シネマ見どころ

映画のおもしろさを広くみなさんに知って頂き、少しでも多くの方々に映画館へ足を運んで頂こうという趣旨で立ち上げました。

「せかいのおきく」(2023年 日本映画)

2023年05月31日 | 映画の感想・批評


江戸時代幕末期は侍社会では大きな変動期だが、江戸の町の庶民の暮らしはいたって変わらない。
長屋も侍屋敷でも雨が続くと肥溜めがあふれ、地面はずぶずぶ。悪臭が立ち込める。そんな肥溜めから下肥を買い取り、船で近在の農家に運んで換金するおわい屋を営む矢亮(池松壮亮)。クズ紙集めを生業にしている中次(筧一郎)と雨宿りをしているところに、浪人の娘で、お寺で子どもたちに字を教えているおきく(黒木華)が行き会わせる。おきくは中次をひそかに慕っている。身なりも臭いもきつい矢亮には遠慮がない言葉をかけるが矢亮は気にもかけていない。
仕事の相棒を失った矢亮は中次を仕事に引き入れ、中次が長屋の回収を担当することになる。ある日、おきくの父源兵衛(佐藤浩市)が厠に入っているところへ中次が糞尿の回収をしに行くと、源兵衛が用を足しながら中次に語りかけてくる。
「せかいという言葉を知っているか?」せかいとは端っこがない。こんなセリフだったかと思う。「いつか好きなおなごができたら、せかいで一番好きだと言ってやれ」
佐藤浩市と父三国廉太郎もあまり似ていなかったが、筧一郎とも親子と言われなければ気づかない。役こそ父と息子ではなかったが、この親子初共演は大事な神髄を父から次世代に伝えているシーンでもあった。

黒木華がとにかく可愛い!時代劇にはぴったり。
声を失うまでのおきくは、「もう武家の娘ではない」からと、遠慮なく汚い言葉もポンポン口にする、なんの遠慮があろうものかという、気風の良さを感じさせてくれる。
父の巻き添えで喉を切られ、父も声も失った大きな喪失の日々、長屋の住民たちのいたわりの声も届かない。中次(筧一郎)がクズ紙を届けてくれたのにはようやく顔を出すがまだ立ち直れない。ようやく、寺で文字を教えていた子どもたちと住職(真木蔵人)の言葉に動き出す事ができた。
美しい文字で手本を書きながら、おもわず「ちゅうじ」の名前を書いてしまって、ひっくり返ってじたばたと照れる姿の可愛さには涙がにじんだ。
中次のために作ったおにぎりを馬に蹴飛ばされて地面に散らばったのを丹念に拾い上げる。
身分の差も何も関係ない、声に出せなくても中次に思いを伝えるおきくのひたむきさがとても美しい。

おわい屋を営む矢亮(池松壮亮)のプライドの高さは見事。侍屋敷で、鬱屈した下っ端侍の理不尽な仕打ちにも、へこたれない。痛々しい姿なのだが、「俺たちが世の中の底辺を支えて、廻しているんだ!」という仕事に対する誇りにあふれている。ばらまかれた汚物も素手でかき集める。だって大事な商品なのだから。これを農家に届けない事には商売にならないし、作物も実らず、みんなが食べるものに困ってしまう。天秤棒の担ぎ方が本当にうまい。
「ここ、笑うところだよ」と、自嘲ぎみでなく、自分を鼓舞しながら、真理をつくセリフの数々。まさに哲学だ。

中世ヨーロッパでは汚物は市街地にばらまかれるだけ。きらびやかな宮中にだってトイレはなかったという。それに比べて、江戸時代の日本の循環型社会機構はすばらしいではないか。
ラストの若者3人が笑いこけながら走っていく姿はとても清々しい。
モノクロで助かった!時折挟まれるカラーシーンがまぶしい。
モノクロ映像だから耐えられるシーン、役者さんの演技力で十二分に想像してしまうくらい、臭いまで再現できてるわ
(アロママ)

