ランドフォール オブ パラダイス

2006年10月11日 | 風の旅人日乗
10月11日

みなとみらい21の石造りドックに現役当時のまま浮かぶ日本丸のスターンをうっとり眺めていたら、27年前のランドフォールの記憶が沸々と蘇って来ました。

今晩は、KAZI(舵)2004年11月号に掲載された、CRUISING STORIES「読むクルージング」の中から、ランドフォール オブ パラダイスを紹介します。

秋の夜長に、珠玉のエッセイをどうぞ。

実は、このエッセイに甚く心を動かされ、何回も読み直してみては、タイムトリップしています。(text by Compass3号)

ランドフォール オブ パラダイス

文/西村一広
Text by Kazu Nishimura

日本を出航して、すでに32日めが過ぎようとしている。
毎日、毎日、船はそれなりの速度で前進しているが、行けども行けども、前方から見えてくるのは海だけである。船の周りには、満々と海水を湛えた太平洋が、圧倒的な量感でどこまでも広がっている。商船大学卒業前の遠洋航海。航海科の実習生として、練習帆船日本丸に乗っていた。
リベット構造の鋼鉄でできた日本丸は、当時すでに船齢50年を越えていて、太平洋の大きなうねりが船底を通り抜けていくたびに、船体はギイギイという軋み音をたてた。最後に見た陸は、千葉県外房の野島埼。いや、正確に言えば、房総沖を通ったのは夜だったから、神戸を出て紀伊半島をかわして以来、陸地は見てない。暗い水平線の向こうに、光芒として消えていった野島埼灯台の赤白の閃光が、日本との別れだった。

航海中の練習船の生活は、単調に思われるかもしれないが、実際は結構忙しい。
毎朝甲板に海水と砂を撒き、横一列に並んで、半分に割った椰子の実でチーク甲板をこする。椰子の実の繊維と砂との摩擦で、硬いチーク材の表面が薄く削り取られる。当直の実習生全員で甲板全体をこすったあと、ポンプで汲み上げた海水で甲板を洗い流す。甲板を覆うチークの木目が鮮やかな色を取り戻し、朝日を浴びて光り輝く。
1日2回、4時間の当直に立つ。士官役、見張り役、舵取り役、気象・海象観測などの役割りを交代で担当しながら、実際の航海士の仕事を覚えていく。
当直時間以外にも、教室で様々な授業を受ける。天気が穏やかな日には、甲板に帆布やロープを広げて、次の航海で使うセールを縫いあげる。各種ロープ類をスプライスする。リギンに捲く「バギーリンクル」と呼ばれる擦れ止めを、古くなったマニラロープをほぐして作る。係留時に使う大型フェンダーも、ロープを編んで作る。
1日3回、明け方と正午、そして夕暮れ時に、六分儀で太陽と星の高度を測り、天測暦と天測計算表を使って船の位置を出す。それを士官に提出する。測定船位の精度と、その計算に要した時間が採点される。
その天測計算の際に必要な、船の推定位置を割り出すために、1時間ごとに船の速力を測定する。抵抗板のついたロープを船尾から送り出し、そのロープが出て行く長さを砂時計で測る。ロープには一定の長さごとに結び目がある。砂時計の砂が落ちるまでにその結び目がいくつ出て行くかを数える。船の速力が速ければ、出て行く結び目の数も増える。船の速力を表わすノット(結び目)の語源である。
海況によってその方法が使えない時は、薪(まき)を十字に組んだような木片を船首から投げる。海面に浮いている木片の横を船が通り過ぎるのに要した時間を測定する。自船の長さは分かっているから、その長さと時間から速力を割り出す。現代では主に航程を意味するようになったログ(薪)の語源である。
操帆も頻繁だ。風向が変われば、セールの帆綱を調整しなおす。必要があれば下手回しで方向転換(ジャイビング)もする。日本丸では、舫いやアンカー・チェーン以外にキャプスタン(ウインチ)を使うことはできないので、1本の帆綱に10人以上の実習生が群がってハリヤードやブレース、シートを引く。先頭の一人がビレイ・ピン(ロープ留め)にクリートするまでの間、ロープを引いているその他の全員が、尻をデッキにつけてセールの荷重に耐える。ほとんど運動会の綱引きの要領だ。4本のマストに掛っているセールは全部で約30枚もある。だから、一口に「セールをトリムする」「ジャイビングする」と言っても、全ての作業が終わるまで、結構時間がかかる。一番前のフォアマストから一番後ろのジガーマストまで、当直全員でデッキを走り回って様々なロープを引く。
時と場合によっては、上手回し(タッキング)をすることもある。ジャイビングと違ってタッキングは、30枚のセールを一度に返さなければ、失敗する。だから横帆リグの帆船でのタッキングは、船を挙げての大イベントになる。実習生はもちろん、船長以下、事務方からドクター、食堂のシェフまで、約120名の乗員全員が甲板に勢ぞろいする。船長がいよいよタッキングを決心すると、その1時間くらい前から、「本船は○○時にタッキングを始めるので、それまでにそれぞれの用事を済ませた上で、各自持ち場に集合するように」という旨の船内放送がある。船全体が、まるで祭りの前のように高揚した雰囲気に包まれる。その時間帯に舵を持つことになっている実習生は、1時間も前からガチガチに緊張する。
風速が変われば、セールを縮帆したり、それを再び展帆したりする。また、風速に変化がなくても、毎日の日課として、夕方になると、前3本のマストの一番上に展開している「ロイヤル」と呼ばれるセールを畳んで、夜の突風に備える。何事もなく夜が明けると、再びロイヤルを展帆する。その作業のために1日2回マストトップに登る。作業中、下を見ると、全長約100メートルの船の、バウスプリットから船尾までが視界の中にスッポリと入る。甲板にのたくるロープは糸のように細い。精密な帆船模型を見るようだ。作業を終えてしばし見渡す水平線は、相当な曲率で丸まっている。
毎週土曜日には、便所掃除もある。これは普通の便所掃除ではない。船のトイレは海水で水洗するが、海水と尿の成分が反応して結晶する。その結晶がパイプを詰まらせる。だから週1回、配管をすべて分解し、管の中を金属製のブラシでゴシゴシとこする。こすりカスが顔に跳ねる。しゃべっていると口にも飛び込む。
そのあとは、これも週一度だけの洗濯日課。貴重な真水を無駄なく使うために、全員揃って行う。男たちの汗や塩や便所掃除の汚れで、たらいの水がドロドロになる。
このように、課業に追われた不便で忙しい生活だが、海と帆船の生活はしみじみと楽しい。特にお気に入りは、夜明け間近の時間帯だ。夜半0時から朝4時までのゼロヨン・ワッチを終えた後、熱いコーヒーの入ったマグカップを片手に、フォクスルのすぐ後ろ、一段低くなっているウエルデッキに出る。風下側のチェーンプレートに攀じ登り、フォアマストのロア・シュラウドに張られたラットラインに腰を下ろす。夜明けの気配が始まった空と海を眺めながら、コーヒーを口に運ぶ。ウエルデッキは海面に近くて、時折細かな波しぶきが降りかかる。一段上の甲板から、笛の音が聞こえてくる。次の当直に入った仲間たちが、薄明時の星を使って一斉に天測をしているのだ。

