シネマ見どころ

映画のおもしろさを広くみなさんに知って頂き、少しでも多くの方々に映画館へ足を運んで頂こうという趣旨で立ち上げました。

「憂国」(1966年 日本映画)

2020年11月25日 | 映画の感想・批評
 新婚ゆえに二・二六事件の決起に誘われなかった武山信二中尉(三島由紀夫)は、逆に仲間たちを叛乱軍として討たなければならなくなった。中尉は懊悩の末、自決を選ぶことを決意する。妻・麗子(鶴岡淑子)は共に死ぬ覚悟であることを夫に告げる。死までのひととき中尉と麗子は激しく互いの肉体を求め、<最後の営み>を享受する。深い交情の後、中尉は割腹自殺を遂げ、夫の死を見届けた妻は自害する。
 三島由紀夫が自決して50年にあたる今日、彼の代表作「憂国」を通して三島の作品と人生を考えてみたい。小説が書かれたのは1961年で、その5年後に製作、監督、脚色、主演を三島自身が務める形で映画化されている。三島は能の集約性と単純性を映画に取り入れ、リアルなセットは組まず、白を基調とした能舞台を設けた。後方の壁には「至誠」と書かれた大きな軸が掛けられていて、本舞台は橋掛かり(長い廊下)で麗子の部屋とつながっている。台詞のない無言劇で、物語はすべて巻物に書かれた文章で説明され、全編に流れるワーグナーの「トリスタンとイゾルデ」が荘厳な印象を与えている。能の様式は登場人物にも反映し、軍人精神そのものである中尉はシテに、麗子はワキに当たると三島自身が川喜多かしことの対談で語っている。中尉が軍帽をかぶったままで一度も顔の表情を見せないのは、軍帽がシテの面の代わりをしているためである。原作の英語題名は「Patriotism(愛国心)」だが、映画は「The Rite of Love and Death(愛と死の儀式)」というタイトルに変えられていて、こちらの方が作品の特徴をよく表している。
 原作には三島の終生のテーマであった<愛と美と死>が描かれており、特にエロティシズムの描写がすばらしい。映画では<最後の営み>の場面は互いの体を愛撫するシーンをアップでつないでいて、全身で絡むフルショットのカットがない。裸の二人が寄り添っているところも如何にもぎこちない。小説では若い二人の愛欲、殊に性の喜びを知った麗子の欲望が赤裸々に描写されているが、映画では冒頭に妻が夫の愛撫を思い出すシーンがやや控えめに描かれているのみで、全体的に性表現は抑制的でロマンティックなものになっている。
 <最後の営み>の場面に比して切腹のシーンはすさまじく、血しぶきが飛び散り、血だまりができ、腸が飛び出してくるところはリアルでグロテスクだ。他の場面が儀式的・様式的なものになっているのに比して、切腹の場面の生々しさはいささか違和感を覚えるほどである。傍らで妻は苦しみもがく夫の姿を黙って見つめている。中尉は止めに刀で喉を刺そうとするが、固い軍服の襟がすぼまってうまく刺せない。夫の背後にまわり、刃先が入るように襟元を開いてやる妻の姿は悲しくも美しい。小部屋で最後の化粧をして再び本舞台に戻った麗子は、血のついた中尉の唇を拭い接吻する。そして帯から懐剣を抜き、夫にやさしい眼差しを向けた後、刃先を強く喉の奥に刺し通した。
 原作は<死とエロティシズム>を描いた作品として出色の出来であるが、武山中尉の大義とは如何なるものであったのかという疑問が残る。仲間たちを叛乱軍として討伐しなければならないことに苦悩し自決したが、天皇に対する大義を重んじるならば討伐するのが道理ではないか。中尉は私的な絆を天皇への忠誠以上に重視している。筆者には中尉の大義とは自決のための口実のように思えてならない。自決することが先にあり、大義は後から付けた理由ではないか。そもそも自決は愛と死のテーマを描くためのモチーフ(動機・題材)であり、モチーフに整合性をもたせるために、大義を必要としただけなのでは・・・そんな疑問が浮かんでくる。
 三島由紀夫が太宰治を嫌っていたのは有名な話である。三島は大正期から昭和初期に流行した「私小説」に否定的で、行為や行動を報告するだけで自己分析をせず、本質に迫ろうとしない文学であると批判していた。太宰の文学を私小説の延長だと考え、作品を書くために破天荒な私生活を送る太宰の生きざまにも懐疑的であった。三島はやがて「仮面の告白」で同性愛者の自己分析の書を描くことになるが、興味深いことに三島自身が太宰治と同様の道を辿るようになる。
 作品には作者の人生体験が何らかの形で反映しており、人生は作品に少なからず影響を与えている。ところが太宰も三島も、いつ頃からか、原因と結果が逆転し、人生が作品を後追いするようになる。作者自身が現実社会の中で小説の主人公を演じるようになり、作品が人生に決定的な影響を与えるようになった。ここに文学の陥穽がある。作品と人生の整合性を保とうとする余り、作者は主人公と同じ道を歩むようになってしまった。
 「仮面の告白」や「禁色」で描いた主人公を三島自身が演じるようになり(三島は本来同性愛者ではないと思われる)、「憂国」や「奔馬」(豊饒の海)の主人公のように切腹して果てた。三島の行動原理はある種の芸術至上主義であり、自決によって自らの作品を完成させたとも言える。実人生が作品に追いつき、作品と人生が幸福な調和を果たしたとき、それはまた三島由紀夫という壮大なドラマのフィナーレでもあった。(KOICHI)

