1.便乗値上げ禁止法
マイケル・サンデル著『これからの「正義」の話をしよう』早川書房・2010年
ベストセラーとなっているこの本、9月初めに入手したのだが、まだ最初の十数ページまでしか読んでいない。身辺が慌ただしくなったのもあるが、最初の便乗値上げ禁止の話から色々と考えてしまった、というのが理由になる。ひとまず考えたことをまとめて、次に読み進めていきたいと思う。
便乗値上げ禁止の話は、次のようなものだ。2004年にハリケーン被害が生じたとき、復旧や生活必需品の価格が跳ね上がり、売り手側への非難が高まり、便乗値上げ禁止法が執行された。しかしこれには経済学者から批判が出て、需要と供給により決まる高い価格に従うことによって商品やサービスを提供するインセンティブが増し、はるかに多くの利益をもたらすと主張がされた。法の執行者からは、良心に照らして不当である、正常な自由ではない、と再反論がなされた。
この問題についてサンデルは、幸福の最大化、自由の尊重、美徳の促進という3つの理念が中心になっていると整理する。執行者からの再反論が美徳をめぐる議論であるとし、売り手の強欲は悪徳であり、この悪徳を禁止するべき主張であると評価する。そして、美徳をめぐる議論は多くの人の感覚に合致するものではあるが、法律に入り込むとなると、公権力が美徳について価値判断をするため、懸念が生じるものだと説明がされる。
これについて、私は便乗値上げ禁止法賛成の立場を美徳の問題として位置付けることに違和感を覚えた。普段法学をやっていて、法レベルの秩序そのものの話ではないかと思ったからだ。どういうことかというと、便乗値上げに対する反感は応報感情の発露であり、美徳や道徳にとどまるものではなく法制度上にも組み込まれているものではないか、ということである。
2.応報の原理
2.1.応報とは
応報とは何であろうか。辞書的には、「善悪の行いに応じて吉兆・禍福の報いを受けること」(広辞苑)という。端的に言えば「行為の善悪と結果の善悪の結びつき」かみ砕いて言えば「よい行いにはよいことがあり、悪い行いには悪いことがある」ということである。私たちは普段の行動でこの観点から自己を統御しているだろうし、他人に対しても行動を決めている。心理学では好意の返報性、感情一致の原則というものがあるらしく、これは一対一の対人関係における応報の考え方の反映のように見える。無意識レベルでの心理傾向にまでなっていると言えるだろう。
個々の生命体の生死に全く配慮しない自然界の厳しい掟に、生物は立ち向かってきた。生存手段として群れを作った時点から、社会性がプログラムされる。群れの構成員どうし生存を確保するためにうまく協力するためには、秩序が必要となり、損得による動機づけが行われるようになる。このように秩序づけは社会の維持のためにあるが、個人にとっても偶然性に左右される不安を減じることができてメリットがある。こうして、よいことにはよいことで返し、悪いことには悪いことで返すという仕組みが作られていく。応報は秩序の根本であると言えるだろう。多くの宗教には、応報の仕組みがある。神や天国・地獄や前世・来世などの概念によって、現実の行動に秩序をもたらそうとしている。
2.2.応報の危機の四類型
この応報の仕組み通りにいかない、秩序感が危機になる場面としては、次の4つが考えられる。
(1)よいことをしているのに、よいことがない。
(2)よいことをしていないのに、よいことがある。
(3)悪いことをしているのに、悪いことがない。
(4)悪いことをしていないのに、悪いことがある。
(1)よいことをしているのに、よいことがない。―これは、頑張りが必ずしも報われない、人生の辛さとして中心的に語られるものである。しかし、社会が誰にでも報いを用意できるほど豊かではないことは自覚されており、また、(2)で見るように、よいことをしなくてよいことがあるとは期待できないので、我慢強くよいことをしていこうという態度に到達することになる。仕方のないこととして、ほとんどの人は個人レベルでこの危機に対処している。
