作雨作晴


日々の記憶..... 哲学研究者、赤尾秀一の日記。

 

4月7日(火)のつぶやき

2015年04月08日 | ツイツター

Facebookのアルバム「20150406」に写真を16枚アップロードしました fb.me/2gDydoZtJ


72:音に聞く 高師の浜の あだ波は かけじや袖の ぬれもこそすれ(祐子内親王家紀伊)

shuzo atiさんがリツイート | 1 RT

占領軍はその国の青少年を、家庭や教会や民族的伝統から早急に引き離す必要があるのだ。彼らを新体制に役立つようにするために、また、彼らが新しい時代に熱狂するようにするために、洗脳する必要があるのだ。そのため、新聞やラジオ、テレビなどが宣伝に用いられる。(スイス政府『民間防衛』)

shuzo atiさんがリツイート | 2 RT

Kurz=直ぐに、近い内に、nicht gesehen =見なかった、逢わなかった。だから「お久しぶりですね」という訳になるのかしらん。RT @dt_reibunshu: ちょっとおひさしぶりですね。
Kurz nicht gesehen.


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4月6日(月)のTW:ヘーゲル法哲学批判序説ノート1

2015年04月07日 | ツイツター
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マルクス「ヘーゲル法哲学批判序説」ノート(1)

2015年04月06日 | 国家論

 

Karl Marx

Zur Kritik der Hegelschen Rechtsphilosophie. Einleitung

Die Kritik der deutschen Staats- und Rechtsphilosophie, welche durch Hegel ihre konsequenteste, reichste, letzte Fassung erhalten hat, ist beides, sowohl die kritische Analyse des modernen Staats und der mit ihm zusammenhängenden Wirklichkeit als auch die entschiedene Verneinung der ganzen bisherigen Weise des deutschen politischen und rechtlichen Bewußtseins, dessen vornehmster, universellster, zur Wissenschaft erhobener Ausdruck eben die spekulative Rechtsphilosophie selbst ist. War nur in Deutschland die spekulative Rechtsphilosophie möglich, dies abstrakte überschwengliche Denken des modernen Staats, dessen Wirklichkeit ein Jenseits bleibt, mag dieses Jenseits auch nur jenseits des Rheins liegen: so war ebensosehr umgekehrt das deutsche, vom wirklichen Menschen abstrahierte Gedankenbild des modernen|385|*Staats nur möglich, weil und insofern der moderne Staat selbst vom wirklichen Menschen abstrahiert oder den ganzen Menschen auf eine nur imaginäre Weise befriedigt. Die Deutschen haben in der Politik gedacht, was die anderen Völker getan haben. Deutschland war ihr theoretisches Gewissen. Die Abstraktion und Überhebung seines Denkens hielt immer gleichen Schritt mit der Einseitigkeit und Untersetztheit ihrer Wirklichkeit. Wenn also der status quo des deutschen Staatswesens die Vollendung des ancien régime ausdrückt, die Vollendung des Pfahls im Fleische des modernen Staats, so drückt der status quo des deutschen Staatswissens die Unvollendung des modernen Staats aus, die Schadhaftigkeit seines Fleisches selbst.

Schon als entschiedner Widerpart der bisherigen Weise des deutschen politischen Bewußtseins verläuft sich die Kritik der spekulativen Rechtsphilosophie nicht in sich selbst, sondern in Aufgaben, für deren Lösung es nur ein Mittel gibt: die Praxis.

Es fragt sich: Kann Deutschland zu einer Praxis à la hauteur des principes |die sich auf die Höhe der Prinzipien erhebt| gelangen, d.h. zu einer Revolution, die es nicht nur auf das offizielle Niveau der modernen Völker erhebt, sondern auf die menschliche Höhe, welche die nähere Zukunft dieser Völker sein wird?

