10月10日
今回は、先日、大変お世話になった日本丸記念財団の方々への敬意を込めて、KAZI(舵)2005年7月号から、海人 ウォーターマンの肖像「帆船日本丸 池田裕二船長」を紹介致します。(text by Compass3号)
海人
ウォーターマンの肖像
練習帆船日本丸船長
池田裕二
Yuji Ikeda
文=西村一広
text by Kazu Nishimura
練習帆船 日本丸
大海原に乗り出すことを夢見る人間にとって、『帆船』という言葉は、得も言われない、とても魅力的な響きを持っている。
「船乗りになりたい。帆船に乗りたい」。そんな夢を持つ少年だった筆者にとって、当時は商船大学の航海科に入ることが、その夢を実現する唯一の手段だった。小学校高学年、中学、高校はそこに入るための準備期間でしかなかった。目指した大学に入り、そこで海と船の勉強をし、そして、卒業前の長期実習でやっと乗ることができた帆船(現在、横浜市みなとみらいの日本丸記念公園に係留されている旧・日本丸)での船上生活は、とろけるような素敵な日々の連続だった。その経験が忘れられずに、そのまま筆者は小さな帆船、つまりヨットに乗り続ける人生を選んだ。
現在日本には、日本丸と海王丸という、世界を代表する大型練習帆船がある。この2隻の大型帆船を所有し、運航しているのは、航海訓練所という独立行政法人である。海軍以外の組織が本格的な大型帆船を所有している国は、そうザラにはない。航海訓練所は、この2隻の帆船の他に3隻の大型動力練習船を所有し、これらの練習船による実習航海によって、日本の船乗りの卵たちを育てている機関である。1943年に設立されて以来、商船大学、商船高専、海員学校などの学生を、実際の船上生活、国内・国外の実習航海によって、一人前の船員に育て上げる役割を担ってきた(海王丸といえば、昨年夏の富山での走錨/座礁事故が記憶に新しい。この事故については現在海難審判が行なわれているが、適当な時期が来次第、当時の池田茂樹船長へのインタビューも含め、本誌で事故の詳細を明らかにし、今後の事故防止に生かすことを目的とした記事を作る予定で、現在準備を進めています)。
60年以上に渡って日本の船員を育ててきた航海訓練所には、当然のことではあるが、優秀で経験豊かな航海士や船乗りたちが揃っている。そのうちの一人、練習帆船・日本丸船長の池田裕二氏(52)が今月のこのシリーズの主人公だ。
池田裕二船長は、実は筆者の大学の先輩である。しかも同じボクシング部に所属していて、学生時代は、リングの中の練習とはいえ、殴り合ったことさえある。その頃の商船大学は男子ばかりの全寮制の大学だったのだが、その寮生活においても池田先輩は、自分自身を厳しく律する生活態度を貫いていたことを筆者は覚えている。
しばらく振りの再会だった。商船高専の実習生を乗せてオーストラリアのブリスベーンへの遠洋航海に出発する直前の横浜新港埠頭で、そしてその後、日本丸がその遠洋航海から無事帰還したあとの東京有明埠頭で、二度も日本丸の船長公室にお邪魔して、話をうかがった。
久し振りにお目にかかる池田船長は、風貌、貫禄ともに重厚、30年近く船員教育に携わりながら長く海と船で過ごしてきた経験と自信が醸し出す船乗りとしての風格が、身体中から溢れていた。世界を代表する大型練習帆船の船長に相応しい、本物の海の男が目の前にいた。フト、学生の頃、練習とはいえ、殴り殴られしておいて良かった、と思う。今ではとてもそんな、殴られたから殴り返すなどという、恐ろしいことはできそうにない。この取材に同行した本誌のM編集長は商船高専出身の元・航海士なのだが、彼は彼で実習生の頃、練習船で池田船長から厳しい指導を受けた経験がある。その当時の池田船長の船上教育は、M編集長いわく「もう、本当に厳しかった」そうで、その恐い思い出が抜け切らないらしく、彼は背筋をピシっと伸ばして椅子に座り、汗を拭き拭き可哀相なくらいガチガチに固まっていた。そういった訳もあり、このシリーズはいつもは「敬称略」とさせていただいているのだが、今回だけは例外とさせていただきたい。
