シネマ見どころ

映画のおもしろさを広くみなさんに知って頂き、少しでも多くの方々に映画館へ足を運んで頂こうという趣旨で立ち上げました。

「セプテンバー5」(2024年 アメリカ・ドイツ)

2025年02月26日 | 映画の感想・批評
 ミュンヘン・オリンピックの「黒い九月事件」を扱っています。
 この事件は2005年にスティーヴン・スピルバーグが「ミュンヘン」という題名で映画化しており、それなりの評価を受けました。
 アメリカの三大ネットワークといえばNBC、CBS、ABCをさしますが、ミュンヘン五輪の放映権を獲得したのはABCでした。映画は一貫してABCの取材に当たる人々の複数の視点を通して事件報道の顛末をセミドキュメンタリ・タッチで描きます。スピルバーグ版がモサド(イスラエルの情報機関)の視点で書かれた原作を下敷きにしていることを頭に置いてこの映画を見ると、見え方が明らかに違ってきます。
 「報道とは、マスコミの役割とは何か」を鋭く問うており、とりわけマスメディアで仕事をする人に見てもらいたい作品だと思いました。のみならず、返す刀でマスメディアから情報を享受する立場にあるわれわれに対しても、事実を知りたいのか、スキャンダラスな話題を求めているだけなのか、受け手の倫理をも問いかけているとわかり、背筋が伸びる思いをしました。
 ミュンヘン・オリンピックが開催されたのは1972年8月26日からですが、ちょうど10日を過ぎた中盤の9月5日に事件は起きます。明け方に徹夜仕事を終えたスタッフがそのまま当日の準備にかかろうとしたとき、選手村で銃声がして緊急車両が集まりだしたという情報が入る。第二報はイスラエルの選手団がPLOの「黒い九月」と名乗る集団に人質にとられたというのです。押し入った際にコーチら2名を射殺したらしい。要求はパレスチナの政治犯らと人質を交換するというものでした。イスラエル政府は頑として交渉を拒否します。こうして事態は膠着したまま時間だけが過ぎて行きます。西ドイツは第二次大戦のホロコーストの後ろめたい罪科を背負っていて、ミュンヘンの地で再びユダヤ人の血が流されることを恐れています。そのうえでテロリストの要求をどこまで受け容れるのか、難しい選択を迫られていました。
 冒頭からラストまで一気呵成に物語は進んで見る者を飽きさせません。
 現地に駐在しているのはスポーツ部ですから、「お前らは素人だ。引っ込んでろ」とばかりに本社の報道部が取って代わろうとしますが、現地の責任者は事実を伝えるというスポーツ・ジャーナリストの矜持にかけて報道部との交替を拒みます。
 占拠された部屋のバルコニーでテロリストが人質の選手を連れ出し頭に銃を突きつけて警官隊に何か怒鳴っている。アンカー(事件報道の中継を仕切り、取りまとめるリーダー役)がその様子を向かいの建物からキャメラで撮ることを思いつく。同僚のひとりが「自分の息子が殺されるところを見たいと思う親がいるのか」と詰め寄る場面で、報道の在り方を巡る最初の衝突が描かれます。
 中継キャメラが、テロリストの立てこもる建物の屋根にライフル銃を手に持った警官が下の様子をうかがう姿を映し出す。アンカーはスクープ映像にご満悦ですが、選手村のテレビが国際放送も視聴できる仕様になっていることに気づいたときはあとの祭り。突然、西ドイツの警官隊が武装したままスタジオになだれ込んできて、クルーに銃を突きつけ「なんということをしてくれたんだ。すぐに放送をとめろ!」と怒鳴りちらす場面は圧巻です。アンカーの指示が警察の作戦を台無しにしてしまい、どこまでが報道の許される範囲なのか、考えさせます。
 きわめつけは、膠着状態がとけて現場で動きがあったあと、人質が解放されたという噂を真に受けたアンカーがスクープ欲しさに速報しようとするのを同僚が「裏をとれ」といって阻みますが、これを無視して上司の了解を取り付け速報してしまう。他のメディアも追随しますが、人質全員死亡の公式発表を聞いてクルー一同が悄然となります。世紀の大誤報です。その脱力感がよく出ていました。
 客観性の故にスピルバーグ作品を上回る出来だと、ぼくは評価します。(健)

