順風ESSAYS

日々の生活で感じたことを綴っていきます

「順風ESSAYS」にようこそ

法学部の学生時代から、日記・エッセイ・小説等を書いているブログです。
長文記事は「順風Essays Sequel」に移行し、こちらは短文の投稿をします。
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エッセイ→ぼくはタイガー鶏口症候群成功のための競争背水の陣//小説→切符がくれたもの鉛筆削り未来ニュース//鑑賞録・感想→報道写真について美術鑑賞2009No_Logic天使たちのシーン//その他創作モノ→回文まとめ雪が降る
 

依存症

2009年10月08日 | essay

泉谷閑示「普通がいい」という病(講談社現代新書・2006年)

以前の記事「隠れた価値観を問い直す」の後半で紹介した連載を書いた精神科医の方の本を見つけたので購入してみた。豊富な臨床経験から組み立てられた人間観は説得力があり、心身の変調には何かメッセージがあるはずだと考えて一度受け入れてみる姿勢には大いに共感するところがある。話に沿って様々な文学作品の引用と解釈があり、このブログが目指す書き方のお手本のようで、こういった点からも大いに参考になった。内容については、全体の記述の中では枝葉に位置するものであるが(1)依存症と(2)不眠の記述が特に今の自分に照らして印象に残った。

その部分をまとめてみると、次のようになる。(1)依存症は、本当に望んでいるものではないもので代償的満足を得ようとして、質に満足できず量をどんどん増やしていってしまうものである。依存的行動を抑えるだけでは解決せず、本当に望んでいるものを探る必要がある(166頁から)。(2)不眠はその人が今日という一日を生きたという手応えを感じていないから起きているのではないかと考え、一日の最後に自分らしい時間を過ごしてみるようにと勧めている(224頁から)。この二つには共通する部分があるだろう。本当に望むものを満たすことが出来ていないから、依存的行動が生じやすいし、生活に手応えが感じられず不眠になりがちだということになりそうだ。

私の場合、当初予定した時間を超えてネットをついつい長時間やってしまうということがよくあり、依存的かなと思うことがある。また、幼少の頃から寝つきが悪く、数時間布団の中で起きていることもしばしばである。どちらも実生活に悪影響を与えるほどバランスを崩してはいないし多かれ少なかれ皆抱えていることだと思うが、改善したいと長らく思っていた事柄であった。そこで自分には何か本当に望んでいるのに満たしていないものがあるのではないかと考えてみると、「本心から物事に取り組む、人と接すること」に行き着いた。

私は「やるべきことをやっていたら自分の好きなことをやっても許される」という感覚が中高時代に強く形成され、まず周囲から評価されることを最優先で日常生活を送ってきた。「やるべきこと」は他から与えられるものが多く、本来自分の興味で選ぶべき部活やサークル活動もイメージがいいとか、他人本位な観点から選ぶことが多かった。これでは生活に手応えが生まれないので寝つきが悪くなる。また、情熱も沸いてきにくいわけで仲間とテンションの差が生まれるし、自分に好意をもってくれる人がいても「取り繕った自分の姿に魅力を感じられてもねえ」と心から信頼しにくくなる。一方、ブログは日常では話さないが自分が考えていることを発信できる場で、アクセス数等で反応も得られるため、本心から人と接することの代償的行為として依存の対象になりやすい。おそらく自分の問題の背景にはこうした事情があったのだろう。

しかし、「本心から物事に取り組む、人と接すること」が不足している状態は、最近急激に解消に向かっている。一つ前の記事で書いたように少し今までの生活から離れることができて、主体的に活動できる環境を作っていけるようになったからだと思う。寝る前に考えたことをノートにメモしてみると、自然と眠くなるようになった。今はそれに満足してブログの記事にする意欲がちょっと低下気味なんだけどね(この記事は9月末のメモを素材に書いている)。ネットで活動している人の中には同じように本心で人と接していない孤独感を紛らわすために長時間続けてしまう人も少なからずいると思うので、紹介した本とこの記事が参考になれば幸いである。


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器用な生きよう

2009年10月06日 | essay

器用であることと不器用であることのどちらがいいか、と訊かれれば、器用なほうがいいに決まっていると言う人が多いであろう。何事もソツなくこなせることができれば、小さな苦労が少なくなるのは確かだ。しかし、器用であることにはデメリットがある。何でもそこそこできてしまうため、自分の適性を見つめる機会が得られにくい。今のままで問題ない、そんな感じで進んで行き、「自分はこれで生きる」といった覚悟がないまま物事に取り組むことになってしまいがちだ。そして、今やっていることへの思い入れが生まれにくく、他の道に行けばもっといい結果が出せるのではないか、という疑念も生まれてくる。

「器用貧乏」という言葉があり、器用であるが故に大きな成果を生み出せない、といった意味で使われるが、器用さが直接そのような帰結をもたらすのではなく、上記のようにメンタリティにマイナスの影響を与える原因になりがちだということであろう。適応力が高い、概要を把握するのが早い、あるいは我慢強いといった器用さを支える能力は大きな成果を出すのにも役立つもので、正面から物事に取り組み継続して力を注入する確固とした覚悟が得られれば、きっと目覚しい成果を挙げることであろう。不器用で自分に合わないものに耐えられない人は、壁に当たるたびに如何にして生きていくかという問題に直面し、その回答を続ける中で自然と自分に真に合ったものを見つけていくことになる。「自分はこれ」という感覚をもつことは、成果を出す力になる上に、生き生きとした実感を伴う生活をするためにも重要である。

以前、高校時代の友人と話をしていて、東大生の進路選択に「あれ?」と思うときがある、と言われたことがあった。従前に語っていた将来の夢とは全然関係ないようなところを選んでいる人が多い、選択肢が多くて夢を追える立場にあるはずなのに不思議、といったものだ。私は、上記のような器用さの問題が影響しているように思う。東大の入試は科目数が多く、どの科目も平均以上にこなせる人にとって非常に有利な仕組みになっているため、器用な人が多くいると推測できる。そして、受験に際しては順位付けの世界にどっぷり漬かっていて、特に法学部に来てしまうとまた成績競争が続き、他人との比較の目に曝され続けることになる。こうなると、自分が何を成し遂げたいのか正面から向き合うことがなく、周囲より優れている、成功しているという感覚が持てることを最優先で考えるようになってしまう。

私は学生仲間の内では学究的なタイプの人だと言われてきたが(mixiの紹介文もそういうのが多いから思い込みじゃないだろう)、研究者の進路はとらなかった。それは、その分野に心から興味を抱いているのか、確固とした探究心があるのか確信が持てず、多数派の実利志向の雰囲気から逃避しているだけではないか、という疑念があったからである(おそらくこの自己認識は正しい)。こうした曖昧な態度を直そうと、「やるべきことに正面から取り組もう」と自己の抱負として掲げることが何度かあったが、達成できたことはなかった。しかし最近、法律の勉強から一時的に離れる機会があり、そして今また戻ってきてみると、今まで自分の蓋をしてきた価値観みたいなもの―特に「自分はある分野で成功しなければならない」といったもの―が取り払われて、純粋に取り組んでいるという感覚が生まれてきた。夢や情熱が不足しているのなら今ある状態にプラスしていこうとしてきたが、不足しているのではなく上手に伸ばせていなかっただけで、邪魔しているものを取り払うマイナスの作業が必要だったのだと気がついた。

この調子でいけば、生活に実感をもって、何はともあれ楽しく過ごしていくことができるだろう。これまでは「大学受験を頑張っても人生楽しいとは限らないよ」なんて言ってたけど、大丈夫、きっと大丈夫。この記事の文章力は大丈夫じゃないけど。体裁を整える作業より気持ちが強いってことで御免!