監督:阪本順治
脚本:阪本順治
撮影:笠松則通
出演:黒木華、寛一郎、池松壮亮、佐藤浩市



「セールス・ガールの考現学」(2021年 モンゴル)

2023年05月24日 | 映画の感想・批評
 モンゴルといえば遊牧とかモンゴル相撲とか、あるいは大相撲の名横綱を輩出する国だとか、その程度の知識しかない。むかし学校でモンゴル人民共和国と習った国がソ連崩壊によって、いまは非社会主義国となっていることも忘れがちだ。そういう古い観念でこの映画を見ると、かなりびっくりする。こんにちのモンゴル社会は、ある意味で日本なんかよりよほど開放的で進んでいるようにも思った。
 冒頭から意表を突く。
 誰かがくずかごに投げ捨てたバナナの皮がうまく入らずに道路に落っこちる。
 何人もの通行人がいともあざやかにバナナの皮をすり抜けて通り過ぎてゆくのだが、右からさっそうと現れた若い女性がまんまと皮を踏んづけてしまい、すってんころりと宙に舞うところでストップモーションが決まる。
 この奇抜な幕開けで笑わせておいて、次の場面では、くだんの女性が松葉杖をつきながら大学の同級生のサロールにバイトの代役を頼んでいる。
 大学で原子力工学を学ぶサロール(つまりリケジョだ)は、友だちにバイト先の店に連れて行かれて仰天する。セックス関連の道具や玩具がところ狭しと並べられたポルノショップだったから。
 無口で真面目で童顔のサロールは化粧っ気もないし愛想もない。前半は、そんな彼女が店番を務めるポルノショップ店を訪れる様々な客とのエピソードを並べ、モンゴルにおける性風俗の一端をうかがわせて興味深い。店を閉めたあとは海千山千の女丈夫然とした初老のオーナーのもとへ売上金を届けるのである。
 後半は、むしろ世間ずれしていない彼女を気に入ったオーナーとの交流が中心となるが、どうしていまの学部を選んだのか聞かれたサロールが「母親の望みだ」と答えると、なぜ自分の思いどおりの道を歩まないのかと問い返されて答えに窮する場面がある。関心のない授業時間に教師の似顔絵をスケッチしたり、自室で油絵を描いていたり、その関心はむしろ美術にあることがほのめかされていて、彼女なりの苦悩がのぞく。
 この映画のおもしろさは、オーナーの生き様に対する共鳴・反発、両親や近所に住む男友だちとの関係を通して、サロールが徐々に人間、また女性として成長するさまを愛おしむように描いてるところにあって、なんともそれが微笑ましい。成長に応じてサロールの髪型やファッションが変化するのも見どころだ。映画として洗練されていてうまいと思った。音楽の使い方もうまい。
 ことに、単なる話友だちだった男の子を自室に招いて、これも経験とばかりに全裸となって迫るサロールがおかしいが、性欲の塊と化した男の子が自らも丸裸となって挑んだあとの大失敗の下ネタギャグ(あまりにも露骨なので詳細は省く)には笑ってしまった。何というおおらかさだろうか。日本映画も見習うべきである。
 原題はモンゴル語で「売り子」を意味するらしく、それを英訳してセールス・ガール(女子店員)としたのだろう。これに考現学とつけた邦題は褒めていい。ことしの収穫のひとつである。(健)

原題:худалдагч охин(Khudaldagch ohin)
監督:センゲドルジ・ジャンチブドルジ
脚本:センゲドルジ・ジャンチブドルジ
撮影:オトゴンダバア・ジグジツレン
出演:バヤルツェツェグ・バヤルジャルガル、エンフトール・オィドブジャムツ

「バージニア・ウルフなんかこわくない」(1966年 アメリカ映画)

