もう一度観たいのに、なかなかDVD化されなくて残念な映画が何本かあります。
その一つが「南の島に雪が降る」。
俳優の加藤大介さんが、第二次大戦中、陸軍の下士官としてニューギニアでご苦労された実体験をもとに書かれた本(写真)を、1961年(昭和36年)に東宝が映画化したものです。
加藤さんが昭和18年に送り込まれたニューギニアには、何万人もの兵士が投入されるも戦局が悪化し、昭和19年に入ると食料補給も途絶えて毎日栄養失調などで死者が相次ぐ悲惨な状況となりました。
そして半数の兵員が撤退しましたが、加藤さんは居残り組に。
「連合軍が上陸したら、すぐに玉砕だ」と、食糧を食べ尽くしてしまったが、ちっとも加藤さんたちの陣地に連合軍がやってこない。
実は、連合軍が「飛び石戦法」をとったため、加藤さんの部隊がいる地域は攻撃対象から外れて孤立してしまったのです。
このため、補給路を断たれ、食糧も食べ尽くしてしまった日本兵たちは生殺し状態となりました。
そこで日本軍は、ジャングルに畑を作って芋を栽培するなどして自給自足の長期戦の態勢をとったのですが、次第に兵士達の気持ちも荒んできました。
例えば、捕まえたカエルやトカゲを奪い合って激しい喧嘩が起きたりするような有様でした。
農作業の合間に一時休憩をとり、さあ作業を再開しようとした時に立ち上がらない兵隊がいる。
どうしたのかと思ったら、休憩で座りこんだ姿勢のまま死亡していたということもあったそうですから、気持ちが荒れてくるのも仕方ありません。
その状況への対処に将校たちが悩んだ結果、慰問の芝居をやろうということになり、司令官の号令の下、各部隊から俳優経験者、脚本家、カツラ職人、裁縫職人、染物職人、針金細工職人、三味線弾きなどが集められ、即製ながらもプロの揃った劇団が結成されました。
もちろん本職の俳優であった加藤さんも中心メンバーとなりました。
その慰問劇団の芝居を月一回観るために、各地域に散って陣地を構えている多数の部隊が交替で芝居小屋のある場所まで、ジャングルや川を越えて集まってきます。
ある時「瞼の母」の芝居が上演されました。
白い落下傘で作った雪原に、紙を細断した雪を降らせたところ、ある部隊は大歓声をあげましたが、東北出身者で編成されている部隊は、両手で顔を覆って全員が肩を震わせて泣き出したそうです。
この場面だけ取り上げれば苦しい中にも心温まる逸話となります。
でも、芝居を観るために自分の陣地から芝居小屋まで移動する際には、部隊によっては数日間も山野を歩かねばならないし、その間の弁当は芋の葉っぱだけ。
芝居を観終った兵隊さんが、自分の陣地に戻り、「ああ楽しい芝居だった」と伸びをしたまま息を引き取ることもあったそうですから、極限の状態ということに変わりはありません。
この劇団は、終戦後に全員が捕虜となった以降も、連合軍兵士も観劇できることを条件に英国軍の司令官が認めてくれて、復員するまで慰問活動が続けられました。
とにかく、ニューギニアの兵隊さんたちが、現在の私たちには想像もできない大変なご苦労をされたことが、この本から良く分かります。
さて、原作の文庫本を読んでいて、驚いたことが一つあります。
戦後に慶応野球部で監督をされた稲葉誠治さんが、ニューギニアで加藤大介さんと同じ地域の部隊で陸軍伍長として兵役に就いていらっしゃったことです。
稲葉誠治さんは、愛知県の旧制岡崎中学から慶応義塾に進まれた野球選手で、現役時代は投手。
戦前の六大学野球で活躍されました。
戦後は、創成期の横浜高校野球部の監督を経て、慶応義塾の監督を1956年-59年と4年間務められ、在任中に大学日本一を達成されました。
中田、衆樹、巽らの名選手が慶応にいた時代です。
その後は日通浦和を率いて社会人野球でも日本一を達成。
次いで流通経済大の野球部創設に尽力された後、プリンスホテルの初代監督として再び社会人野球スポニチ大会で全国優勝するなどの輝かしい実績を残されています。
私は、慶応の監督時代の稲場さんは知りません。
お名前を最初に知ったのは、稲場さんがプリンスホテルの初代監督に就任された時でした。
1979年にプリンスホテル野球部が結成された際、早稲田の監督を勇退されたばかりの石山建一さん(静岡高校-早大)が参加されました。
てっきり石山さんが監督かと思ったら実際には助監督だと聞き、「それでは誰が監督なんだろう」と不思議に思っていたら、稲葉さんでした。
稲葉さんの輝かしい球歴と実績をみれば、西武の堤オーナーから監督に指名されたのも納得です。
稲葉さんは、2001年に84歳で大往生されました。
戦時中のニューギニアでの苦難を乗り越えて、これほど野球一筋の人生を送られた稲葉さんのことですから、きっと天国でも野球をされているはずだと私は思います。
ひょっとしたら、ニューギニアで共にご苦労された加藤大介さんらの戦友たちを招いて、慰問野球試合をされているかも知れませんね。