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背水の陣

2009年09月25日 | essay

「背水の陣」という言葉がある。退路を断ち、一歩も引くことの出来ない絶体絶命の立場に身をおき、決死の覚悟をして事に当たることをいう。古代中国において韓信という武将が自軍を川を背にして陣取り発奮させて勝利を収めたという故事が元になってできたものだ。何かにひたむきに頑張るというのは社会的に好まれることで、現代においても多くの人がこの言葉を胸に試験や競争に臨んでいることであろう。しかしこの言葉に関しては、いくつか指摘しなければならないことがある。

第一に、故事が成立した場面はせいぜい数時間で決着がつく短期の戦いであるが、現代において個人が臨む競争の多くは決着がつくまでに長い時間がかかる。野球やサッカーで、監督が辞任をかけて選手たちを発奮させようとすることがあるが、その直後数試合は勝てるけれどもそれで構造的な欠陥は直るものではなく、すぐまた連敗を繰り返し退任に追い込まれるということはよくある。長い期間がかかると、切迫した感覚は薄れてきて、むしろ退路がない状況により不安が掻きたてられてしまう。強い心理的負荷が長い間かかってくると、不眠になったり集中できなくなったりと身体の不調も出てくるものだ。

第二に、故事が成立した場面は負ければ文字通り「死」が待っている状況であったが、現代において個人が臨む競争のほとんどは敗れても死ぬわけではなく人生は続いていってしまう。死が待ち構えているのなら負けた後のことなど全く考えなくてよいが、そうでない場合は負けたときに身の処し方を考えていかなければならないし、勝敗がつく前でもどうしてもこのことが気になってしまうものだ。このことも不安を駆り立て、情緒不安定を引き起こす原因となる。

したがって、長期戦に臨む場合には情報を集め冷静さをもって進めていくことが重要となってくる。そもそも故事においても、将は相手を油断させた上で別働隊を裏に回らせて挟み撃ちにするという戦略の下で背水の陣をひいたと言われ、単に精神力だけで突破しようとしたわけではない。もっとも、保険や逃げ場・すべり止めを用意していくことで本命への戦いの意欲が殺がれてしまうというデメリットも存在する。セーフティーネットに甘えてしまう、社会保障で言う「福祉のわな・貧困のわな」のような事態だ。退路がないことへの不安と退路があることへの安心によるデメリットを天秤にかけて、自分にとってどちらが適しているかを考慮して戦略を立てるのがよいだろう。

私の場合は、どうも情熱や夢といったものに熱中できず、最後は分相応なところに落ち着いていくだろうなんて達観したような態度をとってしまう。イベントの準備で一所懸命さがみられないと批判されたこともある。これは「学校と習い事と塾」「部活とイベントと受験勉強」「大学の勉強と資格の勉強」というように様々なことを並行してこなしていく生活を続けてきて、ひとつのものに全力を投入する経験に乏しいのが原因でないかと思う。いつもはバランスのとれた生活をするが、やるべきときにひとつのことに力を注進する、そんなことができるように取り組んでいきたい。


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タブーと罪

2009年07月09日 | essay
"What is your religion?"

これは外国では珍しくないが、多くの日本人にとっては面食らう質問である。とりあえず「Buddhism(仏教)」と答えておくのが無難と言われるが、多くの人は仏教の内容をよく知らないし、よくみると似た考え方だと言われても信じようと思って信じているわけでもない。「Nothing(無宗教)」と言うと相手に印象が悪いようで、これは思考の基盤がない人と受け取られてしまうかららしい。

もっとも、宗教を信仰していないからといって思考の基盤がないといわけではない。個人的には「周囲と調和せよ、他人に迷惑をかけるな」というのが日本人の根本的な行動原理であるように見える。神と個人の一対一の対話という思考様式がないので、環境に左右されやすい。「みんなやってるから」という理由付けが最も説得力をもち、政治や経済でも悪用されがちだ。このような他人との関係で行動が左右される状態は、自己確立を目指すという考え方からは「自分の意見がない」などと批判されることが多い。

しかし、これには悪いことばかりではないように思える。「他人に迷惑をかけるな」を裏返せば、「他人に迷惑をかけていなければ、とりたてて非難しない」ということになる。他者加害禁止の原則を忠実に体現したようなものだ。個人の内心に現実にいる他者を超えて「神」が干渉してくることがない。個人が好きでやっていることに対してタブーが強く主張されることは少ない。このタブーの少なさが、日本の豊かな創作文化を支えているように思える。

「人間には様々な欲求があります。常識的にはこれらを万遍なく満たそうとするはずですが、昔の人は、価値の高いものと低いものとに分けていました。」もうどこを探しても出典が見つからないのだけど、一読して妙に納得してしまった文章。中には価値が低いにとどまらず罪だとされたものもあり、特に自然で本能的な欲求に罪の意識を植え付けるのは全ての人に無用な葛藤を生じさせ賛成できないものだ。むしろタブーがあると背徳感による昂揚が加わり、フィリア(病的愛好者)を生みやすいだろう。

欲求をずっと抑えて過ごしてきた人は、次のような思考を持ちやすい。(1)自分がずっと抑えてきた事柄を自由に楽しんでいる人をみると自分が否定されるような感じがして嫌悪したくなる、(2)今の自分があるのはずっと欲求を我慢してきたからであり、立派な人物になるには我慢が必要で、それは誰にでもあてはまる。(1)は妬みであり望ましい感情でないということは合意できるだろう。(2)は、我慢しなくても立派になる道はあるし、人それぞれ合ったやり方があるということを見落としている(意外にこの点に気がつかない方が多い)。

岩波ジュニア新書の『西洋哲学の10冊』でも最後に紹介されるバートランド・ラッセルの『幸福論』。その第7章でも、個人を不幸に陥らせる原因として罪の意識が挙げられ、特にキリスト教の性のタブーが批判される。他の章でも度々その不都合性が指摘される。罪の意識に苛まれた人は劣等感を持ちやすく妬み等を生じやすい、何事にも興味を持たない態度が身についてしまった人は寛容を嫌い、抑圧的な法律を好むようになる、と述べられる。このような人は同書が書かれた1930年当時でも「稀になりつつある」とあり、解説でも「日本では関係のないこと」とあるが、最近の世相を眺めてみると、むしろ危険は高まっているように感じる。

好きなことをして、他人に迷惑がかからないため、或いは生活のバランスが崩れないためにその限りで我慢をする、というのが本来の姿である。欲求を我慢して抑圧することを自己目的化しないように気をつけなければならない。そうでないと、自分だけでなく、周囲の人をも不幸にする。それを罪といわず何と言おうか。


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偏見の羅列

2009年06月18日 | essay
「偏見の羅列」です。内容に特に根拠はありません。居酒屋の席で交わされるような話題です。もし気分を悪くする人がいたらすみません。