2023年05月17日 | 映画の感想・批評
 深夜、中年の歴史学者のジョージ(リチャード・バートン)とその妻マーサ(エリザベス・テイラー)が大学構内にあるパーティ会場から自宅へ帰った。部屋は散かり放題で洗い物がたまっている。マーサはかなり酔っていて、煙草をよく吸う。命令口調であれこれ指図すると、ジョージは反発しながらも妻の指示に従う。
 真夜中にマーサが招待した若い生物学者のニックとその妻ハニーがやって来た。ジョージは何故か息子の話を招待客にするなと言うが、マーサは聞く耳をもたない。マーサの父親はジョージとニックが勤める大学の学長だが、ジョージは万年助教授で昇進の望みがない。マーサは不甲斐ない夫を「ダメ男」と罵り、夫が出版できなかった小説をこきおろし、若いカップルの前で散々悪態をつく。不穏な空気を感じてニックが帰ろうとすると、ジョージはまるで夫婦間のトラブルに巻き込みたいかのように、若い二人に酒を飲ませて引き留める。マーサは若くてハンサムなニックに惹かれていたが、ニックの妻が飲みすぎて酔いつぶれた隙に、ついに2階のベッドに誘う・・・

 1962年に初演された舞台劇の映画化で、エリザベス・テイラーが実年齢より20歳近く上のマーサを演じるために体重を増やし、老けメークをして撮影に臨んでいる。卑猥で汚い言葉を使い、露出度の高い服を着て若い男を挑発する。登場人物はほとんど4人だけで、物語の半分以上は自宅の居間で進行する。2時間余の上映時間の多くが夫婦の罵詈雑言で、観客はイライラ感と不快感を募らせる。一体、何のためにこんな夫婦喧嘩の映画を作ったのだろう。観客は戸惑わざるを得ない。一般的な批評は「口汚い罵り合いによって、夫婦の偽善的な愛や性生活を暴き出した作品」というものだが、果たしてそうなのだろうか。

 ジョージの姿が見えなくなった時、マーサはニックに、「私に幸せを与えてくれた男が一人いたわ。ジョージよ・・・いつも私に調子を合わせて、気ままなゲームに付き合ってくれた。私はおかげで幸せだった」と神妙につぶやいている。またマーサはジョージに、「大声で怒鳴り、下品に振舞うのは私の役割よ」とも言っている。
 マーサとジョージの壮絶な罵り合いは無意識のうちに演じられた芝居ではないのか。マーサは支配的で居丈高な妻を演じ、ジョージは従属的で不甲斐ない夫を演じることによって、マーサのストレスを吐き出させようとしたのではないか。激しい罵り合いも二人のゲームだったのだ。ニックとハニーはさしずめ芝居の観客というところだろうか。ジョージはマーサが自分を罵倒したり、他の男に色目を使うのは我慢できるが、夢と現実が混乱するのだけは認められないと言う。夢と現実の混乱とは何か。
 おそらく妄想上の子供のことだと思われる。マーサは想像の世界の中で息子を産み、育て、教育している。ジョージは他人に息子の話をしてはならないとルールを決めていたが、マーサは反発し、明日で16歳になる息子がいると若い二人に言ってしまった。これに危機感を抱いたジョージは、精神状態を心配して入院を勧めるが、マーサが強く拒絶したため、最後の手段として妄想上の息子を事故死させることを決めた。
 息子の死を知らされたとき、マーサは激しく動揺するが、ジョージはルールを破ったために殺したと説明する。夜が明け、パーティが終わり、若いカップルは帰った。茫然自失となったマーサの肩に手を置いて、ジョージが「狼なんかこわくない」と歌うと、マーサは「怖いわ」とつぶやく。
 原題は劇中で登場人物たちが歌う「狼なんかこわくない」の替え歌である「バージニア・ウルフなんかこわくない」に由来する。狼のWolfとバージニア・ウルフのWoolfを掛けている。この替え歌は何を意味しているのだろう。ヴァージニア・ウルフ(1882-1941)とは20世紀モダニズム文学を代表する作家で、双極性障害を患い、最期は入水自殺した。夫への遺書には「これ以上あなたの人生を無駄にするわけにはいかない」と記している。
 マーサは希死念慮にとらわれているのではないか。「バージニア・ウルフなんかこわくない」というタイトルは、バージニア・ウルフのように精神を病んで自死したくないという意志の表れではないかと思う。ジョージは細心の注意を払って妻に寄り添い、心のケアをしようとしている。息子の話を第三者にするのを禁じたのは、妄想がこれ以上拡大すると、マーサの精神状態が取り返しのつかないところまでいってしまうと危惧したからではないか。ジョージは全力で妻の命を守ろうとしているのだ。この作品は夫婦の偽善的な愛を暴き出した映画なんかではない。深い信頼関係の上に成り立つ、夫婦愛の物語である。(KOICHI)