Die Waffe der Kritik kann allerdings die Kritik der Waffen nicht ersetzen, die materielle Gewalt muß gestürzt werden durch materielle Gewalt, allein auch die Theorie wird zur materiellen Gewalt, sobald sie die Massen ergreift. Die Theorie ist fähig, die Massen zu ergreifen, sobald sie ad hominem |am Menschen| demonstriert, und sie demonstriert ad hominem, sobald sie radikal wird. Radikal sein ist die Sache an der Wurzel fassen. Die Wurzel für den Menschen ist aber der Mensch selbst. Der evidente Beweis für den Radikalismus der deutschen Theorie, also für ihre praktische Energie, ist ihr Ausgang von der entschiedenen positiven Aufhebung der Religion. Die Kritik der Religion endet mit der Lehre, daß der Mensch das höchste Wesen für den Menschen sei, also mit dem kategorischen Imperativ, alle Verhältnisse umzuwerfen, in denen der Mensch ein erniedrigtes, ein geknechtetes, ein verlassenes, ein verächtliches Wesen ist. Verhältnisse, die man nicht besser schildern kann als durch den Ausruf eines Franzosen bei einer projektierten Hundesteuer: Arme Hunde! Man will euch wie Menschen behandeln!

Selbst historisch hat die theoretische Emanzipation eine spezifisch praktische Bedeutung für Deutschland. Deutschlands revolutionäre Vergangenheit ist nämlich theoretisch, es ist die Reformation. Wie damals der Mönch, so ist es jetzt der Philosoph, in dessen Hirn die Revolution beginnt.

 カール・マルクス

ヘーゲル「法哲学」批判序説

ドイツの国家哲学と法哲学は、ヘーゲルによってもっとも首尾一貫し、もっとも豊かに、もっとも徹底した形で示されたが、これに対する批判は二つの側面を持っている。

それは近代国家とそれに関連する現実を批判的に分析するものである一面とともに、また、ドイツの政治的および法的な意識の従来のあり方全体に対する決定的な否定という一面である。

そしてこのドイツの政治的および法的意識のもっとも優れた、もっとも普遍的な、科学にまで高められた表現形式こそ弁証法的法哲学そのものにほかなら ない。この弁証法的法哲学は、近代国家についての一般的な深遠な思考であり、近代国家の現実はたといライン川の彼岸にあるとしても、やはりどこまでも彼岸 のものとしてのみある。

このような弁証法的法哲学がただドイツにおいてだけに可能であったとすれば、逆にまた現実的人間を捨象するドイツ的な近代国家の思想像が可能であったのも、ただひとえに近代国家そのものが現実的人間を切り捨てているからであり、またその限りにおいてのみである。

ドイツ人は他の諸国民が実行したことを、政治の上で思考したのである。ドイツは他の諸国民の理論的な良心であった。ドイツの思想の抽象化と高踏性はいつも彼女の現実の一面性と後進性とに歩調を合わせていた。

ドイツの国家制度の現状が、旧体制の完成を、近代国家の肉体おける棘の完成を実現しているとすれば、ドイツの国家認識の現状は、その肉体そのものの欠陥を、近代国家の未完成を表現している。

弁証法的な法哲学に対する批判は、すでに、これまでのドイツの政治的意識の様式に対する決定的な敵対者としてだけにとどまらず、むしろその解決が唯一の仕事である、実践へと自らを進めてゆく。

そこで問題になることは、ドイツが、原則の高さ(à la hauteur des principes)にまで向上した実践へと自らを高めることができるのかということ、すなわち、革命へと、たんに現代的な諸民族の公式の水準に達するの みではなく、これらの諸民族が近い未来にあるような、人間的な高みにまで、到達することができるのか?ということである。

批判の武器はもちろん武器の批判に取って換えることはできない。物理的な暴力は物理的な暴力によって倒されなければならないが、しかしまた、理論も、それが大衆を捉えるやいなや物理的な暴力になる。理論は、感情に訴えて人身攻撃で証明すれば、それはすぐに過激になる。

過激であることは、事柄を根本から掴むことである。人間にとって根本であるとは人間自身であることである。過激主義としてのドイツの理論の明白な証拠は、実践的なエネルギーとしての証明とおなじく、宗教の断固たる積極的な廃止によって明確になる。 