1 男性が求めるもの

(A)競争心が強く自分に自信もある男性は、女性に見栄えを求める。
容姿・学歴等々スペックが高い女性が好まれる。自分本位な側面があり、情が薄くなりがち。

(B)競争心が強いが自分に自信がない男性は、女性に癒しを求める。
外で虚勢を張って疲れているから。求め方は対極的な2種類がある。

  (B-1)自分よりスペックが低く大人しい性格の女性を好むパターン。
  無力な女性を保護することで癒される。

  (B-2)母親の代わりになるような面倒見のよい女性を好むパターン。
  女性に子供のように甘えることで癒される。

  (B-1)か(B-2)かは、幼いころ親にかわいがられたかどうかが影響する。
  あんまりかわいがられていないと(B-2)になりやすい。
  いずれにせよ、亭主関白・かかあ殿下といったパートナー間での主従関係が生じる。

(C)競争心がさほど強くない男性は、女性に気楽さを求める。
さっぱり、サバサバした女性を好む。友達関係の延長のような関係を築く。

従来は(B)のタイプがほとんど、最近は(C)が増えているように思う。(A)はメディアによく登場するけど実際は少数。
(C)の草食系を攻略するには、友達関係を続けて、頃合を見て女性から唇を奪うのがベスト。

2 個性と裏表

たいていの人は、他人に知られてしまったら引かれてしまうのではないかという趣味や嗜好を持っている。マンガが好きだというだけでも時と場合によっては引かれることもあるくらいだし。こういうときに円滑に社会生活を続けるためにどのような態度をとるか、以下のように分類してみる。

(P)外では普通の人を装い、親密になるまで隠れた趣味や個性を出さないようにする。
通常はこれが選択される。プライバシーにうるさい。

(Q)仮面の使い分けでは心が落ち着かず、いつでもあるがままの自分でいたいと願う。
それでもなお周囲に受け入れられるための戦略として、対極的な2種類がある。

  (Q-1)周囲に文句を言わせない地位を獲得し、自分の個性を受け入れさせる。
  地位獲得のために強迫的な努力をする。環境が変わると地位も変わるので変化に弱い。

  (Q-2)子供のように幼く振舞うことで自分の個性を受け入れさせる。
  環境が変わっても通用する。甘え上手で付き合い上手。

(R)周囲の目線を気にしない、好きなようにする。孤立することも。でも気にならない。

傾向として、
(P)の人どうしが通常の友人関係。
(P)の人は(Q)の人と付き合っていけるが、
(Q-1)の人をとっつきにくい人、(Q-2)の人をちょっと変わった人と思っている。
(Q-1)の人どうしは張り合うので上手くいかない。
(Q-2)の人どうしは仲良くできる。
(Q-1)の人と(Q-2)の人は役割が合致して相性がいい。
(R)の人は(R)の人どうしで集まるか、(Q-2)の人と仲良くなる。(P)の人には引かれる。
(Q-1)の人は(R)の人を羨ましく思っている。

3 両者の関係

傾向として、
(A)→(R)
(B-1)→(P)(Q-1)
(B-2)→(Q-2)(R)
(C)→(P)
こんな感じかな。

ちなみに自分は、たぶん、本質的には(B-1)かつ(Q-1)だろう。でも(C)がいいなと思っている。


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風穴の施しよう

2009年06月15日 | essay
最近、児童ポルノ法改正の話が喧しい。日本ユニセフ協会が、児童の性的な姿態や虐待などを描写したアニメ、漫画、ゲーム、18歳以上が児童を演じるアダルトビデオなどを「準児童ポルノ」と定義し、これらを違法化することを訴えているとのことである。アニメ、漫画、ゲーム(映画や小説が対象外なのは何故)は創作物であり、表現の自由への規制である。表現の自由への規制は公権力の疑わしき恣意が働くものであり、また単純所持違法化となれば個人の私生活・プライバシーの根幹に侵入するものであることから、合憲性審査は厳格でなければならないし、合憲性の推定はされず、立法事実(規制根拠事実)は規制側が証明しなければならない。

そして規制根拠は何かというと、どうやら「架空であっても児童を性的対象として描写すると、結果として実在の子どもが性的対象として見られることにつながり、ひいては児童に対する性的虐待等の犯罪につながる危険がある」ということらしい。では現実にどの程度の危険があるのかというと、よくわからない、調査も大してしていない、という感じのようだ。表現の自由をその内容に着目して規制する場合には「明白かつ現在の危険」が存在することが必要であると考えられ、この様子では合憲的に規制を課す見込みはないと言ってよい。

このような原則論に対しては、次のような反論がされるかもしれない――児童の性的虐待の被害は深刻で重大である。この重大さに鑑みれば、因果関係が十分に証明されてない場合であっても、万一の被害を防止するために規制は必要である。このような論法は、予防原則というもので、皆さまに馴染みのある領域で提唱されたものだ。そう、地球温暖化対策に代表される環境分野である。二酸化炭素犯人仮説は十分に立証されたものではない、しかし仮に正しいと考えたとき、対策せずに放置すれば結果は取り返しのつかないことになる、だから万一に備えて対策を今行う必要がある。こういう感じだ。

この予防原則は、理由があやふやであるにも関わらず重大な法制度設計を実現する論理として働くものである。そして、地球温暖化を風穴として、さらに別の領域に広がった。ブッシュドクトリン、先制攻撃論である。イラクは大量破壊兵器を持っている可能性があるが、明らかではない。しかし、仮に持っていた場合に何もしなければ深刻な被害が生じるおそれがある。だから先んじて対策を打つ必要がある。結果はご存知の通り、大量破壊兵器は現実には存在せず、中東情勢は混沌を増すことになった。続いて、今まさに表現の自由をあやふやな理由で規制する動きへと広がっているのである。

私が大学の教養課程で受けた授業で、「私は訴える(Ich klage an)」というドイツの映画が紹介されたことがあった。ストーリーは、立派な社会的地位のある男性医師の妻がアルツハイマーに冒され、妻の求めに応じて安楽死を行い、自殺幇助で裁判にかけられる。裁判で医師は自殺幇助を禁じる法を訴えると主張する、という感じである。どことなく「半落ち」に似た設定で、極限的状況で命を問い涙を誘う筋書きである。しかし実はこの映画、ナチスによる安楽死合法化のプロパガンダとして制作されたものだという。誰が見ても同情するような素材で安楽死の是非を考えさせる機会を提供する。見た人は「一定の場合には安楽死も認めていいのではないか」と考えることになるだろう。ここに風穴が開いたのだ。その行き着いた先は、周知の通りである。

風穴は一見全く関係ないところで開くものである。しかし、それが大きくなったとき、深刻な事態を引き起こす場合がある。思考様式・論法・理由付け、それらがどこからきてるのか、どのように応用されるのか、応用される場合に事案の性質の違いを慎重に考慮しているのか、不断に問い続ける必要がある。予防原則から広がった理由なき規制強化は目に余るものがある。本来国民の自由を制限するというのは大変重大なことであり、その正当化のための理由付けには、決して怠慢は許されない。「外国もそう」「学問的調査もないけど直感的に危険でしょ」なんていい加減すぎる。大衆操作やロビイングに精を出す前に、合理的理由をしっかりと固めて欲しい。


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働かざる者

2009年06月15日 | essay
「働かざる者食うべからず」という言葉がある。元はキリスト教の言葉で日本にはなかったものであるが、現在では当然のように通用している。働きたくても働けない人はどうするんだ、というと、それは仕方のないことなので、きちんと生活保障が施される。また、働けないし働きたくもない人はどうなるのかというと、内心はよくわからないし、働けない境遇が意欲を削いでる面もあり、やはり仕方のないことなので、生活保障が施される。

