シネマ見どころ

映画のおもしろさを広くみなさんに知って頂き、少しでも多くの方々に映画館へ足を運んで頂こうという趣旨で立ち上げました。

「千夜、一夜」       (2022年 日本映画)

2023年02月22日 | 映画の感想・批評
 港町の水産工場で働く登美子(田中裕子)は30年前に失踪した夫を待ち続けていた。登美子を慕う幼なじみの春男(ダンカン)がどれほど想いを打ち明けても、周囲の人間が春男との再婚をいくら勧めても、登美子は婚姻関係を解消せずに夫を待ち続けている。一人暮らしの登美子は仕事から帰ると、誰もいない家の中に向かって「ただいま」とつぶやく。そんな毎日が続いていた。
 登美子のもとを2年前に失踪した夫を捜す奈美(尾野真千子)が訪れた。最初は夫の洋司(安藤雅信)がいなくなった理由を求めていた奈美だが、やがて職場の男性と恋愛関係になり、新しい人生を希望するようになった。登美子はある街で偶然写真で顔を知っていた洋司を見つけた。洋司は「消えてしまいたかった」と言うが、失踪した理由は判然としない。登美子は何故か洋司を見つけたことを奈美には知らせなかった。夫の捜索を早々と諦めた奈美に反発を覚えているのであろうか。奈美のもとを突然訪れた洋司は彼女の恋人と鉢合わせとなり、2年ぶりの再会は修羅場と化してしまう。奈美は離婚して現在の恋人と再婚することを宣言し、洋司は奈美のもとを去った。
 奈美はさっさと失踪した夫を見限ったのに、なぜ登美子は30年間も夫を待ち続けるのか。ここがこの映画の最大の謎であり、また監督の一番伝えたいところでもあるのだろう。登美子は自分に想いを寄せる春男をけして嫌いなわけではない。むしろ好意を抱いていると言ってもいいだろう。しかし春男の愛はどうしても受け入れられなかった・・・謎は意外なところから解き明かされた。奈美に追い出された洋司が一夜の宿を求めて登美子の家を訪れた時、深夜に目を覚ました洋司は奇妙な光景を目にする。誰もいない部屋で登美子が誰かに話しかけている。失踪したはずの夫と会話しているのだ。登美子の頭の中では夫は帰ってきている。妄想と幻覚の中で夫と暮らしていたのだ。おそらく登美子は長い間、夫の帰りを待つうちに、心のバランスを崩してしまったのだろう。
 「私、狂ってるから」と登美子がつぶやくシーンがある。登美子自身も自分の異常(?)に気づいているのかもしれない。精神を病んでも夫と一緒にいたいという愛のobsession(強迫衝動)を表現して余りある。波打ち際を歩くラストシーンは、まるで狂気と正気の境界線上を生きる登美子を象徴しているかのようだ。(KOICHI)

監督:久保田直
脚本:青木研次
撮影:山崎裕
出演:田中裕子 尾野真千子 安藤雅信 ダンカン

「イチケイのカラス」(2023年 日本映画)

2023年02月15日 | 映画の感想・批評
 漫画~テレビドラマ~映画の流れを受けたフジテレビ系の本作品。私は、黒木華出演だったから、テレビドラマは、見ていた。実際にそんなドラマチックな場面あるのかなあと思いながらも、楽しく見た記憶があったので、観に行った。メインの出演者、監督、脚本も同じキャスト・スタッフなので、安心して観られた。俳優陣のセリフで、人間関係がテレビドラマを未見の人にも分かるように考えられている。本作品も、事件に真摯に向き合い、率直な違和感や疑問を基に、地道に解決に進んでいく、真実に辿り着くその姿・過程が良かった。
 改めて、「イチケイのカラス」とはどういう意味だったのか。ネット検索してみた。「イチケイ」とは、“地方裁判所の第1刑事部”の略。「カラス」とは、八咫烏(ヤタガラス)で、烏に足が3本ある烏のこと。2本が通常だが、3本ある。所説あるようだが、「天」「地」「人」を表すようだ。すべてがバランス良くということだろうか。それで思い出したのが、商売をするものなら誰しも大事にしなくてはいけない3か条。「売り手良い・買い良い手・世間良し」。それも3か条。3点はバランスが良いのだろうか。改めて、感じた。
 それに反し、本作品の地元愛に溢れる同級生達は、大人になるにつれ、バランスが崩れていった。しかも、その崩れが、自分達の勝手な論理で、正当化されていた。それを疑いもしない。万が一、それは間違っていると思っても、とても言えない。
 小さな世界(殻)に長年居ると、その殻が常識となる。広い世間から俯瞰してみると、常識ではない。そこが、中に居ると分からない。違う世界を見る意識をする心構えをもつことは大事だと感じた。それが、裁判官の「カラス」と繋がるのか。でも、裁判所の判断って、一般市民に寄り添っているのか疑問に思う時もあるが・・・。その改善策が、裁判員制度なのか・・・。
 自分の正義(軸)をどこに持つのか。どうそれを維持するのか。テレビドラマ→映画の勢いだけの映画ではなく、軸足をしっかりとした映画だった。黒木華を観たいという気持ちが先行していた自分は強くは言えない???
(kenya)