年間240日の乗船勤務
池田裕二船長は、昭和27年に北九州市の門司に生まれた。家の近くの関門海峡で魚釣りをして遊び、夏になれば山陰の島にキャンプに行く、というような少年時代を過ごした。
「まあ、言ってみれば、童謡の『我は海の子』の歌詞を地でいっているような子供だったですね」。
そういった少年時代を経て、ある程度自然な流れで池田船長は東京商船大学商船学部航海科に進学した。
商船学部では、1年生から3年生までの間、それぞれ1ヶ月間の短期乗船実習があり、4年生になると卒業前に9ヶ月の長期実習がある。その最初の短期実習での体験で、「卒業後は航海訓練所に就職して練習船の士官になるのも悪くないな」、と学生だった池田船長は考えるようになった。当時は運輸省(現在の国土交通省)に所属する機関であった航海訓練所に就職できるのは、生活態度も含めて、かなり優秀な商船学生に限られる。池田船長も当然優秀な学生であった。
昭和51年、大学を卒業した池田船長は、諸先輩士官の一番下、船乗り用語でボットム(ボトム=底)と呼ばれる三席三等航海士から、練習船士官としてのキャリアをスタートさせた。
例えば練習帆船日本丸の1年の典型的なスケジュールは次のようになっている。
毎年4月1日に新しい実習生が乗ってくる。それから約6ヵ月間実習航海が続き、9月の半ばにドック入りして定期検査、整備を受ける。ドックが終わると再び11月1日に新たな実習生が乗ってきて、3月末まで実習航海を行なう。
この年間運航スケジュールに沿って、練習船に乗っている航海訓練所の士官たちの乗船勤務は、年間240日以上に及ぶ。横浜にある航海訓練所の事務所への出勤もある。公休は年間104日のみ。横浜市南区に奥様と2人の息子さんが待つ家庭を持っている池田船長であっても、「遠洋実習が入る期間は、100日以上続けて家に帰れないことがちょくちょくある」とのこと。昔ながらの船乗りの勤務パターンに近い。「でも、船に乗っていると通勤がないのが楽だからね」と笑うが、本人にとっても御家族にとっても、決して楽な仕事ではない。
大型船を運航するということそのものも神経を使う仕事なのだが、練習船には、その上に若く経験に乏しい実習生を預かり、彼らを一人前の船員に育て上げるという、更に大きな使命がある。
「船と実習生を絶対に危険に陥らせる訳にはいかないので、当然苦労も多いですが、その分、実習航海が成果を挙げたときの喜びも大きいですよ」と池田船長は語る。
池田船長によれば、実習生に「船に乗り合わせている者全員が家族である」ということが分ってもらえれば、それだけでその実習航海は7,8割方は成功なのだという。
「帆船では、ロープ一本引くのに一人では何もできない。各マストを担当するグループの力が船全体で一つにまとまって初めて、船がまともに走るようになる。そういったことを通じて、海の上で人を思いやる気持ちを実習生に伝えることが、帆船での実習の目的のひとつ」だという。
船舶職員法施行規則では、『実際の商船に乗船履歴のない商船学生が三級海技士(航海)の試験を受けるためには、帆船での遠洋航海の実習を経験しなければならない』、と定められている。実はこの法律のおかげで日本は世界有数の帆船を持つことができるともいえるのだが、この法律が意図するところが、即ち、池田船長の言う「航海中の人の和を学び、人のことを思いやる」という、航海技術だけではない、航海士の精神的な部分の教育における帆船実習の役割りなのだろう。
総航海距離、42万海里!
