シネマ見どころ

映画のおもしろさを広くみなさんに知って頂き、少しでも多くの方々に映画館へ足を運んで頂こうという趣旨で立ち上げました。

「キリング・オブ・ケネス・チェンバレン」(2019年 アメリカ映画)

2023年09月27日 | 映画の感想・批評
 現在静かにヒットしている「福田村事件」と同じく実話の映画化であり、偏見、差別、異種排除、集団の暴走というテーマも共通している。
 場所はニューヨーク州ホワイト・プレインズ。2011年11月19日午前5時22分というから、夜もまだ明けきらぬ早朝だ。ひとり暮らしの老いた黒人男性ケネス・チェンバレンが寝床で寝返りを打った拍子に首にぶら下げている医療用緊急通報装置の器具をうっかり外してしまう。それで誤作動するのだ。このささいなできごとが退っ引きならない惨事を招くのである。
 警備会社に緊急通報が届くと、警察か救急隊に出動要請がなされる。最寄りの警察署から3人の警官が老人の住むアパートに急行する。ドアチャイムで起こされたケネスは扉の向こうから「大丈夫ですか」と問いかける警官に「機械の誤作動だから帰ってもらっていい」と答えるが、出動要請を受けた警官はまず本人に異常がないか視認しなければならない手順となっているらしく、とにかく安否確認するためにドアを開けてほしいと頼む。しかし、ケネスは頑なに拒むのである。この地区は治安が悪くいかがわしい連中の住処となっているという先入見から、警官のリーダーは老人が麻薬か何かを隠しているのではないかと疑う。
 3人の警官の会話からケネスには心臓疾患があること、躁鬱症で精神が不安定なこと、元海兵隊員だったことが明かされる。しかも、過去に警官とトラブルがあったらしく、それが拒絶をもたらしているのだろう。
 老人との膠着状態が続く中、そう若くはない新米の警官が「精神的に不安定な人を無闇に追い込んではいけない。異常がなければ帰ろう」といい出すのを聞きとがめた若い警官が「以前は何をしていた」と尋ねる場面がある。新米が「中学の教師だった」と答えた途端、2人が微妙な顔をする。とくに若い警官は露骨に軽蔑の目を向ける。つまり新米を甘っちょろいリベラルと見なした瞬間である。ここでリーダー、若い警官対新米の間に深い溝が出来るのだ。こういう描写はうまい。
 幸い警備会社との専用回線がつながっていて、「誤作動だから出動要請を取り消してくれ」と懇願するケネスに相手の女性はパニックに陥ったかれを親身になって励まし、何とかしようと懸命だが、時間だけが経過して埒があきそうもない。 
 業を煮やしたリーダーは暑に応援を要請し、ドアを破って強行突入しようと画策するあたりから、雪崩を打って最悪の事態に転がり始めるのである。駆けつけた応援部隊も見るからに偏見の塊のような連中だから、ますます火に油をそそぐ状態となる。こうなると、唯一良心的な新米もおろおろするばかりで仲間の暴走を傍観するほかない。とうとう意固地になる老人に激昂した例の若い警官が「いい加減にしろ、このニガー!」とドア越しに怒鳴ってしまう。応援部隊の黒人警官が「もう一度いってみろ!」と掴みかかる場面は迫力満点だった。
 そうして、通報から1時間半もたったころ、ついに部屋になだれ込んだ警官隊は床に組み伏せられた無力な老人を混乱の中で射殺するのである。職務に熱心なあまり強行策をとったリーダーも部下を制止しきれずに放心状態となる始末だ。
 ラストのクレジットタイトルのバックに録音テープに残された当時のケネスと警備会社、警官たちとのやりとりが流れる。緊急通報が発せられると録音が起動するシステムとなっていて、実際の会話が生々しく記録されていたのだ。この録音をベースに組み立てられた脚本だから単なる想像ではない事実の再現を可能にし、説得力をもった。監督のドキュメンタリ・タッチの手腕はみごとである。
 集団が暴走したとき、その前では良心も冷静な善悪の判断もがこれほどまでに無力化され、他人に対する敬意や尊厳が失われてしまうのかと思うと、「福田村事件」を見たときと同じショックを覚えた。(健)


原題:The Killing of Kenneth Chamberlain
監督:デヴィッド・ミデル
脚本:デヴィッド・ミデル
撮影:ムリン・ペトラマーレ
出演:フランキー・フェイソン、スティーヴ・オコネル、エンリコ・ナターレ、ベン・マーテン

「福田村事件」 (2023年 日本映画)

