新婚ゆえに二・二六事件の決起に誘われなかった武山信二中尉(三島由紀夫)は、逆に仲間たちを叛乱軍として討たなければならなくなった。中尉は懊悩の末、自決を選ぶことを決意する。妻・麗子(鶴岡淑子)は共に死ぬ覚悟であることを夫に告げる。死までのひととき中尉と麗子は激しく互いの肉体を求め、<最後の営み>を享受する。深い交情の後、中尉は割腹自殺を遂げ、夫の死を見届けた妻は自害する。
三島由紀夫が自決して50年にあたる今日、彼の代表作「憂国」を通して三島の作品と人生を考えてみたい。小説が書かれたのは1961年で、その5年後に製作、監督、脚色、主演を三島自身が務める形で映画化されている。三島は能の集約性と単純性を映画に取り入れ、リアルなセットは組まず、白を基調とした能舞台を設けた。後方の壁には「至誠」と書かれた大きな軸が掛けられていて、本舞台は橋掛かり(長い廊下)で麗子の部屋とつながっている。台詞のない無言劇で、物語はすべて巻物に書かれた文章で説明され、全編に流れるワーグナーの「トリスタンとイゾルデ」が荘厳な印象を与えている。能の様式は登場人物にも反映し、軍人精神そのものである中尉はシテに、麗子はワキに当たると三島自身が川喜多かしことの対談で語っている。中尉が軍帽をかぶったままで一度も顔の表情を見せないのは、軍帽がシテの面の代わりをしているためである。原作の英語題名は「Patriotism(愛国心)」だが、映画は「The Rite of Love and Death(愛と死の儀式)」というタイトルに変えられていて、こちらの方が作品の特徴をよく表している。
原作には三島の終生のテーマであった<愛と美と死>が描かれており、特にエロティシズムの描写がすばらしい。映画では<最後の営み>の場面は互いの体を愛撫するシーンをアップでつないでいて、全身で絡むフルショットのカットがない。裸の二人が寄り添っているところも如何にもぎこちない。小説では若い二人の愛欲、殊に性の喜びを知った麗子の欲望が赤裸々に描写されているが、映画では冒頭に妻が夫の愛撫を思い出すシーンがやや控えめに描かれているのみで、全体的に性表現は抑制的でロマンティックなものになっている。
<最後の営み>の場面に比して切腹のシーンはすさまじく、血しぶきが飛び散り、血だまりができ、腸が飛び出してくるところはリアルでグロテスクだ。他の場面が儀式的・様式的なものになっているのに比して、切腹の場面の生々しさはいささか違和感を覚えるほどである。傍らで妻は苦しみもがく夫の姿を黙って見つめている。中尉は止めに刀で喉を刺そうとするが、固い軍服の襟がすぼまってうまく刺せない。夫の背後にまわり、刃先が入るように襟元を開いてやる妻の姿は悲しくも美しい。小部屋で最後の化粧をして再び本舞台に戻った麗子は、血のついた中尉の唇を拭い接吻する。そして帯から懐剣を抜き、夫にやさしい眼差しを向けた後、刃先を強く喉の奥に刺し通した。
原作は<死とエロティシズム>を描いた作品として出色の出来であるが、武山中尉の大義とは如何なるものであったのかという疑問が残る。仲間たちを叛乱軍として討伐しなければならないことに苦悩し自決したが、天皇に対する大義を重んじるならば討伐するのが道理ではないか。中尉は私的な絆を天皇への忠誠以上に重視している。筆者には中尉の大義とは自決のための口実のように思えてならない。自決することが先にあり、大義は後から付けた理由ではないか。そもそも自決は愛と死のテーマを描くためのモチーフ(動機・題材)であり、モチーフに整合性をもたせるために、大義を必要としただけなのでは・・・そんな疑問が浮かんでくる。
三島由紀夫が太宰治を嫌っていたのは有名な話である。三島は大正期から昭和初期に流行した「私小説」に否定的で、行為や行動を報告するだけで自己分析をせず、本質に迫ろうとしない文学であると批判していた。太宰の文学を私小説の延長だと考え、作品を書くために破天荒な私生活を送る太宰の生きざまにも懐疑的であった。三島はやがて「仮面の告白」で同性愛者の自己分析の書を描くことになるが、興味深いことに三島自身が太宰治と同様の道を辿るようになる。
作品には作者の人生体験が何らかの形で反映しており、人生は作品に少なからず影響を与えている。ところが太宰も三島も、いつ頃からか、原因と結果が逆転し、人生が作品を後追いするようになる。作者自身が現実社会の中で小説の主人公を演じるようになり、作品が人生に決定的な影響を与えるようになった。ここに文学の陥穽がある。作品と人生の整合性を保とうとする余り、作者は主人公と同じ道を歩むようになってしまった。
「仮面の告白」や「禁色」で描いた主人公を三島自身が演じるようになり(三島は本来同性愛者ではないと思われる)、「憂国」や「奔馬」(豊饒の海)の主人公のように切腹して果てた。三島の行動原理はある種の芸術至上主義であり、自決によって自らの作品を完成させたとも言える。実人生が作品に追いつき、作品と人生が幸福な調和を果たしたとき、それはまた三島由紀夫という壮大なドラマのフィナーレでもあった。(KOICHI)