(2)よいことをしていないのに、よいことがある。―これは、偶然のこと、宝くじで大金を当てた人や、親の七光りなどでいいご身分になっている場面などが想起できる。このような場面における、他者からの転落劇への期待はすさまじいものがある。転落の話は好んで語られ、多くの人が転落に救いを差し伸べないという不作為によって転落に加担する。賭博は現行法でも違法であり、公的に管理されたもののみ認められている。判例は美風を害するといった点を規制の中心的な理由としているが、大きな反対論がある。この議論状況を見ても、自由の文脈からは応報をうまく取り込めないと言うことができる。
(3)悪いことをしているのに、悪いことがない。―悪い行為の典型は犯罪である。刑法の目的の第一は応報であり、この事態を是正するため、刑罰という悪いことをもたらすものである。ときには悪いことをした人の命を奪ってでも(死刑)なくそうとする強い力が働いている。民事法においても、責任追及するかしないか相手方の意思にゆだねられているが、いざ追求するとしたときは、法は支えとなる。
(4)悪いことをしていないのに、悪いことがある。―これが本件で特に問題となる場面である。病気による苦痛は人の心を揺るがす最も大きなものである。差別の問題もあてはまる。便乗値上げ禁止法でいうと、ゆくゆくは全体の利益になると言っても、その過程のミクロレベルにおいて、悪いことをしていない被災者が通常より多くの金銭的負担という悪いことを強いられる事態を生じさせることが、許容されるべきでないということである。したがって、値上げする者の悪徳への攻撃と即断するべきではなく、被災者に不利益を与えてはならないという(4)の感覚がまず存在し、それを破る者に対して(3)の感情を掻き立てる、という構図であると考える。
(4)の事態を是正するために人類は多くの努力をしていて、医学が最たるものであるが、法の領域では社会保障政策が中心である。すべてを本人の責めに帰すことができないことで(自己責任に還元できないことで)、生活が脅かされるという不利益を生じさせることを是正するものである。病気に対しては健康保険制度があり、老齢の生活資金欠乏には年金制度がある。病気と老齢のリスクが個人での備えに任せられないとされているのである(この価値判断は国によって異なる;アメリカと健康保険)。障害への社会保障もある。生活保護については、生存権保障の観点から自己責任と評価されてしまう方にも保障が及ぶ場合があり、これに対する世間の反感には非常に強いものがある。
このように、是正のための方策として、(A)社会保障政策による対応があるが、ほかに(B)個人の生活基盤となる私法上の契約関係に直接介入する、という対応がありうる。便乗値上げ禁止の場面で言えば、被災者に購入資金を公的資金から援助することが(A)による対応であり、便乗値上げ禁止法が(B)による対応であると言える。この観点から現在の民事法を眺めてみると、(B)の現れと言える契約法理を見つけることができる。
3.契約法理への現れ(※過去記事の再論でもあります→労働契約の社会保障機能)
3.1.信頼関係の法理
家屋の賃貸借契約においては、相互の信頼関係を破壊するに至る程度の不正があるとは言えない場合には債務不履行解除権の行使が信義則上制限されるという信頼関係の法理というものが判例上確立している。この信頼関係の法理は、賃借人の債務不履行があっても信頼関係を破壊しない程度の不履行であれば解除できない、付随義務違反のような行為でも信頼関係が破壊される程度であれば解除できるという二つの側面があるとされている(内田・民法Ⅱ第2版231頁)。
信頼関係法理の根拠としては、賃貸借契約が信頼関係に基づいていること、及び、継続性があること、が挙げられている。ここで対比として企業と弁護士間の顧問契約を見てみると、信頼関係に基づき継続性もあると言えるが、賃貸借契約と同様の法理を適用する必要があるとは思われないであろう。これは、質のよい供給が十分にあること、関係が切れても企業として基盤が揺らぐわけではなく、依存関係がないことに因るだろう。こうみると、「信頼関係」「継続性」というワードは絶対的ではないと言えるだろう。継続性は、当事者の一方が生活の基盤として依存し、打ち切られれば大きな不利益を生む状況を生みやすいひとつの要素と言うことができる。
