シネマ見どころ

映画のおもしろさを広くみなさんに知って頂き、少しでも多くの方々に映画館へ足を運んで頂こうという趣旨で立ち上げました。

「グレタ ひとりぼっちの挑戦」(2020年 スウェーデン映画)

2021年11月24日 | 映画の感想・批評


 新型コロナウィルスに続き、地球温暖化の問題が今、世界各国に問われている。先日行われた「国連気候変動枠組み条約第26回締約国会議(COP26)」では、「産業革命前からの世界の気候上昇を1.5度以内に抑えるための努力の追求を決意する」という合意文書が採択された。各国が1.5度という目標を明確に掲げたことは大きな成果なのだが、それぞれの国に課せられた課題には違いがあるようで、まだまだ石炭火力に頼らなくてはならない日本は温暖化対策に後ろ向きだと見なされ、「化石賞」を贈呈されるという不名誉な結果に。今後原子力発電を含め、根本的な見直しが迫られているのは確かだ。
 今から3年前(2018年)、この気候変動に不安を感じ、その対策を呼びかけるために一人で活動を始めたスウェーデンに住む15歳の少女がいた。彼女の名はグレタ・トゥーンベリ。その方法は国会議事堂の前で毎週金曜日に学校を休んでストライキを決行、自作の看板やリーフレットを作り、気候変動に無関心な政府に抗議するというものなのだが、そのやり方が徐々に注目を集め、世界中の特に若者から支持を集めて大きな波に。その年にポーランドで開かれた「COP24」や、翌年の「世界経済フォーラム(ダボス会議)」など、様々な会議やイベントに招かれ、その都度印象強く危機を訴え続けた。
 グレタが一人で座り込みストライキを始めることを友人から聞き、取材に向かったのがネイサン・グロスマン監督。最初は短編作品か子ども活動家のシリーズ物を考えていたそうだが、グレタの活動が他の地域まで広がりを見せるのを実感し、本格的なドキュメンタリー作品を制作することを決意。グレタの行動を撮影するうちに彼女を支える家族たちとも親密な関係を築き、プライベートな面も明らかに。グレタの生い立ちやアスペルガー症候群という障碍を持っていることも躊躇なく表に出し、グレタの人間像を確かなものとしてつかんでいった。撮影や録音もほとんど監督自身が行ったそうで、なんとあの世界中で話題となった「国連気候行動サミット」に向け、ヨットで大西洋を渡ったときも同行し、その過酷な航海の様子をカメラの収めてしまうのだから、その本気度には胸を打たれるしかない。
 コロナ禍で、あれほど大きなうねりとなったグレタの活動もやや波を静めたかに思えたが、今回のCOP26に向けてもしっかり自分の意見を主張し、さらにたくましく成長している姿をTVの報道番組で目にし、頼もしく思えた。一つのことにこだわりを持てばそれが解決するまで決して諦めずに続けられるというのは、アスペルガー症候群を持つ人の一つの特徴だそうだが、本人も語っているように、そのことは地球の未来のためにはよし!と思っているとか。それでは自分はいったい何ができるか考えてみたが、今回映画館には車で直行せず、電車と徒歩で向かうことにした。これでガソリン10リットルを燃やしてできる二酸化炭素を排出せずに済む。たしかに些細なことなのだが、一人ひとりが意識してこういう些細なことを積み重ねることで、少しでも地球温暖化防止に協力できることを気づかせてくれた、ドキュメンタリー作品としての価値が十分に認められる作品だ。
(HIRO)

原題:I Am Greta 
監督:ネイサン・グロスマン
脚本:ネイサン・グロスマン、ハンナ・レヨンクヴィスト、ぺーる・K・キルケゴー
撮影:ネイサン・グロスマン
出演:グレタ・トゥーンベリ、スヴァンテ・トゥーンベリ、マレーナ・エルンマン

「モロッコ、彼女たちの朝」(2019年 モロッコ、フランス、ベルギー)