池田船長は28年間の航海訓練所勤務のうち、陸上勤務の時期を除いて、これまですでに21年間練習船に乗船してきた。乗船勤務中は、1年間に国内・国外を合わせて、少なく見積もっても約2万海里の距離を航海するという。ということは1年2万海里を21年間だから、池田船長が航海訓練所の士官になってからの航海距離は42万海里!日本を出て地球を一周する距離が、おおよそ2万7千海里だから、42万海里は地球を15周する距離になる。
その航海距離のうち、旧・日本丸、旧・海王丸、現・海王丸、そして現在船長を務める日本丸など、練習帆船でセーリングした距離は、その約3分の1位だろうという。つまり池田船長は14万海里、地球5周分に匹敵する距離を、帆走航海してきたのだ。今の時代、帆船での帆走をこんなに経験してきた船乗りは世界でもそれほど多くないと思われる。しかも、池田船長のようなセーリング経験をすでに持ち、また、これから持とうとしている航海士、船員が航海訓練所には数多くいる訳である。よく考えると、航海訓練所は世界でも類を見ない熟練の帆船航海者集団だということになる。
現在、好調な貿易に支えられて海上輸送の需要が伸び、日本の海運業界の景気は上々だ。しかし、実際に日本の船会社が運行している船舶のほとんどは第3国に船籍を移した便宜置籍船で、日本国籍の外洋航路船舶はほとんどなくなりつつある。そのため日本人船員の数は年々減少の一途を辿り、現在では、海運に従事している日本人船員の数は、なんと4000名を割り込んでいるという。日本の魚資源の需要は落ち込んでいないのに、それを獲る漁船に乗っているのはほとんどが外国人だという日本の漁業の実態と同様に、日本の海運業界もまた、外国人船員にその職場を奪われつつあるらしいのである。世界に誇ることができる熟練の船乗りの組織である航海訓練所が育て上げた船乗りの卵たち、つまり日本の海洋文化、航海文化を担う若者たちの働き場所が、ジワジワと塞がれつつあるのだ。この現実を前にすると、何とも、どうも残念で仕方ない。海に囲まれた島国である日本から船員がいなくなり、日本が自国で船を運航できなくなる日が来るなど、想像したくもないほど、恐ろしく、悲しいことだ。
国土交通省から離れ、独立行政法人になった航海訓練所としても、このような日本の海運界の実状、これからの船員教育、海洋教育のあり方などについて、広く国民にアピールし、理解を求める必要性を感じているという。日本が独立国家として、他国に頼らない船舶運行機能を持ち続けるためにも、航海訓練所が果たすべき使命はこれからも重い。
まだ見ぬ目的地を探し続ける航海者
池田船長が考える、船乗りという職業の魅力とは何かを尋ねてみた。
「一人で太平洋を渡ったり、世界一周をしたりという単独航海も、それはそれで意義深く、価値のある行為だと思いますが」
と前置きした上で、
「帆を開いて海を渡り、目的地を目指す。喜びを分かち合えるたくさんの人数で協力し合って海を渡る。航海をしながら、海を思い、家族を思い、仲間を思い、そして家族や恋人が待つ港に戻ってくる。一人では成し遂げられない仕事(航海)を、集団で協調して達成し、ときには反目もするが、最後には喜びを分かち合う、その幸せを味わうことができるのが船乗りという職業の魅力だと思う」と語ってくれた。
そして、喜びを分かち合える人が多ければ多いほど、その喜びは大きくなるものだ、とも付け加えた。これらの言葉を語るとき、池田船長はこれまでの28年間で経験した、いくつもの感動の航海の記憶をたどっているように思えた。
池田船長にとって、海とは、航海とは?
