選手のご家族とメールのやりとりをさせていただく中で、ある方から『私は北海道の出身なんです』とお話しをいただきました。
北海道と早稲田野球との縁に思いを巡らしたとき、久慈次郎さんの名前を挙げないわけにはいきません。
このような話題になるとオフ会仲間のdawase86さんの足元にも及ばない私ですが、今回は、少し我慢してお付き合いください。
久慈次郎さんは、岩手の旧制・盛岡中学(現・盛岡一高)から早稲田に進み、捕手として一世を風靡し、卒業後は函館オーシャン倶楽部の主力として永らく活躍されました。
そして、沢村栄治とバッテリーを組んで、ベイブ・ルースやルー・ゲイリックを主力とする大リーグ選抜軍と戦い、その当時、創設の準備が進められていたプロ野球・巨人軍の初代主将に内定していたことでも判るように、力量でも人格でも、周囲から一目置かれる、超越した存在でありました。
ところが、札幌円山球場で行われた試合で、捕手の二塁への送球をこめかみに受け、急逝されてしまったのです。
この時、当時のスポーツ・メディアが、久慈選手死亡の翌日に、次のように伝えています。
第二次大戦前の文章ですが、時代を超えて野球ファンの心情に訴えてくる名文です。
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『痛恨!名捕手久慈次郎グラウンドに死す』
君ほどの名手にも油断というものがあるのだろうか。
早稲田時代・函館オーシャン時代を通じて名捕手の名をほしいままにした名手、久慈次郎が昨日、打者として攻撃中に捕手の送球をこめかみに受け、病院に運ばれたが死去した。
試合は8月19日に行われた、久慈君率いる函館オーシャンクラブ対札幌クラブ。7回表、函館の攻撃。得点は札幌が2-1と1点リード。遊ゴロ失で出塁した走者に代走が送られ、盗塁して無死走者2塁。
この好機にプレーシングマネジャー久慈君は自ら代打として出場した。ところが札幌のバッテリーは敬遠の四球。
久慈が1塁に歩きかけたとき、2塁走者がするするとリードした。当然捕手吉田は2塁に牽制球を投げる。ところが、マネジャーでもある久慈君は、急に作戦を思い出したのか、くるりと本塁方向に歩き始め、次打者に指示を与えようと前かがみになってしまったのである。
なんという悪い偶然であろうか。吉田君の投げたボールは、久慈君のコメカミに当たってしまったのである。
久慈君は、札幌市立病院に運ばれたが、脳内出血により42歳の生涯を閉じた。
葬儀は23日に行われた。
故人の恩師 安部磯雄の葬儀の際に捕手吉田に与えた言葉は満場の会葬者をことごとく泣かしめた。それは以下の通りである。
彼ほど人望のあった人はいない。
彼を呼ぶのに久慈君という人はなく、一様に次郎さんと愛称を用いていたのでもわかりましょう。
また、彼ほど純真な人間もまれです。
私が特に深い愛情を有しているのも、この純真さのゆえでした。
今日突然、久慈君ほどの人物を失ったことは、皆様ご同様、まさに断腸の思いでありますが、同時にかかる事態を惹起すべき不幸な運命を与えられた札幌倶楽部の吉田君の胸中をお察しすれば、まことに同情にたえません。
誰が、故意にあんな事をしでかしましょう。
それは人間として考えられぬ事です。
すべては神のみが知る偶然によることですが、しかし吉田君は生涯忘れ得ぬ不幸な出来事として煩悶されているかも知れない。
だが、万事が過ぎ去りました。
吉田君は一日も早く暗い記憶を拭い去り、虚心坦懐、心機一転して再びグラウンドに立つべきです。
故久慈君もそれを望んでいると確信いたします。
どうか、今日ご参列の方々のうち吉田君にお会いする方がございましたら、安部がこう申していたと伝えてください。
記者も思わずもらい泣きしたことを告白する。
次郎さん、さようなら。天国から日本野球の行く末を見守ってください。
昭和14年8月24日
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早稲田の野球部長であり、尊敬の念を込めて日本野球の父とも呼ばれる安部磯雄先生のお言葉を聞いて、涙を流さない野球ファンはいないと私は思います。
また、久慈さんの遺体を運ぶ列車が札幌から函館までを運行されると、途中の各駅に野球ファンが集まり、久慈さんとの別れを惜しんだと伝えられています。
この久慈さんの死を受け、都市対抗野球大会では、1947年の第18回大会から、敢闘精神あふれる選手に与える賞「久慈賞(くじしょう)」を設けました。
また、1959年に創設された野球殿堂では、正力松太郎や沢村栄治らと並び、第1回の殿堂入り選手となりました。
そして、函館オーシャンスタジアムには久慈さんがミットを持ち構えている銅像が建てられているのですが、その銅像は、全日本で一緒にプレーし、東京巨人軍入りを強く推薦したヴィクトル・スタルヒン投手の銅像が建つ旭川スタルヒン球場の方角を向いていると言われています。

北海道に縁のある早稲田の野球部員のことは、必ず早稲田の大先輩である久慈次郎さんが、雲の上からしっかり見守っていてくださると私は確信しています。