2021年11月17日 | 映画の感想・批評


モロッコというと思い出すのは、やはり「カサブランカ」ハンフリー・ボガードとイングリット・バーグマンの名作。大学生時代に初めて見て、北アフリカの乾いた町を知った。
ほかにも、まだ見ていないが、マレーネ・デートリッヒ主演、その名も「モロッコ」が有名。
いずれも、西欧社会の側から見た、訪問者としてのモロッコの姿。
映画以外では、アルガン油やガスールという粘土(クレイ)の産出地として、その名を知るだけで、アラブ社会の宗教観も生活慣習も、遠い異国の地。
今作品は日本でおそらく初、モロッコ人による作品として商業公開された。

カサブランカの旧市街地、こみいった路地を臨月の大きなお腹と小さな荷物を抱えてさまよう、若いサミア。美容師の仕事を失い、今夜の宿と仕事を求めて一軒ずつ戸を叩いて回る。「掃除でも炊事でも何でもします!」相手にしてくれる家はない。路上で眠る彼女をほっておけなくなったパン屋の女主人アブラが「一晩だけ」と招き入れてくれる。
アブラの娘のワルダは明るい色の服を着るサミアに惹かれ、結局しばらく居候を許される。ワルダにとってはこれは大変な決意。日本以上に、未婚の母になろうという女性の立場はとても過酷なもの、そんな女性を保護するのは未亡人のワルダにとって世間体は悪い。
アブラは夫を亡くしてからワルダとの生活を守るため、心も閉ざして必死で働いている。服装も黒いものだけ。小麦粉を納品する男性がアブラを慕っているようだが、当然知らん顔をしている。ワルダに勉強を教えるときだけ笑顔が浮かぶが、ワルダは母の苦労を知っているから甘えることもできない。
そんな緊張感の続く母子の生活に、サミアが現れたのだ。働き者のサミアは恩返しにと、手間暇のかかるモロッコの伝統的なパンを作る。この光景がとても官能的なのだ。パン生地をこね、伸ばす手先の美しさ、リズム。うっとりと見惚れてしまった。
 娘のワルダという名は、アブラが好きだった歌手の名前。戸棚にあったカセットテープテープを見つけたサミアが情熱的な歌に合わせて踊っていると、ワルダが「パパが亡くなってからママは一度も聞いてない、早く止めないと」
サミアはあえて、夫との思い出の曲をアブラに聴かせる。アブラは激しく拒否する。アブラの手を押しとどめ、ダンスにいざなうサミア。この時の二人の姿もとても官能的。抵抗しながらもやがて、体がリズムに合わせて揺れだし、踊り始めるアブラ。音楽とともに心が解きほぐれていく。ようやくその晩、夫の最期を語ることができたアブラ。宗教上の理由から妻であっても夫の遺体に触れることすら許されず埋葬されてしまったという。アブラの怒りと絶望。宗教って、何のためにあるんだ。
その日を機に、アブラも変わり始める。祭りに備えて、アイメイクを丹念に入れていく姿の美しさにはゾクッとする。

いよいよ、サミアのお産が始まる。サミアは我が子をすぐに養子に出すつもりでいる。民間の養子あっせん組織に託しては危ないとアブラに指摘されるが、今は祭りで役所は休業中、頼りにならない。
生まれた子に目を向けないサミア。触れようともしない。おっぱいを求めて泣き続ける赤ちゃん。情がわいたら養子に出せなくなることを恐れているのか。胸が締め付けられる。
オキシトシン(催乳ホルモン)の力に逆らえなくなったか、ついに嬰児を抱きしめ、おっぱいを含ませる姿には思わず体が熱くなった。
サミアは坊やに「アダム」と名付ける。「最初の人間」、イスラム社会では「最初の預言者」の意味も持つらしい。この名前が映画の原題。サミアは翌朝、アダムを胸に抱き、ひっそりとアブラの家を出ていく。
さて、自分で育てるのか、養子に出すのか。サミアとアダムの未来に幸あれと祈るしかない。

女性監督自身の体験に基づいて描かれたオリジナル作品という。イスラム社会の女性の姿を静かに、そして力強く描いている。
若いサミアの着ている服が明るく、美しい。ブルー、黄色。あれ、小さな荷物のどこにいくつもの着替えが入ってたの?と思いつつ。
カサブランカの古い町の路地、埃りっぽさを感じさせる一方で、アブラの家の中での、フェルメールの絵画のような色と光の使い方も美しい。アブラの店で売るパンの珍しさやサミアの作るルジザも食べてみたい! 15年ほど前に行った地球博のモロッコ館で飲んだ、甘いミントティーの味を思い出しながら。強力な疲労回復があったっけ。
おっぱいを含ませるシーンは、若き日に読んだ宮本百合子の小説「乳房」の哀しい1シーンも思い出させてくれる。