では働けるのに働かない人はどうなるのかというと、上の言葉の通り「食うな」ということになる。食うなというのは、飢えて死んでもいい、ということでもある。これは現代の文明社会において辛すぎるものでなかろうか。働けるのに働かず、犯罪でも犯して生活しようという人は、三食職業訓練付の待遇を得ることができるのである。ただ働けるのに働かない人は、社会に直接の害悪をもたらす行為をしていないという点でもそれよりマシである。それなのに、飢えて死ね、とは行き過ぎではなかろうか。

現代は、近代的な合理主義・理性万能主義は批判され、周囲の環境や条件から個人の意思は影響を受けている、というのが常識となっている。犯罪があれば、個人の問題だけでは片付けず、どのようなものが影響を与えていたのかが追求される。最近では、明確な因果関係がないにも関わらず特定ジャンルのゲームやアニメが性犯罪に影響しているとして規制が叫ばれる程になり、個人の自律性や理性は徹底的に馬鹿にされ軽視されている。しかしそうであるならば、働かないことについても個人の責任だけに帰着されるべき問題ではないことになる。たいがい生育過程で社会性が身につかなかったといった事情があり、青少年保護のような「優しい」目線を向けるべきであり、これだけ自己責任で死ねというのは明らかに不均衡である。

このような話への問題点としては、ワーキング・プアの存在、すなわち、働く意思もあり実際働いている人が食うや食わざるやの境遇に置かれていることとの均衡がある。確かにそんな人がいるのに生活保障をするのは納得いかない、ということになるだろう。しかし、仮に働かなくても食にはありつけるようになれば、非人間的な低劣な労働条件を提供する仕事に人が集まらなくなり、よりよい条件を出さざるを得ず、利益の労働者分配率が上がり、ワーキング・プア解消につながることにならないか。むしろ働いても食うや食わざるやなら尚更働く意味がない、という流れを生まないか。

現代社会は「働かなければ飢えて死ぬ」という生命維持の危険を煽るのでなくては発展できないものなのだろうか。何かしないと社会的に認められない、娯楽が味わえない、幸せな家庭を築けない、こんなことでは人を動かすには不十分なのだろうか。人生は辛いというのは古来からの大前提であるが、社会の目的として人生の辛さをなくすことが追求されていいのではないか。このことに人類の英知がつぎ込まれないのはなぜなのだろうか。せめて「働かざる者飾るべからず」「働かざる者贅沢するべからず」という感じでいいのではないだろうか。


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後始末は

2009年03月15日 | essay
「自分の尻は自分で拭け」という言葉がある。後始末は自分でしろ、といった感じの意味だ。小学生のとき、先生が発したこの言葉に反論したクラスメイトがいた。曰く、「尻を拭くというのは自分についた汚れをきれいにする行為である。だから、後始末の範囲は自分に跳ね返ってきたものに限られる。この意味で自分は後始末を果たしている。」 これを聞いて私はなるほどと思った。先生も特に再反論しなかった。当然詭弁なのだが、足した用をすべて処理しろとは求められていないところ、できる範囲でやれという優しさが込められている言葉なのかもしれないと感じた。もっとも、現実にはこれで済むことはほとんどない。
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眼力検診

2008年11月30日 | essay
「世の中、下らない人間ばかり」と思っている人は少なからずいると思う。法学部だと、「司法試験や公務員試験に役立つかどうかしか考えず、高等教育を受けるに値しない人ばかり」なんて考えに至るかもしれない。でもちょっと待って、考えてみよう。そう結論付けるまでに自分が何をしたのか、を。

「英雄偉人といえども、召使の眼から見ればタダの人」という言葉がある。当たり前だ。タダの人である召使から見るから、タダの人でない人間までタダの人になってしまうのである。―――これは、塩野七生氏の著作の一節に登場する文章である。下らないと見えてしまうのは、見る眼が曇ってしまっていて、本質を理解していないからかもしれない。

自分の眼に映る人は、いくつかの選抜を乗り越え、数十年にわたり自分とは違う経験をし、言葉で表現できないかもしれないが一定の人生観や社会観を持っているものだ。自分が全てにおいて他人より先回りしていることは有り得ない。交流の中で引き出せていないだけではないだろうか。ある事項に思考力を使わないのは、別の人生のテーマや関心事があり、労力をかけたくないからかもしれない。普段の会話で試験以外のことを持ち出す機会がないだけで、その実大きなテーマに取り組んでいるのかもしれない。

自分の周囲にいる人は、きっと自分にはない輝く部分があるに違いない。輝く部分をみつける努力をしよう。こう思うことは、外に向かう好奇心を駆り立てる。積極的に振舞えるなら色々と話してみよう。シャイな性格なら注意深く観察してみよう。下らない世界に生きていると思うより、毎日が少し楽しくなるはずだ。

しかし男性の場合、本質的にある「競争心」が眼を曇らせ、無下に他人を見下す感情を起こしてしまうように思う。自分とは違った人生観に従って行動する人を見ると、自分の人生観が挑戦を受けたように感じ、揺らいでしまう。それに対する防衛として、端から下らないと言い聞かせて深い関わりを持たないようにする。これは生活のバランスをとるためにはある程度必要なことだが、行き過ぎると社会不信になってしまう。今のところ、これに対する処方箋は、「競争心」の仮面を脱ぐ相手である恋人に精神的な拠所を得ることしかないように思っている。


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ライフ・プラン

2008年11月11日 | essay
「イキガミ」というマンガと、それを映画化した作品がある。売れ行きは上々らしいが、個人的にはあまり好きではない。どうしても「設定がおよそ合理的じゃない」と思ってしまいストーリーに入っていけないのだ。その設定とは、次のようなものである。

国家繁栄維持法:この法律は平和な社会に暮らす国民に対し、「死」への恐怖感を植え付けることによって「生命の価値」を再認識させる事を目的としている。国民は、この法律によって誰にカプセルが注入されたかを知ることができない。国民はその時期(死亡予定の18~24歳の)が来るまで「自分は死ぬのでは」という危機感を常に持ちながら成長することになる。その「危機感」こそが「生命の価値」に対する国民の意識を高め、社会の生産性を向上させる。
(以上、Wikipediaより引用)

この世界の中学生・高校生に「勉強しなさい」「まじめに将来の進路を考えなさい」と言ってみよう。「はぁ?数年後に死んだら意味ないじゃん。今楽しいことをやるほうがいいよ。」と返されるのが必定だ。将来の進路選択として、修行期間が長く成果がすぐに出ない分野は回避される。24歳で死ぬかもしれないのに法曹や医者を目指すなんておよそ不合理な選択である。無為に遊びまわるか、芸能など若いうちに一発当てられる分野に人気が集中することであろう。実際、イキガミに登場する人たちには、ミュージシャン志望とか、街の落書きに精を出す人とか、クルマ狂いとか、社会的に堅実とみられる進路選択をしていない人が多い。社会の生産性を向上させるどころか、トータルで見てマイナスになるのではないか。

結局、若者が残された1日をどう生きるかというテーマが先行していて、十分練られた設定をしなかったのであろう。この不十分さが盗作騒動が起きるような隙を作っているように思う。そして、この未熟な設定の上に国家権力の強制への疑問という真面目で社会的・左翼的なメッセージを入れているために、違和感を感じずにはいられないのだ。仮に社会の生産性を上げるために人の生命に手を加えてよいとするならば、自分であったら次のような制度を提案する。イキガミの法案よりは目的達成のため合理的な手段であると言えるだろう。もっとも、「究極極限ドラマ」といったキャッチコピーをつけられるような物語は生まれそうにはない。

