パソコンが壊れてしまったためしばらくブログをお休みしていましたが、最近新しいパソコンを購入し、立て続けに更新しています。カラーはまややの好きなピンク、最近はこんなカラフルなパソコンが出てきて、まるで夢のようです
簡素テーブルの上ですみません
パソコンがない間は、必然的に読書の時間が増えていました最近読んだのは遠藤周作の『侍』。あらすじは以下を・・・。
「藩主の命によりローマ法王への親書を携えて「侍」は海を渡った。野心的な宣教師べラスコを案内人に、メキシコ、スペインと旅は続き、ローマではお役目達成のために受洗を迫られる。七年に及ぶ旅の果て、キリシタン禁制、鎖国となった故国へもどった「侍」を待っていたものは―。」(新潮文庫背表紙より)
ちょうど9月末に、教会学校で十戒の「あなたの神、主の名をみだりに唱えてはならない」についてお話を担当することになっていたのですが、その内容について色々と思いめぐらすうちに、だんだん『侍』の内容と重なってくるものを感じました。
教案誌を読んだ限りでは、この戒めの「みだりに」というのは「空しいことのために」という意味で、つまりは自分の願い、欲を満たすために神様の名を呼んではいけない、さらには、自分の願いではなく、神様の御心が実現するように祈らなくてはならない、ということだと思います。しかし『侍』の中でも、宗教に現世利益だけを求め、魂の救いや永遠の生命といったものには無頓着な日本人の姿が繰り返し書かれていますが、その「自分の願いではなく、神の御心を求める」ということが人間一般にとってどれほど難しいかということをも、私たちは日々誰しもが感じていると思うのです。
『侍』の中で、日本の司教になることを夢見るべラスコは、それが神の御心だと信じ、あらゆる策を用いて奔走するのですが、行く先々で望みは次々と打ち砕かれ、最後には日本での布教も絶望的なものになってしまいます。しかし再び日本に戻って捕えられた彼は、死の間際にようやく、自分が神のためだと思って成してきたことが、実は自分の傲慢さや虚栄心から来るものであったこと、そしてその欲のために自分が多くの人を利用し、時には欺き傷付けてきたことに気付くのです。読んでいる最中は、やはり神の御心のままにと祈ることは人間にとって辛すぎることなのだろうか・・・という思いにもなってしまったのですが、最後には彼も心の底から神の御旨がなるようにと祈り、穏やかな心持で殉教していったことにほっとするものを感じました。そして、彼のように歴史の表舞台から消えてしまった人物にも、私たちとどこか似た要素を持つ、愛すべき者としてその存在意義をちゃんと持たせようという、遠藤さんの優しさをも強く感じました。
同時に、御心のままに・・・という祈りで思い浮かんできたのは、やはり聖書の「ゲツセマネの祈り」の場面でした。上記のべラスコと違って主イエスは罪ある存在ではありませんでしたが、一度は「この盃をわたしから取りのけてください」と祈られています。主がこの時、ご自分の使命をどれだけわかっておられたかというのは諸説あるらしいのですが、私はあの時主は、まことの神であると同時にまことの「人」として、あの祈りを祈って下さったのではないかな・・・と思うのです。自分の行く末に待っている運命があまりに辛いものだとしたら、できればそれを避けて通りたい、という人間誰しもが持つ思いをも、主ご自身がわかって下さっていた。しかし主はあえて、全人類の救いという神の御旨が成るようにと祈って下さった。私たちが本来受けるべき罰を私たちが受けなくても済むように。その主の愛に出会った時、人は、自分の願いではなく神の御心が成されるようにと祈る者へと変えられていくのではないでしょうか。そういう意味では、べラスコも死を目の前にしてやっと、真実に主と向かい合うことができたというべきなのかもしれません。
こんなふうにだんだんとお話の方向性は固まってきたのですが、しかしここに書いたような内容を幼稚園や小学生の子どもたちにそのまま語るわけにはいかないので、さて、これをどうわかりやすく話したら良いのやら・・・再び思案中です。久々に長い文章を書きました。
