ここあコテージ

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恵みの余滴5

2012-11-12 08:45:26 | 回想
恵みの余滴第5弾。

今回は、ブログにも以前書いたかも知れない話です。
(何せ記憶が定かではありません(苦笑))



北海道の教会の問題も解決に向かい、
これからと言う時になり、
神様から「青森へ行きなさい」という示しがありました。
(この辺のいきさつは割愛します。)


私たちにとっては、ずっと願ってきた青森での
伝道が可能になる時でもありました。


県内の教会の状況を知り、
私たちが本当にそこで必要とされているなら、
是非そこで主に仕えたいと思い、
よく祈って決断しました。


そして、現在の黒石教会の赴任が決まり、
北海道から引っ越しして、空港から岩木山を眺めた時には、
本当にふるさとに戻って来たんだなあ・・・という
深い感慨がありました。

あれから15年、
連れ合いの出身教会で、私たちはこんなに長く
牧会する事になるとは、
初めの頃は思っていませんでした。


聖書の中に
「預言者は故郷では尊敬されない」ということばも
あるくらいですから、
私たちにとっては、大きなチャレンジともなったと思います。


実際、私たちの事を聞いて、
心配する友人たちが多かったのです。

そこで、私は言いました。

「心配を祈りに変えてくださいね。」と。


15年間もこの教会にとどまれた理由は、
もちろん神様の支えと恵みによることです。

もう一方で、色んな事があった牧会ですが、
その都度、お互いに寛容と忍耐をもって乗り越えて
来られたからではないかと思います。



******


黒石教会は、少ない人数でありながらも、
経済的にもよく献げる教会だと思いますし、
何か大きな行事の時には、団結して力を発揮する教会です。


また、歌うことが好きなメンバーが多いため、
プロは一人もいませんが、
礼拝や特別集会などで合唱をよくしています。




何よりも私が感謝したいことがあります。

ある日、娘が私にこんな事を言いました。

「私は、牧師の娘であることを、一度も窮屈だと
思ったことはない」と。


つまり、牧師の子供としての型にはめられた事はなく、
のびのびと成長できたという事です。

黒石教会のメンバーは、
どの子も同じように接してくれていました。

娘はそう言う意味では、幸せな信仰生活を
送って来たのだと感じます。



******


さて、そんな黒石教会での牧会生活ですが、
初めの3年間は、教会堂の二階での生活でした。
台所、トイレ、お風呂、玄関、すべてが共同の環境、
それは確かに不便な環境でした。

また、娘も思春期に入った事もあり、プライベートの
空間を作るべきとの思いもありました。
環境を変える事で一番喜んだのは娘でした。


教会の側の理解を得て、
私たちは、現在の地に移り住む事になりました。
(これも神様の大きなあわれみです。)


連れ合いは、この頃からアルバイトを始めました。
夕刊のみの配達です。冬は特に大変でした。

そして、私もまた、そういう連れ合いの苦労を見ながら、
神様に祈り始めました。

「私にも何か夫を助ける事ができるでしょうか。」と。

そして、祈り続けて行くと、
ある日、教会のポストに1通のチラシが入っていました。


それは、「音楽教室のできる家募集」のチラシでした。

つまり、ある音楽教室が、その家のピアノを使って、
そこでピアノ教室を開設し、そこにピアノの講師を派遣する
と言うチラシでした。


私は、これは祈りの答えだと感じました。

早速、その会社に連絡して、話を聞きましたところ、
実は黒石市内にそのようなチラシを配ったけれども、
隣の浪岡町にも、新しい教室の場所を探したいと思っていた
と言うのです。

浪岡こそ、私の家のある町です。


私はとても驚いて、神様に感謝し、
早速教室開設について協議して、
数ヶ月後から開設。
結局、現在に至るまで11年以上継続しています。


こうして、私の祈りに応えて下さった神様によって、
私たちの家計も支えていただいて、今日に至ります。


そして、神様は実にユニークなお方です。

私には、いつか、小さくても「子どもの為の家庭文庫」をしたいと言う
夢がありました。


ピアノ教室開設と共に、教室の片隅に絵本コーナーを作り、
そこで出番を待つ間、絵本に親しんでもらう事にしました。

これを称して「なんちゃって文庫」と呼んでいますが、
いまはこれでも十分です。

北海道の教会には、家庭文庫を長い間なさっていた御夫妻が
いたこともまた、不思議な主の導きでした。


ピアノ教室の子どもたちには、
クリスマスやイースターに、みことば入りのカードを添えて、
お菓子をプレゼントしています。


(実は、このお話の部分は、
時間の関係上、割愛したものの一つです。)



