端末のプレゼント」という時代の「全体の状況」は「伝統の縮約である諸基準」に優先されるべきで、さもなければ、「伝統の縮約である諸基準」そのものも存続を危うくしかねないと述べられているのだろうと思います。

hishikaiさんの見解についての私の以上の理解が間違っていないとしたうえで論を進めます。

先の私の小論での用語については、一般的に常識的な概念理解を前提にして論じたつもりでした。が、たとえ学術論文でないとしても、もう少し用語の意味の輪郭をはっきりさておいた方がよいと思います。

ここでの重要なキィワードは「伝統」と「グローバリズム」(あるいは「グローバリゼーション」)だろうと思います。何をもって「伝統」と言うか、また、「グローバリズム」と言うかという問題です。さらにhishikaiさんのおっしゃる「伝統の縮約である諸基準」についても同じことがいえると思います。

私が「伝統」ということばで考えている中身は、普通に日本人が「武士道」などということばでイメージされている、質実倹素な生き方、暮らし方ぐらいの常識で考えてもらえればいいと思います。

私たちの生きる現代の観点から、継承されるべき伝統と否定されるべき伝統のあることは当然です。「伝統」のすべてが、継承、存続されるべきであるとは誰も考えてはいないでしょう。先の小論ではかならずしも厳格に規定はしていませんが、「江戸時代の身分制度」や「戦前の小作人制度」などを、「伝統」の範疇の中にまったく含めていないこと、また、明治時代の「和洋折衷文化」も必ずしも否定していないことも了解していただける思います。

先の私の小論では誤解を招きかねない点があったとすれば、明確にしておく必要があると思います。言うまでもないことですが、「孫正義氏の「一千万円携帯電話端末プレゼント」自体が、法律的にも道徳的にも「悪」であると断罪しようとするものではないということです。

孫正義氏はソフトバンク社の経営者として、営業、販売促進のキャンペーンの一環として、当然の営業行為としてなされたのであろうと思います。ですから当然に私の先の小論の見解も、孫正義氏の「販促営業行為」は法律的にも道徳的にも違反している、すなわち「悪」であるから中止せよ、といっているのではありません。

売り上げの向上という観点から、企業経営の立場から見れば、私の見解がかならずしも正しいとは言えないかもしれません。それに、私がそのようなことを言ったからといって、孫正義氏がそのような営業上のキャンペーンを中止するはずもないでしょう。

孫正義氏の「販促営業行為」は「悪」ではありませんから、続行しようが、中止しようが、いずれにせよ私にそれを阻止する義務も権利もありません。そうしたことは本質的には私にはどうでも良いことで無頓着です。

しかし、ただ私の価値観からいえば、孫正義氏のような「販促営業行為」は「悪」ではないが、経営的にも倫理的にも「低い」とは思っているということです。その見解を一市民の一つの意見として述べただけであります。それ以上でも以下でもありません。その点で「倫理的にも正しいか」と言う表現は、かならずしも適切ではなかったかも知れません。

ちょうど、聖書の中に次のような話があります。

「永遠の命」を探していた大金持ちの青年とイエスが出会ったとき、イエスはその青年に言ったそうです。「もし完全になりたいのなら持ち物を売り払って貧しい人に施し、そして私に付き従ってきなさい」と。イエスがそう勧めると、青年は「悲しみながら立ち去っていった」そうです。(マタイ書19:20、ルカ書18:22、マルコ書10:21など)。

もちろん、その青年がイエスに付いて従わなかったからといって、彼が「悪」を行ったことにはなりません。ただ、イエスの価値観からすれば、青年は倫理的には完全ではなかったというにすぎません。

先の私の小論は、日本の企業文化、経営者の意識についての問題提起にすぎません。「一千万円携帯電話端末のプレゼント」も、ひと昔まえの一般の日本人の価値観では、かならずしも賞賛されるようなものではなかったのではないかと、ただ私が推測するだけです。そうであれば、私の価値観はそれに近いと思うだけです。そして、現代日本においては私のような意見は、多くの人に一笑に付されるだけだと言うこともわかっているつもりです。

グローバリズムもすべて否定されるべきだとも考えている訳ではありません。グローバリズムの本家とされるアメリカでも、先に議会でやり玉に挙げられたリーマンブラザースのような経営者ばかりとは限りません。むしろ、公平に見て、企業倫理は全体として見れば、日本よりは欧米諸国の方が高いのではないかと思っています。日本的経営は、多くの点でいまだ国際水準にさえ達していないのではないかと思います。西尾幹二氏などと異なって、いわゆる「小泉改革」なるものが中途半端の失敗に終わったと考える所以です。