「海には何か、惹きつけられるものがありますね。それを確かめに行くというのが船乗りなんだろうけど、それが一体なんなのか、これだけ長く航海をしていても、この歳になってもまだ分らない。まだ見ぬ目的地を求めてさすらっている、と言えるのかな。その、いつまでも見つけることができない目的地を求めて、船乗りは航海を続けているんでしょうね」。
学生時代から自分自身に厳しく生きる恐い先輩であり、実習生に対しても厳しい教官であり続けた池田船長が、実は海のロマンチストでもあることを初めて知った。池田船長の話を聞いているうちに、かつて酒を飲みながら歌った寮歌のいくつかを久々に思い出した。
♪~波の青さに、幼い夢に、いつも描いた練習船だ。若い命はコンパス任せ・・・
♪~・・・海のロマンを尋ねゆく、若い練習生は、若い練習生は泣かぬもの
今回は、先日、大変お世話になった日本丸記念財団の方々への敬意を込めて、KAZI(舵)2005年7月号から、海人 ウォーターマンの肖像「帆船日本丸 池田裕二船長」を紹介致します。(text by Compass3号)
海人
ウォーターマンの肖像
練習帆船日本丸船長
池田裕二
Yuji Ikeda
文=西村一広
text by Kazu Nishimura
練習帆船 日本丸
大海原に乗り出すことを夢見る人間にとって、『帆船』という言葉は、得も言われない、とても魅力的な響きを持っている。
「船乗りになりたい。帆船に乗りたい」。そんな夢を持つ少年だった筆者にとって、当時は商船大学の航海科に入ることが、その夢を実現する唯一の手段だった。小学校高学年、中学、高校はそこに入るための準備期間でしかなかった。目指した大学に入り、そこで海と船の勉強をし、そして、卒業前の長期実習でやっと乗ることができた帆船(現在、横浜市みなとみらいの日本丸記念公園に係留されている旧・日本丸)での船上生活は、とろけるような素敵な日々の連続だった。その経験が忘れられずに、そのまま筆者は小さな帆船、つまりヨットに乗り続ける人生を選んだ。
現在日本には、日本丸と海王丸という、世界を代表する大型練習帆船がある。この2隻の大型帆船を所有し、運航しているのは、航海訓練所という独立行政法人である。海軍以外の組織が本格的な大型帆船を所有している国は、そうザラにはない。航海訓練所は、この2隻の帆船の他に3隻の大型動力練習船を所有し、これらの練習船による実習航海によって、日本の船乗りの卵たちを育てている機関である。1943年に設立されて以来、商船大学、商船高専、海員学校などの学生を、実際の船上生活、国内・国外の実習航海によって、一人前の船員に育て上げる役割を担ってきた(海王丸といえば、昨年夏の富山での走錨/座礁事故が記憶に新しい。この事故については現在海難審判が行なわれているが、適当な時期が来次第、当時の池田茂樹船長へのインタビューも含め、本誌で事故の詳細を明らかにし、今後の事故防止に生かすことを目的とした記事を作る予定で、現在準備を進めています)。
60年以上に渡って日本の船員を育ててきた航海訓練所には、当然のことではあるが、優秀で経験豊かな航海士や船乗りたちが揃っている。そのうちの一人、練習帆船・日本丸船長の池田裕二氏(52)が今月のこのシリーズの主人公だ。
池田裕二船長は、実は筆者の大学の先輩である。しかも同じボクシング部に所属していて、学生時代は、リングの中の練習とはいえ、殴り合ったことさえある。その頃の商船大学は男子ばかりの全寮制の大学だったのだが、その寮生活においても池田先輩は、自分自身を厳しく律する生活態度を貫いていたことを筆者は覚えている。
しばらく振りの再会だった。商船高専の実習生を乗せてオーストラリアのブリスベーンへの遠洋航海に出発する直前の横浜新港埠頭で、そしてその後、日本丸がその遠洋航海から無事帰還したあとの東京有明埠頭で、二度も日本丸の船長公室にお邪魔して、話をうかがった。
