シネマ見どころ

映画のおもしろさを広くみなさんに知って頂き、少しでも多くの方々に映画館へ足を運んで頂こうという趣旨で立ち上げました。

「太陽と桃の歌」(2022年 スペイン・イタリア映画)

2024年12月25日 | 映画の感想・批評
 スペインで3世代に渡って桃農園を営んでいる家族の物語。ある時、突然、地主から夏の終わりに土地を明け渡すようにとの連絡を受ける。その土地を使用してソーラーパネルの事業を始めるというのである。驚く家族だが、農園を始めた当初、土地を使用するにあたっては、口頭での話のみで、“契約書”は存在しない。それに対抗すべく方法策も見出せず、時間だけが過ぎていく。オロオロする祖父。イライラする2代目父親。心配する家族。無邪気に遊ぶ子供達。と言いつつも、それぞれの方法で、桃園を取り戻そうとするが、嚙み合わず、纏まらなく、そのまま、明け渡しの日が近づく。果たして、どうなることやら。。。
 第72回ベルリン国際映画祭金熊賞(最高賞)受賞。全体的に抑揚が少なく、接写が多く、ドキュメンタリー風の映像。演者はプロの俳優ではなく、地元の人々を起用したとのこと。確かに、その土地、その仕草に足は付いている感じはする。なので、ドキュメンタリーと感じたのか。その狙いは、ドンピシャだが、商業映画として、もう少し抑揚がほしいところである。ただ、人間の日常は、毎日抑揚がある訳ではなく、淡々と過ぎていくもの。3世代の大家族のやりとりが、淡々と綴られていく静かな作品。父親は常にイライラしている。明け渡しの日が近づくが、何も対策が打てない自分への苛立ちと、この仕事しか知らず、新しい仕事への恐怖があると思う。その気持ちは分かるような気がした。ラストシーンは、明るく前向きになりたいものだが、本作は、その逆で、暗い気持ちになった。この先、この大家族はどうしていくのか。全員が不安な目をしてカメラを見つめて(その先にはショベルカーでの伐採が進む農園)いるので、こちらまで気持ちが沈んでしまった。近代化の波が押し寄せる地方農園の現実と捉えると、よくあるケースなのか。
 大家族のエピソードの中で、息子が一晩遊び惚けて明朝帰ってきた時の、母親の行動には愛情を感じた。演出ではなく、俳優の地の演技のように感じた。父親から子供への叱責対応を諫める一撃も頼もしい。一瞬のシーンだが、見応えがあった。
 映画は、言葉の説明は極力避けるというのが定石かと思うが、創作でも良いが説明や抑揚があった方が、商業的にもヒットするかもと思った。ただ、ベルリン国際映画祭は、社会派が取り上げられる傾向があるとのこと。選出されるタイプの作品かもしれない。
(kenya)

原題:Alcarras
監督・脚本:カルラ・シモン
撮影:ダニエラ・カヒラス
出演:ジョゼ・アバット、アントニア・カステルス、ジョルディ・プジョル・ドルセ、アンナ・オティン、アルベルト・ボッシュ、シェニア・ロゼ、アイネット・ジョウノ、モンセ・オロ、カルレス・カボセ、ジョエル・ロビラ、イザック・ロビラ、ベルタ・ピボ、エルナ・フォルゲラ、ジブリル・カッセ、ジャコブ・ディアルテ

「正体」(2024年 日本映画)

2024年12月18日 | 映画の感想・批評
 藤井道人監督と主演の横浜流星は、長編劇場映画では「青の帰り道」(2018年)「ヴィレッジ」(2023年)に続き3度目のタッグとなる。既に数年前から準備を進めてきた企画で、共に思い入れのある作品だという。中学時代には空手で世界王者となり、昨年はボクシングのプロテストに合格した横浜流星の、身体能力の高さがこの作品では十二分に生かされている。原作は10万部を超えるベストセラーとなっているが、残念ながら未読である。
 一家3人を惨殺した事件の容疑者として逮捕され、死刑判決を受けた鏑木(横浜流星)がある決意を持って脱走する。逃亡を続け日本各地に潜伏する鏑木と出会った、和也(森本慎太郎)沙耶香(吉岡里帆)舞(山田杏奈)。鏑木を追う刑事の又貫(山田孝之)は彼らを取り調べるが、各々が出会った鏑木は全く別人のような姿だった。顔を変えながら逃走を繰り返す343日間。鏑木の真の目的がやがて明らかになっていくのだが……。
 横浜流星の変身が鮮やかである。工事現場の作業員やフリーライター、介護施設のスタッフと全く別人のように見える。かつて顔を整形して逃亡を続けた殺人犯がいた。2年7ヵ月という長期にわたり逃亡を続け、その後逮捕され無期懲役の判決が下っている。日本の警察は優秀である。とは言え誤認逮捕、冤罪もある。その冤罪により長年苦しめられてきた人々も少なからずいる。「鏑木には動機がない」という警察情報が、サスペンスの要素も孕んで観客を最後まで引っ張っていく。
 俳優陣が各々に奮っている。なかでも山田孝之の存在感が際立っている。台詞は少ないが、警察組織内での圧力と戦いながら職務を全うしようとする使命感が、身体全体から滲み出ている。怖いが、どこか信頼出来る人物だとも感じられる。鏑木の逮捕時には右肩を狙って撃つ場面にホッとする。鏑木の働いていた水産加工工場では責任者役の遠藤雄弥を発見する。小路紘史監督の「辰巳」で、主人公の辰巳役が素敵だった。その他にもetc.俳優陣の層が厚い。
 「信じたかったんです、この世界を。」ラストシーンで鏑木が法廷で放つこの言葉は、生きたいと強く願うことが希薄な時代だからこそ、胸に染み渡る。思いがけない状況に追い込まれたことで生きる力を得た一人の青年の成長物語として観ると、藤井道人監督の作家性を保ちつつ、エンタメ作品としても楽しめる作品になっている。
 エンドロールで流れる主題歌、ヨルシカの「太陽」がとてもいい。ちょっと文学的な歌詞と透明感のある歌声に、ラストシーンの余韻にいつまでも浸っていたくなる。(春雷)

