シネマ見どころ

映画のおもしろさを広くみなさんに知って頂き、少しでも多くの方々に映画館へ足を運んで頂こうという趣旨で立ち上げました。

「アニー・ホール」 (1977年  アメリカ映画)

2024年04月24日 | 映画の感想・批評
 NYに住むコメディアン、アルビー・シンガー(ウッデイ・アレン)はアニー・ホール(ダイアン・キートン)と出会い、まもなく二人は恋仲になる。アルビーは40歳過ぎのブルックリン育ちのユダヤ人で、悲観的な人生観をもっている。アニーは明るくて、ファッションセンスがよく、プロの歌手を目指している。二人はテニス場で意気投合し、同棲するようになるが、次第に互いの生活スタイルや家庭環境の相違点が浮かび上がってくる。二人とも他にも恋人ができるようになるが、それでもまた元の鞘に収まっていた。ところがハリウッドのレコード・プロデューサーがカリフォルニアへ来ないかと誘うと、アニーはアルビーの反対を押し切ってロサンゼルスに移住してしまった。アルビーは寂しさに耐えられなくなって迎えに行くが、アニーはNYへ戻らなかった。

 アルビーは「死」が強迫観念になっていて、15年間精神科医に通っている。神経質で皮肉屋で、2度の離婚歴があり、カリフォルニアに行くとロサンゼルス病にかかってしまう。NYにしか住めないユダヤ人だ。スタンダップコメディアンで、収入はそれなりにありそうだ。アニーはブルーミングデールズ(高級百貨店)で買物をするのが大好きで、セックスの前になると不安になりマリファナを使う。ドラッグを常用していて、アルビーとの関係が行き詰まると、彼に促されて精神科を受診した。

 たぶん70~80年代のNYアップタウンに住む人たちにとっては、ブルーミングデールズで買物をすることや精神科医にかかること、離婚歴があることは一つのスティタスだったのだろう。ここで描かれているのはセレブな都会派知識人の日常で、この映画はニューヨーカーの生活スタイルを切り取ったものではないかと思う。

 恋愛を描いてはいるが、昔の恋愛映画のように愛の障壁があるわけでもなく、戦争や事故や病気で二人が引き裂かれるという悲劇もない。あるのは生き方の違いが顕著になり、夢を追うためにパートナーと別れた女性と、その女性のことをいつまでも忘れられない男性の話だ。別れた後にNYの映画館の前で偶然再会するが、その時には互いに恋人がいた。アニーが今の恋人を引っ張って『悲しみと哀れみ』(69)(かつてアルビーが見ようと誘い、アニーに断られた映画)を見に行こうとしているのを見て、アルビーは心の中で密かに「勝った」とほくそ笑む。後日、ランチを一緒にした時、アルビーはアニーの素晴らしさを改めて認識し、アニーと過ごした楽しい日々を回顧する。別れても友だちとして付き合うのは、理想的な恋愛の終わり方で、これも都会人の洗練されたライフスタイルなのかなと想像する。

 この映画にはさまざまな映画技法が使われている。観客に向かって話しかけたり、画面を分割して対照的なものを写したり、登場人物の心理を字幕で表したり、アニーの体から心だけが離脱したり、有名人を実名で登場させたり(マクルーハンやトルーマン・カポーティ)・・・観客に向かって話したり、有名人を実名で登場させるのはジャン=リュック・ゴダールがよく使う技法で、必ずしも新しいというわけではないが、ウディ・アレンはこうした技法を使ってアルビーとアニーの心のすれ違いをうまく表現している。

 アルビーはアニーとの体験をもとに芝居を作った。そこではアニー役の女優は最後にアルビー役の俳優とよりを戻すという、現実とは正反対の結末になっている。アルビーの願望なのか、妄想なのか。せめて芸術の上だけでも、理想的に事が運ぶように思ったとアルビーは語っているが・・・

 映画のラストでアルビーは小話を披露する。
<小話>
精神科医に男が「弟は自分がメンドリだと思い込んでいます」と言うと、
医師は「入院させなさい」、男は「でも卵は欲しいのでね」
<アルビーの話>
男と女の関係もこの話に似ています。およそ男女関係は非理性的で、不合理なことばかり。それでもつきあうのは卵が欲しいからでしょう。

