力作だが、重大な欠点がある。重松清の連作短編集の映画化で、吃音症の臨時教師と中学生たちの葛藤を通して、いじめ問題や教育について、そして人生において“大切なこと”を観客に問いかける中西健二監督作。
主人公が受け持つクラスは以前いじめにより一人の生徒が自殺未遂を引き起こし、担任は心労により休職。マスコミにも取り上げられ、学校当局はもとよりクラス全員が十分反省した・・・・はずだった。すでに転校したくだんの生徒の机と椅子は片付けられ、事件は過去のものとして葬られようとしていた矢先、この臨時教員はそれらを倉庫から引っ張り出し、事件の風化を阻止しようとする。
他の教員や父兄からの批判が渦巻く中、彼は“いじめた方が一からやり直すことこそ卑怯だ。いじめをしたという事を決して忘れてはならない。それが責任というものだ!”と言い切る。また、いじめに荷担したのではないかと悩む男子生徒や、事なかれ主義に終始する学校側もヴィヴィッドに描かれ、かなり見応えはある。
しかし、冒頭述べたように欠点は存在する。それは、この映画自体が“いじめた側”からしか捉えられていないことだ。責任を持つとか、反省するとか、そんなのはいじめた側の事情に過ぎないのではないのだろうか。大事なのはいじめられた側の状況ではないのか。いじめ問題に関してよく勘違いしている向きがあるが、いじめというのは、いじめる方が“これはいじめである。いや、断じていじめではない”と勝手に判断するようなものではない。たとえ本人にいじめる気なんか全然なくても、いじめられた方がそれを“いじめ”だと思ったならば、それは立派な“いじめ”なのである。
いじめを取り上げる際、いじめる側にばかり目が向いてしまったら、それは何の問題提起にもなっていない。本作はいじめられる側のことを“いろんな人間がいる”という一言で片付けてしまっている。これは欺瞞だ。単なるいじめと学校現場における“暴行”や“窃盗”などの犯罪との区別がまったく付いていない見方も罷り通っている昨今、いい加減いじめる側からの捉え方は止めたらどうなのだろうか。
吃音の教師に扮した阿部寛と、後悔の念に駆られる生徒役の本郷奏多は好演だが、それ以外のキャストはステレオタイプの域を出ない。それにしてもオープニングとエンディングに流れる曲のワザとらしさには参った。もっと選曲のセンスを磨いて欲しいところである。