さらに付け加えれば、アメリカやイギリスなどのヨーロッパ諸国のグローバリズム、自由主義、個人主義には、キリスト教という宗教的な「伝統」が存在していますが、それをまねた日本の「戦後民主主義文化」にはキリスト教に相当するものがないこと、などもその背景にあると思います。

ですから、孫正義氏の「販売促進営業活動」に対する、一介の市民にすぎない私の見解は、hishikaiさんの言われるような「伝統の縮約である諸基準」に反するものであるとも思いませんし、したがってまた、そうした見解が「全体の状況」に反するために現代日本人の信用を失って「伝統の縮約である諸基準」そのものも存続できなくなるようなものとも考えません。

最後に、グローバリズムの帰結として生じた、いわゆる「経済格差」について、言い添えますと、「経済格差」そのものがあってはならない、というものではありません。
努力や能力に応じた「格差」がなければ、「悪平等」になってしまいます。ただ、それが固定化すると、社会内に一つの中に階級制度が生まれかねません。

課題は、「格差」自体を無くすことではなく、それを固定化させることなく、階層間や、「階級」間の流動化を十分にはかって、制度としての階級を作らないことです。

「いわゆる格差問題について」 

 

 

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オルフォーさんに

2008年10月20日 | Weblog

 

オルフォーさん、はじめまして。コメントありがとうございました。たぶん西尾幹二氏の「インターネット日録」のリンクから来られたのだと思います。

あなたは、西尾幹二氏を「興味深い人物」だとおっしゃられていますが、私にはなぜ戦後の日本には西尾幹二氏に類するような人材が少ないかという問題意識に連なります。

ただうかつにも、10月18日の日録を読むまで、西尾氏が大江健三郎氏と同学年であるとは知りませんでした。私の印象では、昭和の政治家の岸信介氏や民法学者の我妻栄氏のような、旧制高等学校の卒業生のように戦前の教育制度の下で成長されたというイメージを漠然と西尾氏に感じていたのです。

しかし、ご自身のブログのなかで西尾氏が「私は大江とは違う意味でだが、むしろ自分を「戦後型」だと考えている。社会科学的発想というものが身についている。階級意識がない。民主主義をとても大事に思っている。」と述べられて、西尾氏がご自分をいわゆる「戦前型」の保守主義者と一線を画されようとしている点にも共感しました。

私も「戦前型」保守主義を無批判に受容しようというのではありません。ただ、戦後が「たらいの水と一緒に赤子も流してしまう」ように、戦前の良き面をも否定してしまった。その結果として戦後は戦前にも劣ることになっているという認識があるからです。戦前の日本の良き伝統はむしろブラジルやアメリカの日系人や韓国や台湾の旧統治国に一部残されていると思います。

現在の日本の文化状況に対して――そのなかにはNHKなどのマスコミも含まれますが、かって三島由紀夫が批判したような愚劣な市民社会文化と衆愚民主主義を国家がどのように批判しアウフヘーベンしてゆくか、この点でも西尾幹二氏は実に貴重でかけがえのない働きをしておられます。いつの日か「ネット文化」の中からも徹底的なマスコミ批判の嵐が巻き起こることを、そして、それがまともな日本の文化文明の復興につながることを期待しています。

最近のアメリカの金融崩壊についても、かねてからグローバリズムとナショナリズム、あるいはパトリオチズムとの関係で、その矛盾が明らかになることは予測されたことでした。

その意味で今回のアメリカの金融崩壊は、アメリカのグローバリズムを無批判に受け入れようとしていた日本の政治に対する一つの警告にはなるのでしょう。ただ、グローバリズムのもつ意義を全面的に否定し去るのも正しくないのではないでしょうか。グローバリズムがこれまで全世界で一定の影響力をもってきたことにも、それなりの根拠や意義があったからだと思います。グローバリズムの意義とは何であったのか、それを限界とともに見極めることも大切ではないでしょうか。

アメリカの大統領共和制はむき出しの「市民社会国家」です。それは経済的には典型的な「資本主義社会国家」であり「市場原理主義国家」として現象してきます。その意味で日本やイギリスなどヨーロッパ諸国の「立憲君主制国家」はアメリカのようなむき出しの「市民社会国家」に対する批判としての存在価値をもちます。
『至高の国家型態』

アメリカの「市場原理主義」に対して日本は「立憲君主制国家」として主体的に批判的に対応してゆく必要があります。西尾幹二氏の小泉郵政改革に対する批判はそうした点に意義もつものではないかと思います。ただ『小泉郵政改革』の意義についての評価の点で私は西尾氏と若干意見を異にするのかも知れません。