監督:藤井道人
脚本:小寺和久、藤井道人
原作:染井為人「正体」
撮影:川上智之
出演:横浜流星、吉岡里帆、森本慎太郎、山田杏奈、前田公輝、田島亮、遠藤雄弥、宮﨑優、森田甘路、西田尚美、山中崇、宇野祥平、駿河太郎、木野花、田中哲司、原日出子、松重豊、山田孝之

「恋するピアニスト フジコ・ヘミング」(2024年 日本映画)

2024年12月11日 | 映画の感想・批評


 今年も残すところ1ヶ月足らずとなり、改めて1年間が早く過ぎたように感じるのは年をとったせいだろうか。アラン・ドロンに西田敏行、中山美穂と、今年亡くなられた有名人もたくさんいらっしゃるが、4月に92歳で亡くなった世界的に有名なピアニスト、フジコ・ヘミングもその一人。本作は2018年に公開され、ロングランヒットとなった「フジコ・ヘミングの時間」以降の彼女がどのように生きてきたかを、前作と同じ小松荘一良監督が温かいまなざしで描いたドキュメンタリー作品だ。
 フジコ・ヘミングについて、資料をもとに少し説明を加えると、本名はゲオルギー・ヘミング・イングリット・フジコ。ベルリン生まれで、父はスウェーデン人の画家で建築家のジョスタ・ゲオルギー・ヘミング。母は日本人のピアニスト、大月投網子。フジコが5歳の時、一家で日本にやってきたが、第二次世界大戦が起き、父は祖国スウェーデンに帰されてしまい、その後は弟の大月ウルフと共に母親のもとで育てられる。フジコはその父との思い出を映画の撮影中に一枚の絵に描いている。蓄音機にダンス音楽をかけて2人で踊っているところの絵なのだが、何とも楽しそうで、フジコの父親への思いが自然と伝わってくるようだ。東京芸術大学を卒業後、ストックホルムの大学に入ったのも父を意識してのことだろうし、父が描いたポスターが、横浜にある日本郵船歴史博物館に保存されているということも、口では父のことをあまりよく言わない割には、まんざらでもない様子。昨年開催されたその思い出の地ともいえる横浜でのコンサートは、フジコが一番理想としていたコンサートに仕上がったようだ。フジコと言えば「ラ・カンパネラ」をドラマティックに演奏する姿が印象的なのだが、『赤いカンパネラ』と名付けられたそのコンサートでは、青~紫~赤と変わっていく美しい照明のもと、さらにそこに色を付けていくように弾くピアノの音色を体感できるように構成。その模様は天井からのアングルや手元のクローズアップなど、4Kシネマカメラ17台で捉えた迫力の映像となって現れる。もちろんこのコンサートを演出したのも小松監督だ。
 とにかくフジコが弾くピアノを聴くと、どんな曲でも独特の世界に引き込まれてしまい、陶酔してしまうから不思議。音楽には全く素人の自分でもそれが感じられるのだから本物だ。それはいつの時代でも、どこに暮らしていても、自分らしく生きたフジコだからこそ生み出せる技なのかもしれない。その生き方が様々なエピソードで綴られていて楽しい。世界各所に住む家を持つフジコだが、サンタモニカの家で自然と動物に囲まれて過ごす穏やかな休暇の時期から一転、コロナ禍に入り、フジコは動き出す。まずは東京の阿佐ヶ谷教会での無観客ライブで悲しみに暮れる人々の心を癒やし、続いて戦時中を過ごした疎開先の岡山の小学校で演奏会を開催。77年ぶりに当時自分が練習したピアノを使って子どもたちの前で披露。このピアノ、よくぞ残っていたものだ。さらに横浜でのコンサートを成功させた後は、ついに夢見たパリのコンセルヴァトワール劇場へ。ここは世界の名だたるピアニスト達が目指した劇場。そこでの演奏は、まさに人生の集大成のような趣に満ちていた。ショパンの『幻想即興曲』、ドビュッシーの『月の光』など、聞き慣れた曲だけれどフジコが演奏しているというだけで特別に聴き入ってしまう。90歳を超え、歩くのが不自由になってきたとはいえ、ピアノの前に座った途端見事に動き出す大きな手と長い指。そこには5歳から始めたというピアノの練習を一日も休まず続けているという自信と、それを温かく見守った母親の愛情が重なって見えた。
 “恋する”ピアニストはいくつになっても少女のようなときめきを忘れない。子どもの頃に習ったピアノの先生から始まり、コンサートで一緒になった指揮者や演奏家達をすぐに好きになってしまうのだから・・・、フジコにはピッタリのタイトルかも。演奏会は生の音楽を楽しむ至高の場所。しかし、残念だけれど、音楽はその場で消えてしまうはかないものでもある。もうフジコ・ヘミングの生の演奏は聴くことはできないけれど、映画として残った!!これから先もきっとこの映画を観てフジコ・ヘミングの魅力に浸れる方も多いことだろう。
(HIRO)

