昨日けっこう長く書いたブログ記事が
さてアップするぞ〜って
「公開ボタン」を押したところ
「メンテナンス中うんぬん」と出てきて
強制終了させられたうえに
下書きにも残っていなくって
これだからWeb上でのエディターは
信用ならないんだよなぁ……と
トホホとなっていたsachiakiです。
Facebookなんかも、よく長い文章を打ってたのに
投稿ボタンを押したら消えたってことが
一度や二度ならず起っているので
いったんローカルのエディターで編集してから
それぞれの投稿サイトにアップするってことを
徹底してたりしてたんですけどね〜。
油断してたわ〜。
それはさておいて。
人間3人以上集まれば諍いの種はできるもの
っていうようなことを聞くけれど
そんなことの繰り返しが歴史なのかもね〜
なんて呑気なことを思ったりしてました。
なんていうか。
全体を大きく動かしたい時に
ささやかなことで離脱されてしまうと
「え?なんで?」って気持ちになってしまうんですよね。
まぁささやかなことの積み重ねが大きくなって
離反する土台となるんですけれど。
同じような目的地に向かって歩んでいるのに
途中で袂を別れる場合、
一つは目的地が完全に違っていて
途中までは一緒だったから並走していたけれど
分岐点が出てきたので離れるってのがあるのかな。
そしてこれは仕方ないことだなって思うんだけど、
目的地がそんなに遠くない場所にあって
足並みを揃えていたのに突然乱れた人がいた時に
その乱れも内包して歩むのではなく
「乱れるようなのでさようなら」になってしまうのは
あれ?どうしてなの??ってなってしまったり。
私的には乱れた人もいるのが多様性だし
組織にとって大事なことだと思うんだけど
一方的に「話し合った結果離れてもらうことになった」では
なんでなの??ってなるのは必至なんですよね。
そして離れてしまった側の話は
ほぼ聞けないか、聞けたところでどうにもならない
そういったもどかしさがあります。
「会って話しをした」「深く検討をした」では
結局その議論が表に出ることはなくって
うちうちの処理になっていることに
大きな問題を感じてしまったり。
政治の問題ってだいたいそんな感じなんでしょうけれど
オープンでないやりとりで決議されたことっていうのは
どうにも信用が足りないよねって思うし、
かといって「もう受け入れられない」となった時の
どうにもならなさというのも
それはそれで分からなくもないので
もどかしいなぁって感じです。
モヤモヤを抱えたまま生きるっていうのは
人類には難しすぎるのかもしれません。
あいつのココが気に入らないっていうのがあっても
排除をしないで同じ空間にいることを許すってのは
けっこう大事なことだと思うんだけど。。
そんなことをここ3年近く考えています。
それじゃまた。モイモイ