9月末に、NHKの「あさイチ」で紹介されている。この日、主演映画「総理の夫」の宣伝に出演していた中谷美紀が、「朝からこんな素晴らしい作品を紹介してもらえるとは」と涙をこぼして感動していた。その姿に感化され、翌週、朝早くから電車に乗ってアップリンク京都に駆け込んだのに、満席で見ることができなかった。テレビの影響か!?
デイサービスから帰ってくる夫をしれっと迎える為にはこの時間しかないと言うのに!
泣きました!
翌週、初のネット予約に挑戦して、無事に見ることができた。期待値マックス、十分に応えてくれた。
同日夕方に、前回紹介した「空白」をはしご!
今年のベストテンに絶対入れたくなる作品を1日で見ることができた、充実の日でした!
(アロママ)

原題 ADAM
監督、脚本 マリヤム・トゥザニ
撮影 アディル・アユーブ
主演 ルブナ・アザバル、ニスリンエラディ、ドゥア・ベル・ハウダ


「燃えよ剣」(2020年日本映画)

2021年11月10日 | 映画の感想・批評
 天領、武州多摩の有力な百姓の家に生まれた土方歳三は義兄の佐藤彦五郎が設けた天然理心流道場の「バラガキ」だ。武州では暴れん坊をバラガキと呼んだらしい。手に触れるとケガをする茨の垣という意味だ。道場主は、近隣の同じ百姓出身の近藤勇である。天然理心流は江戸にも道場を構える。ふたりは旧来の仲であり、道場に通う江戸の浪人士族の子弟が二十歳になる沖田総司であった。
 土方は原作を読むと背が高かったとある。実物は写真で見る限り細おもての美男子だが、岡田準一は背丈も顔が濃いのもちょっと違う。近藤はいかつい王者の風格がある。そうして、司馬遼太郎は沖田を口元が可愛く、「ちょっと色小姓にしたいような美貌」と表現している。いわゆる愛されキャラだ。山田涼介が原作どおりの立ち居振る舞いで周囲のむくつけき男どもを和ませる沖田を好演した。
 映画の立て付けは、明治の初頭に北海道に渡って榎本武揚を支えた土方が幕府顧問のフランス軍士官に、その半生を語るという趣向である。
 大部の原作を150分とはいえコンパクトにまとめあげた。映画の大筋は公的な史実である。その一方に私的なエピソードとして語られるのが土方とお雪という女のロマンスだ。お雪は司馬の創造した登場人物である。長編小説では邪魔にならないエピソードも映画となると全体の流れのなかで、もたつきを感じてしまう。なにしろ、要所要所で激烈を極めて血しぶきの乱れ飛ぶ剣戟場面が用意されていて、岡田は身体能力に優れているから剣の裁きは板についている。剣戟の合間に交わされるふたりの秘めやかな交流は気晴らしともいえる。原田眞人は「日本のいちばん長い日」でも同じ手法を用いた。しかし、私にはどうもこの色恋は蛇足だったような気がしないでもない。
 倒幕を警戒する徳川政権は、孝明天皇をかつごうと京に集まった尊皇攘夷派を駆逐するため、会津の松平容保に命じて京の守護に当たらせる。至誠篤実の人であった容保は朝廷の信頼を得て孝明帝じきじきの手紙まで授かる。こうして、将軍家茂の入洛の道筋がつき、のちに新選組となる浪士組は将軍警護のために京に派遣され、その後は会津藩をアシストする役目を担う。
 当初、新選組結成の流れをつくった論客の清河八郎は、入洛した途端に尊皇攘夷を主張して佐幕派の近藤らとたもとを分かち、幕府方に討たれてしまう。  
 近藤とともに局長を務めた水戸浪士の芹沢鴨は酒乱癖があって乱暴狼藉の限りをつくす。やがて新選組のお荷物になり、あまりの無法者ぶりにほとほと手を焼いた近藤と土方は、芹沢粛清を決断する。日頃から芹沢にことのほか可愛がられていたのが亡弟に似ているという沖田である。身近に置いて離さないほどの可愛がりようである。土方から芹沢粛清の計画を明かされた沖田が「芹沢さんがかわいそうです」といっておきながら、「私に斬らせてください」と申し出るところは、この若者の芹沢に対する愛情があらわれていてなかなか意味深長だ。
 また、元来尊皇派の山南敬助は新選組総長という名誉職に祭り上げられて不満を募らせ、かねてからそりの合わなかった副長の土方と衝突した挙げ句、置き手紙を残して脱走を企てるのである。沖田は土方に山南追捕を命じられて、「取り逃すかも知れませんよ」と捨て台詞を吐く。結局、山南は発見され沖田の介錯で切腹するが、実は原作の設定では沖田を弟のように可愛がっているのは芹沢ではなく山南で、沖田もまたこの学才の人となりをひそかに敬愛していたという。だから山南も追っ手が可愛い沖田では抵抗する様子もなく、侠気を見せて素直に連れ戻されたらしい。切腹の場面で、山南が介錯のタイミングをじらして「まだまだ、まだまだ」と意地をはるのも、沖田の手前カッコイイところを見せたかったからであろう。刀を振り上げた沖田が見るに見かねて首をはねる場面は音だけで見せなかったのが、余韻を残してよい。
 こうした新選組内部の権力闘争は伊東甲子太郎一派粛清と続き、池田屋の変などの歴史的事件とともに、この映画の見せ場となっていて、政治の好きな人にはさぞおもしろかろうと思う。(健)