監督:三島由紀夫
脚本:三島由紀夫
撮影:渡辺公夫
出演:三島由紀夫 鶴岡淑子



「おらおらでひとりいぐも」 (2020年 日本映画)

2020年11月18日 | 映画の感想・批評


 1年延期となった東京オリンピック、バッハIOC会長が来日し、菅首相と会談。開催に向けての強い決意が示されたが、果たして実現なるか?!
 話は変わって1964年、日本で初めてオリンピックが開催された年、20歳の桃子は気の向かないお見合いの席から抜け出し、身一つで岩手から上京してきた。あれから55年、結婚して子どももでき、幸せな日々を過ごした後、やっと夫婦水入らずの生活ができると思っていた矢先に突然夫に先立たれてしまい、今は孤独な一人暮らし。図書館で本を借り、病院へ行き、地球46億年の歴史ノートを作る。こんな孤独な日常がこれから先も続くのかと思っていると、突如桃子の“心の声”が「寂しさたち」という分身となって現れる。
 63歳で作家デビューを果たし、本作で芥川賞と文藝賞をW受賞した若竹千佐子の同名小説を「モリのいる場所」の沖田修一監督が映画化。沖田監督、今回も高齢者にはとことん優しい。ちなみに若竹千佐子は1954年(私と同年)岩手県遠野市生まれ。桃子と同じように上京して二人の子どもを育てたが、55歳で夫を亡くし、悲しみに暮れて、自宅に籠もる日々を送っていた。見かねた息子に勧められた小説講座に通い、主婦業の傍ら本作を執筆したそうだから、かなり自伝的な部分もありそうだ。題名の「おらおらでひとりいぐも」は同郷出身の宮沢賢治の詩「永訣の朝」の一節からきているそうで、教員志望だった若竹氏らしい選択が何とも微笑ましく、「おらは一人で生きていっても大丈夫だ」というメッセージが、方言だからこそより深く伝わってくる。
 桃子を演じるのは15年ぶりの主演となる田中裕子。実年齢よりも10歳年上の設定だが、桃子になりきった姿に「あの姿はまさに私」と共感できる方も多いことだろう。原作では「柔毛突起」と表現される桃子の心の声を「寂しさ1.2.3」、暗い気持ちを「どうせ」等と擬人化したのもユニーク。寂しさも一人じゃなくていっぱいいた方が賑やかでいいし、どの寂しさたちもユーモラスなところがまた救われる。
 一人だけれども一人じゃない。地球が誕生して46億年の歴史と比べてみれば、一人の人間の歴史なんてたかが100年。短い間だけれど、楽しかった思い出といっぱいの寂しさに支えられながら、最後に得られるのは圧倒的な自由!!これって、幸せなのかも。それを納得しつつ、「私は私らしく一人で生きていく」のだ。
 (HIRO)

監督:沖田修一
脚本:沖田修一
撮影:近藤龍人
原作:若竹千佐子
出演:田中裕子、蒼井優、東出昌大、濱田岳、青木崇高、宮藤官九郎、田畑智子、鷲尾真知子

<パンフレットの表紙>


「罪の声」(2020年日本映画)