国家繁栄維持法改正案:国民の寿命を65歳に一律に設定する。不慮の事故や病気のリスクは残るが、大体の人は「65歳まで生きる」と明確に意識しながら人生を送ることになる。個人の人生設計としては、おそらくは50歳くらいまでで稼いで残りの15年間遊ぶという感じになる。高年者の雇用が若年者の雇用を圧迫することもなくなる。老後の不安がないから、貯蓄の必要性が減少し、消費が喚起され、国民経済が活性化する。また、老齢年金も介護保険も不要で、社会保障は生活保護と健康保険・障害者福祉に注心すればよいことになり、国家財政の負担も税の負担も激減する。さらに、婚期を遅らせる人は少なくなり、少子化対策にもなる。

不安は行動を萎縮させる。社会で最も大きい不安は老後の不安である。北欧諸国は手厚い社会保障で老後の不安を緩和しているが、上の案は財政に負担をかけずに同じことを行うものだ(もちろん、現実には人の生命を手段として用いることは許されない)。平成時代、自由が拡大し社会は流動化してきたが、それに伴って将来の不確実性も高まった。これが不安につながらないためには、「何はともあれ、きっとよいものになるだろう」と信じられる環境が必要だ。自由を真に享受するには希望がなくてはならない。いま、希望を抱いている人はどれだけいるのだろうか。


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鶏口症候群

2008年07月31日 | essay
「鶏口なるとも牛後となるなかれ」という言葉がある。小さな集団で指導者となるほうが大きな集団の中で付き従う者になるよりよい、という意味で、中国の戦国時代に秦の勢力拡大に他国が同盟して対抗する政策を主張する際に説かれたという。

このような意味と成り立ちを知れば当然分かることであるが、普段意識されないことがある。それは、牛後にも鶏口にもなれない、鶏の足のあたりか、それにも引っかからない場合もあるということである。小さな集団だからといって簡単に指導者になれるわけではない。また、大きな集団の尻尾にいるからといって、誰でもその集団に入れるわけではない。実際、上の故事の場面で鶏口か牛後かを選択できる立場にあったのは6人の諸侯だけであった。

結局のところ、この言葉は優越感のあり方を比較したものであると思う。牛後にいる人は、勝ち馬に乗れたことに優越感を感じ、その中で落ちこぼれても、勝ち馬に乗れなかった人々と比較することで優越感を維持しようとする。鶏口にいる人は、実際に指導力・支配力を発揮して直接的に優越感を得ようとする。どちらを選択するにせよ、「他者より抜きん出よ、優越性を獲得せよ」という共通の意識を根底に見出すことができる。

柏木・高橋編『日本の男性の心理学―もう1つのジェンダー問題』(有斐閣・2008年)

ジェンダー研究はいまや男性の問題としても認識されているようで、この本では様々な研究が紹介されているが、「男らしさ」を定義づけるキーワードは「優越性」であるらしい。学歴が高い、頭がよい、体格がよい、力が強い、運動ができる、稼ぎが多い、地位が高い、意志が強い、弱みを見せない、理性的である、といった優越性の諸要素の全部もしくは一部を獲得することが目標とされ、追求される。そこでは、絶え間ない他者との競争が掻き立てられる。

社会における競争のほとんどが生物学的な生存ではなく社会的な生存―優越性を賭けた競争だということは、以前ブログでも書いたことであるが、これと同様に優越性を追求しなければならないという男性の意識も社会的な側面―すなわちジェンダーの問題としての側面をもっている。そして、「女らしさ」がある程度修正されてきた(いまの若い人で古来通りの女性に対する偏見を豪語する人はいない)ように、「男らしさ」も修正されうるものである。特に現在の日本では、不可避的に出てくる社会的な敗者を救う倫理観が形成されておらず、自殺や自暴自棄な犯罪が後を絶たない。このような状態では、男らしさを問い直してみる現実的な必要性があるように思える。

しかし、いくら問い直す必要性があるとしても、現実として男性に男らしさを求める社会的圧力は存在しているし、女性も理想の男性像として臆面もなく優越性を要求する以上、正面から反抗しても精神をすり減らす上に不遇に陥るだけである。この競争に追い立てるプレッシャーを負担に感じてしまう場合、どうしたらいいだろう。ありきたりであるが、「好きなことで競争しよう」というのが今のところの最適解であるように思う。少なくとも、優越性を獲得できなかった場合にそのこと自体に興味をなくしてしまうようなものに人生を賭けるのは間違いと言えよう。そして、優越性にこだわるあまり、敵わない人が出てきたらすぐに方向転換をし、自分が他人より抜きん出ているものは何か探してばっかりでは、結局何も得られないということを認識すべきである。

法学というのは、正解がない学問である。しかし、学ぶ過程においては、厳然たる順位付け、序列付けがいつまでも続く。具体的な数字で席次が出る。あるときいい順位が出たとしても、差はちょっとしたことなので、いつ抜かれるかわからない。強いプレッシャーを感じるのは確かである。しかし、条文解釈をしたり、判例相互の関係を探ってみたりすることは、職人芸のようなところがあり、私としてはその技術を探っていくのが楽しい。それに、その結果として誰かを救うことができるかもしれない。他人のほうが上手にできるかもしれない。成功するかもしれない。お金を稼ぐかもしれない。でもそれだからといって嫌いになりはしない。そんなことを思いながら、今日も教科書をめくっている。


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友情課題

2008年06月04日 | essay
「だって嫌だから…」

好き嫌いが説得力のある理由になるのなら、就職や入試で志望理由をどう書くか苦労することはない。納得のいく説明をするには、さらに「なぜ?」と問うてみて具体化してみる必要がある。

知人が自分のいないところで噂話をしているという事実を嫌う人がいる。今ではゼミの名簿を作るだけでも「プライバシーが…」と言う人がいるくらい自意識が高まっているから、まず自分のことを自分でコントロールできないという点で不愉快になるのだろう。また、自分を過大評価していることが通常だから、マイナスな評価が含まれていた場合、自己イメージが傷つけられ耐えられなくなるのだろう。

しかしそんな嫌がる人でも、他人の噂話をしない人はほとんどいない。ついさっきまで誰かの(時に厳しい)批評をしていたかと思えば、色々噂されて嫌だと嘆く。ただ自分と同じように皆振舞っているだけじゃないかと指摘すると、驚かれる。この相反する態度は、ラッセルも"One of the most universal forms of irrationality"と形容している。

なぜこの当然のことに気がつかないのか。それは多分、特に意識することなく自然と噂話をしてしまうからである。自分と社会関係のある人が敵か味方か判断しようとするのは本能的な行動である。「どういう人かわからない」という状態は警戒感を生み、四六時中警戒しながら暮らしていくのは耐えられないから、親近感を得るためにある程度の情報を集める必要がある。

ここで用いられるのが噂話で、社会秩序の維持にも使われる。そもそも「ゴシップを話すために人間は言語を獲得した」とする説があるくらいだ(ダンバー)。ヒトが毛づくろいではカバーしきれない大集団を形成するにあたって社会関係の維持の道具として発達させたのが言葉だ、ということで、専門外だが私も共感を覚える。だって、意識的に訓練しなかったら、論理的に言葉を操る能力は備わらないでしょう?軽い話題を話すためにあるとみるのが自然だろう。