監督:小松荘一良
撮影:藤本誠司
出演:フジコ・ヘミング、陣内太蔵、ヴァスコ・ヴァッシレフ、吉永真奈 

「海の沈黙」(2024年 日本映画)

2024年12月04日 | 映画の感想・批評
世界的な画伯田村(石坂浩二)の大々的な回顧展で、一作品が贋作であると画家自身が言い出す。主催者などからはその発表を止められるが、本人が事実を公にしてしまう。その結果、「贋作を市の美術館に高額で買わせた」と汚名をきせられた画商は自死を選んでしまう。そこからこの話が始まる。サスペンスのようだが田村画伯の贋作の犯人はすぐにわかる。周囲から語られるばかりで、その人、津山竜次(本木雅弘)はなかなか登場しない。
田村、津山、田村の妻安奈(小泉今日子)は芸大時代の同期。津山と安奈はかつて恋人同士であった。津山が師である安奈の父の作品に上書きするという事件を起こし、画壇から追放され、今は贋作制作でインターポールからも手配される身。安奈は小樽に潜んでいる津村に会いに行く・・・・・。

配役の実年齢からくる人間関係の不整合さは残念。石坂と本木が師弟関係にしか見えなくて、話に入りづらい。中井貴一が「番頭」として津山に献身的に仕えるのもわかりにくいが贋作を描かせて儲けていたからなのだろう。ただ彼の料理はおいしそうだった。津山のもう一つの仕事である刺青の彫り師、清水美沙の役どころなどなど、?もいっぱい。

安奈の創るろうそくに描かれる顔、病の床につく津山の横で、まさしく涙を流すようにロウが溶け出てくるシーンにはしびれた。本題の絵画以外の小道具にも引き付けられる。本題の絵画は圧巻だ。幼い津山が、荒れ狂う海から戻る両親の為に焚く迎え火、それを海から見つめる幻想のシーン。ようやくその色をキャンバスに描き出し、津山は絶命する。冒頭の田村が回顧展で贋作と自身が判断した作品も素晴らしかった。

「美は美であってそれ以上でもそれ以下でもない」
私自身は美術を鑑賞するしか能のない人間なので、創作者の苦悩は想像だにできないが、これが本作の一番のテーマなのかと、そこは大いに共鳴できた。
大家である田村が贋作を「自分には出せない色、敗北として認める潔さ」も、ある種の心地よさがある。しかし、周囲は大混乱に陥り、死者までだしてしまうのだから、恐ろしい世界だ。

脚本家の巨匠倉本聰が長年にわたって構想した物語、同期デビューの本木雅弘と小泉今日子の共演というのも大きな話題、宣伝になっていた。
事前にチラ見したキネノートレビューに、「倉本聰版の幻の湖か」とあり、「え、これは失敗作なのか?」と逆に興味もわいた。
体調不良の身で観るレイトショー、それでも寝落ちすることなく引き込まれたのはさすが。
滋賀が舞台の「幻の湖」(橋本忍監督、脚本作品、1982年)、よくわからない映画だったなあ。私の見方がおかしかったのではなかったのだと、そっちをまず納得。

清水美沙がロシア風バーで飲むカクテル。砂糖が一つまみ載ったレモンのスライスをほうばり、ブランデーを一気に飲む!お酒とはまったく縁がないけれど、とてもカッコよくて憧れる。あとで調べたら「ニコラシカ」というショートドリンクらしい。
バラライカの生演奏が流れるお店、いかにも北海道、小樽のイメージ。この設定だけでも、十分に大人の世界、昭和のにおいの濃厚な映画だった。
(アロママ)