2023年09月20日 | 映画の感想・批評
 
 
 1923年(大正12年)、京城(現在のソウル)から元教師の澤田(井浦新)が妻の静子(田中麗奈)と共に故郷の千葉県福田村へ帰って来た。その日は戦死した島村上等兵の遺骨が村に戻って来る日で、在郷軍人会の長谷川(水道橋博士)たちが駅に出迎えに来ていた。澤田夫妻は仰々しい出迎えの儀式に違和感を覚えた。村長の田向(豊原功補)はデモクラシーを信奉するリベラルな思想の持ち主だが、軍国主義に傾倒していく村民たちを抑えることができない。同じ頃、沼部(永山瑛太)率いる薬の行商団が利根川を渡って福田村に到着した。
 関東大震災の発生から5日後の1923年9月6日。千葉県の福田村で香川県から来た薬の行商団15人が地元の自警団に襲われ、幼児や妊婦を含む9人が殺害された。関東大震災発生後に「朝鮮人が井戸に毒薬を投げた」等の流言飛語が飛び交い、内務省の命令で各地に結成された自警団は、「郷土を守る」という大義名分のもとに朝鮮人を虐殺した。福田村事件はその一環だが、事件をより複雑にしているのは香川から来た行商団が朝鮮人ではなく、被差別部落出身者だったということだ。彼らの話す讃岐弁が理解できないために朝鮮人と間違えてしまったというのだが、果たして本当に日本人だと認識できなかったのだろうか。集団心理を描いた映画として、古くはフリッツ・ラングの「M」(31)や「激怒」(36)があるが、「福田村事件」の手法はそのどちらとも異なるように思われる。
 大震災により混乱状態に陥った福田村での行商を諦め、沼部たちは故郷・香川への帰途についた。利根川を渡るために沼部が渡し守の倉蔵(東出昌大)と船賃の交渉をしているうちに、口論になり、それを見ていた誰かが「鮮人だ!」と叫んだ。あっという間に沼部たちは自警団に囲まれ、激しく詰問される。澤田と静子は行商人たちが讃岐の薬売りであり、朝鮮人ではないと訴えるが、興奮した自警団は聞く耳をもたない。村長は行商団が持つ鑑札を当局に確認に行くまで待つように話し、いったんは説得に応じた自警団であったが、待っている間に再び緊張感が高まっていく。行商団の親方である沼部が自警団に対峙した時、突然、赤ん坊を背負った若い女が沼部の脳天に凶器を振り下ろした。
 ここから殺戮ショーが始まった。激しい太鼓の音がする。村人たちが一斉に行商人たちに襲いかかり、幼児や妊婦を竹槍でめった突きにする。逃げ惑う女を殺し、死体を川に流した。人々を興奮状態にさせ、狂気の行動に駆り立てる打楽器のリズム。背景音楽として使われた太鼓は、観客の感情を高ぶらせ、いつのまにか我々は殺戮ショーの観客、否、共犯者になっているのだ。
 ここにこの映画の真の怖さがある。知らず知らずのうちに観客をトランス状態にさせ、原始宗教の儀式のように高揚感に包み込んでしまう。ドキュメンタリー出身の森監督が劇映画的手法を巧みに駆使して、集団の魔術を実演している。従来の集団心理を描いた映画では観客はあくまでも第三者的立場にいることができたが、本作品はそうはさせてくれない。これは単なる映画技法だけの問題ではない。ナチスドイツが国威発揚のためにワーグナーを利用したように、人は音楽によってたやすく扇動されてしまう危険性をもっている。
 自警団にとって行商人が朝鮮人であるかどうかはもう問題ではなくなっていた。被差別部落出身であると知っていて殺したという説もあるぐらいだ。行商をしているのはあやしい人間、異質な人間であり、集団に属さない人間は排除してもよいという論理がすべてに優先した。人間がこれほど容易に集団の狂気に陥ってしまうことを、この映画は身をもって体感させてくれる。(KOICHI)

監督:森達也
脚本:佐伯俊道 井上淳一 荒井晴彦
撮影:桑原正
出演:井浦新 田中麗奈 永山瑛大 東出昌大 コムアイ 水道橋博士


「ミッショ:インポッシブル デッドレコニング PART ONE」(2023年 アメリカ映画)

2023年09月13日 | 映画の感想・批評

 
 最新鋭のAIを搭載した潜水艦が、自らのAIに騙され、架空の敵艦に向けて発射した魚雷により沈んでしまう。潜水艦と共に沈んだAIは、世界中のデータを掌握できる恐ろしいAIである。ただ、そのAIを作動させるには、乗組員が持っていた鍵が2つ必要。1つはイーサンがCIAから奪うことに成功。もう1つの鍵の取引があるという空港で、奪い取った1つを掏られてしまう(何とも原始的!)掏られた相手を追いかけてローマへ飛び立つのである。世界を想いのままにしたいという欲望に人々はその鍵を奪おうとするが、その鍵で実際に何がどう出来るのかは誰も分かっていない・・・。それだけ、「AI」はまだ良く分かっていないということか・・・。
 冒頭、“2001年宇宙の旅”と”ターミネーター”をミックスして思い出した。古くからあるテーマであるという証か・・・。6月にブログUPした「ミーガン」も同テーマだった。ただ、本作は、スパイアクション映画のシリーズものとして、定番のマスク変装や、アクションは山盛りである。還暦を超えているとは思えないトム・クルーズ。全力で走り(しかも長尺!)、ローマ市内のカーアクション(これは凄い!)、夜の街での鉄棒での袋小路アクション(かなりハード!)、全速力でバイクと共に断崖絶壁からジャンプ→そのままスカイダイビング(想像を超える!)、オリエント急行での車外での死闘~宙づりになった列車からの脱出(自然と力が入る!)等々。スタントマンではなく、本人が演じているそうで、CG(AI?)に負けないアクションへの意地が感じられた。
 本作はシリーズ7作目で、8作目と同時撮影されたようで、「PART ONE」となっている。「PART TWO」の全米公開予定は2024年6月28日。ただ、ネット情報では、本年7月14日に始まった全米俳優組合のストライキの影響(これにより、トム・クルーズの来日キャンペーンが中止になった)で、延期されるかもしれないとのこと。ストライキの原因の1つは、AIによる俳優の権利保護があるそうだ。映画の中でも、実際の現場でも、制御出来ないAIによる恐ろしさが出てきているということか。少なくとも、イーサンは、このAIは危険と判断し、手に入れた後は、消し去ろうとしている。まだまだ、得体の知れないAIより、生身の人間が安心出来る。
 色々言ったが、このテーマ曲を聴くだけでもワクワクする。「PART TWO」が楽しみだ。
(kenya)