監督:三島由紀夫
脚本:三島由紀夫
撮影:渡辺公夫
出演:三島由紀夫 鶴岡淑子
三島由紀夫が自決して50年にあたる今日、彼の代表作「憂国」を通して三島の作品と人生を考えてみたい。小説が書かれたのは1961年で、その5年後に製作、監督、脚色、主演を三島自身が務める形で映画化されている。三島は能の集約性と単純性を映画に取り入れ、リアルなセットは組まず、白を基調とした能舞台を設けた。後方の壁には「至誠」と書かれた大きな軸が掛けられていて、本舞台は橋掛かり(長い廊下)で麗子の部屋とつながっている。台詞のない無言劇で、物語はすべて巻物に書かれた文章で説明され、全編に流れるワーグナーの「トリスタンとイゾルデ」が荘厳な印象を与えている。能の様式は登場人物にも反映し、軍人精神そのものである中尉はシテに、麗子はワキに当たると三島自身が川喜多かしことの対談で語っている。中尉が軍帽をかぶったままで一度も顔の表情を見せないのは、軍帽がシテの面の代わりをしているためである。原作の英語題名は「Patriotism(愛国心)」だが、映画は「The Rite of Love and Death(愛と死の儀式)」というタイトルに変えられていて、こちらの方が作品の特徴をよく表している。
原作には三島の終生のテーマであった<愛と美と死>が描かれており、特にエロティシズムの描写がすばらしい。映画では<最後の営み>の場面は互いの体を愛撫するシーンをアップでつないでいて、全身で絡むフルショットのカットがない。裸の二人が寄り添っているところも如何にもぎこちない。小説では若い二人の愛欲、殊に性の喜びを知った麗子の欲望が赤裸々に描写されているが、映画では冒頭に妻が夫の愛撫を思い出すシーンがやや控えめに描かれているのみで、全体的に性表現は抑制的でロマンティックなものになっている。
<最後の営み>の場面に比して切腹のシーンはすさまじく、血しぶきが飛び散り、血だまりができ、腸が飛び出してくるところはリアルでグロテスクだ。他の場面が儀式的・様式的なものになっているのに比して、切腹の場面の生々しさはいささか違和感を覚えるほどである。傍らで妻は苦しみもがく夫の姿を黙って見つめている。中尉は止めに刀で喉を刺そうとするが、固い軍服の襟がすぼまってうまく刺せない。夫の背後にまわり、刃先が入るように襟元を開いてやる妻の姿は悲しくも美しい。小部屋で最後の化粧をして再び本舞台に戻った麗子は、血のついた中尉の唇を拭い接吻する。そして帯から懐剣を抜き、夫にやさしい眼差しを向けた後、刃先を強く喉の奥に刺し通した。
原作は<死とエロティシズム>を描いた作品として出色の出来であるが、武山中尉の大義とは如何なるものであったのかという疑問が残る。仲間たちを叛乱軍として討伐しなければならないことに苦悩し自決したが、天皇に対する大義を重んじるならば討伐するのが道理ではないか。中尉は私的な絆を天皇への忠誠以上に重視している。筆者には中尉の大義とは自決のための口実のように思えてならない。自決することが先にあり、大義は後から付けた理由ではないか。そもそも自決は愛と死のテーマを描くためのモチーフ(動機・題材)であり、モチーフに整合性をもたせるために、大義を必要としただけなのでは・・・そんな疑問が浮かんでくる。
三島由紀夫が太宰治を嫌っていたのは有名な話である。三島は大正期から昭和初期に流行した「私小説」に否定的で、行為や行動を報告するだけで自己分析をせず、本質に迫ろうとしない文学であると批判していた。太宰の文学を私小説の延長だと考え、作品を書くために破天荒な私生活を送る太宰の生きざまにも懐疑的であった。三島はやがて「仮面の告白」で同性愛者の自己分析の書を描くことになるが、興味深いことに三島自身が太宰治と同様の道を辿るようになる。
作品には作者の人生体験が何らかの形で反映しており、人生は作品に少なからず影響を与えている。ところが太宰も三島も、いつ頃からか、原因と結果が逆転し、人生が作品を後追いするようになる。作者自身が現実社会の中で小説の主人公を演じるようになり、作品が人生に決定的な影響を与えるようになった。ここに文学の陥穽がある。作品と人生の整合性を保とうとする余り、作者は主人公と同じ道を歩むようになってしまった。
「仮面の告白」や「禁色」で描いた主人公を三島自身が演じるようになり(三島は本来同性愛者ではないと思われる)、「憂国」や「奔馬」(豊饒の海)の主人公のように切腹して果てた。三島の行動原理はある種の芸術至上主義であり、自決によって自らの作品を完成させたとも言える。実人生が作品に追いつき、作品と人生が幸福な調和を果たしたとき、それはまた三島由紀夫という壮大なドラマのフィナーレでもあった。(KOICHI)
監督:三島由紀夫
脚本:三島由紀夫
撮影:渡辺公夫
出演:三島由紀夫 鶴岡淑子