2020年11月11日 | 映画の感想・批評
 

 塩田武士原作のグリコ森永事件を扱った同名小説を基に製作されたフィクション。脅迫テープに使われた声は自分の声だったと偶然気付いてしまう星野源演じる主人公と、その時効になった事件の真相を追い求めるように厳命が下されたやる気のない新聞記者を小栗旬が演じるダブル主演映画。
 星野源の真面目なキャラクターと小栗旬の少しチャラいキャラクターとが、本作品の人物設定に合致していて、違和感なく観られた。二人とも、それぞれの特徴が出ていて、星野源はどんどん追求していって、かなり自分を追い込んでいくタイプ。脅迫テープの存在を見つけた後の行動は、コツコツと自身で確実に調べ上げ、母親との会話にも揺るぎない自信と相手を吐露させる圧倒感を感じさせた。その圧倒感は、母親に対する愛情に反する憎しみだが、それを、見事に映し出していた。もちろん、母親役の梶芽衣子の迫真に迫る演技がそれを成立させたと思う。短い時間の出演だったが、とても印象に残った。本作の見所の一つだと感じた。
 また、小栗旬は、最初は、何事にも無気力の新聞記者だったが、世間が忘れた事件を掘り起こすことで何があるのかと疑問を持ちつつも、上司や先輩に当時の状況を無理やり聞かされ、口うるさく言われ、取材を進めることで、自らが気付かなかった事件に隠れる人の存在意義が分かり出すことで、真相を追求しようと動き出す役柄に感情移入してしまった。因みに、ネタ晴らしに繋がるが、ロンドンに2回取材に行った際の小栗旬の演技は、監督の演出力と脚本の力も大きいと思われるが、素晴らしいと思う。特に2回目のロンドン取材の際の会話。これぞ映画と思った。
 未解決事件の真相に迫るというサスペンスをベースにした筋書きに、男同士の絆と親子の絆の人間関係を複雑に絡ませ、俳優陣のキャラクターに合わせた演出で味付けをしたエンターテイメント作品だと思う。長尺の映画だが時間は気にならない。「鬼滅の刃」の一人勝ち状況に負けるな!!!
(kenya)

監督:土井裕泰
脚本:野木亜希子
撮影:山本英夫
出演:小栗旬、星野源、市川実日子、梶芽衣子、阿部純子、宇崎竜童、松重豊、古舘寛治、篠原ゆき子、原菜乃華、火野正平、正司照枝他

「82年生まれ、キム・ジヨン」(2019年 韓国)

2020年11月04日 | 映画の感想・批評

 原作は韓国で2016年に刊行され、発売されるや多くの女性の共感を呼びミリオンセラーとなった。世界22ヵ国・地域でも翻訳され、2018年には日本語版も刊行された。キムは韓国で最も多い姓で、ジヨンは1982年生まれの女性に一番多い名前だそうだ。ありふれた名前を持ったことで、悩み、心が傷つき病んでいるのは主人公キム・ジヨン一人の特別な物語ではなく、キム・ジヨンはどこにでもいるという思いが伝わり、世界の多くの女性読者の心を掴んだのだ。
 韓国でも正月と盆は一家が集まる大切な祝祭日である。キム・ジヨンが大学の先輩だった夫のデヒョンと2歳の娘アヨンとともに、釜山の夫の実家へ帰省するところから映画は始まる。最近ジヨンの調子が良くないことを心配するデヒョンは帰省を中止しようと言ってくれるが、嫁の立場ではそうはいかない。帰省を終えて帰ろうとしたところへデヒョンの姉一家が帰省して来る。食事の用意を始めたジヨンが突然「うちのジヨンを実家に帰してください」と言い出す。ジヨンの母そのものの口調で、デヒョンが心配していた現象だった。
 戸主制度が廃止された韓国だが今も男児が大切にされる傾向がある。姉と弟の3人姉弟で育ったジヨンの子どもの頃から、父方の祖母や叔母は特に弟を可愛がってきた。義母や義姉がアヨンに「女の子は可愛い」と何度も言う場面があるが、「早く男の子を産みなさいよ」と暗に催促しているのではと勘繰ってしまう。
 大学を卒業して就職しても、女というだけで昇進は見込めない。さらに、結婚・出産・子育てはそれまで培ってきたキャリアを中断、あるいは捨てさせる。子育てのため退職したジヨンも社会に取り残された気分に陥り次第に心が壊れていき、夫の実家で憑依という形で現れた。面と向かって口に出せず胸にため込んできた不平不満、その他諸々の思いやストレスを吐き出すのに、憑依という他人が乗り移るというか他の人格に変わる形で、女性の生きづらさを可視化した。優しさゆえに空回りしたこともあるデヒョンだが、ジヨンを通して娘アヨンの将来を考えれば、社会は変わらなければと気づいたはずだ。
 映画ではジヨンの精神科医は女性だが、原作では男性だ。本の最後で彼が書いたカルテの言葉を読んだ時、「ジヨンの何を診てきたのか」と失望し、腹立ちとも諦めともつかない気分になった。原作者は簡単には変わらない、甘くない現実社会を書いた。だが映画は原作とは違うラストを用意している。ぜひ原作も併せて読んでほしい。(久)

原題 :82년생 김지영
監督:キム・ドヨン
脚本:ユ・ヨアン
原作:チョ・ナムジュ
撮影:イ・ソンジェ
出演:チョン・ユミ、コン・ユ、キム・ミギョン、コン・ミンジョン、キム・ソンチョル、イ・オル、リュ・アヨン、イ・ボンリョン