この航海の半年前には、別の練習船で南半球への実習航海を経験していた。その航海は、途中たくさんの島々の間を通り抜けるコースを取ったから、陸や人間社会はいつも身近な存在だった。1ヶ月以上も陸地を見ないのは、この、練習帆船での航海が初めてだった。意外だったのは、日本を出航した直後には少し残っていた陸への里心が、航海がこれだけ長くなると、逆に薄れてくることだった。船での生活にほとんどストレスがなかったせいなのだろう。この航海が、このままあと1年ほど続いても、大した苦ではないようにさえ思った。
かつて、まだ外洋を航海したことがなかった高校生の頃、海洋冒険小説や海の史実に関する本に頻繁に登場する「ランドフォール!(陸が見えるぞー!)」という言葉に憧れた。いつかは自分も長い航海をして、船の中で一番最初に陸を発見し、その言葉を自分の口で叫んでみたいと思っていた。だからこの実習航海では、誰よりも早くハワイの島影を見つけることを、密かな楽しみにしていたのだ。
33日めの夜。ホノルル港到着予定の丸2日前。
甲板で、風上側の見張り当番をしていた。
手摺を越えて吹き込んできた風を何気なく吸い込んだとき、その風の中に、森の中を歩いているときに嗅ぐのと同じ匂いが混じっているのを感じた。この一ヶ月の海での生活で、まったく忘れていた匂いだった。急いで船橋に走り、レーダーの画面を見る。しかし、レンジをいっぱいに広げても、陸影は映っていない。なのに、木や土や花の匂いは、いよいよ鮮明に鼻を刺激する。視覚やレーダーの超短波が島影を発見する前に、その島の匂いが、先に嗅覚に届いたのだ。
初めて訪れたハワイ諸島の印象は、それ以来、森の匂いとして、鮮明に記憶に残ることになった。人間の嗅覚が、視覚の範囲より遠くに存在するものの匂いを感知できるということも、それまでは、思ってもみないことだった
その匂いを感じるようになってから2日後の朝。寝ぼけ眼で甲板に出てみると、バウスプリットの向こうに、こげ茶色のダイヤモンドヘッドが、日本で見慣れた観光ポスターそのままの姿で横たわっていた。とても残念なことに、あれほど憧れていた視覚による「ランドフォール!」の栄誉は、別の実習生に奪われた。間抜けなことだが、オフ・ワッチでグッスリと寝ている間に、船はホノルル港外に着いて錨を降ろしてしまっていた。