神様のなさることの不思議さ、
私たちには計り知れません。

神様は、
すべての必要を満たすばかりではなく、
私たちの小さな願いまでも聞き入れて、
実現に至らせて下さるあわれみ深いお方です。



ここあでした。








恵みの余滴 4

2012-11-11 08:21:15 | 回想
恵みの余滴第4弾は、

初めての牧会生活の事です。


私たちは、神学校を卒業して、すぐにでも青森の地に
帰ってきて伝道したかったのです。

しかし、すぐにはその道が開かれませんでした。


神様のみ心を示して下さるように祈り、与えられたのは、
北海道の教会へ行くようにという事でした。

私たちは、そこへ行くのは主のみ心と確信して、
初めての赴任地へ向かいました。


そこは、青森とは比べものにならないほどの豪雪地帯、
そして極寒の地でした。

また、過疎地でもありました。
しかし、人口2万人あまりの小さな町の教会にもかかわらず、
信徒数は、30人以上。
私たちがここを去るまでには、礼拝は40人近くにもなりました。




さて、赴任して最初の礼拝を献げるはずの土曜の深夜、
教会の母子室に、1台の居眠りの車が突っ込んできました。

私たちは、幸い母子室とは反対側の部屋に寝ていて、
事故の物音さえ気づかずにいました。

事故をおこした運転手は無傷、母子室は保険で新しくされました。

この時の様子に尾ひれがついて、私たちの所に戻った時には、
話しがかなり誇張され、

「○○先生(つまり連れ)が、泥棒と格闘して勝った」となって
しまっていたのです。

うわさとは怖いものだと思いました。
真実が大切です。


この出来事が霊的に何を表していたのか、あまりそういう面で
考えることは、その当時はしませんでしたが、

いまにして思えば、この出来事は、この後の牧会生活を
表しているかのように感じることもありました。


事実、その1年後から、教会に一つの出来事が生じて、
牧師になりたての連れ合いと、牧師夫人になりたての私は、
とても困惑し、また、どう対処していいのかわからなくなりました。




*******


ところで、、私は当時、「牧師夫人」という
訳のわからない立場に戸惑いを感じていました。

つまり私は自分の「アイデンティティー」の問題に直面
していたわけです。


当時、私は、教会員から「奥さん」と呼ばれていました。
私は、戸惑いました。
自分のアイデンティティーの確立がない中での「奥さん」は、
益々、私を困惑させました。


自分が「何者なのか」と言う事が
理解ができていなかったのです。


そこで、私は考えに考えて、
「名前で呼んで下さい。」とお願いしました。


このことは、私の意に反して、
教会員の方々に大きな波紋となりました。

「牧師の奥様を名前でなど呼べません」と言う方もいました。


しかし、若者たちや、同年代の方々は、早いうちから
私を名前で呼ぶようになりました。
そして、やがて数ヶ月してご年配の婦人たちも、
若者たちに影響されたのか、私を名前で呼ぶようになりました。


牧師夫人というのは、大なり小なり、自分のアイデンティティーの
問題にぶつかりやすいと言われています。



実は、牧師ならば、祭司、預言者、監督、長老など、
モデルケースがいつくか聖書の中に記されています。
しかし、牧師夫人のモデルケースは聖書にはありません。


ですから、牧師夫人とは何なのか、
牧師夫人とはどうあるべきなのかなど
明確なものはありません。


つまり、自分自身で、自分のアイデンティティーを探りつつ
確信して行かなくてはなりません。

また、教会の大きさによっても夫人の働きは異なります。

良く言われる、「牧師夫人は陰に隠れているべき」と言うことばも、
開拓期の教会、或いはなかなか開拓の域を出ていない教会では
牧師夫人が隠れていては、用が足りません。


