チエちゃんの昭和めもりーず

 昭和40年代 少女だったあの頃の物語
+昭和50年代~現在のお話も・・・

ようこそ! チエちゃんの昭和めもりーずへ

はじめての方は「チエちゃん」のカテゴリからお読みいただくことを推奨しています。 もちろん、どこからお読みいただいてもかまいません。

第25話 大晦日

2006年12月30日 | チエちゃん
 チエちゃん家では、12月31日には一家総出で大掃除をしました。
ガラス磨きや障子の張り替え(これはもっと前の暖かいうちに済ませることが多かった)、神棚や仏壇の掃除。チエちゃんもがちゃがちゃの自分の机の片付けをしました。

 大掃除が済むと、お父さんは、熊野神社からいただいた歳神様のお札を神棚に貼ります。玄関には松の枝を切って、両側に松飾りを飾り付けます。
台所のガスコンロの上には御札と輪飾り、井戸にも輪飾りを飾ります。
最後に、それぞれにお餅をお供えします。
これが終わると、一段落。

 お母さんは、台所でごちそうの準備です。
この地方では、大晦日を「歳夜(としや)」と言い、おせち料理をいただく習慣があります。チエちゃん家では年越しそばを食べる習慣はありませんでした。
にしんの昆布巻、きんとん、きんぴら、煮しめ、紅白かまぼこ、伊達巻、黒豆、なます、ひたし豆、カレイの煮付け。
そして、この地方のお正月料理に欠かせないものが、「いか人参」です。

いか人参」は、人参をせん切りにしたものと、するめの細切りにしたものを合わせ、しょうゆ1 酒1の割合(これは各家庭により味が異なる、砂糖を適量入れる)の調味料を沸騰させたタレに漬け込んだ、松前漬風のお料理です。

 神棚に手を合わせたあと、揃ってごちそうをいただきます。
おじいちゃんはお酒を飲んでいます。珍しく、お父さんとおばあちゃんも歳夜だからといただいています。チエちゃんとたかひろ君は、三ツ矢サイダーで乾杯です。

 今年は誰がレコード大賞を取るんだろうね。森進一かな?藤圭子かな?
テレビを見ながら、のんびりとした時間が過ぎていきます。
9時になると、お決まりのNHK紅白歌合戦を見ます。
司会は名調子、宮田輝アナウンサー。

 やがて、歌合戦も終了し、除夜の鐘を突く寺院の映像が流れます。
午前零時、新年を迎えました。


 みなさま、良いお年をお迎えください。


(注:これはチエの記憶違いですね。大晦日にお掃除をしていては、一夜飾りになってしまいます 2018.12.31)


お知らせ2

2006年12月28日 | おしらせ
12月27日、Bヲタさんのブログ「昭和ダイアリー」に

「チエちゃんの昭和めもりーず 番外編 チエちゃんの青春」がUPされました。


高校生になったチエちゃんをお楽しみください。

     


みなさんのご感想、思い出などをコメントいただければ、幸いです。



※ 当サイト内に同タイトルの記事を再掲しました。

第24話 もちつき

2006年12月27日 | チエちゃん
 チエちゃん家では、お父さんがお正月休みで帰ってくるのを待って、もちつきをしました。もちろん、臼と杵を使います。
もちつきは28日か30日に行いました。
29日は「九餅(くもち)」と言って、縁起を担ぎ、もちつきをしません。九は苦につながるからです。

 その日、お母さんは朝から大忙しです。
戸外にある竈に大釜をセットして、湯を沸かし、もち米を蒸します。
蒸し上がったもち米を臼にあけ、杵を使い最初はお米粒をつぶすようにこねていきます。蒸し上がったばかりのもち米を臼の中から取って、つまみ食いするととても美味しかったものです。
チエちゃんはこれが大好きでした。
チエちゃんと弟のたかひろくんも、小さな杵を使い、代わる代わるお手伝いをします。
米粒がつぶれたら、いよいよ杵を振り下ろして、ぺったんぺったんとついていきます。
お父さんと、お母さんの息がぴったりと合って、お餅が出来上がりました。

 出来上がったお餅で、最初は鏡餅を作ります。
のし台の上に片栗粉をふっておき、その上にお餅を載せます。お母さんが手際よく、お餅をちぎっていきます。それを丸めるのはおばあちゃんです。
お餅を丸めるには年季がいります。おばあちゃんが丸めると、なめらかで、つるつるとした鏡餅が出来上がりました。
チエちゃんも小さいお餅を丸めてみますが、なかなか上手くいきません。
いつまでも丸めていると固くなって、どうしようもなくなるのでした。
神棚にお供えする分、仏壇の分、竈の分、井戸の分・・・たくさんの神様の分を作ったものでした。

