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(原題:Schindler's List )93年作品。スティーヴン・スピルバーグの“シリアス路線”を一気に世間的に認知させた第66回アカデミー賞受賞作。公開当時は観終わって“やっぱりスピルバーグはスピルバーグだ!”との印象を深くしたものだ。危惧されていた“ハリウッド製戦争巨編”の気配は微塵も見せず、クレーンやステディ・カムといった大仰なカメラワークもなし、それほどメジャーな俳優を起用しなかったのも偉い。何よりも白黒映像の美しさが目にしみる。ジョン・ウィリアムズの音楽、イツァーク・パールマンの官能的なヴァイオリンが恍惚とさせる。長い上映時間を少しも退屈させない演出のテンポのよさはサスガだ。
しかし、この作品について私はあえて異議を唱えたい。すでにいくつかの評論に挙げられているこの映画の最大の欠点が最後まで引っかかってしまうのだ。つまり、なぜシンドラー(リーアム・ニーソン)はユダヤ人を救ったのかが描かれていないことだ。主人公がどういう人物なのか最後までわからない(ベン・キングズレー扮するユダヤ人計理士やレイフ・ファインズの狂的なナチス将校は的確に描かれているにもかかわらず)。シンドラーは正義の人としては登場しない。安い給料で働くユダヤ人に目をつけて一儲けしようとする俗物であり、どうしようもない女好き、偉い奴に取り入る手腕は一流の、鼻持ちならない男だ。
そんな人間が命張ってユダヤ人救出なんかに乗り出すか? 普通だったら考えられないことだが、これはれっきとした史実だ。そこを思い切って描写しないと、映画は絵空事になるばかりである(赤い服を着たユダヤ人の女の子に心動かされた、などというキレイ事には耳を貸さない)。
でも、そこがスピルバーグらしいところなのだ。それまでの彼の作品に現れる“対象”を思い浮かべてほしい。不気味なトラックの運転手、凶暴なサメ、現代に生き返った恐竜、悪の権化のようなナチスetc.これらはすべて得体が知れない存在であるにもかかわらず“最初から「悪」そのもの”として設定してある。逆の例が「E.T.」「未知との遭遇」の宇宙人で、こっちは人間の理解を超えた“善であるもの”であり、どうして善なのか、なぜ人間と友好的なのかはまったく描かれない。初めに善悪を規定しておいて、それらとかかわり合う過程を娯楽性たっぷりに描くことが映画のメインになっている。
同じようにシンドラーもスピルバーグは最初から“善なるもの”と設定してしまっている。いくら表面的には生臭い野郎でも、善人として規定したからには、そのバックボーンなど描く必要はない、というのが作者のスタンスであると思う。しかしそれではこの題材はモノにならないのだ。“戦争は地獄だから怖いのではない。その地獄を天国と感じることが怖いのだ。そういう人間の心理こそが怖いのだ”とは「地獄の黙示録」を観たときの黒澤明の言葉だが、戦争の悲劇を特定の人物を中心として描くには、綿密な心理描写が不可欠である。ところがそんなことをまるで無視したこの映画は失敗作と言っていい。収容所の場面、ゲットーの場面、見せ場を満載しながら単なる“記号”としての印象しか持てないのはそのためである。
数々の残酷な描写が話題になってたが、ハッキリ言って当事者意識において「プラトーン」には負ける。さらに「ゆきゆきて、神軍」にはもっと負ける。絶望的な暗さにおいて「コルチャック先生」にも、当然それ以外のアンジェイ・ワイダ監督の諸作品(特に「地下水道」)にも及ばない。そしてソ連映画「炎628」の激しさには逆立ちしたってかなわない。
スピルバーグとしては10年以上あたためた企画であり、彼なりに真剣に撮ったのだろう。作品としてはまるで食い足りない出来だが、世界一メジャーな作家がこういう題材を取り上げたこと自体は大いに評価する。これがきっかけとなって、一人でも多くの観客がこの問題について考えてくれればいいと思った。ただ、この程度ではアカデミー賞は取ってほしくない。文句なしの傑作である「ピアノ・レッスン」を抑えてのオスカー獲得は尚更納得できなかった。
でも、その方は、どこに泣いているのでしょうか。
映画になのか、事実になのか。
演出家の鈴木忠志は、
「演劇は演劇によってのみ感動させるべきで、その裏の事実やイデオロギーによってではない」と言っています。
それは、映画も同じだと思うのです。
これを見ると、ハリウッドのユダヤ人人脈の大きさに改めて驚きますね。
とはいえ後年「ミュンヘン」でユダヤ人の裏の人脈ネットワークを描いたスピルバーグとしては、「シンドラーのリスト」みたいな映画はもう撮れないと思った次第です。