チエちゃんの昭和めもりーず

 昭和40年代 少女だったあの頃の物語
+昭和50年代~現在のお話も・・・

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キクばあちゃん

2018年09月22日 | お母さん
(月日の経つのは)早いなあ。もう彼岸かぁ。
今日は雨だがら行がんにげんちょも、体調が良くて、天気がいい時に、生ぎでいるうぢにもう一度だけ墓参りに行ぎだいど思ってなぁ。

わだしのお母っかさまは、わだしが小学校の5年生になった春に亡ったんだよ。
ほれがらは、キクばあちゃんが一生懸命育でてくっちゃんだ。
キクばあちゃんっていうのは、ホラ、豆腐屋のにしゃばあちゃんの連れ合いの姉さまだ。
うぢにはお金なんて無がったがら、ばあちゃんが藁で草履編んでな、それを一足十銭くらいで売ってだのがな?
十銭だよ!(いくらの儲けにもならない) 
ほんじも、おらいが困ってんのみんな知ってっから、買ってくっちな。
あのお金が結構、生活の足しになったんだよ。

お米が無え時は、ばあちゃんがうどん打ってくっちさ。
おらいでは米は作ってながったげんちょも、麦は作ってだがら、よ~ぐうどんは食ったな。
モチモチして、うまがったよ。

新しい着物なんて買わんにがら、ばあちゃんが母ちゃんの古い着物を直してくっち、それを着て学校に通ったのさ。
その頃でも、ほんな格好してるのは組で2・3人くらいだったな。
セーラー服なんて、着らんにがった。
この辺りの村の学校合同で弁論大会があって、わだしが代表に選ばっち、発表するごどになってさ。
代表に選ばれるのなんて、ほんとに嫌だった。着ていぐ服がねえんだもの。
ほしたら、サワちゃんが「わだしの貸してあげっから着ていげば」ってゆってくっちなあ。
サワちゃんからセーラー服借りて、それを着て弁論大会に行ったのよ。
まったぐ、代表に選ばれるのはほんとに嫌だったなあ。

ほれがら、父ちゃんもガンになっちまったべ。
わだしもこの年齢になって、何んにもでぎなぐなっちまったがら、分がるげんちょも、キクばあちゃんも腰が曲がって(家事をするには)たいへんだったべなぁって思うよ。



もう一度、母をお墓参りに連れて行ってあげたいと思うけれど・・・
母の生家の墓地って、細い坂を登って、登って、登った先にあるんだよね。
私一人では車いすを押せない。
こりゃ、息子たちを頼るしかないか!

貧乏

2018年01月15日 | お母さん
やぢ(お母さんの実家)のうぢは貧乏でなぁ。本当に困ってたんだ。
一銭もお金なんてながったし、あした食う米だってねえごどなんか しょっちゅうだった。
隣の家のおみわさまってばあちゃんが、いい人でなぁ。
家族には内緒で 米だの みそだの 持って来てくっちなぁ、こっそり土間においでぐのさ。
おらいが困ってんの わがってっからだべ。ほんとに、ありがだがったなあ。

わだしらの母ちゃんはな、最初は乳ガンだったのよ。
わだしが小学校に上がる前に病気になったんだよ。
んだがら、小学校の入学式の時は、キクばあちゃん(お母さんの祖母)に連れらっち行ったのよ。
母ちゃんの古~い着物を縫い直してもらって、ばあちゃんが着るような地味~な着物着てな。

今の医大の前身の病院で、手術をうげだのさ。
そんとぎ、本家の嫁さまの実家がおおきな農家でなぁ。そっからお金を借りで、病院の支払いができだんだ。ありがだがったよ。
少しばかり小作で米つぐっでだんだげんちょも、ほんなんでは借金返えさんにがらな、田んぼは返して、おどっさっぁまはカラフトまで出稼ぎに行ったんだよ。樺太だよ、樺太。
どんなきもぢだったんだべなぁ。母ちゃんとばあさまと子どもだぢをおいで出稼ぎにいったんだよ。
んだげんちょも、カラフトの出稼ぎはお金になったんだ。

あの頃はガンなんていっても、今みだいな知識もながったし、そのうぢ治るべなんて思ってだんだな。
1~2年たって、再発してな。入退院の繰り返しさ。
ほんでまだ借金して。
今度は出稼ぎしても間に合わなぐなって、一番上のあんちゃんが本家の嫁さまの実家に(住み込みで)年季奉公に行ったんだよ。
お金では返えさんにがら、働いで返すってごどだべ。
二番目の勇作あんちゃんも、「おら、(小学校)卒業したら、本家の嫁さまの実家にいぐんだ。」って言ってだもんよ。学校の頃がら言い聞かせらっちだんだべ。
それを奥の寝床で聞いでだ母ちゃんが、ボロッ、ボロッ、涙こぼすのを何度も見だよ。
自分のせいで、子どもだぢにつらい思いをさせるって、思ったんだべ。
わだしは まだちっちゃがったがら、奉公にやらんにがったげんちょも、2人のあんちゃんだぢはそうやって働いて、借金返したんだよ。
ほんだげんちょも、(お金が借りられて)ありがだがったよ~。

