Happyday of LUCKY

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技術革新がもたらした表現

2017年02月18日 | Photography
いつの時代も技術革新によってあたらしい表現が生まれてくる。
15世紀にヨーロッパのガラス職人が、ガラスにスズと水銀の合金を塗って「鏡」をつくりだした。この技術によってレンブラントをはじめとするルネッサンス期の画家たちは自画像を描きはじめる。よく映る鏡がまだなかった時代には、自分をモチーフとするような絵画もなかったのである。

時代はすすみ19世紀のはじめ、絵画よりもっと正確・精密に描写できる「写真」という技術が発明されると、肖像画を描いてもらっていたブルジョワたちはこぞって写真スタジオへなだれ込み肖像写真を撮った。この時代、写真はその人物の同定ないしは社会的権威を強調するための道具であった。
さらに写真がかんたんに撮れるようになった現代においては、(依然として人物同定という役割はあるにせよ)もっと人物の内面つまりアイデンティティを表現する道具として写真はつかわれだす。とりわけ「セルフポートレイト」という表現はひとつのジャンルとして正当な位置を得ている。これも技術革新がもたらしたあたらしい表現だといえる。
もっとも自撮り棒の先にスマホを付けてヘン顔を撮る行為が、その延長なのかどうかはわたしにはわからない。



さて今年も気がつけば2月半ばをすぎていて、同級生のAさんからの誘いがなければ、完全に忘れていたであろう日本写真映像専門学校の卒業制作展へきょうはいく。
玄関を入るといきなり学校長賞をとったYさんの作品がドーンとあらわれる。作品はセルフポートレイト2点で、自分の二面性をあらわしているという。聞いてもいないのに作品のコンセプトを語りだしたのは校長先生だ。相当この作品が気に入ってるのだろう。たしかに撮影の技術は高いものがある。それをうまく合成して一枚の絵に仕上げる技術もかなりのものだ。だけど、なんだかリアリティがないというか、どうも薄っぺらいのである。



2時間くらいかけて全員の作品をじっくりと見たけど、わたしの心に響いた写真は3点くらいしかなかった。どの写真も妙な加工が目につく。フォトショップの加工技術を見せられているようで、写真そのものの世界観が見えてこない。加工していないストレートな写真もあるにはあるが、そういう作品は逆に写真が下手なので絵になっていない。あーあ
デジタル写真の技術によって写真表現はあらゆるメディアを横断するような幅を獲得した。だけど本来、表現というものは表現する人間そのものの叫びなのであるから、自己と向き合って掘り下げないものは深くはならないだろう。自戒を込めて記しておく。一応OBですから。

(上の写真は1階の男子トイレ。この作品は今年の卒作展のものではありません)

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