原作:浅見理都『イチケイのカラス』
監督:田中亮
脚本:浜田秀哉
撮影:四宮秀俊
出演:竹野内豊、黒木華、斎藤工、山崎育三郎、柄本時生、西野七瀬、田中みな実、桜井ユキ、水谷果穂、平山祐介、津田健次郎、八木勇征、尾上菊之助、宮藤官九郎、吉田羊、向井理、小日向文世

「そして僕は途方に暮れる」(2022年 日本映画)

2023年02月08日 | 映画の感想・批評
 名字の一部分を取って「ガヤ」と呼ばれているKis‐My‐Ft 2の藤ヶ谷太輔の主演作品である。TVのバラエティ番組ではスマートな立居振舞が印象的だが、これまでに見たことがない役柄に挑戦し新たな魅力を放っている。過去に三浦大輔監督の舞台で同じ役を演じているが表情や細やかな所作の中に映像ならではの見どころがある。
 冒頭、寝ている裕一(藤ヶ谷太輔)の足元には紐で束ねられた雑誌が。キネマ旬報だ。かつては映画青年だったようだが、今はフリーターで無為な生活を送っている。長年同棲している里美(前田敦子)が裕一の朝食を作って仕事に出掛け、帰宅すると食べ残しの朝食はテーブルの上に置かれたまま。里美に生活態度をなじられ今後の事を話し合おうと迫られたとたん、裕一はあっという間に荷物をまとめて部屋を飛び出してしまう。全速力の自転車が夜の街に吸い込まれていく。
 同郷の親友の伸二(中尾明慶)の部屋に転がりこむが、勝手気ままに振る舞う裕一にキレた伸二を見て、またもや逃げ出す。バイト先の先輩の田村(毎熊克哉)、大学の後輩加藤(野村周平)、姉の香(香里奈)の所を渡り歩き、ついには夜行バスとフェリーを乗り継ぎ、苫小牧の実家で一人暮らす母の智子(原田美枝子)の元へ辿り着く。
 裕一は逃げる度に後ろを振り返り、振り返る度に頬がこけていく。藤ヶ谷太輔は殆ど出ずっぱりであり、徐々にやつれていったのは撮影のハードさを物語っている。人は他者という鏡を通して自分を知り、他者との関係を断ち切ることは自分を客観的に見る手段を失うことでもある。最果ての地で最後の手段の母の元からも逃げ出し、途方に暮れる裕一が出会ったのは、10年前に家族から逃げて行った父の浩二(豊川悦司)。皮肉にも、ここで裕一は父の姿の中に自分の姿を見いだすことになる。
 ある事を契機に、裕一は出発点に戻ることになる。父親との共同生活の中で無為に過ごしたクリスマスイブを境に、裕一をとりまく状況は一変していた。それはありうる事件であり、ある意味自業自得でもあるが、裕一は再び部屋を飛び出す。
 夜の街で振り返った裕一の口元が最後には少し笑っているように見える。藤ヶ谷太輔の表情が秀逸だ。この時、苫小牧で浩二が裕一に放った言葉がどこからか聞こえたような気がした。「面白くなってきやがったぜ」と。
 この作品にはある発見があった。喉仏である。成人男性にある喉に突き出ている骨だが裏側に声帯がある。かつての大映映画スターの市川雷蔵は喉仏が醸し出す独特の口跡がすこぶる魅力的で、その形も美しく大人の俳優としての魅力にあふれていた。藤ヶ谷太輔の喉仏にもその片鱗が見られる。これからが楽しみである。
 エンディングに大澤誉志幸の「そして僕は途方に暮れる」が流れる。40年前にヒットした曲だが今でも色褪せない。作詞は銀色夏生だが、楽曲は「そして」の接続詞がつくことで一気に物語性を帯びる。この作品のタイトルにぴったりである。(春雷)

