コーチkazuの「夢が実現!」 http://www.katch.ne.jp/~k-kami/

コーチ日本1のkazuさんが満を持してブログに登場!教育コーチを日本に広めた第一人者として、東奔西走しています。

トラブルもいい刺激

2014-11-21 06:49:02 | Weblog
トラブルは嫌ですね。
でも起こってしまったら
よい刺激だと考えてください。
 
目の前にやってきた人や出来事や情報など、
広く言えば「現象」をどのようにとらえるか?

ほとんどの人たちは、
「自分にとって良いことか、
悪いことか、得になるのか、損になるのか」というような基準で、
受け入れるか、
拒否するかを判断さます。

ツキのある人は、
やってきた情報を、
先入観で排除してしまうのではなく、
いったんは受け入れてみようと考えます。

なぜなら、
やってきた情報はすべて、
「自分にとって必要があるから、
やってきたのだ。
だから、いいものに違いない。
たとえ、すぐにはそう思えなくても、
何かひとつはキラリと光るいいものが隠されているはずだ」
と考えるからです。

ツキのある人は、
世の中というか、
人生全般を基本的に肯定して、
信頼しています。

幸せに生きるのが、
当たり前であって、
それは簡単なことだと思っています。

ですから、
つらい修行や苦労をしなければ幸せになれない、
なんてことは考えつきません。

たとえ、
思わしくない出来事やトラブルに遭遇しても、
深刻にとらえるのでなく、
「これも人生のスパイス。
平穏無事もいいけれど、
壁にぶち当たるのも刺激があっていい」
ぐらいに軽く受け流しています。

脳の痕跡

2014-11-20 06:34:32 | Weblog
YAHOOニュースで
「幼少期の失われた言語、脳には痕跡 カナダ研究」という
ニュースがありました。
http://headlines.yahoo.co.jp/hl?a=20141119-00000027-jij_afp-sctch

アメリカ科学アカデミー紀要
(Proceedings of the National Academy of Sciences、PNAS)に
17日に研究論文が掲載されたということです。

内容は
海外へ養子縁組に出された子どもたちは、
たとえ生まれて間もない頃に聞いた言葉を覚えていなくても、
脳の中にその言葉が刻まれ続けているというものです。

少し読みかえると
幼いうちに聞いた言葉は
自分自身は意識していなくても
潜在的に記憶しているということです。

何年も前の言葉で
本人は忘れてしまったり
不要となった言葉で
もう使わない言葉であっても、
その痕跡は脳の中に残っているというものです。

多くの人は
「やっても無理」
「私はだめだ」
「信じられない」
などの言葉を使ったり、
子どもたちが
「うざい」
「きもい」
などの言葉を自然に使ってしまうのも
どうも幼いときの記憶が残っていることと
つながっている証拠になっているのではないだろうか?

1週間テレビを絶つ

2014-11-19 06:31:50 | Weblog
家に帰ったら、
真っ先にテレビをつける。

そんな人が多いと思います。
これはいわば癖のようなものだろう。
帰宅直後にテレビを見なければならない日など、
そう滅多にあるものではないでしょう。

デスクワークをしている人は、
視覚情報の処理量がきわめて多いです。

ですから、
仕事が終わったら視覚情報を減らし、
休息をとる必要があります。

基本的に、
脳は使えば使うほど機能がアップします。

しかし、
使いすぎは逆効果です。

テスト勉強で言えば
テストの直前に2日も3日も
ぶっ続けて勉強したりすれば、
かえって悪い結果になるでしょう。
休憩は絶対に必要なことです。

それと同じように、
仕事で目を酷使している人は、
テレビを見る時間を減らすことです。
ゼロにしたって構いません。

ゲーム感覚で、
たとえば1週間の「テレビ断ち」というのは
いかがなもんでしょうか?

テレビを見ながら食事をするのが当たり前の人にとって、
「テレビのない食事」には
味覚を敏感にします。

漫然とテレビを見ていた時間を削れば、
何か新しいことを始めるチャンスが広がります。

情報化時代の今だからこそ、
「できるだけテレビを見ない」という意識をもつことも大切です。

家と心のメンテナンス

2014-11-18 06:29:00 | Weblog
感動したいと思いながら、
感動できないという人は
目の周りを見渡してみましょう。

もし、自分の家があるのならば、
その家のメンテナンスだけでも
ずいぶんと手間も必要だし、
その成果についての感動が得られます。

ふだん目が回るほど忙しい、
という人は、
「家の手入れどころではない」
と思いますが、
家の様々な部分の状態を確かめることや、
庭に植えた草花や樹木が、
どんなふうに成長しているか見ることは、
子どもの成長と同じくらいに充実感が得られます。

とにかく一日、
自分の家の状態をゆっくりと見る時間を設けることは、
きっと意味があるでしょう。

家は、
数年経つといろいろなところで補修が必要になってきます。
流し台の修理とか、
トイレの修理など、
いろいろと手直しが必要になってくるのです。

そんなときに、
家の修理を徹底的にしてみると、
大変な作業ではありますが、
自分の心にもプラスの効果があります。

つまり、
長い間、
修理しないで放っておいたところを直すということで、
自分がやるべきことを果たしたという達成感があります。

そんな作業ができるくらいの休みが取れたら、
家の修理とともに、
改めて仕事に対する比重と
家族との時間の大切さとのバランスの問題を
家族と一緒に考えてみるといいでしよう。

徹底的なメンテナンスをしてみると、
結局自宅の維持に関することは、
修理に関しても、
心の問題に関しても、
とにかく同じような問題が発生しているということも
よくわかるでしょう。


人生はどこから見るかで変わります

2014-11-17 06:34:18 | Weblog
学校では、
「広い視野と、いろいろな視点を持ちなさい」
と教えています。

学ぶというものはそのためにあるわけで、
仕事でも同じでしょう。

子どもは「数学なんか社会に出たら役に立たない」と言うと、
「数学そのものは直接使わなくても、
世の中にはそういう視点があることを勉強するんですよ」
と教えるのも周囲の役目なのです。

ところが、
世の中では「広い視野と、いろいろな視点」で見ることを忘れがちです。

いつも怒りっぽい人は、
きっと自分はもっと正当に評価されるべきだ、
と考えているのでしょうし、
落ち込みやすい人は、
きっと自分はなにをしても評価されない、
と考えているのでしょう。

どちらも客観的に自分を見ることを忘れています。
たとえば、小さい子どもをヒステリックに叱ってしまう叱るお母さんに、
その様子をビデオに撮って見せると、
「私はこんなひどい叱り方をしていたのか」と一様に驚きます。

友人に借りたお金を返さない人に、
借金を返さない人の話をすると
「ひどいやつがいるな」と憤慨し、
それはあなたですよ、
と言うとやはり驚きます。

自分がしていることを客観的に見ることができないと、
人生のクオリティそのものが違ってきます。

なぜなら世の中には人に迷惑をかけても、
それすら自覚できず、
他人から後ろ指をさされて生きていく人が山ほどいるものです。

また、
落ち込みやすい人は、
「自分ほどついていない人間はいない」と思いがちですが、
世の中には重い障害や病気をもって生まれながら、
必死に生きている人や、
自ら困難な役割を引き受けて危険な仕事に励んでいる人がいます。

そういうケースが自分の視野に入っていないために、
そういう人がいることすら
すっかり忘れて、
自分だけが「ついていない」と考えるのです。

「広い視野といろいろな視点」は、
つねに気にかけたいところです。