久し振りにお目にかかる池田船長は、風貌、貫禄ともに重厚、30年近く船員教育に携わりながら長く海と船で過ごしてきた経験と自信が醸し出す船乗りとしての風格が、身体中から溢れていた。世界を代表する大型練習帆船の船長に相応しい、本物の海の男が目の前にいた。フト、学生の頃、練習とはいえ、殴り殴られしておいて良かった、と思う。今ではとてもそんな、殴られたから殴り返すなどという、恐ろしいことはできそうにない。この取材に同行した本誌のM編集長は商船高専出身の元・航海士なのだが、彼は彼で実習生の頃、練習船で池田船長から厳しい指導を受けた経験がある。その当時の池田船長の船上教育は、M編集長いわく「もう、本当に厳しかった」そうで、その恐い思い出が抜け切らないらしく、彼は背筋をピシっと伸ばして椅子に座り、汗を拭き拭き可哀相なくらいガチガチに固まっていた。そういった訳もあり、このシリーズはいつもは「敬称略」とさせていただいているのだが、今回だけは例外とさせていただきたい。
年間240日の乗船勤務
池田裕二船長は、昭和27年に北九州市の門司に生まれた。家の近くの関門海峡で魚釣りをして遊び、夏になれば山陰の島にキャンプに行く、というような少年時代を過ごした。
「まあ、言ってみれば、童謡の『我は海の子』の歌詞を地でいっているような子供だったですね」。
そういった少年時代を経て、ある程度自然な流れで池田船長は東京商船大学商船学部航海科に進学した。
商船学部では、1年生から3年生までの間、それぞれ1ヶ月間の短期乗船実習があり、4年生になると卒業前に9ヶ月の長期実習がある。その最初の短期実習での体験で、「卒業後は航海訓練所に就職して練習船の士官になるのも悪くないな」、と学生だった池田船長は考えるようになった。当時は運輸省(現在の国土交通省)に所属する機関であった航海訓練所に就職できるのは、生活態度も含めて、かなり優秀な商船学生に限られる。池田船長も当然優秀な学生であった。
昭和51年、大学を卒業した池田船長は、諸先輩士官の一番下、船乗り用語でボットム(ボトム=底)と呼ばれる三席三等航海士から、練習船士官としてのキャリアをスタートさせた。
例えば練習帆船日本丸の1年の典型的なスケジュールは次のようになっている。
毎年4月1日に新しい実習生が乗ってくる。それから約6ヵ月間実習航海が続き、9月の半ばにドック入りして定期検査、整備を受ける。ドックが終わると再び11月1日に新たな実習生が乗ってきて、3月末まで実習航海を行なう。
この年間運航スケジュールに沿って、練習船に乗っている航海訓練所の士官たちの乗船勤務は、年間240日以上に及ぶ。横浜にある航海訓練所の事務所への出勤もある。公休は年間104日のみ。横浜市南区に奥様と2人の息子さんが待つ家庭を持っている池田船長であっても、「遠洋実習が入る期間は、100日以上続けて家に帰れないことがちょくちょくある」とのこと。昔ながらの船乗りの勤務パターンに近い。「でも、船に乗っていると通勤がないのが楽だからね」と笑うが、本人にとっても御家族にとっても、決して楽な仕事ではない。
大型船を運航するということそのものも神経を使う仕事なのだが、練習船には、その上に若く経験に乏しい実習生を預かり、彼らを一人前の船員に育て上げるという、更に大きな使命がある。
「船と実習生を絶対に危険に陥らせる訳にはいかないので、当然苦労も多いですが、その分、実習航海が成果を挙げたときの喜びも大きいですよ」と池田船長は語る。
池田船長によれば、実習生に「船に乗り合わせている者全員が家族である」ということが分ってもらえれば、それだけでその実習航海は7,8割方は成功なのだという。
「帆船では、ロープ一本引くのに一人では何もできない。各マストを担当するグループの力が船全体で一つにまとまって初めて、船がまともに走るようになる。そういったことを通じて、海の上で人を思いやる気持ちを実習生に伝えることが、帆船での実習の目的のひとつ」だという。
船舶職員法施行規則では、『実際の商船に乗船履歴のない商船学生が三級海技士(航海)の試験を受けるためには、帆船での遠洋航海の実習を経験しなければならない』、と定められている。実はこの法律のおかげで日本は世界有数の帆船を持つことができるともいえるのだが、この法律が意図するところが、即ち、池田船長の言う「航海中の人の和を学び、人のことを思いやる」という、航海技術だけではない、航海士の精神的な部分の教育における帆船実習の役割りなのだろう。
総航海距離、42万海里!