原題:September 5
監督・脚本:ティム・フェールバウム
脚本:モーリッツ・ビンダー、アレックス・デヴィッド
撮影:マルクス・フェーデラー
出演:ピーター・サースガード、ジョン・マガロ、ベン・チャップリン、レオニー・ベネシュ、ジヌディーヌ・スアレム

「どうすればよかったか?」(2024年 日本映画)

2025年02月19日 | 映画の感想・批評
 統合失調症の姉とその両親を映画監督である弟が記録したドキュメンタリー。両親は共に医学部を卒業した研究者で、父は細胞膜の研究では名の知れた人だった。姉は4年かけて医学部へ進学するも思うように進級できず、25歳頃に統合失調症と疑われる病に罹る。両親は最初に診察した医師が入院・治療の必要はないと言ったことを理由に、娘を入院させず自宅で療養させた。
 弟は早くに家を出ていたため、両親と姉の三人暮らしが続く。姉は精神状態が不安定になると支離滅裂なことを言ったり、大声を上げたりして家族を困惑させた。ひとりで外へ飛び出して事故や事件に巻き込まれないように玄関に南京錠が掛けられたこともあった。そんな暮らしが25年も続くが、母親が認知症になったのをきっかけに初めて姉は入院して治療を受けた。三カ月で寛解して家に帰ってきた時には笑顔が戻っていた。しばらくして母親が亡くなり、父親と姉の二人暮らしになる。父と旅行に行ったり花火を楽しんだり、穏やかな日々が続くが、やがて姉が癌に侵されていることがわかる・・・

 映画監督である弟の視点から撮られたドキュメンタリーで、おそらく観客の多くはどうして両親は25年間も姉を医療機関につながなかったのかと不審に思うであろう。入院して薬を吞み始めてからの様子を見ると、明らかに以前より表情が穏やかになっている。おそらく受診前は幻聴に苦しんでいたのであろう。両親は最初に診た医師が治療の必要がなかったと主張するのだが、そこには伝統的な精神医学に抗議した1970年代の反精神医学(精神医学の治療の有害性を指摘)運動の影響があったのではないか。また姉が発症した1983年頃には精神科病院内で虐待によって患者が亡くなる事件が起きており、患者の人権を無視した精神科医療が社会問題になっていた頃だ。両親が懸念していたのは単なる世間体だけではないように思える。この当時使われていた精神分裂症という呼称(2002年まで使用)も偏見に拍車をかけたのではないか。この作品は家族の視点からばかり描かれていて、社会的視点が足りないような気がする。そうはいっても、もっと早く服薬していれば姉はあれほど苦しまなかったかもしれないと思うと、答えは簡単ではない。
 インタビュー等での監督の発言によると、両親は子供の進路についてあれこれ指図したりすることはなく、子供の自由意志を尊重したらしい。両親は姉に愛情深く接しているように見えるし、虐待をするような親には見えない。姉が統合失調症を発症したのは親の過干渉や圧力が原因とは思えない。監督によると姉は父親が大好きでとても尊敬していたらしい。おそらく両親の期待を忖度し、また自身も両親のような研究者になりたいという願望があって、同じ研究者の道を歩みたいと希望したのだと思う。
 玄関に掛けた南京錠のシーンが何度も出てくるが、玄関から出ていくことはできなくても窓から出ていくことはできるので、完全な監禁とは言えない。座敷牢とは違う。南京錠は外に飛び出して事件や事故に巻き込まれるのを防ぐためのもので、実際に姉は家を脱け出して海外にまで行ったことがあるようだ。ただ長期間外出させなかったことは、自由を制限したと批判されても仕方がないと思う。
 姉の葬儀のシーンはインパクトがあった。死顔がモザイクなしで映し出されているのに驚いた。縁者たちが棺の中に思い出の品物を次々に入れていく時、父は姉と執筆した共同論文を棺の中に入れた。このシーンを「父のエゴイズム」「姉は喜んでいない」という見方もあるかもしれないが、案外姉は満足していたのではないか。姉にとって父は目標であり、父と連名で書かれた論文はまさに姉の夢そのものだと思う。父と姉には他者が入いることができない強固な絆があったのではないかと感じる。
 監督は父が葬儀の挨拶で「有意義な人生を送ったのではないか」と言ったのを聞いて、「姉が亡くなった瞬間に姉の人生を書き換え始めている」と感じたとコメントを残している。確かに有意義な人生どころか、統合失調症に苦しみ続けた人生であったと思うが、家族の愛情には恵まれていた。薬物治療を始めた50歳頃から62歳で亡くなるまでの12年間は、幻聴や妄想がやわらいだのか、表情が穏やかに見える。受診後も服薬を拒否したり、コンビニで警察沙汰になったりするような事件を起こしてはいるが、以前に比べると状態は落ち着いている。病気は完治していないとしても、大好きな父親の側で暮らせて、姉は意外と幸せを噛みしめていたのではないか。(KOICHI)