民主党に対する失望
小泉首相は英雄か

最近の若者にどのように西尾幹二氏が受け入れられているのかは、うかつにもよく知りません。ただ、立憲君主制国家の保守という点で西尾幹二氏の思想家としての存在価値は極めて高く貴重でかけがえのないものです。

 

 

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hishikaiさんの「都下闃寂火の消えたるが如し」評

2008年07月21日 | Weblog

 

hishikaiさんの記事にコメントしようとしたところ、「内容が多すぎますので208文字以上を減らした後、もう一度行ってください。」という「コメント」がまたまた出てしまいました。
「エキサイトブログ」の社長さん、雄猫と雌猫の愛のエールならとにかく、こんなことでは、まともなコメントも出来ないのではありませんか。

以下コメント
「明治天皇がご病気になられたときに、民衆がとった態度についてhishikaiさんの認識と漱石の認識には食い違いあるようです。果たしてどちらの判断が正しいのでしょうか。

確かに、国民大衆は「官命」に忠実であり、それをhishikaiさんは皇室に対する「民衆の素朴な信仰」心の現れと見られておられるようです。hishikaiさんのその判断も決して間違いであるとはいえないと思います。

しかし、漱石がそのときに「川開きの催し差留られたり。天子いまだ崩ぜず。川開きを禁ずるの必要なし。」と感じた事実も重く見るべきであると思います。
国民大衆の皇室に対する「素朴な信仰」は漱石も認めていただろうと思います。その一方で漱石は当時の「専制的」な「公権力」に問題を感じたのではないでしょうか。明治天皇崩御と同じ年に石川啄木も亡くなり、その前年には大逆事件に関係したとして幸徳秋水ら24名に死刑判決が下されています。

英国の立憲君主制を現地で肌身に実体験していた漱石にとっては、「当局による民業干渉と翻訳することで自らに納得させようとした」のではなく、強すぎる「当局」の公権力行使に対する批判、あるいは、「国会開設や租税問題」で自分たちの意思を十分に実現できないでいる弱すぎる国民の「民権」に対する批判の表明だったのだと思います。
この弱すぎる「民権」が、やがて日米開戦へ、さらに「戦後民主主義」に連なっているのだろうと思います。」

 

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hishikaiさん

2008年07月07日 | Weblog

hishikaiさん、あなたに頂いたコメントにお礼とお返事をしようと思ったら、「内容が多すぎますので、946文字以上を減らした後、もう一度行ってください」という表示が出てしまいました。面倒なので新しい投稿記事にしました。


hishikaiさん

今日は暑かったですね。hishikaiさんのお住まいの地方はどうでしたでしょう。
とは言え暑いからこそ夏なのでしょうが。あなたのブログも折に触れ訪問させて頂いています。

ところで私のブログも少し真面目すぎるかなと感じています。もう少し、ユーモアや冗句もあってもいいかなという反省もあります。「哲学のユーモア」か「ユーモアの哲学」も気にかけて行こうと思うのですが、どうしても地が出てしまうようです。

hishikaiさんにコメント頂いたのですが、今回の記事で、戦後半世紀以上も、この日本国を支えてきた「平和」憲法の核心を根本的に批判しているはずですのに、ほとんど何の反響もないのも少しは寂しく残念な気がします。無名で平凡な一市井人のつぶやきには、誰も真剣に耳を傾けないのでしょう。

無視を決め込んでいるか、問題提起にも意識が掘り起こされるということもないのでしょう。本当は「平和」憲法を養護する憲法学者たちの意見を聴きたいのですが、皆さん、政府の審議委員などのお偉方できっとお忙しいのでしょう。非哲学的な国民のことですから、このあたりが妥当だろうと思っています。

hishikaiさんはコメントで「本文では「非哲学的な日本国民」を平和主義者を自認する人々に絞って用いているように読めます」とありますが、そんなことはありません。

哲学における国民性の資質と能力に――それは、宗教などに規定される面も大きいと思うのですが、私は希望は持ってはいませんから。どんな国民にも得手不得手はあるから仕方はありません。ただ、国民と国家の哲学が深まらないかぎり、国家や国民に本当の「品格」は生まれて来るはずはないとは思いますが。

