京都五条のGallery Mainでやっている展覧会「CITYRAT press photo exhibition 2016」を観て、出品している14人の作家の「叫び」みたいなものを感じた。そして表現するということについて、あらためて考えてみた。
世の中にはなにかを表現する人と、それを鑑賞する人がいる。でも表現する人がべつのなにかを鑑賞することもあるので、どちらか片方だけという人はいないだろう。
たとえば画家が写真展を観にいくこともあるし、写真家が音楽会を聴きにいくこともある。音楽家が演劇を観にいくこともあれば、俳優が絵画展を観にいくこともあろう。これはプロ作家/俳優だけのことではなく、趣味で絵を描いたり写真を撮っている人についてもおなじだ。
そしてもっと見方を広げれば、絵画や写真、音楽、演劇など芸術とよばれるものだけでなく、たとえば日々の料理をつくることやマラソン大会に出場すること、あるいはバイクで走ることさえも表現といえるだろう。
場合によっては法に触れるような犯罪でさえも、歪んだ精神によってもたらされた表現行為と見なすことができるかもしれない。
そう考えると、人間が生きていること自体がすでに「表現」であって、なにも表現しない人間なんて存在しない。
つまり人間はみんな多かれ少なかれ、「オレはここに生きている」ということをいろんな表現によって叫ばずにはいられない生きもののようだ。その欲求の強烈な人たちが表現者となり、その表現をまわりの人たちが見て共感する。そして「ああ、わたしも生きている」と感動するのだと思う。
世の中にはなにかを表現する人と、それを鑑賞する人がいる。でも表現する人がべつのなにかを鑑賞することもあるので、どちらか片方だけという人はいないだろう。
たとえば画家が写真展を観にいくこともあるし、写真家が音楽会を聴きにいくこともある。音楽家が演劇を観にいくこともあれば、俳優が絵画展を観にいくこともあろう。これはプロ作家/俳優だけのことではなく、趣味で絵を描いたり写真を撮っている人についてもおなじだ。
そしてもっと見方を広げれば、絵画や写真、音楽、演劇など芸術とよばれるものだけでなく、たとえば日々の料理をつくることやマラソン大会に出場すること、あるいはバイクで走ることさえも表現といえるだろう。
場合によっては法に触れるような犯罪でさえも、歪んだ精神によってもたらされた表現行為と見なすことができるかもしれない。
そう考えると、人間が生きていること自体がすでに「表現」であって、なにも表現しない人間なんて存在しない。
つまり人間はみんな多かれ少なかれ、「オレはここに生きている」ということをいろんな表現によって叫ばずにはいられない生きもののようだ。その欲求の強烈な人たちが表現者となり、その表現をまわりの人たちが見て共感する。そして「ああ、わたしも生きている」と感動するのだと思う。