ですから、「牧師夫人とはこうあるべきだ」という、
どこからともなく生じた型に無理矢理にはめ込むことは、
没個性となり、自然な形で主に仕えていく事から遠ざけます。


牧師夫人の立場を理解していただきつつ、
その方の性格、賜物が十分に生かされる形で
用いていただけたら一番良いのではないかと感じています。


******

さて、話を元に戻します。

教会の問題は、往々にして、一つのことをきっかけにして
古くからあった問題も噴出すると言う事が良くあることです。



私たちは、問題に対して、どうしたらよいかわかりませんでした。
ただただ、主の介入を祈り続ける日々でした。


やがて、少しずつ教会の空気が変わり始めたのです。
その中で、主は教会の一人一人に問いかけられたと思います。


私個人は、その出来事を通して「教会とは何か」と言う事を
とても考えさせられました。


教会は、誰のものでもない。牧師のものでも、役員のものでも、
一部の発言力のある人のものでも、そして、私のものでもなく、
ただ主ご自身のもの。

この真理は、教会の中で十分知られている真理ではあっても、
気がつくと、片隅に追いやられてしまう真理でもあるように
思います。


教会のトップ(かしら)は主。
教会は、主が満ち満ちている所、
ご自分の犠牲を払って買い取ったもの、
主の主権の顕された所です。


私はこのことを良く学ぶためにも、
ここに遣わされたのだと思いました。


どのような出来事にも主のご介入があります。
問題を直ちに主に持って行くことが大切です。
主にすべてをお話して、主のご介入を祈り続けましょう。

主は真実な祈りに耳を傾けて下さいます。

主は決してあなたを見過ごしにはなさらない真実なお方です。




ここあでした。







恵みの余滴 3

2012-11-10 08:45:49 | 回想
恵みの余滴第3弾は、
神学校時代の事。


主人と私は結婚し、1年後に神学校に行きました。
主人は本科生、私は聴講生として受け入れていただきました。


当時はすでに子どもも与えられていたので大変な時期でしたが、
特に大変だったのは経済面でした。


私たちは、当初はある程度の蓄えを用意して入学したのに、
やはり、生活費や学費、子どもにかかる費用、そして
私の突然の入院などで、当然のごとく蓄えは減りました。
そして、基本的にここの学校はアルバイトを禁止していました。


そんな私たちの様子を見て、神学校の舎監の先生が心配し、
神学校内の援助制度を利用できることを話して下さいました。
(私たちは具体的なことは舎監にも語りませんでしたが。)


私たちは相談して、一致して決断しましたが、
それは、援助をお断りする事でした。


私たちの神学校は、OMFと言う宣教団体が設立した学校です。
当時のOMFの信仰姿勢の一つは、「すべての必要は、主にのみ話す」
と言うものだったのです。


私たちはOMFの教会で育ち、たくさんの宣教師たちにお世話に
なってここまできたわけですが、

そのOMFの信仰姿勢に倣いたいと思わされて、
その日から二人で必死になって祈り始めました。
実はとても危機的な経済状態であったからです。


私たちは必死に祈りました。

そして、私たちの祈りに応えて下さった神様は、
私たちに対して、定期的なサポーターを2組備えて下さいました。


そして、他にも不定期の献金者が与えられたり、
主人の祖母が、私たちの現状を知らないのに、
まとまった額を送金してくれたりして、どうにかプラマイゼロで
3年間の神学校生活を終えられました。


私たちは、そこで、神様にどんなことでも完全に頼ることを
教えていただきました。


「アドナイ・イルエ」(主の山の上に備えあり)


この経験は、後の牧会生活の中でも、とても役に立ちましたし、
今も尚、主に信頼し続けることのチャレンジは続いています。


神様は真実なお方です。すべての必要は主が与えられます。
生活の必要も、物理的な必要も、霊的な必要も。

私たちの小さな祈りさえも受け入れて下さいます。



どんな時でも、主と主のみことばに信頼して
いきたいと思います。




ここあでした。








恵みの余滴 2

2012-11-09 09:43:14 | 回想
恵みの余滴の第2弾は、
第1弾から少し時間がさかのぼります。


私が救われたての頃の事。

私の父は、教会に行くことや洗礼を受けることに対して
全面的な賛成ではないにしろ、一応、私の信仰の自由を
認めてくれました。

ただし、家の中には持ち込まないことを、口約束ではありますが、
させられました。

一方、私の母は、父とは全く異なって、信仰にも、教会にも
反対でしたし、反抗的な態度でした。
何かあるとすぐ教会のせいにしていたこともありました。

私は、大学卒業後、教員採用試験などの失敗などもあり、
しばらく浪人生活をせざるを得なかったのですが、
そんなとき、母は私に

「教会活動にばっかり一生懸命だけれども、○○(私の名前)の神様は
○○に何かしてくれたのか」とズバリと皮肉を言いました。


若い頃は、今よりももっとまっすぐで、恐れ知らずだった私は、
母のことばに、ついつい、

「私の神様は、他の神様と違って、生きている神なんだから、
私に絶対に仕事を与えてくれるよ。見てて!」

と、挑戦的に言い放ってしまったのです。


私は、内心「しまった!」と思いましたが、それは本当にそう思ったから
正直に母に言ってしまったことでした。


あわれみ深い神様は、まもなくして、私に適した職場を備えて下さった
ばかりか、生涯のパートナーとの出会いもお与え下さいました。



そして、父は自分の人生の中で、辛い時期がありましたが、
その時、私が勧めた聖書や信仰図書も読んでくれるようになり、
長い間の闘病の末、3年前にイエス様を信じて、天国へ
凱旋して行きました。