宗教に対する批判は、「人間が人間にとって最高の存在である」という教えに尽きる。それは同じく、人間がこの上なく卑しめられ、この上なく奴隷化さ れ、打ち棄てられ、侮蔑された存在である全ての諸関係を、転覆せよという定言命法をもって終わる。その諸関係というのは、「哀れな犬!人間はおまえたちを 人間並みに扱おうとしているのだ。」と、その計画された飼い犬税に対してフランス人が叫んだほどには、誰もうまく表現できないような関係である。

歴史そのものにおいても、理論的な解放はドイツにとって特別に実践的な意義を持っている。ドイツの革命的な過去も、つまるところ理論的であって、それが宗教改革である。当時においては僧侶の、そして今は哲学者の、それらの頭脳の中で革命が始まる。

※追記20150407

「ヘーゲル法哲学批判序説」のごく一部を訳してみても、マルクスがヘーゲル法哲学の根本的な過激な批判家として登場しているのは明らかだ。彼が良く も悪くもフランス革命直系の革命家であることが分かる。彼の「人間主義」がすれっからしのならず者に成り終わるだろうことも予測できる。 

 

 

 

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4月5日(日)のTW:Chris Rea - Looking For The Summer(夏を探して)

2015年04月06日 | ツイツター
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Chris Rea - Looking For The Summer HD 720

2015年04月05日 | 趣味娯楽

ロシアの大地はさすがに広大だな。

Chris Rea - Looking For The Summer HD 720

 

Chris Rea--Looking For The Summer
 
 
Look deep into the April face
A change has clearly taken place
Looking for the summer

The eyes take on a certain gaze
And leave behind the springtime days
Go looking for the summer

This ain't no game of kiss and tell
The implications how you know so well
Go looking for the summer

The time has come and they must go
To play the passion out that haunts you so
Looking for the summer

Remember love how it was the same
We scratched and hurt each others growing pains
We were looking for the summer

And still I stand this very day
With a burning wish to fly away
I'm still looking
Looking for the summer

 

 

 

 

 

 

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4月4日(土)のTW:#武道、#小川派

2015年04月05日 | ツイツター

小川派ほどオーソドクスな武芸流派は、日本でもあまり見られないのではないだろうか。 fb.me/53Ovoj9xL

Ogawa Ryu - 自然の伝統 Shizen no Dentou 組み打ち - KumiUchi 岩波 - 二本目 Iwanami - Nihon Me - 2015

 


池内恵「英米が支える「欧米」の優位な地位にはただ乗りしながら、「反米」で第三世界にもウケようとするところがなんとも嫌な感じである。まあそういうところがイスラーム主義過激派などからも見透かされて・・・・ 」【中東・イスラーム学の風姿花伝】chutoislam.blog.fc2.com/blog-entry-298…


 
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4月2日(木)のつぶやき

2015年04月03日 | ツイツター

なぜ das  Bier だけ中性に扱われるのだろう? アルコールの度数が低いからなのだろうか。RT @dt_reibunshu: 【名詞の性】酒類はすべて男性名詞(中性のビール das Bierを除く)。


【月食花見プロジェクト】4日(土)21時頃に予想される天気をプロットしてみました。むむ、今のところ難しそうな地域が多そう…明日も最新情報をお届けします! #月食花見 #tenkijp tenki.jp/labo/ pic.twitter.com/XzwRbenwz7

shuzo atiさんがリツイート | 539 RT

剣大刀いよよ研ぐべし古(いにしへ)ゆ清(さや)けく負ひて来にしその名そ

詠み人:大伴家持(万葉集)

shuzo atiさんがリツイート | 4 RT

都流藝多知 伊与餘刀具倍之 伊尓之敝由 佐夜氣久於比弖 伎尓之曽乃名曽
ツルギタチ イヨヨトグベシ イニシヘユ サヤケクオヒテ キニシソノナソ
剣大刀 いよよ研ぐべし 古ゆ さやけく負ひて 来にしその名そ

家持全集本文編html asahi-net.or.jp/~sg2h-ymst/yak…


Facebookのアルバム「20150331」に写真を14枚アップロードしました fb.me/1EBXEQZph


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