誰もが噂話をする。基本的な部分は人間誰もが同じである。このことに気がつくと怒りが収まるのが普通だが、それでも許せないとしたら、(1)自分は悪評を立てられない特別な存在であると思っているか、(2)自分については全ての事情を知っているから大目にみるが、他者に対しては違う、ということであろう。これに対しては、先に挙げた嫌悪の原因、高い自意識と自己の過大評価を調節する必要があるだろう。思うに、体力的にも環境的にも自己の万能感が最高潮になるのは大学2年の頃だ。その後就職など将来を明確に意識し始めて調節されていく(もちろん、個人差は大いにある)。

私自身、以上のことに気がついたのは大学3年の秋であり(ブログの記事にしている)一応の整理をつけている。このためだろうか、日常生活は穏やかで、滅多に怒らず、人当たりもまあまあ良くなっている。しかし一方で、噂話を自然なことと思っているがため罪悪感をあまり抱いておらず、だんだん親しくなってきて、飲み会の席などで厳しい(と評価される)ことを言ってしまうこともままある。この二つの態度に以前紹介した「帰属の基本的エラー」(ある行動につき当人の心や性格のせいだと勘違いしてしまうこと)を代入すれば、「表面的には優しいけれど…」ということになってしまう。

「なぜ?」を問い一貫した価値観を作ってみたらとても誉められない状態になってしまう。現状では、まだ完成したとは言えない。


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ぼくはタイガー

2007年12月23日 | essay
しかも強くて丈夫です♪…とはいかない。

「プライド」は一般的に嫌われる言葉である。「君はプライドが高い」と言われれば、多くの人は批判されているように感じるだろう。しかし、仕事や試験、勝負事に取り組むとき、「自分の(あるいはチームの)プライドにかけて」という意識は成功を生む大きな要素である。このような好ましい面があるからこそ、アイスホッケーのドラマや凛とした女性の歌のタイトルにプライドという言葉が使われるのである。一方で、素直に失敗を認めないなど、とるべき態度をとることを邪魔し、否定的な結果をもたらすのも事実である。自尊心は中庸に収まるよう上手に使いこなさなくてはならない。

先日、ふとした巡り合わせから中島敦の「山月記」を高校一年生以来読む機会を得た。高校生のときは文体の難しさから何が書いてあるかよく理解できなかったが、再び読んでみると、実に簡明ではっきりと作者のメッセージが現れているのがわかった。簡単にあらすじを紹介すると、昔中国の優秀な官僚であった主人公が官位を捨て詩人として大成しようとしたが失敗し、失意の中、発狂し姿を消した。翌年出世した官僚仲間がその地を訪れると虎が現れた。その虎は主人公の変わり果てた姿であり、友人に事の経緯を説明し言い残したことを託して別れる、というものである。

主人公は虎になった理由を次のように説明する。臆病な自尊心と尊大な羞恥心。これはすなわち、自分が特に秀でているわけではないと認めたくがないために本気で物事に取り組まず、また、自分が特に秀でていると信じたいがために世間に合わせようとしない、ということである。その帰結として世と離れ、人と遠ざかる。社会性を喪失して行き着く先はもう人ではない。人外の物=虎である。虎は、山中では敵を知らぬ王様である。自分の世界の中では未だに王様であるが、社会は全く関知しない。

このような事態に陥るのは、物語上の人物だけにとどまらない。現実に十分起こりうることである。モームのエッセイ集『サミング・アップ』の一節に友人の話があり、彼はケンブリッジを卒業し弁護士の資格を得ながら文学の道を志すも、意志の力を全く欠いていて結局何も成し遂げなかった、とある。自室=自分の思い通りにいく空間に閉じこもる例は枚挙に暇がない。私も我が身を振り返って、胸の痛む思いがする。

法学の道に進む場合、知識を得るにしてもその範囲は広範で、さらに規範の適用のあり方、事実の整理の仕方、文章表現の仕方など、様々な能力が必要である。そして、全てにおいて独力でまかなうことができる人は稀である。不得意なところ、経験のないところを自覚し、必要ならば先達から教えを受けなければならない。たとえ相手が後輩でも、優れた部分があるならば、教えを受けて自分を高めるべきである。私はこれまで基本的に一人で勉強してきた。自主ゼミをして仲間と知識を分かち合うことはしてこなかった。その背景に「臆病な自尊心と尊大な羞恥心」が少なからずあったことは否定できない。自分の不勉強を悟られたくないという思いが、修練を阻んできたのである。

このままではいけない。遅ればせながら態度を改めようと模索している。しかし「山月記」で最も悲嘆するべきは、主人公は虎になった理由を自覚し反省悔悟しているにもかかわらず、決して人間に戻れないということである。この救われない結末は、人の性質を急に変えるのは難しいこと、また、人生にやり直しがきかないことをあらわしている。現代は社会も発達して、やり直しの機会もある程度見出すことができるようになった。しかしそれにも限界がある。今の自分に照らしふと考えてみて、不安を感じずにはいられない。


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わたくしごと

2007年07月19日 | essay
My life is based on reason. There is no doubt.
Though love holds many dangers, my secret is out.
(Days and Days / Fantastic Plastic Machine)

反抗期は自己決定を親から自らに移す過程のように思う。その後、主に大学生にあたる年代での精神的成長は、自らを社会に適合させる過程であろう。親や教師に保護され主役として扱われていた状態から、何でもない脇役の一員になる。RPGで言えば、世界を救う勇者を気取っていたが、実際は村人Aであることを自覚していくようなものだ。主役になるのは、誕生日や発表会など特別なときだけになる。

毎日の生活に目を向ければ、大人になるにつれ合理性が要求される。子供のころは大人からみれば無駄なことばかりしていた。消しゴムを車に見立てて子一時間、など。大きくなるにつれ、夏休みの勉強計画を立てたりゲームを買ってもらうために何かに役立つと親を説得したりして訓練を重ね、一日のスケジュールをカチッと考えるようになっていく。休日は有意義に使えないと満足できないようになり、電車に乗る時間も有効に使えないかと頭を悩ますようになる。私は未だにぼんやり文章の題材を考えるなど全く有効でない使い方をしているが。

私が通っていた大学では、多くの人が3年次にキャンパスを移る。ここで学生らしい浮わついた雰囲気が一気に薄れ、社会に近づく感覚をもつ。秋には進路選択をし、必要なことから優先順位をつけ、計画的に取り組んでいく。さらに大学院に入ると、益々勉強を中心に合理的に生活を組み立てるようになる。時間がいくらあっても足りないくらい「やるべきこと」があり、こうしてPCのキーボードを打っている時間も基本的に無駄と感じられるようになる。周囲をみると、大学を卒業すると全体的にブログ等の更新頻度が極度に落ちている。時間がないというのもあるが、合理的に考えて優先順位が下がる、というのが本当のところだろう。

そんな生活をしていると、普段の考え方の癖にも影響が出てくる。先日、未だに昨年夏に電車の中で思い巡らせたことをどう表現しようか考えていて、新たな題材を探そうとしていないことに気がついて愕然としたものだ。年齢を重ねるにつれ基本的に考えは積み重なって洗練されていくと思っていたが、そのような単純な発展ではないようだ。知らず知らずのうちに一方向ではない変質が起こっている。思いを綴ること自体が子供っぽいという感覚になっているかもしれない。