監督;若松節朗
脚本:倉本聰
撮影:蔦井孝洋
出演:本木雅弘、小泉今日子、石坂浩二、中井貴一、清水美沙

「自由の暴力(代償)」(1975年 西ドイツ)

2024年11月27日 | 映画の感想・批評
 「ライナー・ヴェルナー・ファスビンダー傑作選2024」の中の1本。1975年に西独で公開され、わが国では翌年に公開されたこの映画の邦題「自由の代償」が今回「自由の暴力」と改題されて再公開されました。少なくともファスビンダーを知る者の間ではすっかり定着していた題名をわざわざ変更する必要があるのかよくわかりません。因みに原題を直訳すると「自由の権利」であり、英語題名を調べると「フォックスとその友人たち」です。
 第二次世界大戦下にゲッペルスによって完全に統制されたドイツ映画界はフリッツ・ラング、ヴィルヘルム・ディターレ、ロベルト・ジオドマク(シオドマク)や若き日のビリー・ヴィルダー(ワイルダ-)、オットー・プレミンガー(プレミンジャー)など多くの逸材を国外に流出させ、戦後の衰退ぶりは目を被うばかりでした。同じ枢軸国でもイタリアや日本の映画が戦後すぐに世界を席巻したのと対照的でした。戦後25年を経て70年代にさっそうと現れたのがファスビンダーを代表とする西独の若き旗手たちで、ニュー・ジャーマン・シネマの幕開けでした。
 1982年に37歳という若さで急死したファスビンダーはなんと44本もの作品を精力的に発表していて、完全燃焼のうちに燃え尽きたのかもしれません。
 ぼくは公開時に見逃していて長らく見たいと切望していた作品なので期待に胸膨らませて見た結果、想像に余りある秀作でした。
 フォックスという芸名で見世物小屋の怪しげな生首男を演じる青年フランツをファスビンダー自身が喜々として演じます。下層階級に育ったこの男は姉の家に居候しているのですが、宝くじで大金を当てて意気揚々です。フランツが家の前で大型車に乗るちょっとイカした中年男に誘惑されてついていく先が豪邸です。そこでは同じ性的指向をもつ男たちが蟠踞している。かくして、フランツの運命はただならぬ方向に進んでゆくのです。このイカした中年男を演じるのはカラヤンと並ぶ名指揮者カール・ベームのせがれです。若い頃はけっこうな美男子でしたが、その名残を感じさせます。
 教養と品位をまとった男たちは無教養で品性に乏しいフランツを最初は見下している。かれらが総じて美男子だから、どちらかというと不細工なフランツは分が悪い。なぜ若いイケメンたちが醜男に群がるのか。それは、フランツが大金をもっているからです。
かれのボーイフレンドとなる製本会社の社長の御曹司などテーブルマナーのひとつひとつをうるさく注意するものだからフランツも食べている気がしない。「太陽がいっぱい」の中で、金持ちのお坊ちゃんフィリップが貧しい青年トム(アラン・ドロン)の魚料理を食べるナイフの持ち方が違うと注意する場面を思い出しました。あるいはまた「暗黒街の女」という映画ではロバート・テイラー扮する孤児から弁護士に登りつめた男が顧問を務める暴力団のボスに食事を誘われて「あんたとは食事をしたくない。食べ方が下品だから」というし、「荒野にて」ではスチーヴ・ブシェミ扮する厩舎経営者が孤児の若者を雇って食事に誘いますが若者のガツガツ食べる姿を見て「二度と俺の前でそういう食い方をするな」と叱る場面があります。食べ方が育ちや品性にあらわれると見るのでしょう。日本映画ではあまりお目にかからない描写です。
 特殊な性行をもつ男たちの世界を舞台に階級問題を痛烈に描いて見せたファスビンダーという異能の天才監督に改めて拍手を送りたいと思います。(健)

原題:Faustrecht der Freiheit
監督:ライナー・ヴェルナー・ファスビンダー
脚本:ライナー・ヴェルナー・ファスビンダー、クリスチャン・ホホフ
撮影:ミヒャエル・バルハウス
出演:ライナー・ヴェルナー・ファスビンダー、ペイター・カテル、カール・ハインツ・ベーム、アドリアン・ホーフェン、クリスティアーネ・マイバッハ

「シビル・ウォー アメリカ最後の日」(2024年アメリカ映画)