 次につき上がったお餅は、四角の木枠にいれ、のし餅にします。
これは、1日ぐらい置いて固まったものを切り餅にしました。

 お昼には、早速、つきたてのお餅をあんこや雑煮にして、たくさんいただいたものです。

 最近は、餅つき機が登場し、たいへん便利になったのですが、昔ながらの餅つきの方が風情があっていいですね。

お知らせ1

2006年12月25日 | おしらせ
「チエちゃんの昭和めもりーず」は、
チエちゃんこと、私が少女だった頃の
昭和30年代後半から昭和40年代のお話です。


このブログに来てくださった方、せっかくですから、
コメントを残していただければ、たいへんうれしく思います。


さて、この度、私はBヲタさんのブログ「昭和ダイアリー」に、ゲストライターとして投稿させていただくことになりました。


12月27日(水) UPの予定です。

 どうぞ、お楽しみに。


第23話 クリスマスケーキ

2006年12月24日 | チエちゃん
 12月24日は第2学期終業式でした。
お昼前に家に帰ったチエちゃんは昼ごはんを食べた後、まだ冬休みの宿題を始めるでもなく、手持ち無沙汰の午後を過ごします。
みかんを食べながらこたつに入っていると、いつの間にか寝入ってしまいます。
チエちゃんの横ではみぃも丸くなっています。

目を覚ますと、もう午後4時。
あと2時間で、お母さんがケーキを買って帰ってきます。
今夜はクリスマス・イブ。
クリスマス・ケーキを食べる日です。

 チエちゃんの家で、クリスマスにケーキを食べるようになったのはいつ頃のことだったのでしょうか?
気がついたときには、もう習慣になっていました。
キリスト教徒でもない日本の家庭で、クリスマスのお祝い(?)をしたのは、三種の神器と同じようにある種のステータスだったのかもしれません。当時は、お誕生日にケーキを買ってもらったことなど無かったのですから、クリスマスはチエちゃんにとって特別な日でした。今の子どもたちのように、おもちゃのプレゼントなんてありませんでした。それでも、家族揃ってケーキをいただくことが最高の幸せに思えたものです。

 午後6時になると、ケーキを抱えてお母さんが仕事から帰ってきました。

 わあ~、やった~、ケーキだ!

 夕飯のあと、こたつの上にケーキを取り出してお母さんが等分に切り分けます。
それでも、こっちが大きそうだとか、あっちの方が大きそうだと品定めをします。
弟と競うようにして、選んだ一切れには赤いチェリーと緑のアンゼリカがお花のようにのっています。
当時のケーキは、現在のように冷凍技術などが発達していなかったのでバタークリームのものが主流でした。
 弟は、板チョコレートにメリークリスマスの文字が入った一切れを取りました。
おじいちゃんが選んだケーキには、砂糖菓子のサンタがのっていました。
いただきま~す。
サンタを口に入れたおじいちゃんが、ペッ、ペッと吐き出しました。

 なんだ、これは?

何と、おじいちゃんが砂糖菓子と思って食べたサンタは、ろうそくだったのです。
そのあと、みんなで大笑いをしたのでした。



第22話 通知表

2006年12月21日 | チエちゃん
  もういくつねると お正月
   お正月には たこあげて
   こまをまわして 遊びましょう
   はやく 来い来い お正月

 この時期、チエちゃんはお正月と同じように指折り数えて待っていることがあります。
それは冬休み。
たったの2週間しかないけれど、クリスマスもあるし、お正月もある、お年玉も楽しみだし、お父さんも帰ってくる。
あと1週間、あと5日、あと3日。こんな時に限って、カレンダーはなかなか進みません。

 でも、とうとう冬休みの前日、第2学期終了の日がやって来ました。
お楽しみの前には難関があります。
成績表が渡される日です。
 全員で大掃除をした後、体育館で校長先生の2学期最後のお話を聞きます。
そうして、いよいよ通知表が渡される時間です。
順番に名前を呼ばれて、ひとりひとり先生のところへ受け取りに行きます。

通知表を受け取って、こっそり見ている子もいれば、お互いに見せ合っている子もいます。
みつお君に至っては、「おれは、4が1個で、あとは全部3だあ!」とクラス中に聞こえる大声で、報告しています。
だんだんドキドキしてきました。
いよいよチエちゃんの番です。
小木先生は、無表情で通知表を手渡しました。
どうしよう!きっと成績が下がったんだ。
席にもどって、少し開けてみます。
やっぱりダメ。おそろしくて、成績を見ることができません。
誰かに覗かれでもしたら、恥ずかしい。
通知表の中を見ないまま、チエちゃんはさようならをしました。

 帰り道、お友達と別れて一人きりになって、やっとランドセルから取り出しました。
あーっ、成績が下がっていたらどうしよう!
成績が下がったからといって、チエちゃんの両親は怒ったりはしませんでしたが、何となくきまりが悪いというか、勉強せずに遊んでばかりいたと思われないだろうかとか、子どもなりに気を使ったものです。

そっと、開いてみると、「ああ、良かった」これなら何とかなる。
やっと、安堵して家に帰ることができました。

 家に着くと、早速おばあちゃんが「チエ、成績どうだった?」と聞いてきます。

 うん、社会が1つ上がった!