当の母は、相変わらずずっと理解のないままでしたが、
父の闘病後から、少しずつ心が開かれていき、
父の葬儀をキリスト教式で行い、
その司式を主人に託することを申し出ました。


現在では、信仰に不理解の母も、
食前の祈りを率先してするようになり、
お墓も、自分の責任で建立。
みことばを入れたお墓となりました。


また、主人の父親も、今年の9月末に、
信仰を告白し、洗礼を受けたいと申し出ました。
まもなく教会で洗礼を受けるべく、現在準備中です。



神様は、私たちの家族をこのようにして祝福して下さり、
私たちの力ではなく、ただただ神様の一方的なあわれみによって、
ここまで導いて下さいました。


「機会を十分に生かして用いなさい。」

「主イエスを信じなさい。そうすれば、あなたも
あなたの家族も救われます。」


家族伝道ほど難しく、祈りと忍耐のいるものは無いと感じます。
でも、必ず機会が巡ってきますから、それを生かして用いて下さい。

神様は、御家族の主でもありますから。



ここあでした。





恵みの余滴 1

2012-11-08 16:12:13 | 回想
私が先日、「姉妹の集い」でお話した中から、
詩篇139の解説とパッチワークの歴史と
原発のお話以外の事をここに残そうと思います。


来られなかった皆さんの為に少しずつ書いていくのが
この「恵みの余滴」です。


もしよろしければ、読んで下さいね。


m(_ _)m



まず今回は、私の若かりし日の出来事です。


私は、1982年にイエス様に出会い、洗礼を受け、
クリスチャンとしての一歩を踏み出しました。


洗礼後、1年するかしない頃、

私は当時、学生生活最初で最後のKGK(キリスト者学生会)の
春期学校に行くために、お小遣いを貯めていました。

私の両親は、教会に行くことは認めていても、
気前よく春期学校の為にお金を出してはくれなかったため、
私は自分で資金を貯めなくてはいけなかったのです。


そんなある日、一人の身障者の女性と知り合いました。
彼女は私より一つ年上で、「エホバの証人」と言う
キリスト教の異端グループで勉強していました。
しかし、彼女は、その団体をやめたいと助けを求めていました。

私は、実は、教会に集う前に、「エホバの証人」の研究生でした。
しかし、その団体に違和感を感じ、自分から抜けたいきさつが
あったため、彼女の叫びを自分のことのように感じて、
何とかしてあげたいと祈りました。


ある夜、教会の祈祷会で、信頼する今は亡き女性宣教師に、
このことを話して、祈ってもらうことにしました。

「教会にこの女性を連れてきたい。でも彼女は身障者。
私は車もない、連れてこられない。だから、何とかして
教会に連れてこられるように祈ってほしい」。


すると、女性宣教師は言いました。

「その人が来られないなら、あなたが行けばいいですよ。」と。


私は驚きと戸惑いを覚えました。
なぜなら、彼女は私が住む町からずっと遠く、
徒歩や自転車では行ける距離ではありません。

まして、私は学生であり、お金もなく、
卒論などのために時間もゆとりがなく、
どうしたらいいものかわかりませんでした。


しかし、私はこの日以来、宣教師のことばが心に残って
離れませんでした。


ずっと祈っていた時、ふと「資金がある」と思ったのです。

でも、この資金は、私が春期学校に行くための
大切なお金でした。やっと貯めたお金です。


しかし、今、私を待っている人がいる、
その方に必要とされている。

春期学校とその方を心の秤にかけてみたとき、
今の私のすべきことは何かはっきりとわかりました。


(誤解しないで下さい。私は春期学校に行くべきではないと
言っているのではなく、その時の神様のご計画は、別の方に
あったのだと言いたかったんです。)


その後、その資金を使って、その方の住む町の施設まで
電車通いを続けて、数ヶ月共に聖書を読み、祈り、
交わりをしてきました。


幸い、彼女はイエス様を信じて救われ、
それから数ヶ月後には洗礼を受けられました。


彼女はそれから数ヶ月後には、別の市に転所となり、
別の教会で歩み出しました。


数年前、彼女にたまたま再会して、
とてもお元気で教会生活を送っていらっしゃることを知り、
再会を喜び合って、主に感謝しました。


神様は、その時、その時の神様の御心を示されます。

私たちは、何が神様の示される事なのか、
良く祈って行かなくてはなりません。

どちらの方も神様の喜ばれる事なら、
なおさらその時の選択を、
主の御声に聴きつつ選択して行かなくては
ならないと思います。


主はみ心を必ず示して下さいます。






ここあでした。