簡素テーブルの上ですみません
パソコンがない間は、必然的に読書の時間が増えていました最近読んだのは遠藤周作の『侍』。あらすじは以下を・・・。
「藩主の命によりローマ法王への親書を携えて「侍」は海を渡った。野心的な宣教師べラスコを案内人に、メキシコ、スペインと旅は続き、ローマではお役目達成のために受洗を迫られる。七年に及ぶ旅の果て、キリシタン禁制、鎖国となった故国へもどった「侍」を待っていたものは―。」(新潮文庫背表紙より)
ちょうど9月末に、教会学校で十戒の「あなたの神、主の名をみだりに唱えてはならない」についてお話を担当することになっていたのですが、その内容について色々と思いめぐらすうちに、だんだん『侍』の内容と重なってくるものを感じました。
教案誌を読んだ限りでは、この戒めの「みだりに」というのは「空しいことのために」という意味で、つまりは自分の願い、欲を満たすために神様の名を呼んではいけない、さらには、自分の願いではなく、神様の御心が実現するように祈らなくてはならない、ということだと思います。しかし『侍』の中でも、宗教に現世利益だけを求め、魂の救いや永遠の生命といったものには無頓着な日本人の姿が繰り返し書かれていますが、その「自分の願いではなく、神の御心を求める」ということが人間一般にとってどれほど難しいかということをも、私たちは日々誰しもが感じていると思うのです。
『侍』の中で、日本の司教になることを夢見るべラスコは、それが神の御心だと信じ、あらゆる策を用いて奔走するのですが、行く先々で望みは次々と打ち砕かれ、最後には日本での布教も絶望的なものになってしまいます。しかし再び日本に戻って捕えられた彼は、死の間際にようやく、自分が神のためだと思って成してきたことが、実は自分の傲慢さや虚栄心から来るものであったこと、そしてその欲のために自分が多くの人を利用し、時には欺き傷付けてきたことに気付くのです。読んでいる最中は、やはり神の御心のままにと祈ることは人間にとって辛すぎることなのだろうか・・・という思いにもなってしまったのですが、最後には彼も心の底から神の御旨がなるようにと祈り、穏やかな心持で殉教していったことにほっとするものを感じました。そして、彼のように歴史の表舞台から消えてしまった人物にも、私たちとどこか似た要素を持つ、愛すべき者としてその存在意義をちゃんと持たせようという、遠藤さんの優しさをも強く感じました。
同時に、御心のままに・・・という祈りで思い浮かんできたのは、やはり聖書の「ゲツセマネの祈り」の場面でした。上記のべラスコと違って主イエスは罪ある存在ではありませんでしたが、一度は「この盃をわたしから取りのけてください」と祈られています。主がこの時、ご自分の使命をどれだけわかっておられたかというのは諸説あるらしいのですが、私はあの時主は、まことの神であると同時にまことの「人」として、あの祈りを祈って下さったのではないかな・・・と思うのです。自分の行く末に待っている運命があまりに辛いものだとしたら、できればそれを避けて通りたい、という人間誰しもが持つ思いをも、主ご自身がわかって下さっていた。しかし主はあえて、全人類の救いという神の御旨が成るようにと祈って下さった。私たちが本来受けるべき罰を私たちが受けなくても済むように。その主の愛に出会った時、人は、自分の願いではなく神の御心が成されるようにと祈る者へと変えられていくのではないでしょうか。そういう意味では、べラスコも死を目の前にしてやっと、真実に主と向かい合うことができたというべきなのかもしれません。
こんなふうにだんだんとお話の方向性は固まってきたのですが、しかしここに書いたような内容を幼稚園や小学生の子どもたちにそのまま語るわけにはいかないので、さて、これをどうわかりやすく話したら良いのやら・・・再び思案中です。久々に長い文章を書きました。