さっきまでの不安は何処へやら、得意気に答えるチエちゃんでした。

そうして、その日の夜はクリスマス・イブなのでした。


   



第21話 年賀状

2006年12月18日 | チエちゃん
 師走15日になると、年賀郵便の受付が始まります。

 お母さんも年賀状の準備を始めました。
チエちゃん家では、年賀状を書くのはいつもお母さんでした。
お父さんは文章を書いたり、お手紙を書いたりするのが苦手ということもありましたが、それより、この時期、お父さんは家に居なかったのです。

 チエちゃん家のような零細農家は、農業収入だけでは食べていくことができません。それで、お父さんは秋の稲刈りが終わると出稼ぎに行くのです。東北地方の農家はどこもこんな風だったと思います。当時の日本では、出稼ぎ者も貴重な労働力でした。チエちゃんの村でも冬は、ほとんどの農家で年寄りと女・子どもが家を守っていました。

 お母さんも家計を支えるため、冬の農閑期はアルバイトをしました。
チエちゃんが小学校低学年のうちは、隣町のそのまた隣町にある缶詰工場に通っていました。後には、村内の漬物工場に勤めていました。

 そんなお母さんが年賀状を書くのは、仕事から帰り、夕飯の後片付けや何やかやの家事を終えたあとの時間です。
年賀状をこたつの上に置き、ボールペンを手にするのですが、なかなかペンが進みません。
そーっとお母さんを見ると、こっくり、こっくり、居眠りをしています。
とうとう、

 ちょっと、寝っから、1時間したら起ごして!

そう言って、こたつでうたた寝をします。
おばあちゃんが、そっと綿入れ半纏を掛けてあげます。

 お母さんが寝ているその横で、チエちゃんも、学校のお友だちや東京の従兄妹たち、仙台のケイ子おねえちゃんに年賀状を書いたものでした。


     


第20話 スバル360

2006年12月15日 | チエちゃん
 担任の小木先生は、チエちゃんが4年生のとき、大学を卒業してやってきた新任の先生です。チエちゃんが小学校を卒業するまでの3年間、お世話になりました。

小木先生の愛車はてんとう虫の愛称で親しまれた〝スバル360〟でした。
このクルマは、フォルクスワーゲン・ビートルを模して作られたと言われ、360CC空冷2サイクル2気筒エンジンがリアにありました。中でもユニークだったのが、ドアが前から後ろへと開くタイプだったことです。昭和33年から45年まで、スバル360が比較的低価格で生産販売されたことから、一般庶民にも車が普及したと言われています。

 180㎝近い長身の小木先生が、体を窮屈そうに縮めて運転している姿はちょっと滑稽でした。先生は、この中古のスバル360を月賦で買ったんだと思います。だって、新採用の安月給取りの教師が、ポンと買えたはずがありません。
そして、このスバルはポンコツでした。時々、故障しては学校のまん前にあった自動車修理工場に預けっぱなしになっていたからです。

 当時、チエちゃんの小学校の先生20人ぐらいの中で、クルマで通勤していた先生は4~5人だったと思います。他の先生たちはバスか、自転車、オートバイなどでした。地元に住んでいた先生も少なくありません。小木先生も小学校のすぐ近くに下宿していたので、スバルを通勤に使っていたわけではありません。

 チエちゃんは小木先生のスバルに乗ったことがあります。
それは家庭訪問のとき、村の地理に不案内の先生を家まで案内したからです。
家庭訪問の期間中、先生は必ず誰かを乗せて行ったものです。

 卒業を間近に控えた6年生の3学期、チエちゃんとナオちゃんは先生に何かプレゼントをしたいと思いました。そして、思いついたのがこの可愛いスバル360のリアウインドウのところに置くクッションを作るということでした。
2人は放課後の裁縫室やナオちゃんの家で、心を込めて作りました。
卒業式の日、2人はそれを先生にプレゼントしました。スバルの後ろに飾ってほしいと言って。