 卵は何を意味しているのだろう。自分をメンドリだと思い込んでいる弟が産むものだから、たぶん幻想、妄想、想像、錯誤、誤解、思い込み、勘違いetc.・・・恋愛は良い意味でも悪い意味でも幻想や妄想を生み、錯誤や勘違いによって成り立っていると言いたいのだろうか。そう言えば、ウディ・アレンには恋愛妄想をテーマとした作品が多いような気がする。

 最後に面白い話をひとつ。『ボギー!俺も男だ』(72)という映画がある。ウディ・アレンが制作した舞台劇を映画化したロマンティック・コメディで、『カサブランカ』(42)のパロディと言われている。この映画の原題である“Play it Again、Sam”は、『カサブランカ』の中でイングリット・バーグマンがピア二ストのサムに「思い出の曲をもう一度弾いて」と頼むセリフに由来すると言われている。ところが実際には『カサブランカ』の中に“Play it Again、Sam”というセリフは見当たらない。ずいぶん昔、アメリカ人の友人が『カサブランカ』を目を皿のようにして見たが、そんなセリフはなかったと興奮気味に語っていたのを思い出す。映画のタイトルになっているぐらいだから、みんなあるはずだと思っていた。

 実際には“Play it, Sam. Play <As Time Goes By>” 「あれを弾いて、サム。『時の過ぎ行くままに』を」と言っているようで、原題とは微妙に異なる。作り手にまんまと思い込まされていたようだ。ウディ・アレンのいう恋愛もおそらくこんな幸福に満ちた勘違いのようなものなのだろう。(KOICHI)

原題:Annie Hall
監督:ウディ・アレン
脚本:ウディ・アレン マーシャル・ブリックマン
撮影:ゴードン・ウィルス
出演:ウディ・アレン  ダイアン・キートン



12日の殺人(2024年 フランス映画)

2024年04月17日 | 映画の感想・批評

 
 2022年第48回セザール賞(作品賞/監督賞/助演男優賞/有望若手男優賞/脚色賞/音響賞)を受賞した本作。ネット情報だが、セザール賞は、いわゆるフランス版アカデミー賞とのこと。確かに、とても良かった。
 実際に起きた“未解決事件”を基にしたフィクションである。フランスの自然豊かな田舎町が舞台。10月12日深夜、女子大生クララがパーティーの帰り道、一人で歩いていると、突如ガソリンを掛けられ、生きたまま焼かれ、翌朝、焼死体で発見される。事件を担当することになったのは、その前日に、警察班長を引き継いだばかりの若い男性刑事ヨアン(バスティアン・ブイヨン)。事件を担当することがあまりなかったのか、被害者感情に偏っていってしまうが、次々と男性容疑者が浮かび上がり、皆、彼女は奔放な女性だったと証言すると、決して、罪を犯した犯人は許せないのだが、被害者を見る目が変化していくのである。偏見無し、先入観無しで捜査しなければいけないが、刑事も人間である。誰が正しいのか、真実は何か。前任班長のベテラン刑事(ブーリ・ランネール)は自らの家庭の境遇と重ねてしまい行き過ぎた取り調べをしてしまう。それを止められないヨアン。「〇」or「×」では判断できない自分も居る・・・。
 後半には、女性の判事と刑事が登場し、仕切り直し捜査が始まる。偏った見方ではない捜査方法で、解決するかと思いきや、空振りに終わってしまう。作品冒頭に“未解決事件”と宣言されているにも関わらず、刑事達と一緒に捜査している気持ちになっていた。
 時折挟まれるヨアンが自転車トラックで自転車に乗るシーンが、ヨアンの気持ちを表現しているようで、映画らしい。ファーストシーンからラストシーンに繋がる。前向きな気持ちと捉えられ、良い効果が生まれていたと思う。
 殺人事件の犯人捜しなので、「サスペンス」という宣伝PRだったが、内容は人間ドラマで、自分も相手の風貌や雰囲気、自らの偏見等で、色眼鏡を掛けて相手を見ているのだろうかと考えさせられる作品だった。
 因みに、同年2022年の作品賞候補「ダンサーインParis」も、一人の女性の成長を描いた作品でとても良かった(私の2023年度ベストテンにも入れました:2024年1月10日発信「シネマ見どころ」)し、2023年第49回の作品賞を受賞した「落下の解剖学」(米アカデミー賞で作品賞含め5部門にノミネートされ、脚本賞受賞)も、夫の謎の死の真相究明する過程で、夫婦関係や幼い視覚障害の息子との関係を描いた作品で見応えがあった。「セザール賞」今後注目かも。
(kenya)

