日本を代表する企業と言えば一昔前までトヨタと日産、ナショナルとソニー、キャノンとニコンだった。今は少し違う。車は2位の日産がこけてホンダが2位の座を獲得。家電メーカーのナショナルは健在だがパナソニックに名称変更した。が、なんとソニーは大赤字で人員整理の嵐。2位争いというより、日の丸の電化各社が束になっても、韓国のサムソンにかなわないかもという危機的状況になっている。実際海外の空港に行くと、目にするのはSAMSUNGのディスプレイばかりである。一方カメラは健在だが、問題はすさまじいデジタル化であって敵は国内にあり。パナソニックやソニーという家電メーカーのカメラが急追する中、一寸先は闇の状態となっている。
実は私は車はトヨタ一辺倒だし、電化製品はPCなど少し割高だが、できるだけパナソニック製品にし、カメラに至っては一眼でもメインがキャノンでサブにパナソニックを愛用している。決してブランド志向ではない。使っている内に世界中の人々と同様、「良いものは良い」のであって、大切に使い続けるためにも良いものを選ぼうとしただけなのだ。
実は私は若い頃はソニーを愛用していた。ウォークマン(写真は1979年頃)の体験は確かに世界を変えた。CD規格や3.5インチのFDにおいてソニーは輝いた。しかし、である。VHSとベータのビデオテープで負け、電子手帳のClieで撤退し、MDも結局は短期で散って徒花(あだばな)的だった。後に残ったのは、競争に敗れ規格から取り残され、とどのつまりは使わなくなった道具の数々である。ソニーへの期待は裏切られ、懲りるともう見向きもしなくなる。だからデジタルのウォークマンなどには、いくら音が良いからと言って見向きもしない。初めからアップルのアイポッドであり、iPhoneだった。
実はソニーを見限ったのは、ソニーの戦略に私は疑問を抱いていたからだった。つまりソニーはある段階から、自社の優れた技術力で世のため人のためという正義を捨て、囲い込みによる自社だけの繁栄を、利潤追求だけをしようとしている意図が露骨になった。技術を自分の食い物にし、人々の生活の質を高め貢献するという社会的責任を放棄しているように私は感じた。信義なき会社になってしまったという失望感を抱いた。
例えばメモリーカードだ。今標準はSDカードだが、これはパナソニックが提唱したものだ。またその規格や内容も世に広めるためにオープンにした。しかしこの時、ソニーはメモリースティック(写真)というSDと同様なカードを、自社のみの閉鎖的な取り扱いで終始した。それを見て「メモリースティック製品は絶対廃れる、デジカメなどその製品を買ってはまた大損をする」と思ったものだ。そしてすでに今日の衰退を、私は予感した。志しなきものは滅びる定めなのだ。
実はアップルもまた、その志しの部分であったジョッブスの亡き後、これからは危ういと私は見ている。なにしろ創業者のジョッブスを追い出している過去がある。そういえば逆にトヨタもホンダもパナソニックも、創業者の志しの高さを連綿と受け継いでいる会社である。何事も、志しが肝心なのだ。信仰の世界もまた、同様である。自分の都合で礼拝に出たり出なかったり、では志しがどうなっているの?と気になる。礼拝と祈りは、クリスチャンの命であって、どんな迫害にも命をかけて守ってきた志しそのものなのだ。 (ケパ)