「信頼関係」についてみると、当事者の主観のみで考えれば、賃貸人が怒り心頭で訴訟に至っている時点で信頼関係はもはやなくなっている。法理においては、不履行の時点で賃借人にどの程度の不正があったのかを厳密に債務の本旨の内容にこだわらず、客観的に(外の視点から)検討する、という判断構造であると言える。これは、家屋を奪われて生活が破壊されるという「悪いこと」を賃借人に負わせていいほど悪いことをしたのか、を社会の目から見るという上記(4)の応報の原理の現れと位置づけることができる。「信頼関係」は、応報による判断を個人の合意という民法の原則に引き直すための概念と考えられる。
3.2.法理の射程、制度的契約
信頼関係の法理については、不動産賃貸借に限らず、特に、当事者間の経済的依存関係が強い場合において一般的な射程を有していると指摘されている(前掲・内田232頁)。フランチャイズ契約が代表格として挙げられている。個人的には、労働契約も当てはまり、特に整理解雇の法理は基盤を一にしていると考えている。経済的依存関係が強いからと言って法理が常に当てはまるわけではなく、経済状況・社会保障政策の状況から、打ち切られたあるいは大幅な減額をされた際に、社会秩序の感覚に触れる程度まで生活上の不利益が生じると言える場合に、契約関係に(4)の応報の原理が適用され、射程が及ぶことになると考えられる。これがあてはまる契約について、「社会保障機能のある(を負わされる)契約」と言えないだろうか、と個人的に考えている。
最近では、公共サービスの民営化に合わせて制度的契約という概念が提唱されている。個人間の個別合意がかえって望ましくない、という程度にまで達している契約とされている。保育所の契約関係など、供給側の都合での頻繁な変更・解消は子供の教育上大きな不利益と認識されるだろうし、企業年金契約も公的年金制度の補完としての位置づけであり高齢者の生活保障をしているものである。先ほど信頼関係の判断構造において(a)当初の合意内容から離れた判断がされている、(b)当事者間の主観があまり重視されない、を指摘したように、すでに個人間の合意から離れた判断が組み込まれている。これは契約が社会秩序の一部に取り込まれていることからくるものであって、制度的契約論もこの方向性のひとつとして考えられるのではないか、と思う。
※ここから解雇規制緩和や企業年金減額・打切りの事例を検討しようと思いましたが挫折しました。これじゃ新しいこと何もいってないじゃん。。
4.まとめ
以上をまとめてみよう。行為の善悪と結果の善悪を結びつける応報の仕組みは社会秩序の根本である。その中でも、「悪いことをしていないのに、悪いことがある。」という事態を防ぐことは社会秩序維持のために重要なことである。ある施策が最終的に全体の利益になるとしても、その過程でこの事態を生じさせてしまう場合には許容されにくい。これは美徳の問題にとどまるものではなく、法にも現実に反映されているものである。
「悪いことをしていないのに、悪いことがある。」という事態への対応策として社会保障政策と契約への介入の二種類がある。契約への介入がされた場合には、個人の合意で説明が尽くせない法理が発達することになる。それは社会保障政策としての役割を背負わされているからである。契約への介入がされるのは、経済・社会政策を含めてみたとき、契約の変更・解消により生じる不利益が看過できない程度であるときである。
5.おわりに
多分野をミックスした考察なので、まだ着想の段階、グダグダで恥ずかしい、今後突き詰めることが山ほどあると感じている。特に自由主義の理念との関係を考察してみたい。サンデルの正義の本を読み進めれば、自然と答えが出るかもしれない。「もう最後まで読んだ!こういうことだよ。」「自分はもっと詳しいぞ、ここが間違ってるぞ」「こんな本読んだらいいよ」「別の知識や体験を持ってる、こういう感じじゃないかな」といった感じで様々なご教示をいただけたら、と思っている。コメント欄、メルフォ、ツイッター等でよろしくお願いいたします。

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マイケル・サンデル著『これからの「正義」の話をしよう』早川書房・2010年