原題:La nuit du 12
監督:ドミニク・モル
脚本:ジル・マルシャン、ドミニク・モル
撮影:パトリック・ギリンジェリ
出演:バスティアン・ブイヨン、ブーリ・ランネール、テオ・チョルビ、ヨハン・ディオネ、ティヴィー・エヴェラー、ポーリーヌ・セリエ、ルーラ・コットン・フラピエ、ピエール・ロタン、アヌーク・グランベール、ムーナ・スアレム

「ペナルティループ」(2023年 日本映画)

2024年04月10日 | 映画の感想・批評
 若葉竜也の「街の上で」(今泉力哉監督、2021年)に続く、主演2作目の作品である。近年は似通った傾向の役柄が多いように感じるが、この作品は異色である。30代の若葉竜也にとっての代表作になるに違いない。
 岩森淳(若葉竜也)には砂原唯(山下リオ)という恋人がいた。ある朝スーツ姿で部屋を出て行った唯は、溝口登(伊勢谷友介)という男に殺害され、川に遺棄される。その後の日々を岩森がどう過ごしたのかは描かれていないが、部屋に散乱したゴミや酒瓶で想像はつく。
 朝6時、ベッドの中で目覚めた岩森に「6月6日、月曜日、晴れ。今日の花はアイリス。花言葉は希望です。」と時計からアナウンサーの声が聞こえてくる。作業着に着替え黄色い車で工場へ向かう。ひと仕事を終え、駐車場のライトバンから降りて来た溝口を確認すると、休憩室の自販機のコーヒーカップに毒を塗り彼を待つ。自販機に背を向け様子を伺っていると、コーヒーを飲んだ溝口は胸を押さえて苦しむ。何とか車に戻り、追って来た岩森に刺され絶命する。深夜0時になった瞬間に画面が消える。
 翌日も6月6日のアナウンスを聞きながら岩森は目覚める。周囲の様子は昨日と全く変わりがない。再び溝口を車の中で殺害する。岩森が溝口を殺害する6月6日のループが延々と続いていくかと思われたが、途中でこのペナルティループの契約書が表示され「同意します」にチェックマークが入っていると分かる。このループは10回で終了する。岩森は途中からもうやりたくないと声を挙げるが、身体は勝手に動いていく。操り人形のように殺害に向かう姿からは復讐の空しさが伝わってくる。
 日本にはかつて仇討ちという慣習があったが、返り討ちにあうという危険性も伴った。ループの中では溝口は決して反撃してこない。「なんで俺を殺す?」と岩森につめよるが逃げもしない。殺す―殺されるという行為を続けているうちにやがて二人の関係に変化が生じ会話が生まれる。工場内に聳える大木の周囲を談笑しながら歩くシーンが印象的だ。9回目のループではウイスキーを飲みながらボートの中で寛ぐ二人の間には、何やら甘やかな空気さえ漂う。いつの間にか眠りに落ち気付くとボートが沈みかけている。溝口は自ら遺体袋に入り、岩森も共に水中に落ちていく。こうして二人は無意識の世界に還っていく。
 ラストシーンで車の事故を起こした岩森の「痛え」の一言には痛みの実感がこもっている。溝口は一言も痛いとは言わなかった。
 何故、唯は殺されなければならなかったのか?「彼女は死にたがっていた」と言う溝口の言葉が謎として残る。そう言えば彼女の最期の顔は穏やかだった…。
 若葉竜也と2年ぶりに復帰したという伊勢谷友介の相性がとてもいい。「若葉竜也のセリフのない場面での表情や動きは的確だ」と、かつて「街の上で」の記事の中でも書いたが、この作品にも同じ言葉を書き記したい。(春雷)

