昼間にミャンマーの洪水で
死者が226人になったというニュースを読んだけれど、
昨日はギリシャの干ばつで水位が下がって
ダム湖に沈んでいた村が再び出現するなどのニュースを読み
海水温が上がってきていることで海流も変わり
そしてその海流が変わることで今までの
偏西風や貿易風などの風の流れも変わり
雨雲の発達する所なども変わって
世界規模で今までなかったことが色々と起きています。
温暖化の原因がなんであれ
今は温暖化の一途を辿っていて
このままだと水の被害が強くて住むのが難しくなったり
逆に水がまったくなくても住むのが難しい
なんてことが広がっていくんじゃないか?
そんなことを思ってしまうsachiakiです。
とはいえ、流域が変わっているとだけ捉えることもできるし
今まで通りにはいかないってだけとも取れます。
そんな話を旧Twitterにて放流したら
知り合いから世界に目を広げずとも国内でも
雨の被害がでかいところもあれば
雨まったくなくて困ってる所あるぞって話になって
しかもそれが農地とも関連する話だったので
事態はより複雑だなぁなんてことを思ったりしてました。
問題意識を持てば持つほど
あぁこれはダメだ。いったん人類滅ぼそうか
なんて気持ちになるので本当に良くありません。
そういう意味ではある種の諦観が必要で
あまりに複雑に絡み合っているし
自分の見えるものは自分の身の丈分しか見えないから
なにかを否定したところでそれは解決しないよね
なんてことを受け入れて
自分の立場はココで誰かが損することはわかっているけれど
どうしようもないのだ
というような諦めも必要なのかな?
なんてことを思うようになりました。
だからこそ人類には祈りが必要だったし、今も必要だし、
自分達に罰を与えてくれる
大いなる存在が必要だったのではないか?
なんてこと思ったりしちゃうんですね。
神などいないが、いないと言うには辛すぎるので
いると思い込むことで拠り所を作る
それがメンタルヘルスによかったのではないか?
などと思ってしまうのです。
とはいえ、まるっきり全幅の信頼でもって
神と呼ぶことに決めたものにジャッジを委ねたりするのは
やっぱりそれは愚の骨頂だと思うので
この疑いながらも都合の良い時だけ
都合よく解釈するというバカのふりをするのが
大事なんじゃないかなと思います。
言ってることめちゃくちゃなんだけど。
だから、なにかを言った時に
別の立場の人から「お前そんなもんもわかんねーのかよ」
って言われるだろうけれど
「当たり前だろうわかるわけねーよ!教えてくれ」
が良い姿勢なのだろうし、
ことと次第によっては「わかっているけれどわかんねーよ」
だったり「わかるわけにはいかないのだ」
になるんだろうなぁなんて思ったりするのです。
しゃーない。
そういうもんなのだろうから。
と、gdgd書いてたら収録2本目の時間がきちゃったのでこの辺にて。
それではまた夜に。モイモイ