湖のほとりの街。麦野沙織のマンションから、遠くに雑居ビルの火災が見える。早織は小学校5年生の息子、湊と二人で暮らすシングルマザーだ。夫はすでに亡くなっている。早織は最近湊の様子がおかしいことに気づいていた。どうやら担任教師の保利から体罰や暴言を受けているようだ。学校に乗り込んだ早織が校長や教頭に真相の究明を求めると、校長らは保利に形だけの謝罪をさせ、なんとかその場を切り抜けようとする。保利のふてぶてしい態度に激怒した早織は、保利を辞めさせるように校長たちに迫る。まるでモンスターペアレントのように怒りを露にする早織に、保利は湊が星川依里という同級生の少年をいじめていると告げる。混乱した早織が依里の家を訪ねると、いじめは受けていないと言うものの何か様子がおかしい。その後も湊の不可解な行動は続き、嵐の日の朝、忽然と姿を消してしまった。
この作品は早織、保利、湊の3つの視点で描かれていて、時間軸が頻繁に交雑する。早織の視点ではひどい教師に思える保利だが、保利の視点では変わり者だが生徒思いの良い教師だということがわかる。保利から見ると湊は同級生をいじめる問題児だが、本当は級友からいじめられている依里を救おうとしていたのだ。時系列をバラバラにして混乱させ、複数の視点で観客をミスリードさせた後で、真相を開示するというミステリーのような手法をとっている。
湊は依里に友情以上の感情を抱いていることが徐々に明らかになっていく。父親から虐待を受け、「豚の脳」「化け物」と罵られている依里に、湊は自己同一化し、依里の苦しみを自分の苦しみのように感じている。湊は同性である依里を好きになった自分に不安を抱いており、それが家庭や学校における不可解な行動の原因になっているのだ。
二人の少年の間に官能的なシーンがあり、この作品はカンヌ映画祭でクイア・パルム賞を受賞するなど、LGBTQの映画として認知されている。ただ思春期前期(小学校高学年から中学校前半の時期)は性のアイデンティティ(性同一性)を自認するにはまだ早い段階であり、この頃は同性同年齢の子と二人だけの秘密(ex.秘密基地)を持ったり、二人だけの想像の世界で遊んだりするチャムシップと言われる親友関係を結ぶ時期でもある。そのためだろうか、明確にLGBTQの作品としては描いていないように思える。是枝監督は坂元裕二の脚本を「LGBTQに特化した作品ではなく、少年の内的葛藤の話だと捉えた」と発言している。湊の心の中に芽生えた得体の知れないものを描きたかったようだ。
学習障害(鏡文字を書く)を思わせる依里は、魔性の少年のように湊を魅了する。着火マンで雑居ビルに放火して、ガールズバーにいた父親を殺そうとしたのではないかという疑念を抱かせるが、確定的な台詞や場面はない。いじめられても微笑をたたえ、生まれ変わらせるために死んだ猫を燃やすなど、サイコパス的な不気味さを感じさせるが、依里の深層は掘り下げられていない。父親が「化け物」と言う理由もよくわからない。意図的に曖昧なままにしている感がある。湊の場合もそうだが、少年の心の中の得体の知れないものを、得体の知れないままにしておこうとする監督の意図を感じる。それが「怪物」であるかどうかは、ともかくとして。
泥だらけの二人が草むらを駆けていくラストシーンについては解釈が別れるところだ。嵐の夜を生き延びて、台風一過、晴れ渡る空の下を駆けていく姿を描いているのか、それとも嵐の犠牲になった少年たちの最期の夢想なのか。はたまた死後の世界の出来事なのか。判断は観客に委ねられている。ちなみに筆者の見解は生きている方だ。走りながら依里が「生まれかわったのかな」と聞いた時、湊は「そういうのはないと思うよ」と答えている。<生まれかわっていない>ということは <死んでいない>という意味だと解したい。過去の是枝作品を鑑みると、希望のない状況下で前向きに生きていこうとする主人公を描いた作品が多い。泥だらけで走る姿は、困難にぶつかりながらも懸命に生きようとする二人を象徴しているように思えるのだが。(KOICHI)
監督:是枝裕和
脚本:坂元裕二
撮影:近藤龍人
出演:安藤サクラ 永山瑛太 黒川想夫 柊木陽太 田中裕子