 中学生になったチエちゃんは、リアウインドウに黄色いハート型のクッションを飾ったスバル360を見かけました。

あっ、小木先生、飾ってくれたんだあ。

今思い返すと、全部手縫いで作った、ひどいクッションだったんですけどね。

第19話 支店長令嬢 えみ子ちゃん

2006年12月12日 | チエちゃん
 チエちゃんの村の金融機関といえば、農協と郵便局を除くと、1店の信用金庫です。
 ここの支店長さんの娘、えみ子ちゃんはチエちゃんのクラスメートでした。
色白で、クリクリとした黒目勝ちの大きな目、整った鼻筋のほんとに可愛い子でした。
着ているお洋服は、フリルの付いたブラウスやワンピース、いつも白いタイツをはいていました。
言葉のアクセントも、チエちゃんたちのようなズーズー弁ではなくて、東京弁でした。
えみ子ちゃんはお嬢様なんだなあと、思うチエちゃんでした。
 でも、えみ子ちゃんは気取ったところやお高くとまっているところは全然ありません。結構、おてんばさんで、新任の担任の先生に「おぎジジイ」とか平気でニックネームをつけるのも彼女でした。
天真爛漫なえみ子ちゃんです。

 ある時、チエちゃんはお友だち3・4人で、えみ子ちゃん家に遊びに行きました。
すると、おやつにケーキとジュースが出てきました。
うわあ、やっぱりえみ子ちゃん家はお金持ち。
ケーキなんて、クリスマス以外に食べたことがありません。
えみ子ちゃんのお母さんはキチンとお化粧をして、スカートをはいています。
チエちゃんのお母さんは口紅一つつけず、いつも農作業着を着ています。スカートなんて滅多にはきません。
きれいなお母さんがうらやましいなあ。

こんな事もありました。
使用済み預金通帳に「PAID」とパンチで小さな穴を開けた、そのパンチ屑がほしくて、お休みの日にえみ子ちゃんと信用金庫に行きました。
お父さんが休日出勤していたのかもしれません。
えみ子ちゃんはまるで自分の家のようにスイスイと中に入って、こっちにおいでと手招きをします。
そうして、チエちゃんは初めて裏口から信用金庫の中に入りました。
高い天井、鈍く光る金庫の大きな扉、誰もいないカウンター、お休み日の薄暗い店内はシーンとして不気味でした。
それでも、えみ子ちゃんのお父さんからパンチ屑をたくさんいただいて家路につきました。
今では絶対有り得ないことだと思います。たとえ支店長の家族であろうと部外者を立ち入らせることなんて。お父さんも信用金庫には内緒だったのかもしれませんね。

 5年生になった2学期、えみ子ちゃんはお父さんの転勤で、突然転校することになりました。
最後の日、えみ子ちゃんはクラスのみんなの前で、泣きながらあいさつをしました。
そして、仲良しグループのみんなとも、きっといつか、絶対、絶対、会おうねと約束をしてさよならしたのでした。




第18話 初 雪

2006年12月09日 | チエちゃん
 雪虫を目撃した1週間~10日後には、必ずといっていいほど初雪が降りました。チエちゃんが住む地方は根雪になるほどの雪国ではありませんが、積雪10~20㎝ぐらいの雪が一冬に10回以上は降ります。
あの頃、12月初めの初雪が、思いがけず積雪30㎝ほどの大雪になることがありました。

  ゆきやこんこ あられやこんこ
   降っては 降っては ずんずん積もる
   山も野原も 綿帽子かぶり
   枯れ木のこらず 花が咲く

      ゆきやこんこ あられやこんこ
      降っても 降っても まだ降りやまぬ
      いぬは喜び 庭駆けまわる
      ねこはこたつで 丸くなる   

 すると、担任の小木先生は急遽、時間割を変更して「4時間目は雪合戦をするぞ!」と、粋なはからいをしてくれます。
防寒着に帽子、手袋、長靴と完全武装したチエちゃんたちは校庭に飛び出します。
クラスを敵味方の半分に分け、〝始め〟のホイッスルで一斉に雪玉をぶつけ合います。始めのうちは自分で雪玉を作り、敵に投げつけるのですが、この雪玉を作っているときが格好の標的となってしまいます。熱心に雪玉を作っていると、後ろから忍び寄った敵に襟首から雪を入れられ、
 
 ひゃあ~、 ひゃっこい(つめたい)!

ということになるのです。
そのうち、チーム内で雪玉作りグループと投てき専門グループに分かれることになります。チエちゃんは雪玉作りになることが多かったけれど、ナオちゃん は男の子を相手にして全然負けていません。

 また、チエちゃんたちは日頃の憂さ晴らしに、この時とばかり敬愛を込めて、小木先生に集中攻撃をしたりしました。
こうして、雪まみれで校庭を走り回った4時間目はあっという間に終わってしまいます。

 このあと、ストーブの周りに濡れた防寒着を並べて乾かしながら、給食を食べた後の5時間目は気持ちよくなって居眠りが出てしまうのでした。

 また明日も雪遊びがしたいなと思っても12月はまだ地面が温かく、翌日にはもうぐちゃぐちゃになって所々その名残を残すだけの初雪なのでした。