原題: Who’s Afraid of Virginia Woolf ?
監督:マイク・ニコルズ
脚本:アーネスト・レーマン
撮影:ハスケル・ウェクスラー
出演:エリザベス・テイラー  リチャード・バートン  ジョージ・シーガル  サンディ・デニス



「ヴィレッジ」(2023年 日本映画)

2023年05月10日 | 映画の感想・批評
 霞門村(かもんむら)という小さな架空の村(ヴィレッジ)が舞台の現代劇。ギャンブルが止められない同居している母親(西田尚美)の借金を返済しながら、ゴミ処理施設で日中も夜中も働いている片山優(横浜流星)を中心に物語が展開する。
 日本の原風景のような村に、そびえ建つその施設は異質そのもの。「村の発展の為」に、村長(古田新太)が強引に誘致した経緯があり、村を二分する意見の対立で、事件まで起こった。その事件は、片山優の父親が起こしたことから、村中の人達から見下され、冷たい目で見られ、職場でも虐められ、かといって、村から出ることも出来ず、絶望感しかない日々を送っている。更に、その施設は、汚染廃棄物の不法投棄を黙認している。地元のヤクザ(杉本哲太)が絡んでおり、すべて村長も周知の事実である。その作業にも片山優は担ぎ出されている。駄目だと分かっていても断ることは出来ない。自分はどうすれば良いのか。
 そんなある日、幼馴染の美咲(黒木華)が、東京の仕事を辞め、地元に戻ってきて、その施設の広報担当として働くことになった。そして、過去に縛られずに働いてほしいという美咲の推薦で、片山優が子供達の施設ガイド役を担当することになったことから、うまく動き出したかのように見えたのだが・・・。
 とても衝撃的で重い映画だった。小さな「村」社会で生きていく術は何なのか。村八分にならないように生きるには、波風立てずに過ごせば良いのか。顔では笑っていても、心はその反対のことを想う。強いものに巻かれるしかない状況。閉塞感が観るものまで伝わってくる。鑑賞中も、とても息苦しさを感じた。
 また、「能」を絡めた演出が、不気味さも増していたと思う。夜祭りで能面を付けた多くの人が、各々たいまつを持って、列を成して同方向に歩くシーンは、圧巻だった。何の疑いもなく、多くの人が同じことを行う。一方、その列から外れた人は二度とそのレールには戻れないだろう。レール外は真っ暗で何も見えない。落ちると真っ逆さま。その緊張感は強く感じた。現在社会の問題と通じる。反論すると皆から糾弾される、敗者復活はない、よく考えられた撮影方法だと思う。俯瞰した視点での映像が特に素晴らしい。それだけでも一見の価値はあるかも。
 本作品は、エンドロール後も続きのシーンがある。最後まで席を立たないようにしてください。そのシーンは、今後への期待を込めて撮られた筈。でも、結果的には、その方法しかないだろうなと思う自分がいた。
最後に、映像と演技に触れておきたい。まずは、改めての映像。前述の祭りシーンのカメラワークも良かったが、オープニングのタイトルバックも良かった。撮影監督は、MVや広告も手掛ける方のようだ。音楽もピッタリ当てはまっていたのも計算されていたのかも。また、俳優陣も全員良かった。特に、絶望感を目や背中で表現した横浜流星、恫喝シーンはドキュメンタリーのようだった一ノ瀬ワタル、見た目チャラいけど中身は大人の作間龍斗、動くことなく目で人の心を突く木野花が良かった。
(kenya)