ベストセラーとなっているこの本、9月初めに入手したのだが、まだ最初の十数ページまでしか読んでいない。身辺が慌ただしくなったのもあるが、最初の便乗値上げ禁止の話から色々と考えてしまった、というのが理由になる。ひとまず考えたことをまとめて、次に読み進めていきたいと思う。
便乗値上げ禁止の話は、次のようなものだ。2004年にハリケーン被害が生じたとき、復旧や生活必需品の価格が跳ね上がり、売り手側への非難が高まり、便乗値上げ禁止法が執行された。しかしこれには経済学者から批判が出て、需要と供給により決まる高い価格に従うことによって商品やサービスを提供するインセンティブが増し、はるかに多くの利益をもたらすと主張がされた。法の執行者からは、良心に照らして不当である、正常な自由ではない、と再反論がなされた。
この問題についてサンデルは、幸福の最大化、自由の尊重、美徳の促進という3つの理念が中心になっていると整理する。執行者からの再反論が美徳をめぐる議論であるとし、売り手の強欲は悪徳であり、この悪徳を禁止するべき主張であると評価する。そして、美徳をめぐる議論は多くの人の感覚に合致するものではあるが、法律に入り込むとなると、公権力が美徳について価値判断をするため、懸念が生じるものだと説明がされる。
これについて、私は便乗値上げ禁止法賛成の立場を美徳の問題として位置付けることに違和感を覚えた。普段法学をやっていて、法レベルの秩序そのものの話ではないかと思ったからだ。どういうことかというと、便乗値上げに対する反感は応報感情の発露であり、美徳や道徳にとどまるものではなく法制度上にも組み込まれているものではないか、ということである。
2.応報の原理
2.1.応報とは
応報とは何であろうか。辞書的には、「善悪の行いに応じて吉兆・禍福の報いを受けること」(広辞苑)という。端的に言えば「行為の善悪と結果の善悪の結びつき」かみ砕いて言えば「よい行いにはよいことがあり、悪い行いには悪いことがある」ということである。私たちは普段の行動でこの観点から自己を統御しているだろうし、他人に対しても行動を決めている。心理学では好意の返報性、感情一致の原則というものがあるらしく、これは一対一の対人関係における応報の考え方の反映のように見える。無意識レベルでの心理傾向にまでなっていると言えるだろう。
個々の生命体の生死に全く配慮しない自然界の厳しい掟に、生物は立ち向かってきた。生存手段として群れを作った時点から、社会性がプログラムされる。群れの構成員どうし生存を確保するためにうまく協力するためには、秩序が必要となり、損得による動機づけが行われるようになる。このように秩序づけは社会の維持のためにあるが、個人にとっても偶然性に左右される不安を減じることができてメリットがある。こうして、よいことにはよいことで返し、悪いことには悪いことで返すという仕組みが作られていく。応報は秩序の根本であると言えるだろう。多くの宗教には、応報の仕組みがある。神や天国・地獄や前世・来世などの概念によって、現実の行動に秩序をもたらそうとしている。
2.2.応報の危機の四類型
この応報の仕組み通りにいかない、秩序感が危機になる場面としては、次の4つが考えられる。
(1)よいことをしているのに、よいことがない。
(2)よいことをしていないのに、よいことがある。
(3)悪いことをしているのに、悪いことがない。
(4)悪いことをしていないのに、悪いことがある。
(1)よいことをしているのに、よいことがない。―これは、頑張りが必ずしも報われない、人生の辛さとして中心的に語られるものである。しかし、社会が誰にでも報いを用意できるほど豊かではないことは自覚されており、また、(2)で見るように、よいことをしなくてよいことがあるとは期待できないので、我慢強くよいことをしていこうという態度に到達することになる。仕方のないこととして、ほとんどの人は個人レベルでこの危機に対処している。