2024年11月20日 | 映画の感想・批評
 架空のアメリカ内戦の話。独裁主義的な大統領に反発して19の州が分離独立を表明し、内戦が勃発したアメリカ合衆国。「西部勢力(WF)」と「フロリダ連合」は政府軍を次々と撃退してワシントンD.C.に迫り、首都は陥落寸前の状態となっていた。戦場カメラマンのリーと記者のジョエルは、大統領に直撃インタビューを行うために、老記者サミーと駆け出し写真家ジェシーを連れてニューヨークからワシントンD.Cに向かう。一行は幾多の困難を乗り越えてワシントンD.Cに到着し、銃撃戦の中、大統領にインタビューすることに成功するのだが・・・

 アメリカ大統領選でトランプが勝利し、分断の危機に瀕しているアメリカを世界は固唾を呑んで見守っている。これからのアメリカはどうなるのか、ウクライナ戦争やガザの虐殺は終息するのか、パリ協定は? NATOは? 人々がトランプの一挙手一投足に注視している今日この頃、この映画に現在のアメリカ社会を見ようとすると期待は外れるかもしれない。良い意味でも悪い意味でも予想を裏切られる映画だった。この作品の構図はアメリカで実際に進みつつある保守VSリベラルという対決ではなく、専制君主のような大統領率いる政府軍VS州連合の反乱軍というもので、両者の対立軸がいま一つはっきりしない。南北戦争(The Civil War)のときは奴隷制度と自由貿易に対する北部と南部の認識の違いが背景にあったが、本作では何が争いの原因になっているのかがわかりにくい。大統領の横暴に反旗を翻しただけなら、必ずしも分断とは言えない。人種的、民族的、社会的、宗教的対立が根底にあるのかどうか。大統領側に黒人がたくさんいることを考えると、白人VS黒人、白人VS有色人種の闘いではないようだし、保守VSリベラルの対立とも言い切れない。アメリカ公開は大統領選の真っ只中である2014年3月14日なので、さすがに現在をリアルに描くことは問題があったのであろうか。対立軸をあやふやにしてリアリティを追求しなかったおかげで、一般公開できたのかもしれない。
 それでも現代のアメリカを描写しているシーンはあった。無政府状態となっている街や村を通過する時、リー達は死体の山や私刑を受けた兵士たちを目撃する。ある村で赤いサングラスをかけた白人の兵士と遭遇する。「What kind of American?(どんな種類のアメリカ人か?)」と詰問され、リー達はそれぞれ出身地であるミズリーやフロリダと答えるが、途中で合流したアジア系のトニーが「香港」と答えると即座に射殺された。ここには中国に対する嫌悪、敵意が露骨に表れていると同時に、白人の有色人種に対する差別感情があるように思う。特に近年増加するヒスパニック系やアジア系に対する嫌悪感が表れている。ミズリーやフロリダ出身のアメリカ人も元々は移民の子孫なのだが、先に来た移民が後から来た移民を締め出そうとする。ヒスパニックの間でも先に来た人たちが後から来た人たちを差別する。アメリカ社会のダークサイドがこのシーンには映し出されている。
 この映画は見方を変えると、駆け出しカメラマンのジェシーの成長物語とも言える。ジェシーは尊敬するリーの後について銃弾が飛び交う戦場に入っていく。興味深いことにジェシーはフィルムカメラを使っていて、現場で現像できるように工夫している。リーは最初から現像の必要がないデジダルカメラを使っている。陰影がより豊かに表現できるフィルムを使っているということは、元々ジェシーは芸術的な写真家を目指していたのだろう。そんなジェシーにリーは現場での自分の姿を見せることにより、戦場カメラマンとは何であるかを無言で教えていく。ジェーシは何度も死ぬような目にあいながらホワイトハウスに突入し、大統領が殺される現場に立ち会うことができた。しかしジェシーの命を守ろうとしたリーは命を落とした。戦場カメラマンの苛酷な現実を端的に描いている。
 この作品は兵士たちがジェシーの構えるカメラに向かって笑うカットで終わる。監督・脚本はイギリス人のアレックス・ガーランドで、ガーランドはアメリカ人が自国の大統領が殺されるストーリーに反感を抱くのを恐れたのではないか。特に外国人が作った映画の場合はなおさらだ。アメリカが見くびられているという反発があるだろう。それ故ラストカットでは「この映画はフィクションです」と言わんばかりに大統領を殺した兵士たちが記念撮影のようにカメラに向かって笑う。劇中で使われている音楽もカントリー&ウェスタンのようなポピュラーソングで悲壮感はまったくない。リアリティを追求しすぎない配慮がここにも施されている。(KOICHI)

原題:Civil War
監督:アレックス・ガーランド
脚本:アレックス・ガーランド
撮影:ロブ・ハーディ
出演:キルスティン・ダンスト  ヴァグネル・モウラ  ケイリー・スピーニー

「アイミタガイ」(2024年 日本映画)