監督・脚本:藤井道人
撮影:川上智之
出演:横浜流星、黒木華、古田新太、中村獅童、一ノ瀬ワタル、奥平大兼、作間龍斗、杉本哲太、西田尚美、木野花

「雑魚どもよ、大志を抱け!」(2022年 日本映画 )

2023年05月03日 | 映画の感想・批評
 小学校5、6年生 というのは特別な年齢だ。特に男の子にとっては思春期の入口で、そこはかとなく生命の輝きに満ちている。そんな男の子達がスクリーンの中で悩み考え、自分と向きあう青春映画である。
 舞台は1980年代のある地方都市。冒頭タイトルクレジットが出るまでの間、自転車で各々の家に寄り誘いあって町中をかけぬけていくところがいい。少しどんよりとした空の下を連なった自転車が疾走する場面には、心をワクワクさせるものがある。
 主要な登場人物は7人の少年達とその家族。主人公の瞬(池川侑希弥)は両親と妹の4人家族。母親は乳ガンを患い、瞬が口答えをすると胸の傷痕を見せる強烈なキャラクターの持ち主である。中学受験のために塾に入れられ、そこで映画監督志望の西野(岩田奏)と知りあう。瞬の頼もしい親友は隆造(田代輝)。身体が大きく、ふてぶてしい面構えをしている。父親はやくざで前科者。トカゲの渾名をもつ宗教二世の元太(白石葵一)と、母子家庭でヤンキーの姉との3人暮らしの正太郎(松藤史恩)に、武闘派きどりの転校生小林(坂元愛登)とツッパリ中学生の舎弟の明(蒼井旬)が加わり、七人の侍ばりのメンバーが揃う。
 人は自分の出自を選べない。親や家庭環境は生まれた時からついてまわる。それをどう受け入れあるいは反発し越えていくのかとの問いは重い。両親の凄絶な喧嘩のはてに母親の元に引き取られることになった隆造の「普通の子になりたい」の言葉は痛切だが、これを瞬に言えたのは大きい。この段階で隆造は一歩踏み出している。一方の瞬は、西野が恐喝されているのを知りながら見て見ぬふりをする駄目な自分を仲間に知られ、関係がギクシャクしていく。瞬のコンプレックスは肥大化していく。そしてついに瞬はある行動にでる。瞬にとっては大人になるための通過儀礼だったと言える。少年・線路とくれば「スタンド・バイ・ミー」を連想するが、この作品はそれとは一線を画している。
 ラスト近く、恐喝の首謀者である中学生達との対決シーンは爽快だ。ここでトカゲこと元太が大活躍をする。小柄で弱々しく不登校気味の彼が、実は他の誰よりも知恵も度胸もあるという設定が面白く小気味いい。7人の少年はオーディションで選ばれたと聞くが、それぞれに適役で魅力的で素晴らしい。なかでもこのトカゲ役は当たり役。
 ラストシーンは「泥の河」(1981年)の別れのシーンを彷彿とさせる。どこまでもどこまでも追いかけていく姿は切ないけれど、大きな喪失体験を経てこそ新しい世界が開けてゆく。やがて中学生になる瞬達は、この後どんな大人になっていくのだろうか…と想像がふくらむ。(春雷)

監督:足立伸
脚本:足立伸、松本稔
原作:足立伸
撮影:猪本雅三、新里勝也
出演:池川侑希弥、田代輝、白石葵一、松藤史恩、岩田奏、蒼井旬、坂元愛登、臼田あさ美、浜野謙太、新津ちせ、河井青葉、永瀬正敏