詩篇第九十篇
祈り。モーゼ、神の人。
主よ、あなたこそ、代々に私たちの住み家。
いまだ山々が生まれぬ前から、
あなたが地と世界をいまだ造られぬ前から、
永遠から永遠にいたるまで、あなたは神。
あなたは人を土に帰して言う。
「帰れ、人の子よ」
まことに千年といえど、あなたの目には
まさに昨日の昼のように過ぎ去り、
また夜の見張りの一時のよう。
あなたは人を眠りのうちに流し去る。
朝には草のように萌え出で、
朝には花のように咲き出で、
夕べには、刈られて枯れる。
まことに、私たちはあなたの怒りによって燃え尽き、
あなたの憤りによって恐れ惑います。
あなたは私たちの不正を御前に置き、
私たちの隠された悪をあなたの御顔の光にさらされる。
まことに、我らの日々はすべて、あなたの怒りの中を過ぎ、
私たちの生涯はため息のように尽きます。
私たちの齢は七十年。
たとえ健やかであっても八十年。
しかもそこに得たものは苦しみと災い。
瞬くうちに過ぎ去り、私たちは飛び去ってゆく。
誰があなたの怒りの力を知っているのか。
あなたの憤りを畏れるように。
私たちの生涯の日々を正しく数えることを教えて、
私たちの心に知恵を得させてください。
戻って来てください。主よ、いつまでなのか。
あなたの僕らを憐れんでください。
朝に、あなたの愛に満ち足りれば、
私たちは生涯を喜び歌い、祝うでしょう。
あなたが私たちを苦しめられた日々と、
私たちに災いを降された年々に応じて、
私たちを喜ばせてください。
あなたの僕らにあなたの御業を見させ、
彼らの子供たちのうえにあなたの栄光を現わしてください。
そして私たちの神、主の恵みが私たちの上にありますように。
どうか私たちの事業を確かなものに、
どうか私たちの事業を揺るぎなきものにしてください。
詩篇第九十篇註解
主なる神の絶対性と永遠性、それに対する人間の有限と果敢なさ、敬虔な神の人、モーゼの嘆き。
詩篇の中にはダビデ作とされるものが圧倒的に多いが、この第九十篇はモーゼの祈りとされている。モーゼの生涯については、いわゆる『モーゼの五書』の中の「出エジプト記」から、「申命記」に至るまでに記録されている。それによれば、モーゼはエジプトの王女の養子として、当時の最高の教育を授けられて育てられたようである。
いずれにせよ、モーゼはユダヤ教、イスラム教、キリスト教の父といってもよい存在である。これらの宗教は「モーゼの五書」を根底に据えることによって、精神的な類縁関係にある。彼がいなければこれらの宗教もなかった。現代のユダヤ人も現在のような形で存在していたかどうかわからない。モーゼがいなければ、キリストもマホメットも存在しなかった。それほどにモーゼは、人類の歴史の核心に位置する人物である。
モーゼは十戒をはじめとするさまざまな律法の規定を彼自身の民族に課したが、何よりも特筆されるべきは、唯一神教に代表されるこの宗教の世界観であろう。その神は天地、宇宙の創造者として唯一である。唯一であるがゆえに絶対的でありまた排他的である。そうした傾向を、ユダヤ教イスラム教キリスト教は共通の精神的な母胎としてもっている。
モーゼの生涯やその宗教の特質についての詳細についても興味はあるが、ここでは深くは立ち入れない。これからも詩篇に読みとれる限りで、モーゼの精神と思想に触れてゆきたいと思う。ユダヤ教やイスラム教、またキリスト教の精神を研究しようとすれば、当然にその母胎であるモーゼの宗教に、さらには、この民族の始祖であるアブラハムやこの中東地域の伝統的な宗教の司祭であるメルキデセクらの宗教にも触れざるを得ない。しかし、この地域の宗教の歴史的な発展に根本的な影響を及ぼしたのはモーゼである。モーゼの宗教はこれらの民族の宗教の集大成として存在する。
主よ、あなたこそ、代々に私たちの住み家。
主は、世々に私たちの住む所であることをモーゼは歌う。ヤーベ神は、モーゼにとって永遠の隠れ場、住み家、逃れ場である。この神は、天地、宇宙が創造される前から、そして、永遠の昔から未来永劫にわたって存在する神として知られている。モーゼ五書の劈頭の書『創世記』にも記されているように、この神は天地創造の神であり、また、人類の造り主でもある。土から人を造り上げた神はまた、人間にとって「主」としても存在する。この神は、人間に命令し人間を支配する。また人を限り有る存在として土に帰す。主の永遠性に比すれば、人間とは実にはかない存在である。