ほれがら、母ちゃんは全身にガンが転移しちまって、5年間の闘病の末に40歳で亡ぐなったんだよ。
わだしが小学校5年のとぎだった。

わだしは母ちゃんの倍以上生ぎだし、2人のあんちゃんよりも、誰よりも長い生ぎして、一人になっちまった。



この話は何度も聞かされたけど、いつも「涙がボロッ、ボロッ」ってくだりで、こっちまでウルウルになっちまうよ。
昔は、みんな貧乏だったんだよ。



しづちゃん

2017年11月07日 | お母さん
お父さんの友だちのヨウスケさん、あの人に妹がいたんだわ。
しづちゃんって言ってな、
こういっちゃなんだけど、しづちゃんは顔の作りが可愛いぐねがったのよ。
まあ、ブスだな。

同じ組に、せっちゃんっていうお大尽の娘がいてな。
取り巻きに2・3人を連れていて、その子たちが、しづちゃんのことをいじめんのよ。
「このみったぐなし!(醜い)」つって、
雨がザンザンと降ってるのに、水たまりの中にバシャッと何度も突き落としてなぁ。
しづちゃんは泥だらけになってわんわん泣いてるのに、誰も助けねの。
んだって、助けだりしたら、今度はこっちがやられっちまうもの。
そんだがら、だあれも助けらんにのさ。

しづちゃんの家は貧乏で、いつも垢じみた着物を着ていたしな・・・
可哀想だったけど、助けてあげらんにがった・・・
肺炎になって死んじまった・・・

おらいも貧乏で、つぎあてだらけの着物にもんぺで学校に通ってだげんちょも、洗濯だけはちゃんとしてさっぱりとしたの着てたよ。
それに、学校の勉強はできだがら、いじめらんにで済んだのよ。


いじめは、お母さんの頃もチエちゃんの頃も変わらぬ構図だと思った。
今のいじめはもっと陰湿だと聞く。
悲しいけれど、人間はそういう部分も持っている。
たぶん、私の中にも。






アヤコちゃん

2017年10月28日 | お母さん
アヤコちゃん、元気だべが? 今日も戸が閉まってる・・・

整形外科へ向かう途中、母の友だちの家の前を通った時のことである。

アヤコちゃんは、あんなじっちのどこがよかったんだべ!?
結婚もしないで、げんやんっていう歳の離れた人と一緒に暮らしてたんだよ。
げんやんには本妻さんがいて、アヤコちゃんはお妾さんだな。

おらいには車がなくてどごにも行けないだろうからって、よおぐアヤコちゃんに誘わっち、あっちこっちに連れていってもらったげんちょも、げんやん、年取ってるくせに車飛ばすから、おっかなくて嫌だった。

アヤコちゃんがなんでげんやんと知り合ったかっていうとな。
アヤコちゃんは学校を卒業してすぐに、げんやんがやってた建設会社の事務員に就職したんだと。
そんで、東京だの、名古屋だの、大阪だのあっちこち出張があったらしくて、そん時いつもアヤコちゃんを連れて出かけたんだと。
そしたら、出張先では同じ旅館に泊まる訳だべ。自然とそうなっちまったのかなぁ~

アヤコちゃんの家は、母親も村長さんのお妾さんだったんだよ。
ホラ、今信用金庫になってる所に旅館があってな。母親はその旅館をやってたのよ。
あの家は二代続けて、2号さん。なんでだかねぇ~

ほんでも、アヤコちゃん家はお金持ちでな。セーラー服着てたんだよ。
あの頃、セーラー服着てる人は何人もいねがった。
わだしなんて、貧乏だったがら、ツギアテだらけの着物にもんぺで学校に通ってたんだよ。

あの家はさ、げんやんがアヤコちゃんと住むために建ててくっちゃ家なんだ。
大工さまだがら、全部自分で建てたのさ。

げんやんが死んだとき、げんやんの息子のお嫁さんから
「他所の女と暮らしているような人は、うちのお墓に入れることはできません」って言われて、
アヤコちゃん、げんやんを自分の家のお墓に入れたんだよ。

まったぐ、アヤコちゃんときたら、結婚もしないで・・・


そういう生き方もアリだと思うよ。
他人にどう見られようと自分を通すって、なかなかできない。
アヤコちゃんは母の一番のお友だちらしい。



むすめは、いいなあ

2017年09月16日 | お母さん
この前、お父さんの従弟が来てくれてな。
(私は全然知らない人である)
その人はお父さんの葬式の時、具合が悪くて入院してだんだと。
葬式の後で、奥さんがお悔やみをもって線香あげに来てくっちゃんだけどもさ。