大学を出て海関係の雑誌社に入ると、毎月の締め切り仕事に追われて、ランドフォールを楽しみにできるような長い航海に出る機会がなくなった。週末のヨットレースと練習で海に出る他は、いつも満員の通勤電車で会社に通った。カメラやテープレコーダーを持って取材に走り回り、乱雑に散らかった机で原稿用紙に向かう。とてもストレスの溜まる毎日だった。
そんな生活の中にも、「ランドフォール」という言葉に触れる時間が、僅かだが、あった。日々の仕事に疲れて帰ってきた夜、安酒を飲むテーブルや布団の枕もとで、現実逃避をしていた。『ランドフォール・オブ・パラダイス』という本のページをめくりながら、想像上の航海をしていた。
『ランドフォール・オブ・パラダイス』は、アメリカの出版社が発刊する太平洋の島々の入港ガイドブックである。ミクロネシア、メラネシア、ポリネシアの島々が細かく取材されていて、主要な港への入港方法、桟橋の場所、税関事務所の位置などが、詳しい説明図と写真で紹介されている。その島でお勧めのパブに関する記述や、そのパブの入口にある看板の写真まであったりする。寒い冬の夜、布団から首と手を出してその分厚い本を開き、それらの島々をランドフォールして、入港し、架空のパブに入ってうまい酒を飲んだ。
そういうふうに4年が過ぎたあと、本の中でのランドフォールはもう止めにして、やはり自分は海に出て生きるべきだと思い、プロセーラーとして自立することを決めた。
雑誌編集者としての最後の仕事は、小笠原群島・父島のクルージングガイドを作ることに決めていた。かつて、大学を休学中に父島で暮らしたこともあったから、その島のことや島を取りまく海には詳しいつもりだったし、島で生活している友人たちもいた。もちろん自分自身で最新情報の取材にも出向いた。その記事は我ながら満足のいくページになったが、しかし、企画そのものや、写真とイラストをたくさん使って入港方法や地元の情報を紹介するページ作りは、ほとんど『ランドフォール・オブ・パラダイス』のスタイルそのものだった。

陸の安定した生活から離れ、海とセーリングで生きることを決めた後の、初めてのランドフォールは、それもなぜか小笠原だった。スキッパーとして小笠原-東京レースに出るために、三浦半島の油壷を出航して父島を目指した。大学を卒業して以来、数年ぶりに手にする六分儀を使って、天測で船位を出しながら南下した。何日目かの朝、自分の天測位置が正確だったと証明される方向に小笠原群島の北端にある北之島をランドフォールしたとき、なにか、身体が痺れるような感動を覚えた。自分はやっとまたこの世界に戻ってきたのだ、と思った。
それ以来、数知れずのランドフォールをした。そしてそのたびに身体が痺れ、心が震えた。プロセーラーがクルージングを楽しんでいては、残念ながら仕事として成り立たないから、セーリングと言えばほとんどの場合がレースである。逆説的かも知れないが、その航海がレースで、そしてそれが、海況という意味でも勝負という意味でも、厳しい状況の航海であればあるほど、ランドフォールはより恍惚とした瞬間になる。前を走る艇のこと、後ろから迫ってくる艇のことが、瞬間、意識の表層から遠のく。そしてそれよりも、自分のセーラーとしての実力や、真の航海者としての実力が証明されたような、それはもちろん自己満足的な世界なのではあるが、そういう気持ちに浸ることができる。他艇との先着争いという部分でのヨットレースが、小さなことに思えてくる一瞬でもある。
シドニー~ホバート・レースで前方に見えてくるタスマニア島は、この島とオーストラリア大陸を隔てるバス海峡でほとんどいつも大時化の洗礼を受けるせいか、荒涼とした島だという印象が深い。タスマニア島からも、森林の匂いが風に乗って届く。しかしその匂いは、少し甘く感じるハワイの森の匂いとは異なり、鋭く凛とした寒帯の針葉樹林の匂いだ。
トランスパックの最終日に水平線から見えてくるモロカイ島。チャイナシーを渡って到達するフィリピン沿岸から聞こえてくるニワトリの声。外洋セーリングカヌー〈ホクレア〉から見た、聖なる島カホオラウェの夜明け。寒々としたアイルランドの沿岸の手前に、突然のように姿を現す孤高の岩、ファストネット・ロック・・・。
いま思えば、それぞれのランドフォールすべてが、自分の夢に近づいていく『ランドフォール・オブ・パラダイス』だった。その意味では、長い航海のあとのランドフォールは、陸や島と同時に、セーラーとして一歩成長した新しい自分自身を発見していることでもあるのだと、言えなくもない。
航海に出ることの不安に怯えてしまって、航海そのものに出ることをやめれば、セーラーはランドフォールの感動を経験することはできない。また、航海に出たとしても、誰もがそれを経験できるわけでもない。そうして考えていくと、一人の人間の人生そのものも、一生の夢をランドフォールしようとしている、心の航海なのかもしれないと思えてくる。