(2)よいことをしていないのに、よいことがある。―これは、偶然のこと、宝くじで大金を当てた人や、親の七光りなどでいいご身分になっている場面などが想起できる。このような場面における、他者からの転落劇への期待はすさまじいものがある。転落の話は好んで語られ、多くの人が転落に救いを差し伸べないという不作為によって転落に加担する。賭博は現行法でも違法であり、公的に管理されたもののみ認められている。判例は美風を害するといった点を規制の中心的な理由としているが、大きな反対論がある。この議論状況を見ても、自由の文脈からは応報をうまく取り込めないと言うことができる。
(3)悪いことをしているのに、悪いことがない。―悪い行為の典型は犯罪である。刑法の目的の第一は応報であり、この事態を是正するため、刑罰という悪いことをもたらすものである。ときには悪いことをした人の命を奪ってでも(死刑)なくそうとする強い力が働いている。民事法においても、責任追及するかしないか相手方の意思にゆだねられているが、いざ追求するとしたときは、法は支えとなる。
(4)悪いことをしていないのに、悪いことがある。―これが本件で特に問題となる場面である。病気による苦痛は人の心を揺るがす最も大きなものである。差別の問題もあてはまる。便乗値上げ禁止法でいうと、ゆくゆくは全体の利益になると言っても、その過程のミクロレベルにおいて、悪いことをしていない被災者が通常より多くの金銭的負担という悪いことを強いられる事態を生じさせることが、許容されるべきでないということである。したがって、値上げする者の悪徳への攻撃と即断するべきではなく、被災者に不利益を与えてはならないという(4)の感覚がまず存在し、それを破る者に対して(3)の感情を掻き立てる、という構図であると考える。
(4)の事態を是正するために人類は多くの努力をしていて、医学が最たるものであるが、法の領域では社会保障政策が中心である。すべてを本人の責めに帰すことができないことで(自己責任に還元できないことで)、生活が脅かされるという不利益を生じさせることを是正するものである。病気に対しては健康保険制度があり、老齢の生活資金欠乏には年金制度がある。病気と老齢のリスクが個人での備えに任せられないとされているのである(この価値判断は国によって異なる;アメリカと健康保険)。障害への社会保障もある。生活保護については、生存権保障の観点から自己責任と評価されてしまう方にも保障が及ぶ場合があり、これに対する世間の反感には非常に強いものがある。
このように、是正のための方策として、(A)社会保障政策による対応があるが、ほかに(B)個人の生活基盤となる私法上の契約関係に直接介入する、という対応がありうる。便乗値上げ禁止の場面で言えば、被災者に購入資金を公的資金から援助することが(A)による対応であり、便乗値上げ禁止法が(B)による対応であると言える。この観点から現在の民事法を眺めてみると、(B)の現れと言える契約法理を見つけることができる。
3.契約法理への現れ(※過去記事の再論でもあります→労働契約の社会保障機能)
3.1.信頼関係の法理
家屋の賃貸借契約においては、相互の信頼関係を破壊するに至る程度の不正があるとは言えない場合には債務不履行解除権の行使が信義則上制限されるという信頼関係の法理というものが判例上確立している。この信頼関係の法理は、賃借人の債務不履行があっても信頼関係を破壊しない程度の不履行であれば解除できない、付随義務違反のような行為でも信頼関係が破壊される程度であれば解除できるという二つの側面があるとされている(内田・民法Ⅱ第2版231頁)。
信頼関係法理の根拠としては、賃貸借契約が信頼関係に基づいていること、及び、継続性があること、が挙げられている。ここで対比として企業と弁護士間の顧問契約を見てみると、信頼関係に基づき継続性もあると言えるが、賃貸借契約と同様の法理を適用する必要があるとは思われないであろう。これは、質のよい供給が十分にあること、関係が切れても企業として基盤が揺らぐわけではなく、依存関係がないことに因るだろう。こうみると、「信頼関係」「継続性」というワードは絶対的ではないと言えるだろう。継続性は、当事者の一方が生活の基盤として依存し、打ち切られれば大きな不利益を生む状況を生みやすいひとつの要素と言うことができる。