監督:藤野知明
制作:淺野由美子
撮影:藤野知明  淺野由美子
編集:藤野知明  淺野由美子

「ザ・ルーム・ネクスト・ドア」(2024年 スペイン映画)

2025年02月12日 | 映画の感想・批評
 作家のイングリッド(ジュリアン・ムーア)は、新作のサイン会で、暫らく疎遠になっていた友人マーサ(ティルダ・スウィントン)が、重い病に侵され入院していると、偶然知った。早速、見舞いに行くと、長らく会っていなかったからか、マーサの娘や別れた夫の話を深く色々聞いた。そうする内に、マーサから、治療の回復が見込めなくなり、闘病の苦しみに耐えるのがつらいので、「安楽死」を望んでいることを知らされる。更に、自分が死を迎える時は、戦場カメラマンとして孤独に仕事をしてきたので、最期は、人の気配を感じていたいので、隣の部屋に居てほしいとの願いを聞かされることになる。悩んだ結果、マーサの要望を受け容れることにしたイングリッドは、マーサが借りた森の中の大きな家で暮らし始める。マーサは、「ドアを開けて寝るが、もし、ドアが閉まっていたら、“決行”したと思ってほしい」と伝え、二人の生活が始まるのである。
 「安楽死」の是非や法制度を問う作品ではない。自分の最期に向き合うことで、今までどう生きてきたのか、今この瞬間をどう生きるのかを問いかける作品だ。ふたりの女優の演者としての生き様と、一個人としての生き様が、交錯しているからなのか、凛とした佇まいが、画面からひしひしと伝わってくる。演技で創り出したものに加え、内面から湧き出るものが多いように感じた。それだけ、自分は「生きている」「生きてきた」という自負があるのだろう。他人の生き方を批判することなく、自分なりに受け止め、認め合う。この二人の立ち振る舞いは何の濁りもなく、カッコよく観えた。鑑賞する側の背筋がピンと一本の筋が通る気持ちになった。また、最期を迎える服装や化粧も、奇抜な色彩に思えたが、鮮やかで、”決行”を後押ししてくれているようにも感じた。
 ネット情報だが、海外では「安楽死」が認められている国があるようだが、劇中でも、「違法的に薬物を入手した」とあったように、認められている国でも、該当するのかどうか揺れているようでもある。因みに、日本では認められていない。個人の自己決定権が馴染んでいないのが理由の一つとあったが、確かに、マーサの娘がマーサにいった「It’s your choice」という言葉が強く印象に残った。自分がどう思う、どうしたいということが重要な海外では当たり前なのか。その行き過ぎに警鐘を鳴らす為か、元恋人で今のイングリッドの恋人であるダミアン(ジョン・タトゥーロ)に、特定の国をイメージさせる会話シーンがあった。今、その国は、4年間の大統領任期に入ったばかり。世界はどうなることやら。そのシーンも印象深く残った。
(kenya)