監督・脚本:三浦大輔
原作:シアターコクーン「そして僕は途方に暮れる」(作・演出 三浦大輔)
撮影:春木康輔
出演:藤ヶ谷太輔、前田敦子、中尾明慶、毎熊克哉、野村周平、香里奈、原田美枝子、豊川悦司


「エンドロールのつづき」 (2021年 インド・フランス映画)

2023年02月01日 | 映画の感想・批評
 

 映画賞の季節がやってきた。今年はインド映画が注目を浴びている。3時間の大活劇「RRR」は昨秋の公開以来客足が衰えることなく、現在も続映中。ドルビーシネマで上映するところも出てきて、ボルテージは上がるばかりだ。アメリカでも好評で、今年度アカデミー賞の作品賞候補となっている。一方、アカデミー賞国際長編映画賞のインド代表作品となったのがこの作品。内容はインド版「ニュー・シネマ・パラダイス」といったところだが、ティストは少し違った。
 主人公のサマイはインドの田舎町で暮らす9歳。駅のそばにある父親が経営するチャイ店を手伝いながら元気に学校に通っている。ある日、父親が家族そろって「最後の映画」を観に行こうと申し出る。普段は映画のことを品性に欠けると考えていた父だったが、信仰するカーリー女神の映画とならば、“これが最後"と決めて観に行こうというのだ。このことがサマイが映画と出合うきっかけとなるのだが、実はこの作品、映画大国インドでも有名なパン・ナリン監督の自伝的作品でもあるのだ。自ら“世界で一番の映画ファン”と語っているパン・ナリン監督、最後の方で敬愛する監督達の名前を挙げてオマージュを捧げるのだが、各所にその監督達の作品の名場面がちりばめられていて、それを見つけ出すのも楽しみの一つとなっている。例えば、子どもたちが移動手段として自転車を使うのだが、思わずS・スピルバーグの「E.T.」を思い出してしまったし、列車に乗ってすっくと立った所ではD・リーンの「旅情」を、S・キューブリックの「2001年宇宙の旅」の音楽も聞こえてきたし、勅使河原、黒沢、小津と日本の監督の名も登場し、さてどの場面で出てきたのかと気になったりして、これはもう一度観なおして確かめるしかない。その作品を見ていなければわからない“映画ファン"だけの贅沢なお楽しみでもあるのだが・・・。
 今までなかなか接することがなかったインドの文化や風習が味わえるのもいい。一つ気になったのは、父親が自分はバラモンの出身だと明かすところ。調べてみると、インドのカースト制度には大きく分けて4つの分類(バラモン、クシャトリア、ヴァイシャ、シュードラ)があり、バラモンは神聖な職に就けたり、儀式を行える最も上の階級だとか。カーストは親から受け継がれるだけで誕生後に変更はできない。ただ、現在の人生の結果によっては、次の生で高いカーストに上がれるという考え方なのだ。結婚も同等の身分どうしで行われるのが通例なので、母親もバラモン出身ということがわかる。この母親が作るインドの家庭料理が色鮮やかで、実に美味しそう!スパイスのいい香りがスクリーンからはみ出してきそうだ。サマイが学校をサボって映画館通いができたのも、母親が作ってくれた弁当のおかげ。映写技師の舌と心を捉えてしまったこの弁当、よほど上質な味だったに違いない。
 光が生み出す魔法の芸術・映画にすっかり魅了され、自分も映画を作ってみたいと思うようになるサマイに転機が訪れる。インドの映画界にもデジタル化が押し寄せ、昔ながらの映画館はつぶれ、映写機やフィルムも再生される運命に。父は自分がかなえられなかった夢に向かって、サマイを広い世界へと旅立たせる。その旅立ちのシーンが秀逸で、特に遊び仲間が悲しそうに、そして半分羨ましそうに見送るシーンが印象的だ。「ひまわり」~「少年時代」~「祭りの準備」と、列車が登場する別れの名場面が次々と頭の中をよぎっていった。
 (HIRO)

原題:LAST FILM SHOW
監督:パン・ナリン
脚本:パン・ナリン
出演:バヴェイン・ラバリ、ディペン・ラヴァル、リチャー・ミーナー、バヴーシュ・シュマリ