主なる神にとって、千年や二千年は、人間にとっての一日のように、時間の長さを超越した存在である。それに比して、人間の生涯はなんと果敢ないことか。それは、果敢なく空しいものの象徴である草や花にたとえられる。その生涯は眠りの中の夢のように果敢ない。モーゼは、永遠の存在者との対比において人間の果敢なさ、空しさを歌う。
仏教でも同じように、「朝の紅顔、夕べの白骨」として人間の命の果敢なさは捉えられているが、仏教の基調は無であり空の上に立てられた果敢なさである。そこには、唯一神の存在はなく、また、人間の隠された悪を憤りと怒りをもって裁く「人格」としての神もない。それに対して、モーゼの宗教では絶対者であり永遠者である主なる神を前にして、おそれ慄く人間がいる。
周知のようにモーゼにおいては、神が絶対的唯一神として、かつ人格的、倫理的存在として捉えられていることである。これが、モーゼの宗教を他の諸宗教から区別する隔絶して異なる根本的な点である。モーゼの宗教に比べれば、他の諸宗教の倫理的な意識は、朦朧としたベールのなかにある。
モーゼもその生涯にさまざまな苦難と試練の中を生き抜かざるを得なかった。彼が生涯に出会った苦難は、エジプトにおける彼の同胞たちを奴隷的な境遇から解放するためであった。そのためにモーゼは、彼が育ったエジプトの王宮の快楽に満ちた生活を捨てた。(モーゼの生涯の内容については「出エジプト記」や「民数記」「申命記」などに詳しく記録されている。)そのためにモーゼは、近隣の異民族、異教徒たちに対してだけではなく、同胞たちの堕落とも戦わなければならなかった。モーゼの死の苦しみは、主の怒り、主の憤りによるものだった。
モーゼは生涯の苦しみは、主の御怒りによるものであり、それは、隠された罪のためである。その苦しみのなかに、彼の生涯はため息のように尽き果てようとしている。仏教もまた苦の諦観の中に人間を置くが、しかし、仏教は本質的に無神論であるか多神教であるから、無や空を観照する中で救いを得ようとする。それに対し、モーゼの神は絶対者であるから、その仲介者無くしては救われない。
誰があなたの怒りの力を知っているのか。
あなたの憤りを畏れるように。
モーゼはそうした苦しみの中に人間に与えられた生涯の時間が瞬く間に消え失せてゆく空しさを歌うとともに、絶対的な裁きとして現れる主なる神の威力に対する畏れを教える。
また、人間の生涯は短く、その日数も数えられる。人間はいつか必ず死ぬ。それによって、みずからの有限性を悟り、心に知恵を得られるようにと祈る。モーゼの神は生ける人格神として、人間の精神と直接にかかわることで、その祈りは生きて躍動するダイナミックなものとなっている。
戻って来てください。主よ、いつまでなのか。
あなたの僕らを憐れんでください。
モーゼの生涯も、イエスと同じように苦しみに満ちていた。その苦しみの中から、モーゼは主なる神の愛と憐れみを求め、苦しみに応じて喜びと楽しみを賜ることを祈る。モーゼの詩のこうした祈りを読むとき、これと同じ精神がイエスや聖書のその他の預言者の中にも貫かれていることがわかる。このモーゼの祈りは、その千数百年後に生きたイエスの祈りでもあった。
モーゼは彼の民族に、呪いと祝福を与えたが、呪いが本意でなかったことはいうまでもない。モーゼは彼の子孫のために、主の栄光を、神の摂理を見つめることを祈り、主の喜びが彼らの頭の上に留まることを祈った。
そして最後に、モーゼは彼の仕事が確かなものとなるように祈る。
モーゼの使命とは、彼の民族を宗教的に導き、神の民とすることであった。その使命が永遠に揺るぎなく果たされることを祈る。
このモーゼの祈りは、神に聴き入れられたか。それは人類の歴史を見ればわかる。モーゼの事業は、イエスに受け継がれ、マホメットに受け継がれて、永遠に揺るぎなきものになっている。