原題:La habitacion de al lado
監督・脚本:ペドロ・アルモドバル
撮影:エドゥ・グラウ
出演:ティルダ・スウィントン、ジュリアン・ムーア、ジョン・タトゥーロ、アレッサンドロ・ニボラ、ファン・ディエゴ・ボト、ラウル・アレバロ、ビクトリア・ルエンゴ、アレックス・ホイ・アンデルセン、エスター・マクレガー、アルビーゼ・リゴ、メリーナ・マシューズ

「サンセット・サンライズ」(2025年 日本映画)

2025年02月05日 | 映画の感想・批評
 2025年は昭和100年にあたる。昭和の時代に思い入れのある人にとっては感慨深いものがあるだろう。相変わらず日本列島はあちこちで揺れ続けウィルスも蔓延り、足元はおぼつかない。それでも希望を持って生きていきたい。「泣き笑い移住エンターテインメント」と銘打った本作は、良質なヒューマン・コメディ。新しい年の始まりに思い切り笑える作品である。
 宮城県の南三陸地方の架空の町、宇田濱が舞台である。地方の人口流出や過疎化の問題に、震災後は空き家問題も深刻化している。町役場で空き家問題を担当する百香(井上真央)は、手始めに自宅のはなれを貸し出すことに。4LDK・家賃6万円・家具家電完備の一軒家という神物件に一目惚れした晋作(菅田将暉)が、リモートワークは絶好のチャンスと早速お試し移住を始める。憧れの釣り三昧だと「釣りバカ日誌」的な動機だが、東京の企業に勤める晋作は仕事は出来る様子で、このフラットさが作品全体の大きな魅力になっている。
 コロナの2週間の隔離期間中、晋作はこっそり釣りに出掛け地元民とも交流をもつ。噂はあっという間に拡がり、居酒屋の店主ケン(竹原ピストル)を中心とする「モモちゃんの幸せを祈る会」のメンバー達に警戒される。どんな奴だどこで知り合った、もう同棲じゃないかとすっかり噂が大炎上。そんな中、諸々のディスタンスをぎゅっと縮めていくのが南三陸の食の数々。ケンが次々と出してくる料理を晋作が舌鼓を打ち食べるシーンは本当に美味しそうだ。なかでもメカジキのハモニカ焼きが目をひく。等間隔に並んだ筋の形がハモニカに似て、両手で掴んで食べる姿がハモニカを吹いている様に見えることから命名されたようだが食欲をそそる。「もてなしハラスメントだ」との場面は爆笑ポイント。会話が南三陸の方言で進んでいくのもいい。こっち来いの「こ」、食ってみろの「け」など、わずか一言で日常会話が交されるのが楽しい。
 晋作の会社が空き家に目をつけ、住民を巻き込んで空き家活用プロジェクトに乗り出す。東京からのチームと東北チームが鍋を囲んで語り合う。この東北独自の芋煮会は重要なシーンだ。晋作の言葉が胸に迫る。「ただこの町に生まれなかっただけなのに何でこんなに切ないんですか。外の人間はどうしていいか何が正解か分からなくて。」それに対してケンが「ただ見でればいい。たまに見に来ればいいんでない」と。故郷の宮城を離れて久しい脚本家宮藤官九郎の、優しい視点が滲んでいるシーンだ。
 借りている家の秘密を知った晋作は、自分の好きを諦めない生き方を選択し、周囲の人々の人生をも変えていく。地方の問題を考える時には、百香のような地元を良く知る人間と、晋作のようなフラットな考えのよそ者のどちらも必要なのだということがこの作品を通じて良くわかる。自分が居る狭い行動範囲だけではなく、未知の場所へと続く心の扉を開くことが人生を豊かにしていくのだと、この作品は語っている。
 俳優陣が各々に素晴らしい。劇中に登場する素敵な水彩画は菅田将暉作!(春雷)

監督:岸善幸
脚本:宮藤官九郎
原作:楡周平
撮影:今村圭佑
出演:菅田将暉、井上真央、竹原ピストル、山本浩司、好井まさお、藤間爽子、茅島みずき、白川和子、ビートきよし、半海一晃、宮崎吐夢、少路勇介、松尾貴史、三宅健、池脇千鶴、小日向文世、中村雅俊