クニアキさん(従弟の名)が言うんだっけ。
「いや~、娘はいいない。俺は娘がいなくてがっかりした。
 ほんとに、娘はいいもんだない。」
って、何度も言うんだよ。

たぶん、入院してっ時、同じ部屋の人に娘が来て甲斐甲斐しく世話してくっちゃんじゃないの。
それを見てで、娘はいいなあって思ったんだべ。

息子はイザっていう時には頼りになっけんちょも、細々としたことに気が付くのはやっぱり娘だしなぁ。

クニアキさんに言わっちゃよ。
「あんだは、娘があっからいいない。」

「んだない。近くに娘がいるがら、いろいろやってもらって、ほんとにありがたいと思ってんだ。」
って、ゆったの。

んだがらさ。
私には、あんたがいるからいいげんちょも、
あんだには、娘がいねえがからなぁ・・・


うん。ああ、そうだね。
こればっかりは、どうしようもないじゃん。

三度豆

2017年05月24日 | お母さん
あら~、三度豆 生ったの!!
お父さんが種を蒔いでおいてくれたがら、(こうして食べられるので)ありがたいなあ。
これでお父さんが植えた野菜も全部終わりだな。
あどは畑は作らんに・・・こんなに腰が曲がってはなんにもでぎない。

そう言ってから、お母さんはクックッと笑った。

チエ、おまえは子どもの頃、三度豆がでぎっと、いつも言ってたなあ。
朝も三度豆、弁当にも三度豆、夕飯も三度豆、もうたくさんだ~って。
あの頃はお金が無くてなあ。うぢで作った野菜を食べるしかながったのよ。
もっとも、今みだいにこんなに若いピチャピチャのうぢに採ったりしながった。
実が入ってパンパンになってから採ったもんだったよ。(だから、うまくはなかった)


(あの頃の私は幼くて、1日に三度もさやえんどうが食べられる有難さが分からなかった。
 畑に野菜があることがあまりに普通過ぎて、「普通であること」が本当は奇跡的なことなのだということが理解できなかったんだよ。)


つっけしだんご

2017年05月13日 | お母さん
今日は氏神さまのお祭りだったげんちょも、お父さんがいなぐなっちまったがら今年は出ないって返事したんだ。
もっとも、参加する人もほとんどいなぐなっちまった・・・
お父さんも、最近は掃除には出でだげど、お酒の席は苦手だったから出でながったのよ。

昔は何も娯楽がながったべ?
んだがらお祭りの時、それぞれ家で作った料理なんか持ち寄って、集まって騒いだのさ。
おもしろぐって、の人はみんな楽しみにしてだもんだ。

じいちゃんにおごらっちなあ。
その年の氏神さまのお祭りの時は何にも持だせでやるものが無くて、ばあちゃんに相談したらさつまいもの煮っころがしでも持だせればいいんでないのって言わっち、そうしたら、じいちゃんがプンプン怒って帰ってきてなあ。
「他所の家では、煮物だの、天ぷらだのごちそうをもって来てんのに、おらいだけはあんな芋の煮っころがしなんて恥ずがしくて居らんに!!!」つってなあ。
ちょうどそん時、ばあちゃんと二人で「つっけしだんご」を作っていたどごろだったもんで、
ばあちゃんも(じいちゃんの扱い方が)うまくってな。
「まあまあ、じいちゃん。私らもそう思って、今母ちゃんと二人でつっけしだんごを作ってだどごろだがら。もうちょっと、まってらんしょ」なんて言ってな。

「つっけし(つき返し)だんご」っつうのはな、もち米じゃなくて、ふつうの米の粉で作るだんごだよ。
米の粉をお湯でこねてな、それを小さく千切って丸めたらお湯でゆでて、それからもう一回こねるから手間がかかるのさ。
出来上がっただんごにきな粉をまぶして、持だせだべした。
そうしたら、今度はじいちゃん意気揚々と帰ってきて、
「いや~、あのだんごのおがげで名誉挽回した。みんな、うまいうまいって食ってだ。」
そりゃそうだべ、できたてのふわふわだったんだがらな。
誰もだんごなんて持っていがねえもの。

なあに、あのだんごはさ、もともとはお祭り用に作ぐってだんでなくて、豆腐屋(おばあちゃんの実家)と勇作おんつぁんとご(お母さんの実家)にやるつもりで作ぐってだもんだったのさ。
お祭りにやったもんで、ダメになっちまった。


(チエちゃん的には、芋の煮っころがしでも、だんごでも大差はないように思えるのですが、その時代はだんごの方がごちそうだったのでしょうね  )

お母さんの昭和めもりーず

2017年05月07日 | お母さん
母は一人暮らしになって「話す」ことに飢えているのか、訪問する度に昔話をしてくれるようになりました。
最近、子どもの頃のことなどが鮮明に思い出されるのだと言います。
それは、私の記憶と重なる部分があったり、子どもであったことから記憶違いや理解できなかったことが改めて理解できたりと新鮮な思いがします。

そこで、その話を忘れないためにここに記録しておこうと思い立ち、新カテゴリー「お母さん」を作りました。
近日アップ予定ですので、どうぞお楽しみに!