その一つが「南の島に雪が降る」。
俳優の加藤大介さんが、第二次大戦中、陸軍の下士官としてニューギニアでご苦労された実体験をもとに書かれた本(写真)を、1961年(昭和36年)に東宝が映画化したものです。
加藤さんが昭和18年に送り込まれたニューギニアには、何万人もの兵士が投入されるも戦局が悪化し、昭和19年に入ると食料補給も途絶えて毎日栄養失調などで死者が相次ぐ悲惨な状況となりました。
そして半数の兵員が撤退しましたが、加藤さんは居残り組に。
「連合軍が上陸したら、すぐに玉砕だ」と、食糧を食べ尽くしてしまったが、ちっとも加藤さんたちの陣地に連合軍がやってこない。
実は、連合軍が「飛び石戦法」をとったため、加藤さんの部隊がいる地域は攻撃対象から外れて孤立してしまったのです。
このため、補給路を断たれ、食糧も食べ尽くしてしまった日本兵たちは生殺し状態となりました。
そこで日本軍は、ジャングルに畑を作って芋を栽培するなどして自給自足の長期戦の態勢をとったのですが、次第に兵士達の気持ちも荒んできました。
例えば、捕まえたカエルやトカゲを奪い合って激しい喧嘩が起きたりするような有様でした。
農作業の合間に一時休憩をとり、さあ作業を再開しようとした時に立ち上がらない兵隊がいる。
どうしたのかと思ったら、休憩で座りこんだ姿勢のまま死亡していたということもあったそうですから、気持ちが荒れてくるのも仕方ありません。
その状況への対処に将校たちが悩んだ結果、慰問の芝居をやろうということになり、司令官の号令の下、各部隊から俳優経験者、脚本家、カツラ職人、裁縫職人、染物職人、針金細工職人、三味線弾きなどが集められ、即製ながらもプロの揃った劇団が結成されました。
もちろん本職の俳優であった加藤さんも中心メンバーとなりました。
その慰問劇団の芝居を月一回観るために、各地域に散って陣地を構えている多数の部隊が交替で芝居小屋のある場所まで、ジャングルや川を越えて集まってきます。
ある時「瞼の母」の芝居が上演されました。
白い落下傘で作った雪原に、紙を細断した雪を降らせたところ、ある部隊は大歓声をあげましたが、東北出身者で編成されている部隊は、両手で顔を覆って全員が肩を震わせて泣き出したそうです。
この場面だけ取り上げれば苦しい中にも心温まる逸話となります。
でも、芝居を観るために自分の陣地から芝居小屋まで移動する際には、部隊によっては数日間も山野を歩かねばならないし、その間の弁当は芋の葉っぱだけ。
芝居を観終った兵隊さんが、自分の陣地に戻り、「ああ楽しい芝居だった」と伸びをしたまま息を引き取ることもあったそうですから、極限の状態ということに変わりはありません。
この劇団は、終戦後に全員が捕虜となった以降も、連合軍兵士も観劇できることを条件に英国軍の司令官が認めてくれて、復員するまで慰問活動が続けられました。
とにかく、ニューギニアの兵隊さんたちが、現在の私たちには想像もできない大変なご苦労をされたことが、この本から良く分かります。
さて、原作の文庫本を読んでいて、驚いたことが一つあります。
戦後に慶応野球部で監督をされた稲葉誠治さんが、ニューギニアで加藤大介さんと同じ地域の部隊で陸軍伍長として兵役に就いていらっしゃったことです。
稲葉誠治さんは、愛知県の旧制岡崎中学から慶応義塾に進まれた野球選手で、現役時代は投手。
戦前の六大学野球で活躍されました。
戦後は、創成期の横浜高校野球部の監督を経て、慶応義塾の監督を1956年-59年と4年間務められ、在任中に大学日本一を達成されました。
中田、衆樹、巽らの名選手が慶応にいた時代です。
その後は日通浦和を率いて社会人野球でも日本一を達成。
次いで流通経済大の野球部創設に尽力された後、プリンスホテルの初代監督として再び社会人野球スポニチ大会で全国優勝するなどの輝かしい実績を残されています。
私は、慶応の監督時代の稲場さんは知りません。
お名前を最初に知ったのは、稲場さんがプリンスホテルの初代監督に就任された時でした。
1979年にプリンスホテル野球部が結成された際、早稲田の監督を勇退されたばかりの石山建一さん(静岡高校-早大)が参加されました。
てっきり石山さんが監督かと思ったら実際には助監督だと聞き、「それでは誰が監督なんだろう」と不思議に思っていたら、稲葉さんでした。
稲葉さんの輝かしい球歴と実績をみれば、西武の堤オーナーから監督に指名されたのも納得です。
稲葉さんは、2001年に84歳で大往生されました。
戦時中のニューギニアでの苦難を乗り越えて、これほど野球一筋の人生を送られた稲葉さんのことですから、きっと天国でも野球をされているはずだと私は思います。
ひょっとしたら、ニューギニアで共にご苦労された加藤大介さんらの戦友たちを招いて、慰問野球試合をされているかも知れませんね。