また、hishikaiさんは「これからの我国では左右両翼の対立に代えて、真に対立軸とすべきは、この哲学的思考の有無でなければならない」ともおっしゃられていますが、この認識をもう少し具体的に進めて言えば、この「哲学的思考の有無」は「ヘーゲル哲学に対して自分はどういうスタンスを取るか」、あるいは、とくに国家論で言えば、「ヘーゲルの「法の哲学」に対して自分はどのような立場を取るか」、ということになるだろうと思います。

しかし、残念ながら国立大学の憲法学者たちですらこの教養の前提がなく、したがってそうした問題意識すら生まれてこないのが現状であるようです。そうして、こうした憲法学者が、日本国民に憲法を「教授」しているのです。

 

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通天閣のキッチュな美

2008年04月06日 | Weblog

通天閣のキッチュな美  

pfaelzerweinさんがドイツから日本に一時帰国されて、大阪ミナミの通天閣あたりを回遊されている記事を読みました。そこに示されている海外滞在者の久しぶりの日本帰国で感じられた印象の記録に興味をもちました。

2008-04-06 エッフェルよりも通天閣
http://blog.goo.ne.jp/pfaelzerwein/d/20080406

2008-04-04 ない、ありません!
http://blog.goo.ne.jp/pfaelzerwein/d/20080404

2008-04-04  近代社会の主観と客観
http://blog.goo.ne.jp/pfaelzerwein/d/20080404

2008-04-03  ハイ、そう思います!
http://blog.goo.ne.jp/pfaelzerwein/d/20080403

とくに、大阪ミナミにある通天閣が、キッチュかグロテスクその他何であるかはそれぞれの主観の評価によって分かれるところでしょうが、日本文化の現状に何らかの問題意識をもつ者にとってはおもしろいテーマでもありましたし、また、4日の記事「近代社会の主観と客観」の中では、「書店の店頭に学ぶ(並ぶ?)つまらない書籍は数々あれど、なにか重要な事が社会の話題になっていないようにしか思えないが、ただの旅行者の観察に過ぎないだろうか?」とか「日本の空気の重さ」というような問題認識も示されておられました。


たしかに、新聞でもテレビでも、また市民権を得つつあるブログでも、さまざまなことが論じられてはいます。しかし問題であるのは、上は総理大臣から一般庶民にいたるまで、本当に重要な問題にはほおかむりして、当たり障りのないことでお茶を濁して時間を稼いで済ませるような文化です。私はこれを「臭いものに蓋文化」と呼ぼうと思っていますが。

これらの点について、以下のようなコメントを感想をとして氏のブログに送らせていただきました。日本文化の問題について興味をもたれる方もおられると思いますので記事にしました。

以下>>

pfaelzerweinさん、ミナミに行かれていたのですね。私も先日久しぶりにキタに出ました。大阪に行くのにドイツからも京都からも大して変わらない感覚のような気がしますね。とにかく便利になった時代で。

たいていの用事はキタで済んでしまいますから、ここで足止まりです。ミナミも懐かしいですが、堺の親戚に顔を出す以外はほとんどご無沙汰です。

それにしてもミナミは食い倒れで、ほかのどこよりも実際旨いものが揃っているはずでしたが、pfaelzerweinさんのお口に偶々あわなかった、というより、すでに「ドイツ舌」に変質されかかっていらっしゃるのではありませんか?次回は何とかおいしいお店に出くわされますように。

とは言え、当地でも確かに本物の味は失われてすでに久しいです。ドイツではブドウ農場にしても有機農法の現状などどうですか。畑で自前に作った大根などは本当に柔らかく出汁もよくしみておいしいです。

久しぶりのキタは何でもありの雰囲気で、時間があれば映画でも見たかったです。友人らと地下街を遊び回った若かりし頃が懐かしいですね。

pfaelzerweinさんの記事にあるような、通天閣に「キッチュな美」を見る感覚には、どこかすでに異邦人の視線を感じますね。どうですか?想像しますに外国帰りの方の眼からすれば、今の日本は文字通りの荘子の「混沌」のような生き物の感覚を受けないですか。

食事の不味さの理由を「日本の空気の重さ」に見られているようですが、本来ならドイツよりも日本の方が地理的には「空気」はより軽いはずです。pfaelzerweinさんがそう感じられるのは、やはり根本的には文化の問題でしょうね。とくに宗教などの問題が大きいと思います。日本の政治家の現状やその「仕事」なども、所詮彼らの「宗教」や「哲学」の帰結に過ぎないからです。

日本においては新興宗教、会社教、学校教、政治教などの「諸宗教」ともども含めて、それらの「宗教文化」は明朗軽快晴明なものではありえません。それらはいずれも国民に「自由」の何たるかを教えているものではないからです。