2024年11月13日 | 映画の感想・批評
 式場でウェディングプランナーとして働く梓(黒木華)と、写真家である親友の叶海(藤間爽子)は大の仲良し。そんな中、叶海が海外で事故に巻き込まれ命を落とした。親友の突然の死を受け入れられない梓は、変わらず、叶海にLINEメッセージを送り続ける。一方、叶海の両親の朋子(西田尚美)と優作(田口トモロヲ)は、とある児童養護学校から娘宛てのメッセージカードが届いていることを知る。何かの間違いかと、連絡を取ってみると、生前の娘が取っていた行動に対する返信と分かり、驚きつつも、嬉しく想う。
 ある日、金婚式を担当することになった梓は、ピアノ演奏者探しに苦労していた。叔母の稲垣範子(安藤玉惠)に相談したところ、自分がヘルパーに行っている93歳の小倉こみち(草笛光子)に依頼してみようとなり、自宅に行ったところ、中学時代にいじめから救ってくれた叶海との思い出が蘇ってきた。
 前半は、別軸の話が交互に繰り広げられ、どう繋がるのかが気になっていたが、後半、すべての話が繋がり始める。こみちが弾くピアノの音色は、梓が中学時代にいじめから救ってくれた叶海が、密かに案内してくれた家から奏でられる音色だったのだ。こみちは、戦地に送る隊員を鼓舞する目的でピアノを弾かされていたことを悔やみ、それ以来、弾かなくなったことを伝える(この部分の話だけでも映画が1本出来るかも)が、梓は、自分は、隠れて聞いていたが、その音色に救われた、他の人も同じだと想うという強い気持ちを真正面からぶつけ、こみちを一歩前進させるのである。そして、自分自身も、突然のプロポーズを受け、小山澄人(中村蒼)との結婚を迷っていたところ、朋子からの後押しで、一歩前進していくのである。
 タイトルの「アイミタガイ」は、「相見互い」ということで、“持ちつ持たれつ“となるそうだ。すべての出来事がラストまで細かく繋がり、泣けて楽しめた。人の温かみを感じさせる良質の映画とはこういうことかと思った。
黒木華が役柄にピッタリ。「凛とした姿」という表現が合う。以前の出演作「日日是好日」の印象と重なった。突然のプロポーズにも一度保留し、自分の中で納得いくまで考えるその姿には軸がしっかりしているように思えた。親友の両親役の田口トモロヲと西田尚美も、滅茶苦茶上手かった。娘を突然失った悲しみを抱えつつ、少しずつでも前向きなろうとする姿が印象的だった。また、設定では93歳、実際は91歳の草笛光子の元気な姿にも感動した。未見だが、つい最近の「九十歳。何がめでたい」も観たくなった。
 鑑賞後、元々は、2020年に亡くなった佐々部清監督が準備していた作品と知った。佐々部清監督作品は、ほぼ未見だが、人に優しい監督のように思える。そうでないと、遺志を引き継いでやろうと言い出す人は現われないだろう。作品の中身以外でも、人の繋がりを感じられる作品だった。
(kenya)

監督:草野翔吾
原作:中條てい『アイミタガイ』
脚本:市井昌秀、佐々部清、草野翔吾
撮影:小松高志
出演:黒木華、中村蒼、藤間爽子、安藤玉惠、近藤華、白鳥玉季、吉岡睦雄、松本利夫、升毅、西田尚美、田口トモロヲ、風吹ジュン、草笛光子

「若き見知らぬ者たち」(2024年 日本・フランス・韓国・香港映画)

