違う言葉に似た音を見つけると、オヤ、全く関係のないことなのだが、どこかでつながっていないかと思いはじめます。
この網に、美と be が引っかかりました。
美も be には、わざとらしさがつきまといます。
嫌らしさもぶら下がります。美と be は似ています。
なんだ、「違う」話ではなかったのかと自問します。そうなんですが、似たところがどこかになければ、「違う」話もできない、そう自答しておきます。
be には、基準をつくることができます。行動基準です。
行動基準というのはなかなか難しく、その基準で行動を縛ってしまうと、それから外れたことには手を出せません。
こういう場合はやってよろしいというのは、言ってみれば無責任な基準です。もし結果が悪ければ、してよいことになっていないのにやった実行当事者だけが悪いということにできますから。
それよりも、してはならないことだけを決めておけばよいのですが。
脱線から戻りましょう。
美には、基準はつくれません。無理につくろうとすれば行動基準と同類になります。
美は無限に続きますが、be はそうはいきません。
美と無縁であれば、昔の be を続けてみても、誰も目を向けないでしょう。
パソコンは be の道具になります。いや、be の道具そのものでしょう。
パソコンは、美の道具にはなっても、それ自体、美そのものにはなれません。
パソコンの画面に現れるものを美に仕立てようとすれば無理が生まれます。Windows 8 もその見本でしょう。
パソコンから美が生まれるのは、それを道具にした be によって感覚が投入されたときです。
渋谷の街からガングロが消え去ったのも、あれは be であって、美ではなかったからでしょう。