むかし、山崎豊子さんの小説「二つの祖国」(写真は文庫本表紙)を原作にしたTVドラマがあった。
天羽賢治という日系二世が主人公だった。アメリカで育ったが、日本の大学を出て加州新報のバリバリの記者だったが、日米開戦で次第に引き裂かれて行くお話しだった。何しろ敵対関係ともなれば、どちらかに属さなければならないし、属さなかった方とはどうしても深い傷を生んでしまう。それまでの自分のアイデンティティが股裂にされてしまうわけだ。
クリスチャンにも二つの祖国がある。世の国と神の国だ。そして多くの方は平和的な状態にあって、両方のメリットを享受している。しかし国籍不明のどっちつかずの状態ともいえる。ところが中には、どちらかの国にしか住めないギリギリの選択をさせられているクリスチャンもいる。私は断言するが、天羽賢治とは異なって、これは不幸なのではなく、素晴らしい至福への機会である。神に愛され、チャレンジを受けている。
そこで神の国を選んだ者は、特別な祝福があることを知っていただきたい。一つは神の国での祝福である。永遠の国での、永遠の喜びがそこにある。これは行って見なければ分からないという人も多いが、私はそのすばらしさを確信している。肉体の命にまさる、絶大な価値がある。
もう一つはこの世での実際的な祝福がある。実はこれが一番誤解されていて、これはまずもって神の国を選択した
結果での恵なのに、神の国を選ぶ前に、実際的な祝福を望んでしまう人が多い。恵がほしいために神の国を求めても、順序が逆なので、どんなに祝福を望んでも与えていただけないのである。別にケチなのではない。それではかえって滅んでしまうからなのだ。
神は人の心を見られる。偽りは通じない。人間の力では神の国を選ぶことは困難である。だから困難や試練があり、神の国を選ぶ機会が提供される。この世の国ではなく、見えない国の国民として歩む信仰を祈り求めるしかない。「大切なものは見えない」のだから。 (ケパ)