池田船長は28年間の航海訓練所勤務のうち、陸上勤務の時期を除いて、これまですでに21年間練習船に乗船してきた。乗船勤務中は、1年間に国内・国外を合わせて、少なく見積もっても約2万海里の距離を航海するという。ということは1年2万海里を21年間だから、池田船長が航海訓練所の士官になってからの航海距離は42万海里!日本を出て地球を一周する距離が、おおよそ2万7千海里だから、42万海里は地球を15周する距離になる。
その航海距離のうち、旧・日本丸、旧・海王丸、現・海王丸、そして現在船長を務める日本丸など、練習帆船でセーリングした距離は、その約3分の1位だろうという。つまり池田船長は14万海里、地球5周分に匹敵する距離を、帆走航海してきたのだ。今の時代、帆船での帆走をこんなに経験してきた船乗りは世界でもそれほど多くないと思われる。しかも、池田船長のようなセーリング経験をすでに持ち、また、これから持とうとしている航海士、船員が航海訓練所には数多くいる訳である。よく考えると、航海訓練所は世界でも類を見ない熟練の帆船航海者集団だということになる。
現在、好調な貿易に支えられて海上輸送の需要が伸び、日本の海運業界の景気は上々だ。しかし、実際に日本の船会社が運行している船舶のほとんどは第3国に船籍を移した便宜置籍船で、日本国籍の外洋航路船舶はほとんどなくなりつつある。そのため日本人船員の数は年々減少の一途を辿り、現在では、海運に従事している日本人船員の数は、なんと4000名を割り込んでいるという。日本の魚資源の需要は落ち込んでいないのに、それを獲る漁船に乗っているのはほとんどが外国人だという日本の漁業の実態と同様に、日本の海運業界もまた、外国人船員にその職場を奪われつつあるらしいのである。世界に誇ることができる熟練の船乗りの組織である航海訓練所が育て上げた船乗りの卵たち、つまり日本の海洋文化、航海文化を担う若者たちの働き場所が、ジワジワと塞がれつつあるのだ。この現実を前にすると、何とも、どうも残念で仕方ない。海に囲まれた島国である日本から船員がいなくなり、日本が自国で船を運航できなくなる日が来るなど、想像したくもないほど、恐ろしく、悲しいことだ。
国土交通省から離れ、独立行政法人になった航海訓練所としても、このような日本の海運界の実状、これからの船員教育、海洋教育のあり方などについて、広く国民にアピールし、理解を求める必要性を感じているという。日本が独立国家として、他国に頼らない船舶運行機能を持ち続けるためにも、航海訓練所が果たすべき使命はこれからも重い。
まだ見ぬ目的地を探し続ける航海者
池田船長が考える、船乗りという職業の魅力とは何かを尋ねてみた。
「一人で太平洋を渡ったり、世界一周をしたりという単独航海も、それはそれで意義深く、価値のある行為だと思いますが」
と前置きした上で、
「帆を開いて海を渡り、目的地を目指す。喜びを分かち合えるたくさんの人数で協力し合って海を渡る。航海をしながら、海を思い、家族を思い、仲間を思い、そして家族や恋人が待つ港に戻ってくる。一人では成し遂げられない仕事(航海)を、集団で協調して達成し、ときには反目もするが、最後には喜びを分かち合う、その幸せを味わうことができるのが船乗りという職業の魅力だと思う」と語ってくれた。
そして、喜びを分かち合える人が多ければ多いほど、その喜びは大きくなるものだ、とも付け加えた。これらの言葉を語るとき、池田船長はこれまでの28年間で経験した、いくつもの感動の航海の記憶をたどっているように思えた。
池田船長にとって、海とは、航海とは?
「海には何か、惹きつけられるものがありますね。それを確かめに行くというのが船乗りなんだろうけど、それが一体なんなのか、これだけ長く航海をしていても、この歳になってもまだ分らない。まだ見ぬ目的地を求めてさすらっている、と言えるのかな。その、いつまでも見つけることができない目的地を求めて、船乗りは航海を続けているんでしょうね」。
学生時代から自分自身に厳しく生きる恐い先輩であり、実習生に対しても厳しい教官であり続けた池田船長が、実は海のロマンチストでもあることを初めて知った。池田船長の話を聞いているうちに、かつて酒を飲みながら歌った寮歌のいくつかを久々に思い出した。
♪~波の青さに、幼い夢に、いつも描いた練習船だ。若い命はコンパス任せ・・・
♪~・・・海のロマンを尋ねゆく、若い練習生は、若い練習生は泣かぬもの