神は死んだ!(ドシャーン!!!と雷が落ちる背景をご想像ください)
なんて昔の偉い人は言いました。
そして
神様はたぶんいる!(ピシャーン!!!以下略)
なんてことを言いだそうかどうか考えているsachiakiです。
いや、正確には一般的に信じられているような
奇跡を都合よく起こしてくれる神様はいなくて、
なんかよく分からない歴史的ミッシングリンクはあったりするけれど
どうひっくり返っても思いつかない
原始スープから生命が産まれたことや
人間に進化したこと、それらを説明するには
やっぱり「神」的な概念を用いらないと説明ができない
っていうものならいる(=ある)と思っています。
なので一生懸命に念仏を唱えたり、
神様に感謝する祈りを捧げることには
甚だ疑問ではあるものの、
その儀式的な行いのおかげで
人間が人間たりえる集団行動をできることなどは
一定の説得力があるなぁなどと思ってもいます。
私は宗教的なことを考える時に
カラマーゾフの兄弟を読んだ時のことを思い出します。
「敬虔な愛」を盲信的に信じるアリョーシャは
聖人のように描かれるけれども
人々のことをなにも知りません。
汚い本能のことや、卑劣なまでの生活への渇望などから目をそらし、
一途に「神の愛」を信じて禁欲的に暮らしているけれど、
教会の長であるゾシマ長老は「世に出なさい」と
寺院を出ることを勧めます。
俗世間では欲があり、人々に罪があること、
汚いことを見ないで済むようなことを
長老は見てこいというわけです。
そしてアリョーシャは自分の兄イワンと宗教観について戦いもします。
超絶リアリストであり皮肉屋でもある兄のいう
神がいったいなんであるのか?
信仰とはなんなのか?
カラマーゾフの兄弟はとても長い小説で未完のものですが
宗教を扱いながらも
”実際に目の前の人を愛するといった実行的な愛”について
とても深く深く言及しているものなのだと思います。
”罪”を”罪”のままにするのではなく
”愛と赦しの道”を示し、
それは夢幻なんかではなく、実効的でなくてはならないと
指し示しているわけです。
そういやこの前の日記にもエントリした
エーリッヒ・フロムの「愛するということ」にも
実行的なものが愛なのだと書いていましたわ。
と、話が逸れてしまった。
ほんなわけでな、「神様私をお救いください」みたいなものは
信仰でもなんでもなく、強いていうなら精神的に依存することで
ギリギリ人間ぽい振る舞いができるっていうもので、
本当になにかを信仰するなら、
”愛する”という行動を起こした方がいいってことなのでえしょうなぁと。
その時の行動というものがそれぞれにあるので
細かいことは書きませんが、行動に移したものだけに真実が宿り、
そこに”まるで奇跡”のようなこと、ってのが起こるんじゃないのって思ったりもするのです。
まぁ偶然の産物に違いなく
統計で考えても0ではない限り、必ずそれは起こるってことなので
諦めずに頑張れってことだったりします。
あー、また長くなってるな。
そして何が言いたいんだっけ?
ばあさん、飯はまだかい??
とりあえず今日も「死んでしまいたい」というところからギリギリ生還した人の話を聞いていて
「生きたいと思ってもらえてよかった。でも自殺を選んでしまっても仕方ない」
なんて話をしていました。
神様なんてものがいるのか分からないけれど
人が一人今日も生還してくれた。
それだけでもすごい奇跡よね。
って感じのことを書きたかっただけです。
生きることをあきらめてしまわぬように
それにすがってでも生き延びれられるのなら
それを神様と呼んでも構わない。
そんな日記でした。
あたしゃ神様よりも
眠ってる間に確定申告の書類を上げてくれる小人さんの方が切実に欲しいよ。
まったく毎年こんだけ苦しむのわかっているのに
過去の自分を蹴り飛ばしたいわ。。。モイモイ
なんて昔の偉い人は言いました。
そして
神様はたぶんいる!(ピシャーン!!!以下略)
なんてことを言いだそうかどうか考えているsachiakiです。
いや、正確には一般的に信じられているような
奇跡を都合よく起こしてくれる神様はいなくて、
なんかよく分からない歴史的ミッシングリンクはあったりするけれど
どうひっくり返っても思いつかない
原始スープから生命が産まれたことや
人間に進化したこと、それらを説明するには
やっぱり「神」的な概念を用いらないと説明ができない
っていうものならいる(=ある)と思っています。
なので一生懸命に念仏を唱えたり、
神様に感謝する祈りを捧げることには
甚だ疑問ではあるものの、
その儀式的な行いのおかげで
人間が人間たりえる集団行動をできることなどは
一定の説得力があるなぁなどと思ってもいます。
私は宗教的なことを考える時に
カラマーゾフの兄弟を読んだ時のことを思い出します。
「敬虔な愛」を盲信的に信じるアリョーシャは
聖人のように描かれるけれども
人々のことをなにも知りません。
汚い本能のことや、卑劣なまでの生活への渇望などから目をそらし、
一途に「神の愛」を信じて禁欲的に暮らしているけれど、
教会の長であるゾシマ長老は「世に出なさい」と
寺院を出ることを勧めます。
俗世間では欲があり、人々に罪があること、
汚いことを見ないで済むようなことを
長老は見てこいというわけです。
そしてアリョーシャは自分の兄イワンと宗教観について戦いもします。
超絶リアリストであり皮肉屋でもある兄のいう
神がいったいなんであるのか?
信仰とはなんなのか?
カラマーゾフの兄弟はとても長い小説で未完のものですが
宗教を扱いながらも
”実際に目の前の人を愛するといった実行的な愛”について
とても深く深く言及しているものなのだと思います。
”罪”を”罪”のままにするのではなく
”愛と赦しの道”を示し、
それは夢幻なんかではなく、実効的でなくてはならないと
指し示しているわけです。
そういやこの前の日記にもエントリした
エーリッヒ・フロムの「愛するということ」にも
実行的なものが愛なのだと書いていましたわ。
と、話が逸れてしまった。
ほんなわけでな、「神様私をお救いください」みたいなものは
信仰でもなんでもなく、強いていうなら精神的に依存することで
ギリギリ人間ぽい振る舞いができるっていうもので、
本当になにかを信仰するなら、
”愛する”という行動を起こした方がいいってことなのでえしょうなぁと。
その時の行動というものがそれぞれにあるので
細かいことは書きませんが、行動に移したものだけに真実が宿り、
そこに”まるで奇跡”のようなこと、ってのが起こるんじゃないのって思ったりもするのです。
まぁ偶然の産物に違いなく
統計で考えても0ではない限り、必ずそれは起こるってことなので
諦めずに頑張れってことだったりします。
あー、また長くなってるな。
そして何が言いたいんだっけ?
ばあさん、飯はまだかい??
とりあえず今日も「死んでしまいたい」というところからギリギリ生還した人の話を聞いていて
「生きたいと思ってもらえてよかった。でも自殺を選んでしまっても仕方ない」
なんて話をしていました。
神様なんてものがいるのか分からないけれど
人が一人今日も生還してくれた。
それだけでもすごい奇跡よね。
って感じのことを書きたかっただけです。
生きることをあきらめてしまわぬように
それにすがってでも生き延びれられるのなら
それを神様と呼んでも構わない。
そんな日記でした。
あたしゃ神様よりも
眠ってる間に確定申告の書類を上げてくれる小人さんの方が切実に欲しいよ。
まったく毎年こんだけ苦しむのわかっているのに
過去の自分を蹴り飛ばしたいわ。。。モイモイ