近代西洋型快速帆船大研究 - 機は熟した

2006年10月21日 | 風の旅人日乗
10月21日

今晩は、KAZI(舵)2004年6月号、7月号と連載された、近代西洋型快速帆船大研究の中から、98フィート・レーシングヨットZANA〈ザナ〉の解説の中盤から。(text by Compass3号)

近代西洋型快速帆船大研究
Vol.1 ZANA

文/西村一広
Text by Kazu Nishimura

(昨晩からの続き)

機は熟した
〈ザナ〉建造構想は、2003年のシドニー~ホバート・でのファーストホームを最大目標としてスタートした。
シドニー~ホバートにせよ、トランスパックにせよ、ファーストホームを狙って大型艇の建造を繰り返すオーナーたちのほとばしるような熱意には、我々日本人にはうかがい知れないものがある。彼らにとって、ハンディキャップ・ルールによる「修正順位」なるものは、不可解で意味のないものに過ぎない。新茶や金塊や羊毛を載せて競っていた時代から、帆船による競争は「一番乗り」こそが勝負なのである。クリッパーの時代の価値観を引き継ぐ彼らにとって、一番速い船を持つことが一番の名誉であり、また、それが船主の富の象徴として受け取られる側面があったとしても、それはそれでやぶさかではないのである。
自分一代で身を起こし、ウエリントンの実業界で成功を収めつつあるスチュワート・スウェイツにとって、「母国で最大級のレーシングヨットを造って宿敵オーストラリアに乗り込み、その国の伝統的レースで彼らのヨットを蹴散らしてホバートに一番乗りする」という計画は、身が震えんばかりに興奮するものだった。本来のビジネスも軌道に乗っている。着手したばかりの新しいビジネスも順調に育っている。スチュワートにとって、機は熟したのである。

設計者と建造者
スチュワートが〈ザナ〉の設計者として抜擢したのは、ブレット・ベイクウェルホワイトである。ブレットはローリー・デイビッドソンの右腕として長く働いてきたベテラン設計者である。ローリーの事務所から独立するに際して、ブレットは米国の伝統的で権威あるヨット設計事務所「S&S」からチーフ・デザイナーとして誘われたが、それを断って自らの事務所を開いた。
ローリーの事務所にいる頃からすでに、ブレットは地元オークランドでは優れた設計者としての評価を得ていたが、海外で活躍する艇を設計する機会に恵まれることはなかった。〈ザナ〉は、国際的な舞台でブレットの実力を世に問う、最初の作品になることになった。
スチュワートは現役の実業家であり、仕事の場では現場で陣頭指揮を取るタイプの経営者である。毎日忙しいスケジュールに縛られている。自分のビジネスの現場であるウエリントンから、大型艇建造技術を持つオークランドやタウランガの造船所に通う時間などない。「それならば」と、スチュワートは地元ウエリントンに自分で造船会社を設立し、そこで〈ザナ〉を造ることにした。これなら毎日でも建造現場に顔を出すことができる。スチュワートは、その造船所の共同経営者として最高の技術力を持ち、しかもこの道で成功したいという野心を持っている造船技術者を探し出した。それが、ポール・ヘイクスである。
ポールはカンタベリー大学を卒業してからこの道に入った。中卒や高卒でこの世界に入るのが一般的なニュージーランドの造艇業界では、異色の存在である。
彼は量産艇の造船所で基礎を学んだ後、カスタム艇建造で世界をリードするクックソン・ボートに移籍した。10年以上に渡ってクックソンで数々の名艇建造を担当してから、ポールはドイツへと渡った。2003年のアメリカズカップ挑戦を目論んでいたドイツ・チームの挑戦艇建造担当に抜擢されたのだ。しかし、挑戦艇が99%完成した時点で、資金不足に陥ったこの組織は突然崩壊する。呆然としていたポールに、旧知の設計者ブレットからの電話が入った。「君を必要としている人物がウエリントンで待っている」。
 数回のミーティングを経て、スチュワート・スウェイツとポール・ヘイクスの共同経営による「ヘイクス・マリン」が設立された。ニュージーランドの首都ウエリントンで最初の本格的カスタム艇建造ビルダーの誕生である。〈ザナ〉の建造が始まった。

(続く)