あも&サチアキの交換日記

どうやら交換日記が続いているようです(祝何年目?

まかり間違っていたら大悪党だったと思う

2019-02-19 | from:sachiaki
おはこんにちは。
昨晩は頭痛もあったので、さっさと寝ようと思っていたのに
やっぱりビルダーズの沼に浸かって寝不足になってしまったsachiakiです。

まぁそれはさておいて。
今日の私の戯言は、

被害者の気持ちよりも加害者の気持ちを知りたくなる
もしくは、
悪堕ちする理由に深く共感するという話についてです。

わたくしスターウォーズの新作は全然見ていないので
旧作の三部作しか知らないのですけれど、
ダースベイダー卿の悪堕ちの話はぬる〜と知っている感じです。

ダースベイダーはさすがに話が広すぎるというか、
デカイ悪堕ちだなーと思うけれど、
マギに出てきたマグノシュタット編に出てくる学長の悪堕ちとか、
まどか☆マギカのさやか&ほむらとか、
聖闘士星矢のサガ様とかね、
むしろ人間味があるし、
清濁合わせ飲むことが出来ないことや、
そのピュアピュアっぷりや信念の強さゆえに潰れる弱い人というイメージがあるなと。

この間、長電話に付き合わされた時に
信念が強い人は弱い人だという話をしていて、
相手はキョトンとしていたけれど、
"人間は一人で生きているわけではない"という話をして、
ベルセルクでグリフィスが仲間を贄にする気持ちは痛いほど分かるけれど、
それでも選ばない勇気が彼にあれば良かったのにね、
なんて話をしたら納得してくれました。

信念は素晴らしい力だし、
ストイックに生きている人の美しさは格別なものがあるけれど、
どうしたって人は一人で生きていくには弱すぎるし、
世界は広くて深すぎるのだと思う。

家族を持てとか恋人を作れとは言わないけれど、
帰ってこれる人や場所は必要だと思う。

闇に飲み込まれそうになる時、
引きずり込まれた時に、
呼吸が出来る所にそれらは助けになると思います。

私は元来倫理観が緩い上に、
人の為になるだったり、
自分の信念の為なら多少の犠牲は付き物だ、
という考え方であるのに、
綻びもありつつギリギリ人の形を成しているのは
帰って来られる人がいるからなのだと思うのです。

「ヒトを殺しをしても構わない」とのたまわく私にとって
それでも殺さずに済んでいるのは
失う物の大きさを知っているからなだけだし、
ブレーキとしてこの上ないものだとも思います。

そんな感じ。
銀行の窓口待ち時間があまりに長いので
闇落ちしそうになりましたが
そろそろ順番がくるのでこの辺にて!

そんじゃーね。モイモイ
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内側と外側と<コミュニティとはなんぞや>

2019-02-19 | from:sachiaki
ほうぼうに針を立てる癖もどうにかした方がいいんじゃないか?
それこそ
 ♪ ふてくされてばかりの10代をすぎ 分別もついて歳をとり

って歌われてもいるんだから、
良い加減にどこかへ迎合して自分と他人との絆を深めてもいいんじゃないか?

そんなことを思ったりもするんだけど、
「sachiakiさんはその青臭いままがいいんじゃない?」
って言われたので、
まだ少し怯えながらもツンツンしてて良いらしい、
なんて勝手に良い方へ解釈をしたsachiakiです。

すでに昨晩noteである程度書いてしまったので
それほど書くこともないのですけれど、
私って 誰かが決めたルールのもとを歩くのが嫌い
という性分がありまして、
それでもまぁ中学高校時代なんかは
そのルールの元に沿っていた方が便が良いから乗っておく
みたいなところがあり、
それがいわゆる”良い子”側に振れていたので
あまり小うるさく言われることがなかったのですよね。

スカートの丈を短くしようなんてあまり思わなかったし、
リボンを改造しようとか、
制服にちょっとしたものを取り入れようとかそういうのがあまりなく
その代わり自分がやりたい髪型とかは取り入れていて
一風変わった格好をしていた覚えがあります。
そういやヒラメってあだ名をつけれてていたな。。
後ろ髪だけ長めだったから、カイト(凧)みたいな変な後ろ姿だったのですよねぇ。

今さら言うけれど、
あれは乙女カットをやりたかったのにうまく伝えられなくて
いつも後ろ髪の一部だけ長いというようなもので
うっかりしていたらジャンボ尾崎だったなとハラハラしてしまいますわ。

そんなわけで比較的コミュニティ流儀というものを意識せずに育ち、
20歳そこそこで入社した会社では社長に意見して出ちゃったり
30歳では上取引先の部下があまりに可哀想だったので、その人の代理喧嘩したり、
いろいろ面倒な性格を引きずったまま今に至っています。

大人になったら丸くなるものだと思っていたけれど、
そういうもんでもないみたい。

人が2人以上集まればなんとなく空気と呼ばれる
暗黙のルールなどができたりするけれど、
その人数が膨れ上がってきた時に
それぞれが思っている方向が違うことは多分にあり、
それがどうでも良いルールであったり、
重要だったりと状況によって変わるものだったりするけれど、
少なくとも「このコミュニティに入りましたが、私はいつでも抜ける権利があります」
という当たり前のことができないコミュニティが多すぎる気がします。

そんなわけで、”人が集まらないとどうにもならない”
というものよりも、”人が集まらなくてもどうにかなる”
方法はないかと常に模索しているわけです。

まぁ、日本ってなんだかんだで生活保障とか手厚いはずなので
そういったことの入り口とか窓口にうまく辿り着ければ良いんですけどね。

一つのコミュニティに依存せずに、
いくつものコミュニティに属し、
ゆるやかに渡り歩くことが許される
それこそ憧れの対象として持ち上げられるスナフキンのように
生きていけば良いんじゃないかな?とか思いました。

小学生の時に「さっちんはスナフキンみたいだね」と言われていたのは
-人とうまく溶け込めない悪口なのか?-とか思っていたことがあるけれど
あれはそうではなかったのかもしれない。
その頃からすでに一つのグループにいるのではなく
かといっていくつものグループに足掛けしている器用な子とも違い、
ゆるっと一つのグループに顔出しつつ、
図書室の住人であり、屋上の昼寝人だったから
いつも給食を食べ終わるといない人ってイメージだったのだと思う。

まぁスナフキンって名言ばっかり言ってるイメージあるけれど、
あいつ気ままな分、かなりの傍若無人っぷりを発揮してますけどねw

ともかく私たちは自由であることには違いなく
コミュニティに所属するもしないも自由なんだってこと。
だけど”自由が幸せだとは限らない”
ってことだけは忘れちゃならないのだろうね。
かつての心理学者(精神分析・哲学者)であるエーリッヒ・フロムも
『自由からの逃走』って本を書いてますしね。

最後にそのフロムの『自由からの逃走』より引用して終わりにします。

 自由というものは本来はそれが与えられることに対しての
 孤独や責任を受け止めるということが求められるわけであり、
 その覚悟を持った上で自由を希求して得た者によって構成される社会こそが
 望ましい社会の形態といえるわけである

孤独や責任を受け止められる覚悟ができたなら
自由を謳歌しようじゃないですか。
春になったら仲間のところにやってきて
冬になれば別のところへ流れているスナフキンのように。
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