監督・脚本:原田眞人
原作:司馬遼太郎
撮影:柴主高秀
出演:岡田準一、柴咲コウ、鈴木亮平、山田涼介、伊藤英明、尾上右近、山田裕貴

「ロバータ」(1935年 アメリカ映画)  

2021年11月03日 | 映画の感想・批評
 映画史上最高のダンシングペアとされるフレッド・アステアとジンジャー・ロジャースの共演第3作。2人は1933年から39年の間にRKOで9作、1949年にMGMで1作のミュージカル映画を撮っていて、その多くは記録的な興行成績を打ち立て、大恐慌の余波に苦しむ大衆に夢と希望を与えた。観客はアステアとロジャースの華麗な歌とダンスに魅了され、ジェローム・カーンやアーヴィング・バーリンの楽曲に酔いしれた。このコンビの最高傑作としてしばしば名前が挙げられるのは「トップ・ハット」(35)と「有頂天時代」(36)であるが、筆者には本作「ロバータ」(35)が深く印象に残っている。
 ハック(フレッド・アステア)はダンスバンドを引き連れてインディアナ(米国)からパリへ来たが、手違いでナイトクラブとの契約が交わせなくなってしまった。同行しているハックの友人ジョン(ランドルフ・スコット)が助けを求めて、高級洋装店<ロバータ>のオーナーである叔母を訪ねると、そこに叔母のアシスタントをしている亡命ロシア貴族ステファニー(アイリーン・ダン)がいた。ジョンはたちまちステファニーに恋をしてしまうが、ステファニーには男性の影がある。一方、<ロバータ>の顧客にはシャルウェンカ伯爵夫人(ジンジャー・ロジャース)と名乗るポーランド貴族がいて、服の好みにうるさくいつも店員を困らせていた。偶然シャルウェンカを見たバンドリーダーのハックは彼女が故郷の恋人リジ―であることに気づく・・・ストーリーは1930年代に流行したスクリューボール・コメディに近く、アイリーン・ダンとランドルフ・スコットの恋愛のドタバタを中心に、アステアとロジャース、アイリーン・ダンが「I’ll Be Hard to Handle」「Smoke Gets in Your Eyes」「I Won’t Dance」「Lovely to Look At」を歌い踊る。
 アステアは単に俳優・歌手・ダンサーとして作品に登場するだけではなく、振付・撮影・録音・編集を含むダンスシーン全般の演出にも関わっていた。本作「ロバータ」から振付師ハーミーズ・パンの協力を得ながら自ら振付を考案するようになったと言われており、この作品にはアステアのミュージカル映画に対する哲学が典型的に表れている(アステア自身はダンス哲学を語ることに消極的であったが・・・)。アステアは当時流行していたバスビー・バークレーに代表される群舞中心のミュージカルから、ソロやデュエット中心のミュージカルへとミュージカル映画を変革した。バークレーは万華鏡のように動く群舞を真上から撮るバークレー・ショット(軍事訓練からヒントを得ている)で有名で、大掛かりな舞台装置と華麗な集団の舞踊をロングショットやクローズアップを織り交ぜながら、細かいカット割でつないでいった。