原題:「MISSION:IMPOSSIBLE - DEAD RECKONING PART ONE」
監督:クリストファー・マッカリー
脚本:クリストファー・マッカリー・エリック・ジェンドレセン
撮影:フレイザー・タガート
出演:トム・クルーズ、ヴィング・レイムス、サイモン・ペッグ、レベッカ・ファーガソン、ヴァネッサ・カービー、ヘイリー・アトウェル、ポム・クレメンティエフ、イーサイ・モラレス

「658km、陽子の旅」(2022年 日本映画)

2023年09月06日 | 映画の感想・批評
 熊切和嘉監督と菊地凛子は2001年の「空の穴」で初タッグを組んでいる。20年を経て、二人の強い思いがこの作品を生み、第25回上海国際映画祭で3部門(作品・女優・脚本)を受賞。菊地凛子にとって邦画単独初主演作だという。
 タイトルからもわかるようにロードムービーである。在宅フリーターとして東京で一人暮らす陽子(菊地凛子)・42歳のアパートに従兄の茂(竹原ピストル)が訪ねて来る。陽子の父親(オダギリジョー)が突然亡くなり、明日正午出棺だと迎えに来たのだ。茂の家族と弘前の実家に向かう途中、陽子はトラブルからサービスエリアにおきざりになる。携帯は壊れ所持金は2000円足らず。ここから陽子のヒッチハイク旅が始まる。時間の始まりとゴールが設定された旅である。
 人と深く関わらずに生きてきた陽子にとって、ヒッチハイクはハードルの高い旅。この旅には幻の父親が同行していた。陽子と同年齢の姿のままで神出鬼没にたち現われる。赤いキャップのオダギリジョーが飄々と、時には切なく寄り添う姿がいとおしい。怪しいライター(浜野謙太)にだまされホテルを飛び出し、泣きながら辿り着いた海辺で、陽子はこの父親に殴られる。冷たい冬の海に洗われ泣き続けるが、眼前の人っ子一人いない波打ち際は目を閉じても消え去りはしない。この時、後悔と自責の念にかられた陽子の心には現実に向きあおうとする微かな変化が生じたようだ。
 この作品には省略が多い。陽子の生いたち や父親との確執、上京後の生活や諦めきれない夢などは語られていない。それゆえに陽子という名前は普遍的な響きをもつ。ロスゼネと言われる就職氷河期世代だけではなく、私達の周囲の誰か、あるいは自分の名前を置きかえてみることも出来る。
 震災ですっかり風景の変わった海岸線を北上するにつれ、旅にも変化が起こる。父親の年齢に近い夫婦(吉澤健、風吹ジュン)と出会い、その姿に父娘の間に淀んでいた長い時間に思いが至る。互いを労りあう夫婦の姿がすてきだ。ベテランの二人には深い味わいがある。夫婦との別れ際に、「握手して下さい」と陽子が差しだした手には、夫婦の老いを通して父親の老いと死が伝わってきたようだ。
 刻々と時間が迫るなか、最後にはバイクに同乗して疾走する姿にハラハラ、ドキドキ。やっとの思いで辿り着いた実家の玄関には茂の姿が。竹原ピストルの佇まいがいい。出棺の時間は既に過ぎていたが、茂の一言が疲れはてた陽子の身体全体に染みわたっていく。
 地味な作品である。しかし、陽子の心境の変化それも大きな変化が起こる作品である。これが映画の醍醐味となっている。冒頭から陽子には言葉がない。そもそも声すら出ていない。旅の必要に迫られて次第に声を発していくが、菊地凛子のぼそぼそとした喋り方が印象的だ。人と繋がるための言葉を取り戻していく物語でもある。(春雷)

監督:熊切和嘉
脚本:室井孝介、浪子想
撮影:小林拓
出演:菊地凛子、竹原ピストル、黒沢あすか、見上愛、浜野謙太、仁村紗和、篠原篤、吉澤健、風吹ジュン、オダギリジョー