2024年11月06日 | 映画の感想・批評
 自主映画として制作した「佐々木、イン、マイマイン」(2020年)が国内のみならず海外の映画祭でも評価を得た内山拓也監督の、商業長編デビュー作である。フランス・韓国・香港との共同制作で、各々の国や地域での配給が決まっている。
 風間彩人(磯村勇斗)は亡父の亮介(豊原功補)が遺した借金を返済するために、昼は工事現場で、夜は両親が開いたカラオケバーで働き、自宅と仕事場を自転車で往復するのがほぼ総ての毎日を送っている。自宅では難病を患い、認知機能が衰えている母の麻美(霧島れいか)の介護が待っている。同居の弟・壮平(福山翔大)も借金返済と母の介護を担いながら、総合格闘技の選手として日々練習に明け暮れている。彩人の恋人・日向(岸井ゆきの)は看護師として夜勤もこなしながら、彩人の家に通っては家事や介護をサポートしている。
 ヤングケアラーという言葉に接する機会が最近増えている。この言葉に法律上の定義はないが、日本ケアラー連盟では「家族にケアを要する人がいる場合に、大人が担うようなケア責任を引き受け、家事や家族の世話、介護、感情面のサポート等を行っている18歳未満の子ども」と定義。ヤングケアラーは家族の問題を隠そうとするため、周囲の人々はその存在に気付きにくい。ましてや行政や福祉に頼れない頼らない生活は、日々困窮の度合を増していく。本作は、ヤングケアラーにスポットを当てるという内山拓也監督の強い意志を感じる作品である。
 冒頭、タイトルが出る直前のシーンに驚く。自転車で通勤中の彩人が自らのこめかみを拳銃で撃ち抜く。彩人の心象風景なのか、或いは未来の予兆なのか、青空をバックにしたこのシーンは強烈だ。彩人の親友の大和(染谷将太)の結婚を祝う会の夜、理不尽な暴力と公権力の暴力によって、このシーンは呆気ないほどに現実となる。
 内山拓也監督と主演の磯村勇斗、岸井ゆきの、染谷将太は共に1992年生まれである。偶然だろうか、同世代の仲間が集まって熱量があふれる現場だったのではと想像がふくらむ。
 磯村勇斗は数々の作品で振れ幅の大きな役柄に挑戦し、作品毎に新しい魅力をみせてきた。彩人の腫れぼったい疲れた顔と佇まいは、自らの運命を引き受けて生きてきた人物そのもの。感情を表に出さない岸井ゆきのの静かな存在感も素敵だ。
 作品全体を通して、残念ながら説明不足で分かり辛いところがあるのは否めない。一方で大和の言葉「人間なんて不確かなもの、だから信じるんです」は作品全体を包み込んでいく。彩人亡き後、弟の壮平はタイトル戦で勝利し(この試合場面は迫力満点のシーン)日向は変わらず彩人の家に通っている。ある日の食卓で、母の麻美がほんの微かに笑ったように見えた。傍らの日向もそっと自分のお腹に手を置き、静かに微笑む。食卓に飾られた彩人の写真は見たことのない笑顔である。(春雷)

監督・原案・脚本:内山拓也
撮影:光岡兵庫
出演:磯村勇斗、岸井ゆきの、福山翔大、染谷将太、伊藤空、長井短、東龍之介、松田航輝、尾上寛之、カトウシンスケ、ファビオ・ハラダ、大鷹明良、滝藤賢一、豊原功輔、霧島れいか

「侍タイムスリッパー」(2024年 日本映画)

2024年10月30日 | 映画の感想・批評


 猛暑も和らぎ、一気に秋の気配が深まった今日この頃、文化の秋ということで、映画を観るにももってこいの季節となった。いざ地元のシネコンに行ってみると何ともたくさんの作品が上映されている。本数を調べてみたら、ちょうど30本!好みが多様化している現代人にとってはありがたいことなのだが、一本一本を提供している配給会社にとっては、どの作品もヒットさせるという苦労は並大抵のことではあるまい。そんな中、夏休みに池袋の映画館1館上映されて満席が続き、2週間後にプラスされた川崎でも好調。さらに2週間後には全国の劇場へと公開が拡大していき、ついに今週は150館以上で上映され、観客動員数も全国5位となった作品がある。「侍タイムスリッパー」だ。
 このような形態で大成功を収めたのが、忘れもしない6年前に公開された「カメラを止めるな」。今作同様その面白さがSNSで拡散され、あれよあれよという間に興収30億を超えたという超話題作だ。上田慎一郎監督が滋賀出身とあって、ご当地で様々なイベントが催されたことも記憶に新しいが、監督に脚本、資金調達からポスターのデザインにいたるまで、1人11役をこなした安田淳一監督も、池袋の観客の盛り上がる様子から「第2のカメ止め」を意識したそうで、それが現実となりつつある今、涙まで溢れてくる感動を味わえた以上、推すしかない。
 時は幕末、舞台は京都。会津藩士高坂新左衛門が長州藩士山形彦九郎の暗殺密令を家老から受け、その最中に雷に打たれてタイムスリップ。たどり着いたのは現代の時代劇撮影所だった。その後、その立ち振る舞いと剣術の上手さから「斬られ役」として活躍することになるのだが・・・。なるほど、時代劇をカメラで撮影しているシーンは「カメ止め」を彷彿させるところがあるし、出演者がほぼ無名の俳優達で占められていることも同じ。何とも素人っぽい台詞の言い回しに、最初は大丈夫かなと思ったりもしたが、慣れてくるとだんだん心地よい響きとなってくるのが不思議。それもそのはず、ヒロイン役の沙倉ゆうのにいたっては直前まで助監督、制作、美術、小道具を担当していたスタッフの一員だったそうで、この作品で監督の希望に応える役者魂が発掘されたと言っても過言ではない出来映え。そして何といっても感動的だったのは、甲賀の油日神社でロケが行われたという真剣を使っての立ち回りのすごさで、主人公役の山口馬木也と敵役冨家ノリマサの迫真の演技に見入ってしまった。刀と刀がぶつかり合う反響音に、本当に真剣を使っているのでは?と思わせてしまうほどの言い知れない緊張感には、思わず手に汗が・・・。
 ここには東映京都撮影所が全面協力した功績が大きい。主人公達を指導した殺陣師・関本役の峰蘭太郎は実際に「斬られ役」として活躍し、殺陣技術集団・東映剣会の会長を歴任した人。数多くの時代劇出演の経験を生かし、所作指導をすると共に、斬られ役一筋に生きた故・福本清三さんの代役として関本役を見事に演じきった。他にも東映京都の並々ならぬスタッフ・役者達がこの作品を支えている。とにかく皆さん、時代劇が大好きなのだろう。しかし、制作の激減という厳しい現実が。今まで培ってきた時代劇の醍醐味を後世にも末永く伝えていくために、侍タイムスリッパーは必要不可欠なのだ。ラストシーンに込められたこの作品に関わったすべての人たちの熱き想いに、また涙。
 (HIRO)

