順風ESSAYS

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備えあれば、と言うけれど

2009年08月26日 | 時事
以前の記事で予防原則の問題点について書いた。そこでは因果関係を明らかにする努力なしに規制を推進してしまう危険性を指摘したのだが、別の問題点もある。効率を無視した帰結を導きやすいことだ。「備えあれば憂いなし」と言うが、北朝鮮のミサイルに備えて庭に防空壕を掘る人はいない。どこまで備えればいいのか、明確な線引きは難しい。そのために恣意的に使われてしまうのだ。

凍結国道、14路線建設再開へ 判断基準あいまいに(asahi.com)
凍結国道、17路線工事再開へ 国交省が基準を緩和(朝日新聞)
国道凍結解除 許されぬ基準の後出し(東京新聞・社説)

これらのニュースの経緯をまとめると、以下のようになる。

2008年秋、民主党が道路計画の需要予測が過大と指摘
→2009年3月、国交省が新しい基準を設定し18区間の計画を凍結
→2009年7月、監視委員会の下で再検討し、最終的に17区間は計画再開

1年も経たぬうちに計画がひっくり返ったり戻ったり。これは、ニュース記事の見出しにも現れているように、事業計画の評価基準が変わったために生じたものである。凍結の決定にあたっては、走行時間短縮等の便益を金銭的に評価し、これが予定の建設費を上回るかどうかで判断された。それが再検討にあたっては、建設費を削減してもクリアできない場合に災害時の交通確保などの「防災上の観点」を新たに加味して判断された。基準をいきなり変えたことや明確でない基準を加えたことに批判が起こっている。

確かに、道路がないよりあったほうが、道幅が狭いより広いほうが防災に資することは明らかである。しかし、現在問題となっているのは、国の財政が逼迫している中で全体の予算から如何様な配分をなすべきか、ということだ。必要なことでも、それが複数あれば優先順位を考えなくてはならない。特に社会保障制度は国民から信頼を失っており、「将来の生活への備え」について危機感が高まり、生活防衛的な消費行動で経済全体に影を落としている。

同じようにどこまで備えればいいのか考えさせられた出来事としては「住宅用火災報知器設置の義務化」がある。確かに高齢化が進めば早期に火事を認識すべき場合は増えるだろう。設置していたおかげで早く対処できましたという事例も出てくるだろう。しかし全住宅で、台所と寝室全てに設置する義務を課すというのは、ちとやりすぎじゃないかなと感じてしまう。でも、もし本当に火事が起こったらどうするんだと言われたら言い返せない。

設置義務には制裁規定はついておらず、設置しなくても罰せられたりということはない。しかし、事が起こったときにニュースで「この家では消防法の義務に反して火災報知器を設置していませんでした」とか一言加えられるようになったら大変だ。制裁がないが故に裁判所で過剰規制かどうか争う契機も少ない。一方で、この規制により非常に大きな市場が生まれた。薬のネット販売の規制でもそうだが、「安全」の背後で戦わされているビジネス上の争いが増えているように感じる。

安全をどこまで追求すべきか、何を優先すべきか。これらは数式で答えが出るようなものではなく、国民の決断に委ねられるものであり、一度考えてみる必要がありそうだ。安全の推進の裏に別の動機があるかもしれないと注意することも必要だろう。私の場合は、自分の将来に備えてやるべきことを考えるほうが先かもしれないが…。


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