このまま日常の忙しさに身を委ねて考えることをやめてしまうのか。それは楽なことかもしれないが、なるべく避けたい。学問の先端を担う学者が時折「世間知らず」「非常識」などと言われるのは、自由な発想が合理的な生活では割り切れないことを現しているように思う。それは学問に限らず各場面で生きる事だってあるはずだし、その人の個性を形作るものだ。若き日の無駄な考えを、今では表に出さない危なっかしい秘密の考えを、そのまま消してしまうのではなく、温めておきたい。
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成功のための競争

2006年12月04日 | essay
法科大学院の試験日程がすべて終了し、あとは第一志望の結果を待つだけになった。発表を待つ身というのは不安で落ち着かないものだ。何にしても、試験というものは定員が決まっている時点で誰かが受かりまたは落ちることが宿命の仕組みであり、試験前も後も複雑な思いが交錯するものである。私たちの社会では、早い人は小学校受験から無数の試験を受け続け、この錯雑な渦の中で成長していく。時には有頂天になることもあれば、時には底なしの悲嘆に暮れることもあるだろう。しかし私たちは幸運にも、自分を取り巻く状況を秩序づけて克服する力をもっている。

竹内洋著 『日本のメリトクラシー 構造と心性』 東京大学出版会、1995年

今学期履修している労働経済という科目で遅刻して聞き逃した部分を補おうという仕方のない動機で手にしたのだが、この当初の目的を超えて大きな示唆を与えてくれる一冊であった。近代に入り、選抜・支配層形成システムが身分等を基礎にした属性主義から能力主義=メリトクラシーに変化した。本書は、日本のメリトクラシーがどのような特徴をもっているか、そこで形成される人間像はどういうものか、前半で道具となる理論枠組を提供し、後半で経験的分析を行って探求している。

理論枠組の説明において著者はまず、伝統的に提唱されてきた諸説を機能理論・葛藤理論・解釈理論の3つに類型化する。機能理論は経済学的な発想に親和的で、近代の技術変化でより高い地位により高い能力が必要になったことでメリトクラシー化が進むとし、学校教育を人的資本論のように能力形成の場とみる考えとスクリーニング理論のように潜在能力のラベルを提供するにすぎないとみる考えに分かれる。葛藤理論は階級対立的な発想に基づき、非支配階級が地位向上の為にメリトクラシー導入を主張し、対する支配階級が選抜基準の決定権を握ることで保身を図る、その妥協として成立するというものである。最後に、解釈理論は内部作用に着目したもので、教師がクラスで効率的に教えようとする際の行動から選抜を導く考えが代表的である。

以上のような伝統的理論では次の2点が見落とされてきたという。それは、現実にどのような選抜が行われているのか、多数の脱落者がいるにもかかわらず社会的不満が生じないのはなぜか、という点である。前者の問題を扱ったのがローゼンバウムのトーナメント移動論であり、後者が加熱・冷却論である。

トーナメント移動論を提唱したローゼンバウムは、アメリカの高校を対象にした研究で、チャンスは平等に与えられているとの規範を構成員は支持しているのにもかかわらず、事実としては勝てば次の回に進む権利が得られるが敗者復活の余地はほとんどないというトーナメント移動になっていることを見出す。次に企業の昇進に着目し、ここでもトーナメント移動になっていることを示す。具体的に言えば、昇進はランダムな移動ではなく特定の経路からなされ、ある時点で同じ地位にあっても過去の地位によりその後の昇進のチャンスは異なり、初期に昇進した者がより多くのチャンスを得る、ということである。そしてこのような移動が生じる理由として機会の平等と選抜の効率性の要請を同時に満たす折衷型のシステムであることを挙げる。

加熱・冷却論は、教育の拡大で高い地位の数をはるかに超える希望者が登場し不可避的に脱落者が出るが、彼らがどう現実に適応していくかに着目した理論である。「冷却」という言葉はもともと詐欺師が使う隠語であったようで、少々悲しい感じがする。脱落の適応としての態度を類型化すれば、再加熱(目標を変えないまま再挑戦)・代替的加熱(目標を変えて再挑戦)・縮小(目標を下げて再挑戦)・冷却(目標の価値を相対化し競争から降りる)に分けられる。

理論枠組の紹介は以上であるが、本書はこれを道具として日本の選抜構造を受験・就職・昇進という場面に分けて実証的に探求する。ここでは全ては紹介できないので、読者そして私のたどってきた部分―受験に重点をおいて日本の特徴をみていきたい。

日本では激しい受験競争がある、ということについて異論はないであろう。しかし一方で学歴と将来の収入の相関関係は外国に比べて強くない。日本の学歴は物質的な見返りと結びついているわけではなく、人間としての価値が高い、というような象徴的な意味合いをもっている。イギリスは階級意識社会と言えるが、日本は学歴意識社会ということになる。さらに言えることは、このような象徴的価値の見返りをも超えて受験社会として自律化・自己目的化した制度になっていることが見出される。

このような自己目的化を可能にするのは「傾斜的選抜システム」である。学校の序列自体はどの国にもあるがそれは一部分にとどまるところがほとんどで、どんぐりの背比べを数値化しているところは少ない。日本は偏差値という基準で上から下まで整然とした序列があり、模擬試験に基づき事前選抜が行われるが、その上で偏差値50の人は55へ、60の人は65へ、40の人は45へ、といったように誰もが「現状より少し上」を目指すように焚きつけられる。また、序列の区分が細かいために上下の移動が頻繁に起こりやすく、純粋なトーナメント移動ではなく敗者復活の機会が多い。これにはGPAによる成績調整が一般的でないこと、学校間競争が熾烈であることが作用している。加熱・冷却は学校間ではなく学校内で生じる。

こうしたシステムの下での生徒は、自己監視的な存在になる。傾斜的選抜システムでは試験のわずかな点数の差に重大な意味がもたされ、「受験生だから」「受験生なのに」といった意識も生まれる。受験生は、勉強そのものよりも他の生徒よりも勉強量や時間が足りないのではないか、といった不安で追い立てられる。ちなみに、「受験生」に対応する英語の単語はないらしい。

最後に結論部分を紹介しよう。日本の選抜の特徴は、選ばれたと思った者が脱落し選ばれなかった者が浮かび上がるランダム性が折り込まれていることで、上も下も恒常的に競争を煽られるということである。そして、とりあえず目の前の選抜を突破しなければ話は始まらない、ということを繰り返していくうちに長期的展望を喪失し、終には情熱も失った人間が出来上がっていく。

やるぞ やるぞ やるぞ 俺はやるぞ
何をするよ? まずは手近なとこから取り掛かれ
(国民的行事/KREVA)

以上、甚だ不十分ではあるが本の紹介を終えることにする。このわずかの記述の中でも、自らを包んでいた制度の構造についてひとつの説明をみて思考が喚起されることが多いであろう。私としては、目標の喪失という人間像に共感するところがある。大学の学習相談所のコラムでも同様なことが指摘されている。学生が求めているのは具体的な仕事ではなく職場、それもいわゆる「いい職場」、周りに恥ずかしくない職場なのである。仕事に着目した進路である法曹も、裁判官・検察官ともなるとまだ幾重もの選抜が残っており実現するかがわからない。先日ゼミ総会があったが、自己紹介で将来の進路について話すとき、弁護士であればそこそこ具体的なイメージができているものの、研究者あるいは裁判官になりたい気持ちがある人は多くの解除条件付の希望を合わせて話していたのが印象的であった(かくいう私も「裁判官か弁護士」と言った)。また、高校では理系・文系、大学では研究者・法曹・公務員・民間といった暗黙の序列があって、どれも本来比較不能なもので将来の生活水準にも影響しないのだが、多くの人が振り回されている。

