「(主イエスを)信じる人々には次のようなしるしが伴います」(マルコ16:17)
これは聖書の言葉である。逆に言えば、たとえクリスチャンであると言っても、全く市井の人と変わらぬのであれば、自らは信じていると称していても、実は疑わしいことになる。クリスチャンにとっては、空恐ろしい言葉ではないか?
ここで「しるし」と言っているのは、「悪霊の追い出し」「蛇や毒からの害を受けず」「病人に手を置いて癒す」ことであるとされている。このような「しるし」が信者のしるしであるなら、今のほとんどのクリスチャンは落第だろう。
実は私自身も、カリスマ信仰を持った五十歳までは、ずっと黙殺し続けてきた聖書箇所だった。そのようなしるしなど馬鹿げているし、実際見聞したこともなく、これはキリスト教草創期の特異な時代だけの話として受け取っていた。
しかし実際には、1906年アメリカのアズサ通りでシーモア牧師による聖霊のいちじるしい働きが始まり、再び「しるし」が現れはじめていたのである。
キリスト教信仰が他宗教と決定的に違うのは、一神教vs多神教と言う大きな見方と言うより、個人の内面に神が生きることだ。自分の罪を認め、悔い改め、十字架によって罪が赦される体験をすること。その上で、自由意思で神に自分の心を明け渡すことだ。すると個人の中に神が宿り(聖霊の内住という)、宿るだけでなく、その人の主となって神に従うものとなる。この段階で、その人を通して神の力が現れる。「しるしが伴う」のは、その人の力でなく、神がその人の主となって働かれる故なのだ。
だからわたしは確信を持っているが、あらゆる不思議なしるしが現される時代になる。多くの人々が癒やしを求め、教会の前に列を作って並ぶようになるだろう。精神の病の人、不治の病の人・・・・キリストの時代がカムバックし、リバイバルが来るだろう。 ケパ