日本国は確かに名目的には民主主義国ですが、今回の中国人監督の映画「靖国」の上映を自主規制したことに見られるように、日本国民にはいまだ自由の何であるかが知られていないからだと思います。

本当の自由を知らない国民は、その生活も憲法もやはりどこか陰鬱にならざるを得ないのです。そのことは、日本より独裁制の強固な現在の胡 錦濤の中国や金正日の北朝鮮を見ればもっとはっきりわかるでしょう。この不自由な共産独裁の国の中国で、あの自由で晴明透徹なギリシャ発祥のオリンピックを開催しようとしているのですから。不似合いであることはわかるでしょう。そして、中国も日本も、その政治的な体制はとにかく、文化的な不自由な質は似たり寄ったりのものです。

だから、平安の昔から現代に至るまで、本当の自由を獲得できてはいない国民には、おそらく春の桜を見ても晴明透徹な自由の眼では、この花を眺められないのです。小野小町の花の歌は明るく透明でしたか?

pfaelzerweinさんのおっしゃるように、日本国民は明治の維新開国以来、古来よりの伝統文化の上に、それとはまったく異質な出自のヨーロッパ文明を接ぎ木せざるを得ないのです。そして、私たちはこの異質な文明の出会いからも、まだわずか一世紀か二世紀も経たないがゆえに、異質な両文明の混迷葛藤を避けることも出来ない時代に生きざるを得ない宿命にあるということです。

笑うべきか泣くべきか、大阪のユニークでキッチュな「美」を秘める通天閣はその象徴の一つだと思います。そこに現代日本人の悲喜劇も、また、逆にそれ故の面白さもあるのだと思います。

>>

追記4月7日

コメントをお送りしてからの感想。

こうした問題―――北京オリンピックや「自由」や「通天閣文化論」などの問題―――についても議論して、またせっかくpfaelzerweinさんの感じられた「書店の店頭に学ぶつまらない書籍は数々あれど、なにか重要な事が社会の話題になっていないようにしか思えない」という問題認識などについても議論して内容も深めることが出来ればよかったと思うのですが、しかし、まあ、ブログ開設の目的や趣旨も人によってそれぞれであるでしょうから仕方はないと思います。

 

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2008年01月07日 | Weblog

toxandriaさん、トラックバックありがとうございました。
明けましておめでとうございます。本年もどうぞよろしく。
あなたのブログへも折りに触れ訪問させてもらっています。

昨年はドイツ旅行の記念写真も楽しませていただきました。とくにハイデルベルグの写真は、なまじっかにヘーゲルなどをかじっている関係で、ハイデルベルグ大学の教授に就任してからヘーゲルはどのあたりを散策していたのだろうかとよけいな空想が働いたりしました。(日本の都市の品格がヨーロッパに追い付き追い抜く日が来るのだろうかと思うとため息が出ます。)

また、晩秋の京都を訪れた写真もあって、近くに暮らしている私などよりももっと京都の秋をご存じかも知れないと思ったりしました。

toxandriaさんのブログ記事ももちろん読ませていただいていますが、今ひとつあなたの思想の核心をつかみ切れていないようです。あなたの博識についてゆけない面もあるのでしょうが、本質をつかむには、もう少し時間的にも「あなたの現象」を体験する必要がありそうです。論評はそれからにさせてもらいたいと思っています。

ただ正月2日の記事で「権力の可視化」をテーマとされているようですが、政治権力の構造をもふくめて、真実の明るみに出るのはよいことだと思います。可能な限り、政治家や「官僚」たちが秘匿している情報や真実も公開されてゆくことが望ましいと思います。その意味でも、インターネットの普及は「権力の可視化」にも少なからず貢献するのではないでしょうか。悪は闇を好み、公正は光を愛するということでしょう。多くの正確な情報によって、私たちの認識できる現象が全面的になるだけ、より的確に本質が客観的に明らかになりますから。

先のブログでも少し触れましたが、小沢一郎氏の「国連信仰」は、民主党が弱小政党の間はさほど問題ではありませんでしたが、昨年の参議院選挙のように多数を占めると、国家の主権を危うくしかねません。できればこの問題についても論評したいと思っているのですが。小沢民主党の「テロ対特措法」などへの対応についての見解なども、toxandriaさんをはじめ、ブログ上に記事を掲載されておられる方がいらっしゃれば、トラックバックなどで教えていただけるとありがたいです。

コメントとして書かせてもらおうと思いましたが、あえて記事にしました。本年もまたtoxandriaさんのご活躍を期待します。

 

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