 それに対してアステアはできる限りカットを割らず、ダンサーと振付の全体像が見える長回しのフルショット(全身)撮影を好んだ。ダンス技術を見せることを主眼とし、不必要な舞台装置と過剰な演出を取り除いた。「カメラが踊るのか、私が踊るのか」とアステアはバークレーとの違いを強調している。失敗が許されない長回しのフルショットはダンサーの自信と美学の表れであり、観客に心地よい緊張感と集中力をもたらす。初期のロジャースとの共演作である「空中レヴュー時代」(33)や「コンチネンタル」(34)ではまだこの方法が徹底されてはいないが、3作目の共演作である本作以降の作品にはアステアの哲学が全面的に反映している。
 更にバークレーのようにダンス場面をストーリーとは直接関係のないスペクタクルとして見せるのではなく、歌やダンスをストーリーラインと一体化させ、歌やダンスによってプロットを展開させようとした。世界初の純粋なミュージカル映画と言われている「ブロードウェイ・メロディー」(29)はこの手法に基づいて作られている。「ロバータ」ではエレガントな「Smoke Gets in Your Eyes」のダンスパフォーマンスの後に2組のカップルの愛が成就するシーンがきて、その後に「I Won’t Dance」に乗せた軽快なダンスが続く。ダンスがプロットを動かし、愛の感動がそのままダンスの躍動感として表れている。ダンスの熱狂がストーリー上のクライマックスと重なり、感動を抱えたまま映画は終わりを迎える。
 ジンジャー・ロジャースはアステアとのコンビでは上品で勝気なお嬢さん役を演じることが多いが、本作や「気儘時代」(38)のコメディエンヌぶりは忘れがたい。真面目な貴婦人もコミカルな田舎娘もセクシーな踊り子も違和感なく演じられる稀有な女優でありダンサーである。本作の「I’ll Be Hard to Handle」や「艦隊を追って」(36)の「I’m Putting All My Eggs in One Basket」,「有頂天時代」の「Pick Yourself Up」では楽しく軽やかにアステアと踊っている。2人は本当に楽しんでいるように見える。演技なのか、自然なのか、2人の顔には満面の笑みがこぼれている。ロジャースは自伝の中で「二人ともダンスを楽しんでいた」「私たちが楽しんでいるのは誰の目にも明らかだろう」と書いているが、2人のウキウキ感が伝わってきて、観客も幸せな気分になってくる。もちろんその陰には厳しい練習の積み重ねがあるのだろうが、そんな苦労をいささかも感じさせないほど2人のダンスは軽快で、優雅で、喜びに溢れている。アステアはエレノア・パウエルが相手役だと技の競い合いのようにムキになるし、シド・チャリシーだと芸術を意識しすぎて硬くなってしまう。アステアのパートナーはやはりロジャースだ。
 「ダンスには何の制約もあるべきではない」とアステアは自伝の中で語っている。つま先を内向きにしてはならないという類のルールを強制されることが嫌で、バレエには身を投じなかったとも書いている。すべて自己流でやってきたことを誇らしげに語るアステアは、ダンスによって何かを証明したいわけでもなく、ダンスによって自己表現をしたいわけでもないと言う。何の制約もなく自由に楽しく踊ること、それがアステアとロジャースのダンスなのだ。(KOICHI)

原題:Roberta
監督:ウィリアム・A・サイタ―
脚本:ジェーン・マーフィン  サム・ミンツ  アラン・スコット
撮影:エドワード・クロンジェイガー
出演:アイリーン・ダン  フレッド・アステア  ジンジャー・ロジャース