「信頼関係」についてみると、当事者の主観のみで考えれば、賃貸人が怒り心頭で訴訟に至っている時点で信頼関係はもはやなくなっている。法理においては、不履行の時点で賃借人にどの程度の不正があったのかを厳密に債務の本旨の内容にこだわらず、客観的に(外の視点から)検討する、という判断構造であると言える。これは、家屋を奪われて生活が破壊されるという「悪いこと」を賃借人に負わせていいほど悪いことをしたのか、を社会の目から見るという上記(4)の応報の原理の現れと位置づけることができる。「信頼関係」は、応報による判断を個人の合意という民法の原則に引き直すための概念と考えられる。
3.2.法理の射程、制度的契約
信頼関係の法理については、不動産賃貸借に限らず、特に、当事者間の経済的依存関係が強い場合において一般的な射程を有していると指摘されている(前掲・内田232頁)。フランチャイズ契約が代表格として挙げられている。個人的には、労働契約も当てはまり、特に整理解雇の法理は基盤を一にしていると考えている。経済的依存関係が強いからと言って法理が常に当てはまるわけではなく、経済状況・社会保障政策の状況から、打ち切られたあるいは大幅な減額をされた際に、社会秩序の感覚に触れる程度まで生活上の不利益が生じると言える場合に、契約関係に(4)の応報の原理が適用され、射程が及ぶことになると考えられる。これがあてはまる契約について、「社会保障機能のある(を負わされる)契約」と言えないだろうか、と個人的に考えている。
最近では、公共サービスの民営化に合わせて制度的契約という概念が提唱されている。個人間の個別合意がかえって望ましくない、という程度にまで達している契約とされている。保育所の契約関係など、供給側の都合での頻繁な変更・解消は子供の教育上大きな不利益と認識されるだろうし、企業年金契約も公的年金制度の補完としての位置づけであり高齢者の生活保障をしているものである。先ほど信頼関係の判断構造において(a)当初の合意内容から離れた判断がされている、(b)当事者間の主観があまり重視されない、を指摘したように、すでに個人間の合意から離れた判断が組み込まれている。これは契約が社会秩序の一部に取り込まれていることからくるものであって、制度的契約論もこの方向性のひとつとして考えられるのではないか、と思う。
※ここから解雇規制緩和や企業年金減額・打切りの事例を検討しようと思いましたが挫折しました。これじゃ新しいこと何もいってないじゃん。。
4.まとめ
以上をまとめてみよう。行為の善悪と結果の善悪を結びつける応報の仕組みは社会秩序の根本である。その中でも、「悪いことをしていないのに、悪いことがある。」という事態を防ぐことは社会秩序維持のために重要なことである。ある施策が最終的に全体の利益になるとしても、その過程でこの事態を生じさせてしまう場合には許容されにくい。これは美徳の問題にとどまるものではなく、法にも現実に反映されているものである。
「悪いことをしていないのに、悪いことがある。」という事態への対応策として社会保障政策と契約への介入の二種類がある。契約への介入がされた場合には、個人の合意で説明が尽くせない法理が発達することになる。それは社会保障政策としての役割を背負わされているからである。契約への介入がされるのは、経済・社会政策を含めてみたとき、契約の変更・解消により生じる不利益が看過できない程度であるときである。
5.おわりに
多分野をミックスした考察なので、まだ着想の段階、グダグダで恥ずかしい、今後突き詰めることが山ほどあると感じている。特に自由主義の理念との関係を考察してみたい。サンデルの正義の本を読み進めれば、自然と答えが出るかもしれない。「もう最後まで読んだ!こういうことだよ。」「自分はもっと詳しいぞ、ここが間違ってるぞ」「こんな本読んだらいいよ」「別の知識や体験を持ってる、こういう感じじゃないかな」といった感じで様々なご教示をいただけたら、と思っている。コメント欄、メルフォ、ツイッター等でよろしくお願いいたします。

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