
箱根温泉の湯に浸かり、運転の疲れを癒し、生ビールとご馳走をいただいた後、私は、ロビー(といっても狭いスペース)のインターネットサービスで、携帯からの投稿が成功したのかブログをチェックしておりました。
そこへ、一人の青年がやって来て、誰も居ないフロントカウンターを覗き込んでいます。
「あの、フロントの人は居ないんでしょうか?」 彼は、私に尋ねました。
「奥に居るみたいだから、大きな声で呼べば、出てくると思いますよ。」
私のアドバイスにしたがって、彼は大きな声で、フロントに声を掛けました。
それから、私はネットに向かいましたが、何しろすぐ側なので、そのやり取りが嫌でも耳に入ってしまいます。
彼は、飛び込みで一夜の宿を求めたようです。それも、所持金も少ないようなのです。
フロントの人も自分では判断できないと思ったのか、年配の支配人を呼びました。
支配人は、彼が自転車の一人旅であることや19歳という年齢を聞き出した後、素泊まりの料金を提示しました。
困ったような表情の彼に、支配人は
「それで、予算はいくらなの?」と訊きます。
「できれば、一万円以下でお願いしたいんですけど・・・」
「それは、出来ないよ。こちらも営業だからね。」
「はい、分かりました。」と言葉を残し、残念そうに彼は出て行きました。
10分後、彼はまた戻ってきました。
「あの、やはり、泊めてください。」
「先程の料金で、いいのかい?」
「はい、お願いします。」
5月に入ったといっても、標高の高い箱根の夜の外気温は10度以下になってしまいます。
それなのに、彼はGパンにパーカートレーナーという軽装です。とても野宿は無理です。
他に宿を探そうにも、疲れきっていたのかもしれません。
素泊まりというもののゴールデンウィーク中の予約無し宿泊料金としては、支配人が提示した額は良心的なものであると、私には思えました。
10分の間に、彼は、今夜の寝床を取るか、食事を取るかを逡巡したのだと思います。
私は、インターネットを終了して部屋に戻り、処分するにはもったいないと残しておいた昼食の残りのおにぎりとサンドウィッチ、清涼飲料をレジ袋に詰めると、急いでロビーへ取って返しました。
そこに、彼の姿はありませんでした。
ああ、もう部屋に案内されてしまったんだ。どうしよう!?
食べ物を持ってきたものの、3時間前に賞味期限は切れてしまっている。
そんなものをあげても、かえって迷惑なのじゃないか・・・
でも・・・、お腹が空いているのなら、彼に食べてもらった方が良いのではないかしらん?
私も、意を決して、フロント奥に声を掛けてみました。
「あの、先程の彼、夕飯は食べたのでしょうか?」
「ああ、お聞きになっていらしたのですか? いえ、食べていませんよ。」
「もし、よろしければ、賞味期限が切れているのですけれど、おにぎりとサンドウィッチを食べてもらおうと思いまして・・・」
「おお!おお!それは、ありがたい。彼も喜ぶと思います。ご一緒に来てください。
捨てる神あれば、拾う神あり。」
私の差し出した食べ物を、「賞味期限が切れていても全然かまいません」と、彼は快く受け取ってくれました。
挨拶もしっかりとした青年でした。
若い頃には、こんな無謀なことをやってしまうものです。
(私には、ひょっとしたら支配人さんも、無謀なことが出来る若さがうらやましくもありました。)
自転車で簡単に箱根越えが出来ると思っていたのか、ゴールデンウィーク中に易々と低料金の宿が見つかると高をくくっていたのか・・・
いずれにしても、今回の出来事は彼を成長させることでしょう。
私の行為は、彼の為になったのか、ならなかったのか?
翌朝8時30分、私たちが出立の時、彼の自転車はまだ旅館の玄関前に止まったままでした。