監督・脚本:荒木伸二
撮影:渡邉寿岳
出演:若葉竜也、伊勢谷友介、山下リオ、ジン・デヨン、松浦祐也、うらじぬの、澁谷麻美、川村紗也、夙川アトム

「ゴールデンカムイ」(2024年 日本映画)

2024年04月03日 | 映画の感想・批評


 本離れが著しく進む中、何とか元気がいいのは絵本とコミックだという。今や書店の売り場面積の半分はこの2つで占められていると言っても過言ではない。そんな状況の中、若者達に絶大な支持を得ているのが、野田トオル原作のコミック「ゴールデンカムイ」だ。全31巻の累積発行部数は2700万部を超えたという。明治末期の北海道を舞台に、膨大なアイヌの埋蔵金の争奪戦が繰り広げられるのだが、厳しい大自然の中でのサバイバルバトルがどのように描かれているか、ファンでなくても興味は高まるばかり。
 そもそも「カムイ」って何のこと??と思われる方も少なくないだろう。今までに知り得た情報によると、アイヌの考え方では、すべてのものに「魂」が宿っており、その中でも特に人間の力の及ばない、すごい能力を持っているものを「神=カムイ」として敬うという。「カムイ」と言うと自分が学生の頃『ガロ』という大人向け漫画雑誌に連載されていた白土三平の「カムイ伝」が思い出されるが、そこの舞台は北海道ではなくて、紀州の農村。時は江戸時代で、身分差別の問題を鋭く扱った群像劇であった。主人公のカムイは農民の中でも最も差別を受けた「下人」の子として生まれ、後に忍びの者として活躍するのだが、自分以外の人間に対して、カムイと同じように尊敬の念を持ち感謝の気持ちを忘れないといった考え方には、確かに共通する何かがあるのかも知れない。
 野田サトルの原作は、そういった意味でも、アイヌの人々の衣食住、習慣、風俗、言葉、文化など、あらゆるものをしっかり調べた上でストーリーを展開しており、非常に現実的で、説得力がある。今回の実写版も久保茂昭監督が原作にできるだけ忠実に創るよう心がけており、実際にコタンの村の様子や、アイヌの人々の暮らしぶりを自分の目で確かめることができる貴重な作品となっている。
 登場人物は実に個性豊かだ。鬼神のような戦いぶりから『不死身の杉本』の異名を持つ元軍人・杉本佐一に映画版「キングダム」シリーズや「アトムの童」等のTVドラマ、数々のCMに大活躍中の山崎賢人。ストイックに体を鍛え、役になりきる真摯な姿勢はスタッフの間でも好感を持たれているとか。自然の中で生きていくための豊富な知識を持ち、北海道の過酷な大地を生きるアイヌの少女・アシリパに山田杏奈。まだ入れ墨をしていないピュアな役はピッタリだ。金塊を狙う大日本帝国陸軍中尉・鶴見篤四郎に玉木宏。日露戦争で前頭部を損傷したためプロテクターで保護しているのだが、力がみなぎるとそこから脳液がはみ出てくるという狂気のキャラクターが強烈だ。また、戊辰戦争で戦死していたはずの元新撰組の副長・土方歳三が政治犯として幽閉され、生きながらえていたという設定もユニーク。その土方を舘ひろしがクールに演じている。北海道が舞台ということで、ヒグマやオオカミ等の動物も登場し、バトルを繰り広げるシーンがあるのだが、そこは特殊造形チームとCG・VFXチームの出番。本物のヒグマやオオカミの動きをデータ化して作り上げた画像は実にリアル!現実でもあり得るかもと思えるシーンが数多く登場する。
 さて物語はいよいよ金塊探しというところで俄然面白くなってくるのだが、「ゴールデンカムイ」という名には「どんなカムイより醜悪凶暴」「アイヌに災いをもたらす悪い神様」という負のイメージがあるのも確か。とにかく若い世代にアイヌ文化に興味を持たせるきっかけを作ったという貢献度は大きく、これから先どのような展開が待っているか実に楽しみだ。
(HIRO)

監督:久保茂昭
脚本:黒岩勉
撮影:相馬大輔
原作:野田サトル
出演:山崎賢人、山田杏奈、玉木宏、舘ひろし、眞栄田郷敦、矢本悠馬、工藤阿須加、大谷亮平、勝矢、高畑充希、秋辺デボ、井浦新