Bertrand Russell The Conquest of Happiness 1930

さて、秩序づけに一応の目処がついたが、私は何も社会改革を訴えるわけではない。このような構造のもとでいかにして満足を得るかということを私の座右の本の力を借りながら考えていこうとするのである。価値の相対化も使うが、目標を変えるわけでもなく、競争から降りるわけでもなく、努力を放棄するわけでもない。大して意識もせず勝ち残っていけるならば問題はないだろう。しかし困難があるときは、単純に一喜一憂するよりは自分の置かれている状況を把握して泰然自若とした態度で選抜に臨むほうがよいであろう。たとえるならば、技術的な不安を一部残したままピアノの発表会の本番を迎えたとして、間違えないように恐る恐る弾くのがよいか、思いっきり楽しんで弾くのがよいか、ということである。

脱落に対する「冷却」という言葉は哀愁に満ちているが、この現代社会、わずかな上のポストにいる人だけが満足を得るというわけではないのは明らかである。これには、社会の豊かさの実現に原因の一端がある。これは『日本のメリトクラシー』でも最後に示唆されていたことで、脱落の恐怖からリアリティを奪う。同時に、多くの人が考え方ひとつで満足を得られる可能性を開く。いくら競争に勝ち残っていても不安にかられ続けている人はいるし、競争から降りても十分満足な人はいる。ラッセルもいちばん満足を得やすいのは科学者であると言うように、選抜システムを超えた存在になる手もある。

生活に満足をもたらす要素は様々ある。食と住、健康、愛情、趣味、仕事上の成功、仲間からの尊敬といったところである。選抜システムの中でいつまでも心の平穏が得られない、あるいは脱落でこの世の終わりの如く悲嘆に暮れるような人は、成功を必要以上に強調し、仲間からの尊敬も愛情も勝ち残らなければ得られないと錯覚し、趣味も他人より抜きんでていなければ趣味ではないと錯覚しているような人である。意外とこう考える人は多いようで、あるゼミのOB会なんぞ、久闊を叙して純粋に楽しむ場ではなく凱旋の場であり、彼らの思うところの序列の上位にいなければ顔向けできないようである。

経済学の基礎には限界効用逓減の法則があるという。これにあてはめてみると、社会の豊かさを前提とすれば本来目の前の選抜は効用を少ししか上げないものである。しかし、ある種の世界の狭さ、視野の狭さと何事も他人との比較でみる癖により、行く先々でF5キーを押して効用曲線をリセットする。そしてその場にいる人より自分が劣っていることを見つけると途端に不満足になるのである。ご存知の通り、F5を連打するとサーバーに負荷がかかり、極限に行けば落ちる。落ちる時は死ぬ時である。絶え間ない選抜がある中でこのような態度をとり続けることには無理があろう。

前でも示されたように、受験競争は物質的な見返りではなく、象徴的な価値を手に入れる競争であり、さらにそれを越えて有意でない差にも勿体ぶった序列がつけられたものである。ここで他人との比較という観点を減じれば、大きな荷が下りる。上位大学院の選抜くらいになれば、そのスタートにも立てない人がどれほどいるのか、脱落したとしても脱落する機会すらない人よりもずっといい暮らしを将来するのではないか。選抜で行われているのは生き死にをかけた生存競争ではなく、他人との優位性をかけた成功のための競争である。ここで相手を蹴落とすことは緊急避難にならない。ラッセルは成功のための競争に捕らわれることを「踏み車を踏んで、それをいつまでもやめない」とたとえている。しかし通常は、恵まれた境遇は当然視され、失うまで意識されることはない。

昨夜見たテレビの中 病の子供が泣いていた
だからじゃないが こうしていられること 感謝をしなくちゃなあ
(空風の帰り道/Mr.Children)

しかしここまで推し進めると、逆にリアリティがなくなってくる。何であれ自分の希望が叶うことは喜びであり、叶わないことは喪失である。ある時点で同じ位置にいたと思っていたのにいつの間にか優劣がついているのが判明すれば、考え方によっては自分にも不可能でないということになるのだが、心が揺らぐのは確かである。これまでに述べた方法ではこの喪失感を癒すには十分ではないであろう。そこで提案するのは、自分の希望をより高次の目的の中に位置づけることである。

昨年大学で進路説明会というものがあったのだが、そこで企業に勤める卒業生の話に次のようなものがあった。会社員は公務員のように直接公共を担うわけではないが、結局のところ自分たちの経済活動が社会と公共を下で支えているのだ、というものである。このような意識は、目の前の喪失を緩和させる。すなわち、失敗が自分に降りかかってもその高次の目的は揺らがずにはっきりと残る。もし法律の専門職になることを目指して励んでいるならば、日本法の発展、ひいては社会の発展に寄与しようという意識をもつことがこれにあたる。このような目的の前では、法を作る立場になるか・適用する立場になるか・市民の側に立つか・国家の側に立つか・教育にあたるか、といったことは態様の違いのレベルの問題になり、やるだけやって最終的に自分が置かれた場所でがんばろうというかたちで、挑戦への意欲を維持することができる。

このような長期で高次・抽象的だがそれ自体は揺らがない目的を意識することについては、公的なものと私的なものの二つを用意しておくのがよいであろう。私的な目標は選抜が絡みにくく実現を味わう可能性が開かれているからである。私的な目標の設定は各人の判断に委ねられるが、特筆したいのは、自己の人格的発展と、その次世代への継受、簡単に言えば子育てである。近頃の人がこれを軽視しているのは驚きに値する。時々誰もが思考にふけるが、これは終局的には自身の精神的な成長の糧となる。日々の生活でものを知っていくにつれ、成長の材料が集まっていく。そしてこれが発揮され、まとまっていくのが子供への教育である。しかし、説教というかたちで行われるわけではないし、子供の人格を無視し特定の方向に持っていくことを目的とするわけでもない。親自身が芯のある充実した生活をし、その姿を見せることである。この点で戦後の多くの親は失敗しているように思う。仕事で生気を抜かれ疲れ果てた姿しかみせないと、子供が将来への展望をもちにくくなる。私が子育てに好意的なのは、両親が楽しそうに子育てをしていたという感覚があるからだ。

以上のような態度は、いずれにせよそれなりの立場を得るだろうという確信をもち、社会を引っ張っていこうという少々エリート的な考えが背景にあるもので、広く一般化してあてはまるとは言い切れない。また、問題なのは、周囲の価値観から少し外れるというリスクを負うことである。会話などで図らずも相手が期待する返答ができない場面が生じる。周囲との不調和は不満足をもたらす。「個性的な人」として受け入れられる手もあるが、これが最良であるかはわからない。こうした点は今後の課題である。

最後に私の大学生活を振り返ってみようかと思ったが、記事が思いのほか長くなったのに加え、最近ブログ書きに気恥ずかしさが出てきたのでやめておく。ひとつ示唆しておくと、昨年末に書いた「切符がくれたもの」は他人と比較する癖で純粋な楽しみを失っていた主人公がそれを取り戻すお話であり、この時期から考えが出発したということである。
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