監督:安田淳一
脚本:安田淳一
撮影:安田淳一
出演:山口馬木也、冨家ノリマサ、沙倉ゆうの、峰蘭太郎、田村ツトム、紅萬子、福田善晴、高寺裕司

「ぼくが生きている、ふたつの世界」(2024年 日本映画)

2024年10月23日 | 映画の感想・批評
コーダ(CODA)の話。「コーダ あいのうた」(2021年.アメリカ)がアカデミー作品賞など3部門に輝き、このブログでも取り上げたことがある。あの時に、聴覚障害者の両親のもとで育つ健聴者の子どものこととして、コーダという言葉があることを恥ずかしながら初めて知った。

アメリカ作品と同様、本作品でも聴覚障害を持つ両親はろう者俳優の忍足亜希子と今井彰人が演じている。主人公の大を中学生から演じた吉沢亮がなかなかいい。「え、中学生を?ちょっと無理じゃないの」と思いかけたが、思春期特有の不貞腐れ加減が「あるある!」加えて、両親の通訳をし、周囲からは奇異な目で見られ続けている少年の苦悩。高校受験は失敗するわ、やがて確たる目的もないままに東京へ。それは父が背中をおしてくれたのだが。
アルバイト先のパチンコ屋で聾の中年女性と出会い、手話サークルに誘われる。聴覚障害の世界から離れたはずが、そこでの出会いのおかげで、手話にも方言があることを知る。また親切心というよりも実家の日常の上にあったであろう、料理店での注文を通訳することが、聾者の人たちに「できるはずのことを奪わないで」と言われて初めて、気づくこともある。これは自分にも当てはまる。親切のつもりがそれは当事者の人たちのチャンスを奪っているかもしれない。自己満足にすぎないかもと。

幼少期を演じた子役たちも良かった。無邪気に母親の通訳をし、甘える子ども時代のかわいらしさ。家の郵便受けを使っての母との手紙のやり取りは温かい。父親は釣りに連れて行ってくれる。やがて小学校に入学し外の世界を知り、我が家の特殊性を知っていく。
赤ちゃんを育てながらの失敗談をいくつも乗り越え、工夫する聴覚障害夫婦と、妻の両親。おじいちゃんは自称?元ヤクザなのか、粗野な人。音のある世界で生きるにはごめんこうむりたいかも。新興宗教にのめりこんでいるおばあちゃん役の烏丸せつこが十分はまっている。当たり前のお年なのだけれど、感慨深い。

「コーダだから」とかでなく、どこにでもある息子の旅立ち。それをさらっと応援できる母の愛情深さ。息子がいなくなれば不便なこともあるだろうに、それよりも田舎の小さな町で鬱屈するよりも、広い世界に押し出そうとするこの両親の親の姿はすばらしい。
「スーツを一着持っていれば役に立つのよ」母が選ぶネクタイは派手すぎて、「まるでホストみたい」と息子は苦笑する。
母親を演じた忍足亜希子が明るく、愛情深く、この作品の主人公は彼女こそ。とても素敵な役者さん。以前に何の作品で見かけたのか、名前に記憶はあるのだけれど。
このお母さんの在りよう、今更だけど見習いたい。子離れ、できてるかな、できてないなあ。一人で観に行ったのは正解かも。息子と一緒では面はゆい思いをしたかも。

エンドロールで流れる音楽がいい。母の手紙の内容だった。ちゃんと歌詞が示されていて、改めて作品世界を振り返らせてくれる。字幕付き上映だったのも良かった。
まるでドキュメンタリーを見ているような感覚になった。「コーダ あいのうた」のようなドラマティックさはないが、どこの家庭にもある、普遍的な親子の愛情と、息子の自立の物語。東北の漁村と、鉄道の風景も素敵で、あの駅を一度訪ねてみたくなった。
(アロママ)

監督;呉美保
脚本:湊岳彦
撮影:田中創
原作:五十嵐大「ろうの両親から生まれたぼくが聴こえる世界と聴こえない世界を行き来して考えた 30 のこと」(幻冬舎刊)
出演:吉沢亮、忍足亜希子、今井彰人、烏丸せつこ、でんでん