ですから、ご家族は安心して、ご子息の成長を見守っていただければと私は思います。
北海道と早稲田野球との縁に思いを巡らしたとき、久慈次郎さんの名前を挙げないわけにはいきません。
このような話題になるとオフ会仲間のdawase86さんの足元にも及ばない私ですが、今回は、少し我慢してお付き合いください。
久慈次郎さんは、岩手の旧制・盛岡中学(現・盛岡一高)から早稲田に進み、捕手として一世を風靡し、卒業後は函館オーシャン倶楽部の主力として永らく活躍されました。
そして、沢村栄治とバッテリーを組んで、ベイブ・ルースやルー・ゲイリックを主力とする大リーグ選抜軍と戦い、その当時、創設の準備が進められていたプロ野球・巨人軍の初代主将に内定していたことでも判るように、力量でも人格でも、周囲から一目置かれる、超越した存在でありました。
ところが、札幌円山球場で行われた試合で、捕手の二塁への送球をこめかみに受け、急逝されてしまったのです。
この時、当時のスポーツ・メディアが、久慈選手死亡の翌日に、次のように伝えています。
第二次大戦前の文章ですが、時代を超えて野球ファンの心情に訴えてくる名文です。
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『痛恨!名捕手久慈次郎グラウンドに死す』
君ほどの名手にも油断というものがあるのだろうか。
早稲田時代・函館オーシャン時代を通じて名捕手の名をほしいままにした名手、久慈次郎が昨日、打者として攻撃中に捕手の送球をこめかみに受け、病院に運ばれたが死去した。
試合は8月19日に行われた、久慈君率いる函館オーシャンクラブ対札幌クラブ。7回表、函館の攻撃。得点は札幌が2-1と1点リード。遊ゴロ失で出塁した走者に代走が送られ、盗塁して無死走者2塁。
この好機にプレーシングマネジャー久慈君は自ら代打として出場した。ところが札幌のバッテリーは敬遠の四球。
久慈が1塁に歩きかけたとき、2塁走者がするするとリードした。当然捕手吉田は2塁に牽制球を投げる。ところが、マネジャーでもある久慈君は、急に作戦を思い出したのか、くるりと本塁方向に歩き始め、次打者に指示を与えようと前かがみになってしまったのである。
なんという悪い偶然であろうか。吉田君の投げたボールは、久慈君のコメカミに当たってしまったのである。
久慈君は、札幌市立病院に運ばれたが、脳内出血により42歳の生涯を閉じた。
葬儀は23日に行われた。
故人の恩師 安部磯雄の葬儀の際に捕手吉田に与えた言葉は満場の会葬者をことごとく泣かしめた。それは以下の通りである。
彼ほど人望のあった人はいない。
彼を呼ぶのに久慈君という人はなく、一様に次郎さんと愛称を用いていたのでもわかりましょう。
また、彼ほど純真な人間もまれです。
私が特に深い愛情を有しているのも、この純真さのゆえでした。
今日突然、久慈君ほどの人物を失ったことは、皆様ご同様、まさに断腸の思いでありますが、同時にかかる事態を惹起すべき不幸な運命を与えられた札幌倶楽部の吉田君の胸中をお察しすれば、まことに同情にたえません。
誰が、故意にあんな事をしでかしましょう。
それは人間として考えられぬ事です。
すべては神のみが知る偶然によることですが、しかし吉田君は生涯忘れ得ぬ不幸な出来事として煩悶されているかも知れない。
だが、万事が過ぎ去りました。
吉田君は一日も早く暗い記憶を拭い去り、虚心坦懐、心機一転して再びグラウンドに立つべきです。
故久慈君もそれを望んでいると確信いたします。
どうか、今日ご参列の方々のうち吉田君にお会いする方がございましたら、安部がこう申していたと伝えてください。
記者も思わずもらい泣きしたことを告白する。
次郎さん、さようなら。天国から日本野球の行く末を見守ってください。
昭和14年8月24日
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早稲田の野球部長であり、尊敬の念を込めて日本野球の父とも呼ばれる安部磯雄先生のお言葉を聞いて、涙を流さない野球ファンはいないと私は思います。
また、久慈さんの遺体を運ぶ列車が札幌から函館までを運行されると、途中の各駅に野球ファンが集まり、久慈さんとの別れを惜しんだと伝えられています。
この久慈さんの死を受け、都市対抗野球大会では、1947年の第18回大会から、敢闘精神あふれる選手に与える賞「久慈賞(くじしょう)」を設けました。
また、1959年に創設された野球殿堂では、正力松太郎や沢村栄治らと並び、第1回の殿堂入り選手となりました。
そして、函館オーシャンスタジアムには久慈さんがミットを持ち構えている銅像が建てられているのですが、その銅像は、全日本で一緒にプレーし、東京巨人軍入りを強く推薦したヴィクトル・スタルヒン投手の銅像が建つ旭川スタルヒン球場の方角を向いていると言われています。

北海道に縁のある早稲田の野球部員のことは、必ず早稲田の大先輩である久慈次郎さんが、雲の上からしっかり見守っていてくださると私は確信しています。
ですから、ご家族は安心して、ご子息の成長を見守っていただければと私は思います。